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9.9 温泉の日・重陽の節句

菊の香りが嫌いだ。邦生は、湯に浮かぶ菊の花弁を、虫でも摘むみたいに引き上げると、そのまま遠くへ投げた。ぴしゃり、とかすかな水音がして花弁が沈む。
岩に囲まれたごく和式の湯殿で、邦生は菊花に囲まれていた。温められ、むせ返るような菊の香りが、家族の葬儀をフラッシュバックさせる。
「邦生様、きちんと身をお清めください」
気づかぬうちに、この家の世話人の大和が傍に立っていた。手には白と黄の菊の花が山と盛られた木桶を提げている。
邦生は、出来るだけ近くに花弁を寄せぬよう手で押しやっていたが、湧いてくる温泉の湯に流されて、渦を巻いてさらに近くへと戻ってくる。
「忌々しい花め」
苛々と眉を寄せる邦生の肩口に、大和の手の平が滑った。
「邦生様、これは厄祓や長寿の祈願なのです。この家の古いしきたりに付き合わせて申し訳ありませんが、悪い事ではございませんので」
亡き父の本家は、やたらとしきたりやら規則にうるさい家だ。この家にもらわれて来てからというもの、このお目付役の監視もあって、邦生には心休まる時がない。
「俺は、この花が嫌いなんだ。葬式の匂いがする」
ふい、と顔を背けると、大和の手が邦生から離れた。
「おや、そうでしたか」
大和は、少しの間黙った後に、掃除用の網を持ってくると、湯船の端から花弁を回収しはじめた。
「おい、いいのか」
驚いた邦生の問いかけにも構わず、大和はどこか優雅な手さばきで菊の花を回収していく。
「怒られるんじゃないのか」
「いいでしょう。一度花びらの浮いた湯ですから効果は充分にあるはずだ。他の者が入る前に、また新しいものを浮かべておきます」
大和はなんでも無いことのようにそう言った。もしかすると、この古い家のしきたりに彼自体も窮屈さを感じているのかもしれない。
邦生がうつむいていると、網をあげて片付ける音が聞こえた。
「邦生様、とても綺麗なお月様ですよ」
目を上げれば、菊の花の消えた湯船に、光の橋のような月光が揺らめいた。天窓に目を移すと、大輪の菊のような月が二人を照らしていた。

9.9温泉の日、重陽の節句
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