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9.4 くしの日・クラシックの日

母に手を引かれ、幼い私は昼下がりの海岸へ出かけた。夏はさよならの挨拶もなく終わりを告げ、気がつくと海岸にも秋の風が吹いていた。
海辺の街も徐々に賑わいを失い、犬の散歩をする老婦人だとか、堤防の石段に座る若い男女だとか、夏以外の季節の姿へと戻り始めていた。
砂浜を進む母の顔を見上げると、目深に被ったつば広の帽子のせいで鼻から下しか見えず、まるで知らない別の誰かのように思われて心細くなった。たまらず淋しくなって足元に目を落とすと、白く細かい砂粒とそれを踏みしめるサンダル履きの私の小さな足が映った。
波の音が時折大きく響く。大きな波音とその振動に、心ごと深海に引きずり込まれてしまう錯覚に襲われて、怖くなる。それは、電車の停車駅で隣の列車が動き出した時に感じる、まるで自分が隣の列車に引きずられていくような感覚と似ていた。
私は母の冷たい手のひらを強く握り、引きずられるように黙って後ろを歩いた。
「もう、秋ね」
母は私に話しかけるような、ひとりごとのような判別しかねる雰囲気でそう言った。
そして、滑るように手を離すと、白いワンピースが砂につくのも気にせずにその場にしゃがみ込んだ。その母の丸まったヤドカリのような背中を前に、どうしていいか分からない私はただ立ち止まっていた。
「ほら、見て。これがいいわ」
母が拾い上げたシュークリーム大の白い巻き貝から、細かい砂がさらさらと音を立てて落ちていく。それは円錐を上下に二つ組み合わせて両端をねじり、櫛のような細い突起が均一に伸びている立派なものだ。
櫛の歯は欠けることなく、洗って砂を落とせば美しい白亜の巻き貝になるようだった。
私は幼心に、母の心はもうここには無いのだと気づいていた。母の心は巻き貝のような路地の歪みの渦の奥深く、あるいは、波にさらわれてどこか遠洋へとクラゲのように浮きながら流れていってしまったのだと体感していた。
「あげる。きっと素敵な音がするわ。あなた、音楽が好きだものね」
私は一度も母に音楽が好きだと言ったことはなかった。波打ち際で泡が弾け、いくつかの石や貝殻の破片を連れ去っていった。

大人になった私は、ある午後に書棚の片付けをしていてその白巻き貝と久しぶりの再会をした。
白巻き貝は埃をかぶり、いくつかの引越しで櫛の歯のような部分がいくつか失われていたものの、時を経て骨董的な風格を備える品になっていた。
軽く埃を払い、傾けると捻れの入り口からあの日の砂粒がこぼれ出て、片付け途中の本の山の上に雨のような音を立てて落ちた。貝の口を耳に当てると、ラジオで流れる砂嵐みたいなざらついた音が聞こえる。砂の詰まりが酷いのだ。
私は特に意味もなく思い立ち、庭の水瓶でその貝を洗って中の砂を丁寧に除いた。そして、天板に土耳古タイルを嵌め込んだガーデンテーブルにそっと置いて乾かすことにした。
水に濡れた白巻き貝は、元の美しい白さと艶を取り戻していたが、涼しい風に吹かれる度に現在の石膏のような色合いに変化していった。
夕暮れ時に、乾いたのを見計らってその巻き貝を再度耳に当ててみる。
私は母が聴かせたかったのはこの音楽だったのだと、ようやく幼い頃の謎に合点がいった。私は、夕陽のオレンジが海に沈み切り最後の色を失うまで、ジントニックを飲みながらその音に聴き入っていた。

9.4くしの日、クラシックの日

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