822.チンチン電車の日
大きな雨粒が音を立てて車窓にぶつかっている。それは一つの流れとなって、窓中の景色を水で溶かしたようにぼやけさせた。
「いい加減、機嫌直せよ。いつまでそうしてるつもりだ」
イチは、隣に座って顔ごとそっぽをむいている双子の弟のツギを肘で小突いてたしなめた。
「だって、こんな大雨じゃ花火なんてあがらないよ。せっかく浴衣まで着たのに」
車の黄色いヘッドライトの光が、ツギの藍色の浴衣を左から右へ照らしながら流れていった。
祖母の家から路面電車で花火大会の会場に向かっているものの、二駅目くらいで雨粒が屋根を叩きだした。
次第に強くなった雨足に、今では小声では会話もままならないくらいだ。
群青色した天鵞絨の座面には、白い星のような斑点が散りばめられている。それを意味もなく撫でながら、イチはため息をついた。
俺なんて、浴衣も着たくなかったし、花火の会場になんて近寄りたくもなかったけど、祖母の好意とお前のおもりのために我慢してるんだ。
つい、そんな台詞が喉元まで上がってきていた。しかし、そんなことを言えばツギの機嫌を更に損ねるだけだと分かっているので、やんわりと自分のしたい方向へと話を持っていく。
「そうだな。反対の路線に乗り換えて帰るか。今ならまだ夕飯に間に合うだろう」
イチは銀色地に透明なガラスドームのついた腕時計の文字盤を確かめた。
ツギは足の指先に下駄の鼻緒をひっかけてぶらつかせている。不満であることがありありと伝わってくるが、あえてイチの方からそれを汲み取ってやるつもりもない。双子であっても、末の弟というのはこうも子供らしく振る舞えるものなのかと感心するくらいだ。ツギがただ自己中心的なだけかも知れないが、イチには他に弟はいないので分からない。
通路を挟んだ向かい側の窓に、水流ににじむ浴衣の二人が映っている。
「イチは、ミツ従兄さんに会いたくないんだろう。だから愚図愚図言ってるんだ」
ツギが、窓に映るイチに向かって恨めしそうにそう言った。
「莫迦なことを言うな。行くのが面倒なだけだよ。暑いし、人は多いし。そもそもあんな人混みのなかで従兄さんにたまたま会うなんてある訳ないだろう」
イチは、白地の浴衣の襟のあたりを触りながら応える。首の裏あたりがきつくて息苦しいのだ。
ツギは祖母に持たされた巾着のなかから飴を出すと、大きめのそれを頬張った。口の中で転がすと、かすかに葡萄の香りが流れてくる。
「相手はミツ従兄さんだよ。偶然なんてお手の物さ。それに、イチの口数が多くなるのは大抵何かを誤魔化したい時だ」
イチは、ツギの栗色の猫っ毛を荒らすように掻き混ぜた。可愛くない弟だ。
「どうせ花火大会は中止だ。帰るぞ」
憮然として言ったそのとき、車掌が鳴らしたチンチンチン、という軽やかな鐘の音とともに稲光が車内を包んだ。
色とりどりのゼリーを溶いたような窓硝子に、はっきりと開いた美しい閃光。見惚れているうちに、少し遅れて腹に響くような雷鳴が轟いて、振動がびりびりと窓硝子を震わせた。
ほどなくして、滑るように停留所に向け路面電車の速度が落とされる。
「びっくりしたな。すごい雷だ。ほら、呆けてないで降りる準備をしろよ」
イチが自分のチケットを出してツギにも立つよう促したが、ツギは雷に打たれたようにじっと動かなかった。
「おい、ツギ」
「ねぇ、今の見ただろう。おかしいと思わないか。雨でこんなに視界が悪いのに、稲光だけはっきりと見えた」
言われてみれば、確かに稲光の形だけは、窓に焼きついたようにはっきりとしていた。もう一度確かめようと身を乗り出したところで車体が揺れて、身体が大きくよろめいた。
停留所に着いた合図に、また軽やかな鐘がチンチンチンと鳴らされ、空気の抜けるような音とともに二つの扉が開いた。
イチが向かいの窓に向き直ると、再度眩しい光に襲われ目を眇める。しかし、今度の光源は稲光ではなく、十字路の向こうに停車しているただの車のヘッドライトだった。
「え?」
開いた扉から、どやどやと浴衣姿の乗客が乗り込んできて、あっという間に車内は人の群れになった。
押し合いへしあいしている人々は皆楽しそうに、これから向かう花火大会の話をしている。
チンチンチン、と鐘が鳴り、再び扉が閉められた。
降りそびれたイチとツギは、周りの人にぶつからぬよう注意しながら、慌てて背中側の窓を振り向いた。
窓の外に映る路面はすっかり乾いていて、歩く人に傘を持つものもない。服を濡らす者もいない。ゼリーの色合いのライトは、ライトの形ではっきりとそこここで光っている。
そこにはもう、激しい雷雨の様相など微塵も感じない。
ツギが引きつった笑みを浮かべて呟いた。
「これも、ミツ従兄さんの仕業だったりしないよね」
「莫迦なことを言うな。俺たち寝ぼけてたんだよ」
イチは浴衣の襟をくつろいで、こめかみの汗を拭った。
走行中の路面電車は夕闇に沈む街の隙間を、チンチンチンと鐘を鳴らして規則正しく走りながら、人々を乗せ花火会場へと向かっていく。