8.16 女子大生の日
僕は友達がいない。地元を離れ、東京の大学に進学が決まった時、僕は誰も僕を知らない場所でこれまでの人生をやり直すことを決意した。
通信販売で買った一見なんだかお洒落なような服を一式セットで何着も買って、地元で一番高い美容院に髪を切りに行った。受験勉強のせいで装備することになってしまった瓶底眼鏡はコンタクトに変えたし、家の前のほぼ直角に見えるような坂をむやみやたらに自転車で行き来して身体を鍛えようとした。(ただ痩せていくばかりで筋肉がつかなかったことと、古びた車輪が鳴く音が響いてうるさいと親に怒鳴られてやめた)
準備は万全なはずだったが、東京に出てきた僕は震えていた。一人として知り合いのいない大都会に投げ出された僕は、いざという時の不安のことばかり考えていた。のたれ死んでも、川に流されても、工事現場の鉄骨が落ちてきて潰されても、誰も僕のことを知らないのだ。(東京ではそこら中で工事をしている)隣のおばさんや同級生、先輩、お店屋さん、僕の生活を取り巻いていた世界の人々は誰もいない。それでも、大海に飛び込んでしまい塩からい水に溺れかけのカワズの僕は、部屋の隅で「いいね、武者震いがするぜ」と人生で一度も言ったことのない台詞を吐いて片側の口角を上げた。そうでもしなければ、頭のなかの歯車が一つずつずれていってしまいそうだったからだ。
武者震いで振動しすぎて、入学式からの数日間で僕はさらに痩せていった。大学構内では友達を作ろうと積極的に莫迦を演じて周りのよく知らない学生たちの集団を盛り上げようとしたが、それは確実に失敗だった。完全に空回っていた。そもそも、教室で女の子に囲まれている男子学生たちに、僕のなけなしのお洒落は全くお洒落ではないと突きつけられて、僕はトイレでこっそり泣いた。
八月。蝉が鳴く頃には、僕はさらに痩せた身体を講堂の隅の席に丸まらせることになった。もう涙は出なかった。喋らないことにも慣れてきた。
僕はトートバッグから温くなって気の抜けた炭酸水を出して喉を潤した。人の多い大教室にいると、やたらと喉が乾く。僕のことを見ている人なんているわけがないのに、誰かの無意識の視界に入っていると想像するだけで緊張してしまう。予鈴が鳴ると、どっと学生たちの数が増えた。こめかみを汗が流れる。慌ててハンカチを出したその時だった。
「ここ、いいかな」
涼やかな風のような声だ。僕の周りだけ真空になったように音が消えて、その中心で彼女の声だけが響いた気がした。
横目で見上げると、目があった彼女がにっこりと微笑みを向けて首を傾げていた。僕はすみやかに荷物を床に移動し、申し訳なさから心持ち座席を詰めた。
「ふふ、ありがとう」
彼女が隣に座ると、花の蜜のような匂いがしたので、僕はゆっくりと細く息を吸い込んだ。ふふ、と笑う女の子なんてこれまでの僕の人生に登場したことがなかったので、頭の中で何度もリフレインするその笑い方に胸が締め付けられた。
講義が始まると、隣に座る彼女にばれないよう視線は前に向けたまま、注意深く観察をする。白いブラウスに、花柄のスカート。栗色に染めた髪が白い肌を美しく見せている。金色の丸い円盤のような髪飾りに日光が反射している。はっきりと見ることは出来ないが、彼女はとても可愛いように思えた。
しばらくして、彼女は鞄や筆箱の中をあさり始めた。消しゴムを探しているのだと気付いた僕は、急いで筆箱から自分の消しゴムを出して、聞こえるか聞こえないかくらい小さな声で「良かったら」と机の上を滑らせた。彼女も同じくらいの音量で「ありがとう」と答えた。人と喋るのなんて何日ぶりだろうか。その相手がこんなに可愛いひとならば、僕はまたしばらく喋る機会が無くてもいいと思えた。
講義が終わり、出席カードを提出しにいく彼女の後ろ姿を眺めていた。彼女は振り返ることなく、花柄のスカートをひらめかせながら講堂を出ていった。僕は彼女に貸した消しゴムを手のひらに包んでそっと鼻先に持っていった。彼女が触った消しゴムからも、甘い花の蜜のような匂いがする気がして目眩がする。そして、僕は今度こそ変わることを決意した。男を変えるきっかけは、上京なんかじゃない。可愛い女子大生への恋心で胸を鳩ほどに膨らませながら、僕は出席カードを握りしめて立ち上がった。
816・女子大生の日
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