見出し画像

星一通りにある架空場のレビユー

 カナダはブリティッシュコロンビア州、バンクーバーから北、北西に約400キロ程行ったところにマンゾウ・ナガノ山という山がある。これは日本からカナダに移住した永野万蔵という方の名を冠した山である。永野万蔵がどんな人なのか知らない。興味がある方は調べていただけたら幸いです。
 バンクーバーからマンゾウナガノ山の方角へ、200キロ程度車を走らせたところに、ソフローニアという町がある。その時、私はそこに車で向かっていた。去年の晩秋の頃の事であった。
 ソフローニアという町でうちの母方の叔父が亡くなったのである。その様な連絡がある日、私の元にもたらされた。
「そういう訳でね」
 ある日、いつものように突然、何の前触れも無く郷里の母親から電話がかかってきて、そのような説明。そのような話をされた。母方の叔父。母の兄がどうしてカナダの、ソフローニアという聞いた事も無い町、町なのか集落なのか、もしかしたらヴィレッジかもしれないし、ハムレット (他を知らないのであれだけど、カナダにはそう言う小規模な共同体、集落がいくつもある。ミカド、トウゴウ、クロキ等) かも知れない所に居たのか、私には詳しい事はわからない。説明もされなかった。驚いたのは、
「あんた、行って来てくれない」
 という発言をされた事である。
 ちなみに件の叔父さん。この人は結構思い付きで行動するタイプの人だった。私が子供の頃、我が家に突然来た事もあった。家に来る前に駅前の中華料理屋さんでごはんを食べてたらしいのだけど、身なりがみすぼらしかった為に、その中華料理屋のおやっさんから家に電話がかかってきた。そこのおやっさんとうちの父が古くからの知り合いだった。
「食い逃げされると思って」
 後に、そこのおやっさんはそう言っていたと父親から聞いた。父も母も姉も私も、その話を聞いて笑った。確かに。知らない人が見たらそういう感じだったと思う。そんな叔父さん。母の兄、上から三番目だったか四番目くらいの兄で、他の兄弟との折り合いが悪かったらしい。その為、一人、秋田から群馬に行ったみたい。酒癖が悪かったのもあるのかもしれない。おばあちゃんの葬儀の時とか、酒席で他の兄弟と揉めてたのを見た。それ以外の時にも田舎の人間は何かって言うと集まって酒を飲んでたから。私はよくそういう光景を見ていた。
 私達家族の中では、群馬の叔父さんという名称で呼ばれていたおじさんであった。死んだうちの父がこの人の事を好いていた様な気がする。この叔父さんの自由な気風を好んでいたというか。母方の他の一族は大体凝り固まっているというか、私から見ても田舎の封建的な感じというか、なんか、
「男は働いたり、家業を継いだりするんだ。女は家を守ってればいいんだ。子供を育ててればいいんだ」
 みたいな感じがあったから。今もあるだろう。
 そう言うのが父は嫌だったのだと思う。本当は、父も、私や姉というしがらみが無かったら、根無し草の様に、この叔父さんの様になりたかったのかもしれない。
 そんな群馬の叔父さんは、いつの間にか、カナダのソフローニアに行って暮らしていて、そこで死んだそうなのだ。群馬の叔父さんは知らない間に、ソフローニアの叔父さんになっていた。
 そのソフローニアに私に行けと言う。母親が突然電話をしてきて。そのような事を言う。驚かない訳がない。
「御骨を持って帰ってきてほしいのよ」
 カナダは世界一の多民族国家と言われている。葬儀の方法も様々なのだそうだ。火葬もしてくれる。ただし、日本と違って焼いた後の御骨を遺族が拾うみたいなのは無い。先んじて焼いてしまうのだそうだ。そして、それを細かく砕いて骨壺に入れる。それ故に葬儀は故人が死んでから一か月後とか、そういう事も出来るらしい。
「だからね」
 だから、私に行ってきて、で、御骨を受け取ってきてくれ。という事なのだそうだ。
「いやいや」
 誰か他に行く人はいないのか、いくらでも居るだろう。私がそう言うと、誰も行きたがらないという。他の兄弟も、もう皆、老いてたり病魔にむしばまれていたり死んでたりする。そんなにいない若者は仕事が忙しかったり。あと、これまた、親との折り合いが悪くて連絡がつかなかったりする。らしい。
 だから、比較的、暇そうな私にお願いしたい。と。
 そういう事であった。暇そう。まあ、身を粉にして働いて、その後酒飲んでガハガハ笑いあって、アルハラ、パワハラの文化のただ中に生きた人達からしたら、私は確かにそうかな。まあ、そう見えるかも。
 渡航費も旅費も出すという。それに加えて幾らか自由に出来るお金も包んでくれるという。
 それで私はカナダに行くことになった。
 初めて降り立ったカナダはバンクーバーの晩秋は、秋田の十月頃と似ていた。父の死んだ頃に似ていた。気候が良くて、過ごしやすい。朝晩は若干寒い。でも、そんなの些細な事だ。その時がたまたまそうだったのかもしれない。良く知らない。
 ホテルで一泊して、翌朝、ソフローニアから迎えの車が来た。車から降りてきたのはイタロという名の青年であった。髪が赤みがかっていて群青色の目をした、細身だがしなやかな体つきをした青年だった。その人の車に乗って私はソフローニアに向かった。
 移動中、先住民、インディアンの血を引いている (カナダはブリティッシュコロンビア州には現在も多数の民族が暮らしている) というイタロ青年は流暢な日本語で叔父さん。ソフローニアの叔父さんの話をした。
「あの人にはとてもお世話になったんです」
 私だけじゃなく、私以外にも、ソフローニアに住んでる沢山の人がです。
 そういう話であった。私には想像できなかった。秋田に住んでいた頃、何かの集まりで祖母の家に来た叔父さんは、他の兄弟連中と揉めてしかいなかった。結婚してたりもしたが酒癖のせいで離婚していた。子供もいたそうだが、仲たがいをしていて現在はどこに居るのかもわからないそうだ。
 叔父さんは末期がんで亡くなったらしい。
 ソフローニアの町は、集落とかではない普通の町だった。私の地元の感じに似ていた。なんとなし灰色に見える建物群、人のいない通り、ただ、不思議な事に各地に漢字で書かれているものが点在していた。
 例えば、星一通り。という名の通りがあったり。
 その通りの途中に架空場と書かれた看板の建物があったり、
「あれは、架空場ってなんですか?」
「えーっと、死んだ人を焼く場所です」
「あ、火葬場ですか」
「そうですそうです」
 漢字が間違ってる。架空場って。架想場でも無いし。架空場って。
 その内にやがて車が大きな、立派な建物の前に停まった。それはその町には、ソフローニア、灰色の、人もあまりいないその町には不釣り合いな程に立派な教会だった。
 車を降りると、教会の前に居た沢山の人達がこちらに向かってやって来た。イタロ青年がその方々に向かって何かを言った。日本語ではなく私には聞き取れなかった。
 大勢のその方々は次から次に私は抱きついて何かを言った。泣いている人もいた。私には何一つわからなかった。
 教会での催し、イベント、葬儀というか、が終わると、叔父さんの遺骨を受け取った私はイタロ青年に、先ほどの火葬場、架空場に連れて行ってほしいと頼んだ。
 星一通りの架空場。
 到着して車を降りる。
「ここで、叔父さんは焼かれたのか」
 そう思いながら建物を眺めた。架空場は教会程、立派な建物、造りではなかったが、でも、その方がこの町に似合う。あっていた。
 すると、私の背後にいたイタロ青年が突然、架空場の建物の脇を指さして、そこには木々が茂っていた。スプルース、マツ、モミ、米ツガ、米マツなどの、木々が乱立して茂っていて各々に葉を紅葉させていた。
 そこを指さして。
「レビユー、レビユー」
 と叫んで走っていき、しばらくするとこちらに戻ってきた。
 どうしたのか聞くと、
「今、そこにあの人がいたんです」
 と言った。
 レビユー、というのはイタロ青年の部族の言葉で、魂という意味だそうだ。
 今、そこに叔父さんの幽霊が居たんだそうだ。
「わざわざ来てくれたから」
 イタロ青年は泣いていた。私もその場所、叔父さんが居たという所を見つめた。しかしいくら目を凝らしても私には誰の姿は見えなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?