ユスリカ
目を覚ました時、いつ、何時なのかわからなかった。携帯も眼鏡も何処に置いたのか覚えていなかった。部屋も窓の外も暗くなっていた。電気をつけると白い光がチカチカとした。私は携帯と眼鏡を探した。携帯も眼鏡もいつもの場所に置いてあった。テーブルの上に。時間を確認すると既に深夜だった。ああああ。もう。もうすぐ日を跨ぐ時間だった。
「ああああ」何してんだ。ちょっとの。ちょっとの昼寝のつもりだったんだけどなあ。
でも、寝たから。代わりと言ってはなんだけど。ものすごく。寝て。だから。すごく肩が軽くて。体も。頭もすっきりとしていて。
「食べるものが無い」昼寝の後、買いに行くつもりだった。でももう深夜になっていて。
どうしよう。近くのスーパーはもう閉まっている。コンビニはあるけど。ああでも、区役所の方。荒川の近く。大きなマンションの一階の。あそこは二十四時間営業だ。ただ、区役所まで行くのか。もう深夜なのに。でもすごく。もの凄く肩も体も軽くて。頭もすっきりとしていたから。だから、私は着替えて外に出た。深夜。区役所まで歩く事にした。
雲の無い月だけ出ている明るい夜だった。
区役所まで行く道の途中に小学校がある。校庭の大きな小学校。校舎も三階建ての立派な小学校。私には何の関係ないけど、でも、その前を通る度に大きいなあって思う。校庭も立派だなあって。信号を越えたら。横断歩道を渡ったら、もう見えてくる。校庭の。大きなネット。一瞬。そのネットの上に何かが見えた。何か。飛んでいるみたいに見えた。
近づいていくとまた見えた。小学校の校庭で。何か。何か、飛んでいるみたいだった。
子供だった。
校門の所まで行くと、もう、見間違いじゃないと分かった。間違いなかった。子供だった。沢山の子供が。子供達が校庭で飛んでいた。深夜に。もう日付も変わっているのに。沢山。夜空に。子供達が飛び回っていた。
道の反対側の街灯の光でそれが見えた。それから何台か並んだ自販機の光と。あと空には月も出ていたから。だから、見えた。私は立ち止まってそれを見た。その光景を見上げた。小学校の。校庭の上。子供達が飛んでいたから。だから、見ていた。彼らは飛び回って。夏に。川沿いに発生する蚊柱。ユスリカみたいに。ブンブンと。ぶつからないのか心配になった。ぶつかって怪我でもしたら。そんな事になったら今時の親は文句を言いに来ると思う。ニュースにもなるかもしれない。
「大丈夫ですか」
突然声をかけられて驚いた。見ると校門の内側、学校の敷地内に男の人が立っていた。ジャージを着て首に笛、ホイッスルをぶら下げた。眼鏡の黒髪の。学校の先生に見えた。
「あ、すいません。でも、飛んでいたので」
子供が。ブンブンと。だから見てました。
「ああ、はじめてご覧になりましたか」
初めて見ました。先生の、彼のその言い方には、子供達はよくここで飛んでいるんですよ。というニュアンス、雰囲気があった。
「子供達も色々と大変ですから。だからストレス解消にこういう事をしているんですよ」
「そうですか。でもあの、飛んでますよね」
どう見ても。飛んでますよ。どうしてか。
私の疑問に、先生は「じゃあ、お見せしますよ」と言って振り向いて、生徒の名前だろう。を呼んだ。女の子が二人、校舎の側の暗がりから出てきた。それから彼は鉄棒の方を指さした。あれ見えますか。と私に聞いた。見えます。そこには鉄棒と逆上がり補助板があった。逆上がり補助板。逆上がりが出来ない人、子供の為の逆上がりの補助の道具。私が子供の頃、小学校にもあった。逆上がり補助板。湾曲した形をした。逆上がり補助板。
それがあった。本来は鉄棒の向こう側、奥にあるはずの補助板。そうしないと補助が出来ないから。でもその補助板は、鉄棒の前、手前側に置かれていた。そして逆に鉄棒がそれを、補助板を抑える様に、動かないようになっている。なっていた。逆上がり補助板。
先生が生徒を呼んだ。ゴーサインが出た。
「上にあがった時だけ気を付けろよ。ユズもリカも。バッティングするな。気を付けろ」
女の子達は、勢いをつけて走り出した。二人とも逆上がり補助板に向かっていく。そこからはもうあっという間。勢いよく板を駆け上がってそのまま。そのまま空に飛びあがって。浮かんで。もう落ちてこない。飛んだ。
「どうですか」
先生は笑っていた。飛びあがった生徒も。二人も笑っていた。よく見ると空を飛んでいる子供達はみんな笑っていた。楽しい。両手をいっぱいに広げて。みんな。心から。本当に楽しい。そんな風に。みんな笑っていた。
「すごいですね」
本当に。本当にすごいですね。それ以外何も思えない。思えなかった。考えられない。
私は家に帰った。部屋着に着替えて。布団に入って。寝た。信じられなかった。確かに見たのに。私は。目で。両目で見たのに。信じられない。どうしても。夢かもしれない。
起きると朝に、もう昼近くになっていた。
携帯を見ると、ある小学校に通う児童が大勢行方不明になった。というニュースの通知が来ていた。何件も。何件も何件も何件も。
空を飛んでいた子供達の、あの小学校の。
見に行くと学校の敷地の中にも外にも、人が、警察とかテレビ局とか近所の人達とか親とかが溢れて大変な騒ぎになっていた。泣き声。叫び声。罵声。怒号。私は家に帰った。
それから。
それからは、空を見る度にそこに子供が飛んでいる様な気がする。何も見えない。誰もいない。一人も。でも、見える気がする。
みんな笑っている。心から。
楽しそうに。
笑っている。
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