この指先に祈りを込めて
2022年9月13日。初めて彼の歌声をイヤホンを介さずにこの耳で聴くことができたその日の夜、私はその余熱に絆されながらこの詩を書いた。
私がまだ愛の柔さも恋の脈拍も、その裏側の汚さも知らない頃、父の車のプレイリストに入っていた『世界観』という一枚のアルバム。そこで初めて“クリープハイプ”の名前を目にしてから8年間、私はなんとなくずっとクリープハイプを聴き続けていて、そうしてなんとなくずっとクリープハイプというバンドは私の生活の側にあった。暗闇に足を掬われそうになって、どこに向かえばいいか分からなくなってしまった時にぱっと足元を照らしてくれるような、それから一緒に全部を蹴飛ばしてくれるような、そんな音楽、そんなバンド。それが私にとってのクリープハイプだった。
その日、初めて彼らを画面を介さずにこの目で捉えることができたその時、ああ本当に彼らは“光”だったんだ、と思った。ずっと私の側で足元を照らしてくれていたそのささやかな光は思っていた何倍も眩しくて、きっとこんなに眩しいからその光は私の生活にも届いていたんだということに今更気付いて、それからは視界が滲んでしまって上手く彼らの姿を捉えることができなかった。視界が光で溢れていた。滾れ落ちてしまった光はまた彼らの音楽が掬い上げてくれた。
その日、その熱に絆されたままの空に浮かんでいた月を見て、あのバンドは月光のことを月影と歌っていそうだし、呪うように祈りながら歌っていそうだよな、なんてことをふと思った。呪いでありながらそれは希望で、影でありながらそれは光。その呪いが、その呪いから生まれる速度が私にとっての希望だった。そんなもう何もかも振り切るスピードで、言葉に追いつかれないスピードで駆け抜けてゆく彼らの音楽に私はずっと救われてきた、そのスピードに攫われることが救いだった。
クリープハイプは足を運んで聴きに行きたくなるバンドだなと思う。その声のスピードこそが救いだから。イヤホン越しにではなくその声を浴びたくなる、画面越しにではなくその光に触れたくなる。だから私はこの足で飛んでこの手を伸ばす。かみさまどうかこの右手がこの言葉が、その先にある光にいつか届きますようにと、この指先に祈りを込めて。
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