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🐒動物と共に生きることー『愛猿記』(子母澤寛)を読んで

猿を飼った小説家

幕末を描いた時代小説で知られる作家、子母澤寛の動物たちとの暮らしを綴った随筆。
表題の通り、作者は数々飼育してきた動物の中でも、特別に猿を愛していた。生涯で3匹の猿と共に暮らし、その他にも数種類の犬や果ては野生の鴉まで飼育した。そんな動物たちとの愛おしくも切ない物語からは、不思議と剥き出しの“人の心”が感じられる。

動物という他者を媒介することで浮かび上がる人間の姿

作中では、主に作者や其の家族、来客や獣医などの人々と動物たちとの触れ合いが短編のエピソードとして収められている。昭和然とした厳しい躾や庭先で戯れる朗らかな日常、訪れるべき別れと新しい動物との出会い。動物を飼ったことがある人ならば必ずどこかで懐かしさや共感を感じるような話が散りばめられているのだが、読み進めていく内にこれは紛れもなく”人間の物語”であると感じ始める。
冒頭は猿を飼うという馴染みのない話に引き込まれ、そのドタバタ劇に思わず破顔しながらページを捲る。この時点で日々の生活の中に他者たる動物、それも猿が”紛れ込んでいる”という奇妙な状況から、四苦八苦する作者やその家族に”原始的な人間のコミュニケーション”が現れているように感じる。人間と猿が共に生きる時、互いの意図や習慣、行動の一つ一つに明らかな差異が生まれる。その差異を埋めるべきは勿論主君たる人間のほうである。なんせ猿には食卓に向かって座りながら箸を使って飯を食い、だいたい決まった時間に風呂に入って決まった場所で用を足し、布団を敷いて床につくといったことが出来るわけがない。作者は辛抱強く”人間のルール”を教え込もうとするが、そこでは文筆家として培った語彙もレトリックも無用の長物と化してしまう。自然と言葉は”大人しくする・待つ・声の主のもとへ行く”といった単純化された行為と結びついた記号となり、身振り手振りを交えながらそれらの記号と行為の実現が習慣として、果ては生活として馴染むように繰り返し続ける。
これ程模範的な”他者とのコミュニケーション”があるだろうか。物言わぬ植物や機械に対してどれだけ言葉や行為を尽くしても、それは人間の独り善がり、一方通行のコミュニケーションである。この作品の面白さは動物という他者からの反応と順応、時に反抗を伴いながら共生を目指す人間の姿にある。凡そ計り知ることのできない動物の気持ちをそれを実際に飼育した人間を通して読み取ろうとするのではなく、動物との生活を通して見える生々しい人間の姿を知ろうとすることでより深くこの作品を楽しめると私は思う。読み手の焦点が動物の生態から人間(或いは人間社会)の姿へと気づけば移り変わっている。そんな体験を是非味わってほしい。

畜生かペットか、はたまた家族か金儲けの道具か

今や動物は資本として利用され、所謂エスパーでもないのに勝手に動物の気持ちや行動の意味を文字に起して脚色、演出するような映像が巷に溢れかえっている。いつも思うことだが、これらの映像の作り手にはあくまで”気持ちを推し量っているだけ”なのだという遠慮が足りないと思う。「これはフィクションです」なんていう注釈があらゆる媒体で踊っているが、それなら例えば動物番組でも「これは映像の作成者が動物たちの行動を観察した結果から推察した行動の意図を表したものです」という大げさすぎる注釈を入れても良いのではないかと思う。言い過ぎかもしれないが、つまりはそのくらい動物の他者性を誠実に鑑みた行動を取ってこそ、資本主義社会の恩恵を受けるに相応しい”動物の利用”になるということだ。
私は決して過激な動物愛護のクレーマーではない。ただ、この『愛猿記』を読んで、人間は動物と共に生きることをもう一度考え直すべきなのではないかと思うのだ。作中では先述した通り、”昭和然とした厳しい躾”が容赦なく動物に対して行われる。一方で「本当に動物と人間は気持ちを通じ合わせることが出来るのかもしれない」と思わせるような場面も描かれている。これらの描写にあたって、作者は至って正直に言葉を選んでいるのだ。だから、「それは違うだろう」と感じることも少なくはない。ただ、作者が動物と共に生きる姿を見ると、何かと誠実に向き合うことの大切さを訴えかけられているような気がする。そこには”畜生・ペット・家族”といった一方的なラベリングではなく、例えば固有の猿一匹・犬一匹と人間一人のコミュニケーションがある。この訴えかけを動物一般から人間同士のコミュニケーションの在り方に拡大して考えて見たいと思う。
他人は宇宙であり、況や動物をやである。


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