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匙の行方

~喜劇の劇団の団員さんたちが、いろいろある20年間くらいの物語~

(35,000文字くらい 小説)



遅刻の訳

 佐飛さひ町は郊外の盆地にあり、東南から北西にかけて緩やかに佐飛川が流れている。千年前のやんごとなき人たちが多くの詩歌しいかに読むほど、風光明媚な風景があった。近代には、川の両岸は田んぼとなり、近年にはあっという間に田んぼが住宅地になった。
 そんな佐飛町のほぼ真ん中に、佐飛パラダイスはある。当初は入浴できるだけの施設だったが、レストランと劇場を併設し、だだっ広い駐車場があり、格安で一日中遊べる場所となり、佐飛名物とまで言われるようになった。
 正月の連日公演が終わって、久々の劇場の休演日の朝、入浴客はほとんどいない。でも座長の武田雅司たけだまさしは、ちゃんと八時に来て駐車場の掃除をしていた。
 ブレザーの制服を着た高校生が、自転車置き場に自転車を置いて、パラダイスの建物の周りをうろうろし始めた。武田は掃除をしながら、その少年が通用口あたりで寒そうに何かを待っている様子を見ていた。
 何か変な子だな。武田は追い払うつもりで通用口に戻ってきた。
「こんなとこにおらんといてや、風呂の入り口はあっちやで」
 少年が、武田の顔を見て驚いた顔をしている。
「武田さんですか?」
 一応、演者であるのに、朝から作業服で掃除をしている姿を見られたことが、ちょっと恥ずかしかった。もともと掃除は会社への感謝の気持ちであり、仕事としてやっているのではなかったが。
「弟子にして下さい」
 少年が思いもかけないことを言い出した。今時芸人に弟子入りするものなどいない。養成所や学校に行って、オーディションを受けるのが普通だ。ましてこんな田舎の劇場に弟子入りしたいと言いに来る子など、本気ではないに決まっている。
「学校行ってるんやろ」
「芸人になるんやったら、学校なんていらんと思いますし」
「あほか、学校でケツ割る奴が芸人になんかなれるか」
 そういうと素直に帰って行った。
 ところが、その子が三月になってまたやってきた。昨日高校を卒業したとのことで、殊勝に履歴書も持って、弟子入りをしたいと言った。
「僕、佐飛生まれの佐飛育ちで、ここで働きたいんです」
「芸人なんかやめとき」
「お笑いやりたいんです」
 履歴書には、上辻隆至かみつじたかし、十八歳、佐飛パラダイスの近所の小学校、中学校を卒業し、電車で二駅ほど離れた商業高校を卒業したことが書かれてあった。
「なんでお笑いやりたいんや」
「佐飛パラダイスに小さいころよく来てました。笑劇場みたいなんを自分でもやりたいんです」

 上辻は父親の顔を知らない。母親と二人暮らしで大阪に住んでいたが、母親は上辻が小学校の時に亡くなった。
「なんかわからへんのですけど、うちの隣のビルの屋上から落ちましてん。僕小学一年生やったからちゃんと聞かされてないんですけど、自殺やったんやと」
 そのあと、佐飛で保育士の仕事をしている祖母と一緒に住むようになった。その頃、祖母とよく佐飛パラダイスに笑劇場を見にきていた。
 高校一年生の時、祖母が脳の病気で倒れ、長く入院していたが障害が残り老人施設に入所することになった。それからは一人で祖母の家に住んでいた。
「おばあちゃんのいる施設って、パラダイスの隣のあれです」
 隣の老人施設は、佐飛パラダイスにとって上客だった。空いている平日の午前中に、入浴介護やレクレーションとして貸し切って使ってくれている。
「ほな、おばあちゃん。今でもたまにパラダイスに来てはるんやな」
「そうです。でももうわからんようになってますけど」
 上辻は笑いながら言った。多分認知症なのだろう。武田はそういう高齢者も来ていることを知っていた。
「おばあちゃんいるから、佐飛は離れたくないんです」
 親のことなどは武田の境遇と似たところもあり、祖母を大事に思っているあたりを聞いてしまっては、もう無下に断れなくなった。
 社長の内川うちかわに連絡し、もともと募集していたパラダイスのアルバイトとして雇ってもらうことにした。一応笑劇場の弟子っぽい手伝いもさせることを会社に承知してもらった。
「明日から、しっかり頼むな。八時にはここへ来て、制服着ときや」

「おはようございます」
 翌朝、上辻は八時十分に駆け込んできて、満面の笑顔で大声で挨拶した。
「こら、初日からなんで遅刻やねん?」
「それは、プライバシーなんで言えません」
「あほか」 
 まだまだ社会人としてはどうかと思が、いろいろ苦労はしてきたろう。それでも明るい様子を見て、上辻少年をしっかり育ててやろうと武田は思い始めた。

演題<アルバイト>
 ベテラン座員松原が扮するラーメン屋の店主と店員役が客席の前で話し始める。
「武田君、アルバイトの初日から遅刻やな」
「あ、来た来た」
アルバイトの武田が駆け込んできて大声で、
「おはようございます」
と元気に答える。
「なんで遅刻したんや?」
「プライバシーにかかわる問題なので、お答えできません」
 現代っ子が言いそうな間抜けな答えに、中年以上の客はよく笑った。ギャグでも何でもない、実話なのに。
「大丈夫か、このアルバイト。使い物になるんかいな」
 武田の思ったことを松原がセリフとして言った。



パソコン

 上辻隆至が、佐飛パラダイスで働き始めてひと月くらい経った。掃除以外で初めて与えられた仕事は、これが初めてだった。笑劇場の台本会議の書記、叩き台の台本に書き込んでいくことだった。
「隆至、パソコンできるんやって?」
「普通にできますけど、一応」
 会議室には、武田と作家、座員の三人が叩き台と言われる書類を持って、ホワイトボードの前のテーブルに座っている。武田の隣に上辻が座らされた。
「俺らの言ったことを、お前はパソコンに打ち込んでいってくれ」
 台本用のパソコンには、叩き台の台本が表示され、そこに変更や追加、削除をしていく。これまでは作家の一人が入力していたそうだが、議論をしながら入力することは難しかった。武田に至ってはパソコンの操作が全くできなかった。
「お前、パソコン見んと入力できるのか?すごいな」
「パソコンは見てますよ、キーボードを見ていないだけです」
 武田が上辻のパソコンのキーボードの入力の速さを見て驚いて言った。
作家よりも何倍も入力が早かった。大体の事ではどんくさい上辻だが、商業高校でのキーボードの授業があったため、パソコンの入力は武田が期待した以上に上手だった。作家も驚いていた。
「こんなん、普通ですよ」
「今時の子は、こういうことはどんな子でもできるんかな」
 上辻はこれまで見たことがあった笑劇場が、こうやって作られていたことに驚いていた。台本の入力はすこぶる順調だったが、漢字能力や文章力は劣悪だった。
 館内が禁煙のため、会議中の休憩で作家たちが出て行った。いつもは武田も煙草を吸いに外に出るが、上辻の入力した画面を見るために残っていた。
 厳しい大将のいるうどん屋のストーリー。麺も出汁も大将が全部作り、弟子に教えてくれなくて困っている設定。
  大将「うどん屋『天国亭』の味は、わしの匙加減で決まっているんや」
  弟子「出汁の配合、教えてくださいよ」
 入力しながら、上辻は見たこともない漢字に出会って戸惑った。
「だしってだしじるでいいんですか?」
「せや」
「でるだけでええですやん、効率悪いわ」
「さじってこの難しい漢字のやつ、なんのことですか?」
「匙ゆうたら、スプーンのことや」
「ほな英語で言わんと、スプーンって日本語でゆうたらよろしいやん」
「あほか、匙が日本語や」
 入力は順調だけど、語彙も漢字もダメな上辻の様子を見てため息をついてしまう。でもネタの宝庫かもしれない。武田は笑いながら上辻の様子を見ていた。
「俺は台本を書くとき、文字を探すのが大変でパソコンだと考えられなくなるんや」
 武田は台本を書くとき、手書きで原稿用紙に向かう。その時、頭の中で舞台を描く。大道具を並べ小道具を持たせ役者が話す。そうすると、客の笑い声も聞こえてくる。
「鉛筆で書きながら、舞台を作っていく。原稿用紙を見ているようで見ていない」
「だから、字汚いんですね」
「じゃかーしいわ」
 上辻が、台本を入力しながら、そこは改行や、ト書きはこうかくんやと細々と教えられた。
 だんだん武田が支持する言葉に文字の勢いがついてきて頭の中に文字ではなく、画面の向こうに舞台を想像していた。そこで思いついたギャグのセリフを提案した。
「師匠、ここで『佐飛だけに佐飛かげーん』っていれましょうよ」
 台本にはない、客の笑い声が聞こえた。

演題<天国亭の匙加減>
 師匠にやっと出汁の作り方を習う弟子。
「師匠、醤油はどれだけ入れるんですか?」
「こんくらいや」
「ちゃんと量ってくださいよ」
「佐飛だけに、佐飛かげーん!」
「匙加減でしょうけど」



笑える音

 北浦憲一きたうらけんいちがピアノのレッスンを始めたのは、物心がついたころ、五歳のころだった。母親は一人っ子の憲一をとてもかわいがっていて、情緒豊かな子になってほしいと思っていた。大枚をはたいてアップライトピアノを買って、レッスンを受けさせることになった。
 赤いバイエル。楽譜を読むことを学ぶだけなのだろうが、あまりに単純な楽譜で、先生が弾いたのをすぐ覚えて弾けた。黄色いバイエル。楽譜を読んだり書いたりするのが得意になってきて、ピアノを弾くのも聞くのも好きになってきた。楽譜できれいな曲が表現できることが面白いと思った。
 小学校高学年の時、ピアニストになりたいと思うようになった。
 高校生になるときに、音楽科ではない普通科に入学する代わりに、ピアノ教室は特選科の週三回のレッスンを開始した。レッスン料は高く、親にとっては経済的な負担はあっただろうが、憲一にとってはピアニストになればすべて許されるものだと思っていた。
「音大のピアノ科に入って、ソロピアニストになる」
 全く迷いのない進路を決めていた。母親はとても喜んだ。
 小学生の時から教えてくれていた岡本先生はとても厳しかった。
「へたくそ、止めてまえ。才能ない」
 憲一は、それを励ましだと思って、むしろ頑張れた。
 少なくとも一浪は覚悟していたのに、音大のピアノ科に現役で合格することができた。
 しかし大学に入ってから、他の学生のレベルの高さに驚愕する。これまであまり他の学生の演奏をじっくり聴くことがなかった。岡本先生の演奏より深い音がする。メロディーが立体化している。自分がどんなに井の中の蛙で、へたくそだということに気が付き始めた。学校を休みがちとなったが、一緒に住んでいる親には何も言わなかった。
 そのころ、大学に近いピアノバー『フォルテ』でバイトを始めた。酒を飲んでいる客の横で大好きなクラシックの曲をそれなりに弾いていたらコンビニのバイトの倍くらいの時給になり、生活に有り余る収入になった。
 全く大学には行かなくなった。
「あんた、なにしてんのん。学校へ行ってへんねって。大学から電話きたんやで」
 突然、母親がフォルテにやってきて言った。家からつけてこられていたのだった。
「大学、辞める」
 母親は泣いていた。
 それからもフォルテでバイトをする日が続いていたが、ある日演劇のピアノが弾ける人という条件で客演の依頼が来た。軽い気持ちで行ったのが、子どもの頃に何度か行ったことのある佐飛パラダイスの笑劇場だった。
 笑劇場の中のコーナーで、座員がコーラスを歌う。その伴奏を頼まれた。
 武田を中心にして、ベテラン座員の松原(まつばら)只男(ただお)たちがボケをする。途中で調子っぱずれになったり、踊りだしたり、曲が変わってしまったりする。客は大笑いしている。座員たちのスキルはすごい。憲一さえ笑いそうになってしまう。
 子どもの時にはわからなかったが、笑劇場のアドリブに見えていた笑いが、しっかり作りこまれている。今回はそれが憲一が得意な楽譜の形になっていることに感動した。
 武田に直談判して、笑劇場に入団を申し出た。
「食えるほどの仕事はないで」
と言われたが、フォルテでのバイトと並行して入団することになった。
 帰宅して、父と母に決意を言った。
「僕はソロピアニストにはなれない。笑劇場で音楽で人を笑わせたい」
 母はまだ納得していなかった。
「あんた、なにゆうてんねん。あんなんまともな仕事やあらへん」
「ちゃうで、えらい仕事や。やりたいようにやり。ママももう憲一の選んだ道、認めたろうや」
 父が珍しく母に意見して、母は泣きながらも承知した。

 その後も憲一の笑劇場の出番は多くはなかった。ピアノを弾かない役も当てられたが、なかなか上手にはできなかった。芝居の基礎を、武田に直接習ったり、舞台を見学しながら裏方を手伝っていた。
 憲一が、稽古のない日のがらんとした稽古場で、古びて調律のされていないアップライトピアノを弾いていた。
「北浦君やったな、しばらく使ってへんから変な音やな」
 通りがかった松原が笑って言った。
「おはようございます。調律してはらへんのですね」
 あまり話したことのない長老座員の松原が急に現れ、緊張して手を止めた。
「いや、弾いててや」
 それまで、いかにもピアノの定番である『乙女の祈り』などを引いていた。普通に弾いていても不協和音になるぼろいピアノなので、少し洒落でもともと不協和音のようなこどもの練習曲を弾いてみた。
「なんやそれ?」
 松原に問われ、憲一はなんだっけな?と考えないと思い出せなかった。作者は確かプロコフィエフだったと思うが、曲名は覚えていない。
「ソ連の作曲家の、子どもの練習曲です」
「おもろいやん」
 装飾音が何度も出てきて、不協和音の繰り返しだけど、シンプルな四拍子。調子の狂ったピアノで弾いても、うまく聞こえた。
 小学生の頃のレッスンで、岡本先生はなぜか他の生徒とは違うプロコフィエフの練習曲を、憲一に与えた。当時は自分の個性を見出してくれていると思っていたが、よく考えるとピアニストになるための王道の曲を練習してもセンスのない憲一には意味がないと思われたのかもしれない。
 松原が、倉庫からトランペットをもってきて、装飾音の部分をミュートという器具で音を変化させる演奏法で、耳コピーして演奏した。
「笑える音になるやろ」
 憲一は、松原のすぐ演奏できる楽器スキルと、笑える音という言葉に驚いた。確かにその音は笑えた。ピアノのレッスンでも、大学でもそんなことを習ったことはなかったが、憲一にはわかった。
「お前、楽譜書けるやろ」
 憲一が夢中にその場にあった台本の裏に楽譜を書いた。松原がドラムのパートを書き加えた。
 十小節のアタックのようなコミカルな短い曲ができた。ピアノとトランペット、曲が始まる前に松原の声でカウントを入れる。
「ワン・ツー、ワンツー・サンハイ」
 ICレコーダーに録音して、松原はそれを内川社長のところに持った。武田も聞いた。
「これ、使おう」
「中村がドラムいけるやろ、スタジオ借りて録音しよう」
 ほかに、ギターやベースの弾ける座員も集められた。
 翌日公民館のスタジオを借りて録音して、次の週から<Sergei Prokofiev,Op. 65,No.10,March、編曲 北浦憲一・松原只男>が、笑劇場の幕開きの音楽になった。
「これから毎日、お前の曲かかるで」
と、松原が憲一に言った。でも、これはプロコフィエフの曲なわけで、ほとんど松原が編曲したわけで、憲一はこっぱずかしかった。 他の座員にも次々と「ええ曲や」「パラダイス名物になるで」と褒められた。憲一は一座員として笑劇場の仲間になれたと実感できた。



病院漫才

 武田の運転は普段から乱暴だったが、その日はそうでもなかった。眠くもなかったし、もちろん酒も飲んでいなかった。ただ、前日からテレビ番組の密着取材が始まり、今日も昼からは密着されることを思い、少し浮かれていたかもしれない。
 自宅から佐飛パラダイスに向かう午前中の事故だった。赤信号に気が付くのが遅れ急ブレーキを踏み、車は後続のトラックにつぶされた。武田は重傷を負った。
 武田が気が付いたとき、病院のベッドの上で口は何かが突っ込まれていて、体中が動かせなかった。目の前にいたのは、上辻だった。
「兄さん、目ぇ覚めはりましたか。痛うないですか」
 上辻がナースコールをし、若い医師が現れた。
「武田さん、あなたは今、山根記念病院にいます。わかりますか?」
 自分の今の状況がだんだんしっかりわかってきた。
 武田には家族がなかった。父親は見たこともない。母親は武田が高校生の頃亡くなっていた。家族の代わりとして、上辻が付き添っていた。
 昼過ぎに病院から連絡を受けた佐飛パラダイス社長の内川(うちかわ)雅彦(まさひこ)は、武田のそんな境遇を知っていて、すぐ上辻に病院に付き添うように言っていた。看護師に「ご家族の方」と呼ばれている上辻が、武田にとって滑稽だった。
武田が目覚めたとき、事故から丸二日経っており、その間に大きな手術がされていた。腰椎の骨折があり、障害が残るかもしれないと言われていた。全治三カ月、舞台復帰には少なくとも半年くらいかかると医師に言われた。ただ手術の結果は良好で、長いリハビリは必要だが、命には別条なく回復傾向にあった。
「笑劇団のことは、安心してください。加藤さんが代演でやってます」
 加藤かとう陽太郎ようたろうは、武田とコンビを組んで漫才をしていたことがある。当時、お笑いの新人賞などを総なめにしたこともあった。ボケの加藤は武田の作ったネタをちゃんとやらないことなどから、コンビ解消してしまっていた。今は佐飛パラダイスにもピンの漫談でたまに出るが、テレビタレントなどをしていた。
 こういう時に、よりによってコンビ別れした加藤の世話になるというのは武田にとって複雑な思いもあったが、笑劇団がちゃんと行われていることに安心した。
 目を覚ました日の夕方になって、内川が病室に現れた。
 週末の笑劇団はどうするのか。脚本はほとんどできているが、演出ができない。内川は、病床の武田に笑劇場の予定を話した。
「昔の脚本の再演を増やすわ。作りかけの脚本もあるやろ」
 武田は話せない口で、「か・み・つ・じ」と内川に伝える。
「上辻君が台本書くのか?」
 内川は無理だと思ったが、武田はそれにうなづく。武田の小間遣いとして、台本のパソコン入力や演出中の変更管理をさせられてきたことはしっていたが、上辻にシナリオライターや演出としての見込みがあるとは知らなかった。まだ半信半疑だった。
「心配せんと、よう休んで治して。半年後には復活公演するからな」
 内川は励ましのつもりの言葉だったのだろうが、半年という言葉に、自分のケガの重症度を実感した。それから一週間は話すこともできなかったし、半月は体を起こすこともできなかった。
 最初は毎日見舞いに来ていた上辻は、武田に気を使ったつもりなのだろうが、加藤の悪口を繰り返して言った。
「無理して来なくていい」
と言ったらしばらくして素直に来なくなっていた。本当に公演で忙しくなってきたようだった。

 二週間程経った日、診察に来た医師が、リハビリを始めましょうと言った。既に口に入っていた管は外れていたが、ギプスをつけた右足の骨はまだ折れている。腰椎の骨折のため寝たままで食事も排泄もするしかない。まだリハビリは先かと思っていた。
 理学療法士の渡辺という若い男性が平日は毎日来て、ベッドの上で寝たまま足や手を動かしたりすることから始めた。そのうち治りたいという気持ちもわいてきて、一人でベッドの上で習った動きをしていた。
「ちょっと静かにしてくれませんか」
 隣のベッドの男性が、カーテンの向こうから言った。武田は無意識に、手足を動かすときにカウントを声に出して言っていた。
「すんません。動けへんのでお顔が見えへんのですが、僕は武田いいます」
 そう言っても、隣のベッドの主は名乗る気配がなかった。
「僕、武田いうんです」
「そうですか。静かにしてくれたらいいんです」
 まだ名乗る気配はなかった。巡回に来る看護師はその男を「田中さん」と呼んでいた。
 数日後、武田は車いすに乗って移動ができるようになった。隣のベッドの主が、カーテンの隙間から見えた。思った以上に若い子だった。
「すんません。隣のベッドの武田です」
 これまで挨拶をしなかった田中に、少し腹を立て、若い子だとわかって、ぶしつけにベッドの横に車いすで入った。左足の指でで足元に落ちていた紙を拾った。そのまま足を突き出し、ベッドの上に置いた。
「落ちてましたで、田中さん」
 田中はかなり驚いて、間もなく不快な顔をした。
「ありがとうございます」
 その紙は黒っぽいチラシで、すぐ布団の下に入れてしまった。声で少し気が付いて、まじまじと武田の顔を見た。
「もしかしてお茶のCMの人?」
「ほうです。知っててくれてありがとう」
 十年近くやっている地元のお茶屋のテレビCMが、県内だけで放送されていた。
「県内の人ですね」
「ええ、六山(ろくやま)市です」

 それから田中はカーテンを開けるようになり、毎日いろいろ話をするようになった。
 田中は、大阪の大学生でダンスサークルに入っていた。先月交通事故で両足を骨折してしまった。夏にあるコンクールで友人と三人で踊る予定だったが、それができなくなってしまった。
 よりによって、田中の代わりに田中とはあまり仲の良くない白木という男が入ってコンクールに出ることになった。それをすぐ言ってくれれば、田中も納得できたのだが、山本と山口は田中に気を使って、しばらくたってから人伝に聞くことになった。裏切られたと思った。
「俺といっしょやん」
 今、佐飛パラダイスで加藤が仕切っていることを話してやった。
「え、仲悪いんですか?一緒にCMでてはりますやん」
「仕事は仕事や」
 自分だけが不幸で、自分だけが見放されて、裏切られていく感覚。田中も武田も同じような気持ちになっていることが分かった。
「よそで言わへんし、嫌いな奴の悪口言おう」
 二人とも、それなりに繕っていい人ぶってきたが、ため込んできた悪口は、止まらなく続いた。
「女にだらしないんです。もてるために踊ってるっていうのが、腹立ちます」
「いっしょや、加藤はもっとえげつないくらい女にだらしないねん。テレビ局に押しかけてこられたこともあったわ」
「自分さえ恰好よかったらいいと思って、アドリブ入れて、まとまりをぐちゃぐちゃにします」
「それもいっしょや。台本通りせえへんねん」

 武田が、看護師長に話して金曜日の夕食後五分程度のミニライブをデイルームですることを許可してもらった。武田と田中で漫才をすることになった。
「これまで音楽コンサートはやったことあるけど、漫才はなかったわ。傷に触らん程度でね」
 二人が車いすに座ったまま、最近病室でやっているような馬鹿話を始めた。客は入院患者たち、医療スタッフ、二十人以上が集まった。今時は便利で、イントラネットで院内のテレビには映像で流され、他科の入院患者も診ている。
「本日は、入院中の喜劇俳優武田雅司さんと大阪第一大学四回生の田(た)中武(なかたけし)さんによる、漫才をお届けします」
 整形外科の看護師長がアナウンスして、ミニライブが始まった。デイルームの壁際に、二人は車いすで並んだ。
「はいっ、病院漫才の、まさしでーす」
「たけしでーす」
 二人の掛け合いはアドリブのように見えるが、一字一句武田の作った台本の通りだ。作りこんだものの良さを、しっかり見せてやろうと意見が一致していた。
 院長の根も葉もない悪口を言う。
「不細工で、色気もなんもない。治る病気も治らんわ」
「会うたことないけど」
「そもそも院長、男らしいで」
 スタッフたちが受ける。ちょっと冷や汗をかいている看護師長もいる。
 田中は車いすに座ったまま、上半身だけでダンスみたいにおーばアクションでぼける。武田が突っ込むと車いすをくるりと回して、後ろに向かってポーズをとってしまい、それが受ける。かなり練習した成果だ。
「それでは、そろそろおむつ交換のお時間です」
「ええかげんにせいや」

 爆笑の中ミニライブが終わり、二人はとても満足感を持っていた。客たちも大笑いして、「またやって」と声をかけてくれた。
「次は金取るで」


台本通り

 武田が事故にあった後の次の週末の公演は、加藤が急遽呼ばれ、緊急に稽古をして、とりあえず行った。
 加藤は器用な芸人だ。もともと武田とコンビを組んで漫才やコントをして、当時コンテストの上位の常連だった。ただしかし、素行があまりよくなかった。酒飲みで、金遣いが荒く、以外にケチで、借金で何度か問題を起こして、コンビ解散につながった。
 芸人としては素晴らしい。脚本を忠実に演ることは苦手だが、アドリブや間で笑わせることがうまかった。武田のしっかり作った脚本を、加藤はサラリと無視して進んでいく。稽古の度に、公演の度にセリフが変わり、ボケも突っ込みも変わる。
 上辻にとってとても勉強になる反面、今までやってきた武田のやり方との違いに戸惑っていた。
「カミちゃん、芸はノリと間やで。きっちりやったらあかん。武田に仕込まれ過ぎやで」
 爆発的に受ける公演もあれば、滑りすぎて救いようのない公演もあった。
「金返せ」
と怒鳴る客さえいたが、
「返金しませーん」
加藤は、全く悪びれなかった。

 何度目かの週末の公演。加藤の暴走のせいであまりにもひどくすべって、客があきれて帰った公演の日、松原が加藤と上辻を飲みに誘った。
 佐飛パラダイスの周りは住宅地で田舎で、ほとんど酒を飲めるようなところがない。個人の飲みに使うことのない、逮夜をするような仕出し屋の二階のだだっ広い座敷で、三人で飲みはじめた。
 最初は、芸能ゴシップなどを話しながら飲み始めた。三人がそれなりに酔い始めたころ、松原が話し出した。
「加藤君、あれはあかんで」
 加藤は真面目に聞いていない。上辻は、緊張して二人を見ている。
「台本は台本で、ちゃんとやろう。ましてや武田のいないこの時期に、みんな不安やねん。稽古したことをちゃんとやろや」
「そんなもん、笑いと違いまっせ。ノリと間で笑い取りましょや」「それはそやけど、台本は守ってやるべきや」
 二人の話はずっと平行線だった。でも、二人とも喧嘩したらまずいことを知っているので、堂々巡りの話ばかりしていた。上辻は、オロオロとその様子を見ていた。
 平行線の会話が何回か繰り返されて、とうとう松原が立ち上がってしまった。加藤も立ち上がり、向かい合って
「本はちゃんとやれ」
「ノリを大切にしなあかん」
酔っぱらいながら、同じ言葉を繰り返している。松原と加藤では、身長も体力もかなり差がある。取っ組み合いなったら、松原はひとたまりもないだろう。二人は二メートルくらい離れて向き合って、円の対称線上で向かい合い横にぐるぐる回りだした。加藤はその場でスキップするような動きをはじめ、それを真似て松原もそうする。それがあまり上手ではなく、ドタドタとしていると、「へたくそー」と加藤が怒鳴る。「ほっとけ」と松原が返し、だんだん上手になってくる。早く回りだす。
「バターになるわ!」
加藤が怒鳴り、二人は転んだ。
「わはははは」
二人で大笑いして、また飲み始めた。
 上辻は、横で何が起こったのかわからない様子で、きょとんとみていた。
「かみちゃん、これがお笑いのノリやで」
と加藤が言うと、
「上辻、ちゃうぞ。これをちゃんと台本に起こさんと演技にはならんのや」
「まだゆうとんか」
松原が反論すると、今度は笑いながら加藤がまた突っ込んだ。
 翌日の稽古には、喧嘩が始まってぐるぐる回ってスキップして、転ぶの件が、しっかり台本に書き込まれていた。朝一の上辻の仕事は、それをパソコンで入力し印刷することだった。
「松原さんと加藤さん、どっちが正しかったのだろうか」
 上辻にはよくわからなかった。

演題<笑う決闘>
 松原が若いメークをして青年になり、加藤はやくざに扮した。二人は、マドンナ役の中村(なかむら)一子(いちこ)を取り合う。
「僕が一子ちゃんとつきあうー」
「おれが一子ちゃんの彼氏やー」
「勝負や」「望むところや」
加藤が、上手に立ち下手に向く。松原は下手に立って加藤と向き合う。台本には、加藤が三時、松原は九時に立ち向かい合い、戦いの構えをするとある。
「ヤー」「ヤー」
ジリジリと時計回りに動き出す。だんだん早くなりスキップで踊るように回りだす。加藤が、
「一子ちゃんは俺のもんや」
今度は、反時計回りになり、
「一子ちゃんは僕の彼女だ」
「どっちもタイプちゃうねんけどな」
 通りがかった太って不細工ででも金持ちの大久保博之扮するお坊ちゃまに一子がついていってしまう。
 一子がいないことに気が付いて、実際に年配である松原が疲れて倒れてしまう。加藤も、足がもつれて倒れてしまう。



閉店興業

 交通事故で重傷を負い、半年の入院とリハビリを終えた武田の復帰公演の笑劇場は一週間連続で行われた。マスコミで取り上げられたこともあり、地元はもちろん、大阪からも多くの客が来た。土日の二日間は満員御礼、武田はすっかり調子に乗っていた。
 武田のタレントとしての活動も順調に始まった。武田が事故を起こす前、ちょうどテレビのバラエティ番組のレギュラー仕事が決まったところだった。もちろんそれはボツになってしまったのだが、復帰直後に番組が始まった。
 しかし、完全復帰とはいいがたい体調のこともあり、笑劇場の出演は少なくなってしまって、動きも小さいものになっていた。何より一番の問題は、座員の統率力が下がってしまっていたことだった。
 笑劇場は次第に客に物足りなさを感じさせていた。半年後、武田が事故にあう前の売り上げを下回り、赤字を出すようになっていた。佐飛パラダイス興業社長の内川は、それなりの決断の時を迎えていた。
「武田さん、ちょっと。笑劇場の事なんやけど、潮時かなと思ってるんですわ」 
 笑劇場の閉鎖を考えていると武田に伝えた。
 武田の休業がが経営に対して迷惑をかけたことはわかっていた。それがそんなに大変なことだったのかと驚いたが、反論することもなかった。笑劇場がなくなってもテレビの仕事がメインにして、大阪の舞台で単発の漫談やトークライブをしてもいいと思っていた。
 武田のその反応を見て、内川は少しがっかりしていた。
 武田がレギュラー番組のためにテレビ局で打ち合わせをしていた。担当ディレクターの渡辺との打ち合わせの合間の雑談で、ついつい言ってしまった。
「ここだけの話ですけど、笑劇場、赤字なんで、いつまであるかわかりませんよ」
「そうですね、正直ちょっと客の入り悪くなってますね」
 テレビ局の人だからだろうか、あまりにはっきり言われて、少し腹が立った。
『笑劇場、無くしたくないな』
このとき武田は初めてそう思った。
「渡辺さん。笑劇場で特別興業したら、密着で撮ってもらえます?」
「そんな企画も面白いかもしれませんね」
 東京のテレビ番組でCDを何枚か売れたらメジャーデビューだが、売れなかったらバンドが解散するという企画を見たことがあった。ふとそれを思い出し、笑劇場もそんな企画をしてはどうだろうかと思った。
「それ、面白そうですね。企画書書いてちょっと考えましょうか」
<一万人集めないと、笑劇場閉店興業>
 渡辺が、企画書を翌日にメールで送ってきた。勝手に作らせていいものかとも思ったが、仕方ない。武田には自分ではそんな企画力も企画書をまとめる力もないことはわかっていた。
 佐飛パラダイス入場者を一万人集めないと、笑劇場を解散するというものだった。
 さっと目を通して、そのまま内川に見せた。
「一万人というのは、非現実的な数字じゃないか。実質解散することになっているんじゃないか」
「社長、どうせやめるんだったら、やりきってやめさせてくださいよ」

 佐飛パラダイスの笑劇場などが行われる劇場は、三百人が定員だが、そんなに入ることはほとんどない。今日はその劇場に、客ではなく五十人ほどの所属芸人のほぼすべてが座った。テレビ取材も入り、パラダイスの入り口から撮影されていた。
「佐飛パラダイス、笑劇場は解散するかもしれません」
 社長の内川が舞台から客席に座った芸人たちにそういった。テレビカメラが入っているからだろう、大声を出したり立ち上がる芸人もいた。
「佐飛パラダイスは、もともと風呂屋です。極楽湯。地域の人に楽しんでもらえる場所にしたいと思って、私の父に作りました。その後、笑劇場を作り、たくさんのお客様に楽しんでいただきました。でも、今経営的に厳しい状態です。これは経営者としての責任が最大です。今、芸人さんたちに責任を押し付けるわけではありませんが、笑劇場がお客様に求められているかどうかを試してみたいと思います。お客様に必要とされないのなら、佐飛パラダイスは風呂屋に戻します」
 芸人たちは静かに聞いていた。
「芸人魂を見せて下さい」
 内川がそう言って下手に下がり、入れ替わりにBGMと共に武田が舞台に現れた。
「さぁみなさん、これから佐飛パラダイス笑劇場の将来を決めるイベントが始まります。一か月連続の公演を行います。入場者が一万人を越えなければ、笑劇場は解散です」
 芸人たちは、いつもになく大きな声を出してカメラにアピールしていた。
「ヤルデー」「超えるぞー」
 おそらく、テレビカメラがなかったら芸人たちは奮起しなかったろう。本当に笑劇場への愛があるのかは、武田にもわからない。
「愛される笑劇場を続けたいかー」
「おー」

演題<パラダイス物語>
 
 上辻が演じる小学生の男の子が、松原の演じる祖父と一緒に佐飛パラダイスに遊びに来ていた。
「おじいちゃん、僕パラダイス大好きや。お風呂大きいし、おもろかったわ」
「せやな、パラダイス作ってくれはった内川さんに感謝せんとな」
 壁に、佐飛パラダイスを作ったという内川勝彦の肖像画が飾られている。実際に佐飛パラダイスのロビーには肖像画が飾られている。
 松原が、孫に肖像画を指して話している。
「前の社長さんが、佐飛の人のために楽しい場所を作ってくれはったんや」
 戦争で南方から復員してきて、疲弊した農業が復興していく中で、農民たちに安らぎの場所を作った内川雅彦について、おじいちゃんが孫に説明した。
「これが、前の社長さんの肖像画や」
 肖像画には、現在の社長、内川雅彦がドーランを塗って七三の鬘を被りポーズをとって入っている。平日の公演では内川も業務があるので本当に絵だったのだが、土日だけ入っていた。
 上辻は、無邪気に絵である内川の眼鏡をずらしたり、鼻をつまみ頬を挟んでいる。
「前の社長さん、ありがとう」
 絵の内川は苦笑しながら、手で追い払えず首を振り回し抵抗する。客はクスクス笑いはじめる。
「やめて、もうやめて」
 内川が思わず声を出してしまう。
「おじいちゃん!絵がしゃべったで」
「そんなことありえへん」
 松原も内川の顔に触る。
「ほら、何も言わへん」
「うー」
 内川がうめき声を漏らし、客は笑った。



出会い橋


 今週の公演が無事終わり、楽屋に挨拶に来てくれた客に愛想をふりまき終わった。いつもならここから若手を連れて飲みに行くのだが、今日の武田は風邪をひいたようで、帰ることにした。若手の一人に小遣いを渡して、飲みに行って来いと劇場で見送った。
 招待してきてくれた客には礼状を書いているが、そのリストを事務から受け取り、一人帰路についた。
 佐飛パラダイスは佐飛川の河畔にあり、駐車場から夜でも古佐飛橋がよく見える。橋の中ほどに、人がいて川を覗いているようだった。小さくてよくは見えないが、髪型からもしかすると座員の長谷川はせがわまいではないかと思った。
 車に乗って、その人のところに近づいた。やはり長谷川だった。
「どないしてん?」
 車を停めて、助手席の窓を開けて聞いた。
「何でもありません。お疲れ様です」
 長谷川は泣いているようだった。
「乗っていき。送ったるで」
「辞めたいと思てます」
 車が少し動きだしたときに、小さな声でそう言った。武田としては、体調が悪いというのにほぼ純粋な下心で車に乗せたわけだが、辞めるとか言われるとそれは座長として困る。
 長谷川は美人ではあるが陰のある性格で、笑劇場では珍しいキャラクターだ。マドンナをやらせるとドタバタ喜劇の中では、面白いアクセントになっていた。
 でも、武田の好みの女性ではない。まず暗い。弱弱しすぎる。舞台での発声も不十分だ。細すぎる。何より胸がなさすぎる。
「なんかあったんか、座員になんかされたんか?」
 武田が半笑いでそう聞いたら、
「そんなんと違います」
 全く笑いもせず、冷静に長谷川が答えた。
 長谷川の父は七年前に亡くなっていた。半年前に母親が余命宣告され先月亡くなった。三か月前弟に胃がんが見つかり、手術などしたがかなり厳しい状況だ。五年前に長谷川は子宮がんで子宮を取っている。
「がん家系なのはわかっているんです。それでもうちばかりがんになって、もう嫌になってきて」
 長谷川の母親が亡くなったのは知っていたが、弟のことはもちろん、長谷川自身が子宮がんだったこと、子宮を取ったことなどは知らなかった。
「子宮って、引くなあ」
「すんません」
 長谷川は冷静ではなく、カミングアウトしすぎた。
「がん家系って言うんか。そういや俺の父親もがんやったらしい。知らんねんけど。母親も乳がんやし。ハハハ。アークチョイ」
「私、一人ぼっちになるんやなと思ったら」
 武田にしてみたら、そんなことを気にしていても仕方ないと思った。長谷川の深刻な受け止め方や考え方が、心底嫌いだった。
 可愛い顔しているんだから、ニコニコ可愛くしてればいいのに。武田はもう、体調のせいばかりではなくもう下心は十分に萎えてしまっていた。
 車が長谷川の住んでいるマンションの前についたが、ちょうど入り口あたりに救急車やパトカーが来ていた。少し離れたところに車を停めた。
「私、川に飛び込みそうに見えましたか」
 どうせ本当に飛び込みはしないだろうが、そう考えてしまうことがあったのだろうと、さすがの武田の気が付いていた。
「電車とかよりは、迷惑かからんかもんな。アークチョイ」
 大きなくしゃみをして、ぐしゃぐしゃと鼻をかんだ。
 長谷川は武田が、誰よりも不幸な自分を憐れんで、少しくらい慰めてくれると思っていた。仕事上の上司に当たるわけで、本当は死にたくない自分を止めてくれると期待した。そうでもなかった。
 間抜けすぎる。笑劇場みたいに間抜けすぎる。死ぬ勇気もなければ、止めてくれるほど親切でもない。茶番だった。
 車の降りるために長谷川がドアにやっと手をかけ隙間を開けた。
「あれ?」
 マンションの三階と屋上の間の非常階段の脇に若い女性がいるのが見えた。武田に、あれと指して教えた。警官たちが見上げているのは彼女だった。
「今日は流行ってるみたいやな。飛び降り。アークチョイ」
 武田がまたくしゃみした。
「近寄らないでー」
 階段の女性が騒いでいる。
「落ち着きなさい」
 警官が拡声器で怒鳴った。
 しばらく大きな声が聞こえたが、数分で女性は警官に諭され、救急車で運ばれていった。
「あの子も、どうせ自殺するつもりなんかないんやろ。アークチョイ」
 武田が長谷川にあてこするようにそう言った。
「そんなことない、かわいそうに死にたいほど悩んではるんや」
 武田の無神経さに、普段はおとなしい長谷川もかなり大きい声を出して怒り出した。
「助けてほしいだけなんや。甘えや。アークチョイ」
「助けてほしい人は助けたげたらええですやん」
「お前その発声、こんなとこやのうて、舞台でせい。アークチョイ」 
「ぶっさいくなくしゃみすんな」
「くしゃみに不細工なんかあるか。アークチョイ」
「アークチョイってそんなくしゃみありえへんわ」
「しゃーないやろ、風邪やねん。アーアーアークチョイ」
「わざとやわ」
 手が出そうな喧嘩に見えたのだろう。残っていた警官が近づいてきて、
「大きな声でご近所迷惑ですよ。何かありましたか?」
「すみません」
 武田と長谷川が慌てて、揃って謝った。

 稽古初日。
「今週は風邪で長谷川休演です。代演は河合さんです」
 稽古の初めに、社員が伝えた。
「風邪?この冬は流行ってないのにね。代演ありがたいですけど。そういえば、先週座長も風邪ひいたはりましたね」
 河合が普通にそう言ったが、武田がちょっと慌てて答えた。
「せ、せやったかな」

演題<出会い橋>
 自殺の名所、飛降橋に次々と自殺志願者が現れる。
 若いカップルは、「仕事がないので。別れさせられるのなら、もうこの世で生きていても仕方ない」
 老人は、「工場の跡継ぎがいない」と嘆いている。
 飛び降りそうになったとき、お互いに横に見つける。お互いの身の上話をし始める。
「じゃあ、うちの工場の後を継いでください」
 老人がそういって、双方が丸く収まる。
 小学生は「勉強が分からない、宿題が終わらない」大学院生「勉強できるけど、就職できない」と嘆いている。
 飛び降りそうになったとき、お互いに気が付き、身の上話をする。
「僕の家庭教師になってください」
 小学生がそういって、丸く収まる。
 不細工な女性が「不細工だ、結婚できない」と悩む。男性が「振られた」と嘆いている。飛び降りそうになって、お互いに気が付き身の上話をして、結婚を前提にお付き合いしましょうということになる。
   
 半年後、長谷川は正式に笑劇場の座員を辞め、武田と入籍した。


昔の彼氏

 

 閉店興業から集客をⅤ字回復させた佐飛パラダイスは、スポンサーがついて大阪の大繁華街に大阪パラダイスに劇場を持つようになっていた。
 劇場の脇の路地に通用口があり、社員も芸人もそこから出入りしている。たまに出待ちするファンがいることもあるが、この時間にファンがいることはあまりない。
 上辻が稽古のために劇場にやってきたのは朝の八時。本当は十時でいいのだが、朝まで飲んでいてこのまま家に帰ったら確実にとちる、遅刻すると思ったからとりあえず劇場にやってきた。
 通用口の前に、真面目そうな高校生くらいの男の子が二人立っていた。
「河合(かわい)佳代(かよ)さんにこれを渡してくれませんか」
 少年の一人が関東弁でそう言い、手紙を上辻に渡そうとした。
「君、えらいマニアなファンやな。佳代さんは十時までには来はるで」
 女を捨てたような下品な芸で売っている河合に、純朴そうな少年がファンにいるというのは滑稽で、にやにやしながら言った。
「上辻隆至さんですよね。テレビで見たことあります。僕、河合佳代の息子です」
 後ずさりするほど、驚いた。ずいぶん前のことを思い出した。
「えっと、ダイヤくんか?」
「そうです。知ってくれてたんですね」
「赤ちゃんの時、佐飛で抱っこしたことあるわ」
 上辻がまだ佐飛パラダイスに出演していたころ、河合は最初の結婚をしていた。できちゃった結婚で、確か河合より五歳くらい若い夫だった。当初は、劇場に幸せそうに子どもを連れてきたことがあったが、間もなく離婚した。子どもは河合が引き取るのかと思ったら、父親が育てることになったと聞いていた。
 その後、河合は何度か結婚し離婚した。ぶっ飛んだ河合のキャラクターは人生もぶっ飛んでいた。
 あの子がこの子。佐飛パラダイスに連れてこられた赤ん坊のことを覚えていたし、名前がダイヤという変わった名前だったのも覚えていた。
「ニュースで、お母さんが乳がんになったって言ってたので」
 河合は、去年の暮のテレビの健康番組で乳がん検診をやって、乳がんが見つかったことがあった。幸い初期で年内に手術し二・三日の入院で、仕事に復帰している。ダイヤはそれを心配していた。
「もう治ってはるで。初期やったから」

「時間あんのん?入って行きぃや」
 上辻は、興味本位でただ眠気覚ましに話し相手になるかと思っていた。
 二人は緊張して、楽屋前のロビーのソファーに座らされた。
「コーヒーかコーラか飲むか?」
「はい、できればコーラを」
 上辻が自動販売機で、コーヒーを一つ、コーラを二つ買って、二人にコーラを渡して座った。
 まだ早い時間で、芸人はもちろん社員もほとんどいなかった。いつもら上辻はここで横になって稽古の時間まで仮眠をとっている。酒臭さを消すためにタブレットをガサッと口に入れた。
「僕は、僕を捨てたお母さんを許したわけではないんです。ただもし死んだら二度と会えないのかと思って」
 ダイヤは今は東京で、父と新しい母親と新しく生まれた十歳離れた弟と住んでいる。中学を卒業するので友人五人と卒業旅行で大阪に来ている。一番の親友の田中には、河合が母親であることを打ち明けていたが、他の友達は知らない。
「僕の本名は、カタカナでダイヤですけど、普段は漢字で書いてるんです。お母さんがつけた変な名前で苦労してるんです」
「笑たらあかんけど、笑うわ。弟さん、モンドちゃうやろね」
「違います。裕二ゆうじです」
 ダイヤが間髪を入れずに打ち消し、それを田中がちょっと笑ったが、ダイヤの方をちょっと見て押し殺して表情を消した。
「あんな変な人が自分のお母さんだっていうのは嫌なんです。でも会っておかないといけない気がしたんです」
「せやな、俺も母親とは縁がなかったけど、会えるもんなら会いたかったわ」
「そうじゃなくて、なぜ僕を捨てたのか知りたいんです」
 上辻は野次馬根性から話し込んでしまったが、なまじ事情を知っているだけに、ちょっとまずかったと思い始めた。そういうことは知らない方がいいようにも思うし、芝居のように必ずしもハッピーエンドではない。
 河合の現在は、芸人としてはとても優秀で売れている。でも未だに男性に興味津々でフラフラしている。堅実に家庭を築いたり子育てするということとはかけ離れている。ますますダイヤが傷ついてしまうだろう。
 しばらく沈黙して、
「やっぱり、帰ります」
 ダイヤが立ちそうになった。
「ほな、男性楽屋に行こ」
 上辻は、母親に愛されなかった少年が自分と重なりこのまま愛されないことを証明されてしまうのはまずい。ダイヤが赤ちゃんの時の話などして、大事にされていたことを伝えようと思っていた。
 男性楽屋にはもう新米の芸人と進行の子が掃除をし終えていた。
「大したことやないんや、ここで俺らが話してること、人に絶対言わんといてや」
 ちょっとシリアスなことを話す雰囲気を出した。
 上辻は、楽屋の奥の角の自分が普段使う化粧前のあたりに二人を座らせ、三人で丸くなった。
 佐飛パラダイスでやってた頃、河合はありったけの可愛いベビーグッズでダイヤを飾り立てていた。ベビーカーは外国製のものだったし、ブランド物の服を着せていた。
 あまりの親ばかぶりに、武田がからかって、
「芸人にするか?」
と言っても、
「この子は、芸人にはしいひん。この子のお父さん、賢い人やし」
 父親は国立大学を出て公務員だと上辻は聞いていた。
「賢く育てて、ええ大学行かせて、名前通り堅い仕事に就かせて、可愛いお嫁さんもらうねん」
「亭主のために死ねると思わへんけど、この子のためには死ねるかも」
「姉さん、えらい変わらはりましたなぁ」
 当時、とても子煩悩だったことをダイヤに教えてやりたかった。その後そうではなくなったのだが、それは言わないでおこう。
 
 いきなり楽屋のドアのノックの直後、河合の大きな声がした。
「おはようございます、いや武田君いはりましたん?明日、昔の彼氏の誕生日ですねん。ちょっとお祝いにケーキ焼こう思いまして、これ試作品。下手ですけど食べてくれはりませんか」
 慌てて、少年たちに立ちはだかるように上辻が立ち上がった。
「ああ、おおきに」
 河合が、無神経な感じで男性楽屋に首を突っ込んでくる。新人の芸人がケーキの袋を受け取り、入り口の机に置いた。
「昔の彼氏と誕生会するのんか?」
「ちゃいますぅ、今の彼氏と二人きりですっ」
「あほか、お前も今の彼氏も」
 呼び止めようと思っている間もなく、河合が出て行って油圧でゆっくりドアが閉まって、上辻は少年たちを振り返った。
「もっぺん、呼んでこよか」
 上辻がそういったとき、田中が驚いた顔で言った。
「小川君、明日誕生日だよね」
 上辻はちょっと田中とダイヤの顔を見て、意味を考えてから言った。
「昔の彼って、お前のことか」
 ダイヤは、しばらく動かない。
「いえ、でもたくさん彼がいらっしゃるでしょうから、違うと思います」
 ゆっくりとした口調で、自分に期待しないように言い聞かせるように言った。
「ダイヤくん、呼んでくるわ。名乗りぃや」
 上辻自身にも迷いがあったが、ケーキはやっぱりダイヤの誕生日ケーキだと思って、会った方がいい。ダイヤが楽屋を出ようとする上辻の服の裾を持って止めた。
「いいえ、全然元気そうで、また会えそうなんで。手紙返してください。今日は帰ります」
「せやな、このケーキ食べてお帰り」

 演目<ドタバタ、ドキドキ、誕生日会>
 幕が開くと、誕生パーティをしている部屋。大きいけど不格好なケーキと、おばさん友達が数人座っている。真ん中は不細工なおばさんに扮した河合佳代。
 ハッピーバースデーの歌を歌っている。
「おめでとう!」
「何歳になるの」
「十八歳」
「嘘つけ!」
 両隣の二人に頭を突っ込まれてケーキに顔を突っ込む河合。  



本当の事

「週刊誌見ましたか?上辻がネットで炎上したことが載ってるんです」
 朝早く、と言っても午前十時頃、社員のマネージャーから武田に電話があった。携帯電話にもかけていたようだがそれは寝ていて取れず、家の電話が鳴った時、やっと妻の舞が取った。
「うちの人、まだ寝てますけど」
 そう言ったが、取り次ぐように言われ武田の寝室に固定電話の子機を持ってきた。何かスケジュールの問題でもあったかと慌てて起き上がって電話を受けた。
 週刊誌の記事に、上辻がSNSに書いたことが炎上して、騒ぎになっているということだった。その内容について知っていたのかというようなことを聞かれたが、寝ぼけていて意味を理解できなかった。
 舞に買い物を頼もうかと思ったが、しばらくして起き上がった。朝食を食べ、朝の血圧の薬も飲んだ。自分でコンビニに行って週刊誌を買いに行った。
 帰路、歩きながら記事のタイトルを見たが、ちょっとピンと来なかった。表紙には<佐飛パラダイス、閉店興業はやらせ>とあった。でも記事としてはそんなに大きなものではなく、内容は上辻の書いたSNSの話題だった。ニ・三日前に、社員から炎上しているというような話を聞いていたが、意味を理解できなかった。どうやらそれらしい。ネット上だけならともかく、週刊誌に載るほど騒ぎになると、大変なことだと言われた。

 今度は内川から直接電話がかかってきた。会社ではなく内川の自宅に来いということだった。大急ぎで身支度して、一時間も経たずに社長の自宅に武田が着いた。内川の自宅のリビングには、パラダイスの社員も二人ほどいた。
「上辻さんは、なんかえらい遠くにいるみたいで、まだ来れません」
 社員が泣きそうな声でいった。
「何がどうなったんですか」
 武田が社員に聞いた。
「閉店興業の客数をごまかしたとか、テレビ局のやらせだという記事が出て、会社に取材が殺到しているんです」
「言いたいものには言わしておいたらダメなんか?」
 上辻は、SNSにネットウオッチャーから二年前の閉店興業について聞かれたことに対して数日前から発言していた。『閉店興業はテレビ局の考えたショーだ』とか『笑劇場のレベルや内容に問題があるのに、客から金取って閉店しないのはおかしかった』『そもそも笑劇場の入場者数が一カ月に一万人も入るわけない』『入場者数など、会社の匙加減。風呂に入っただけの客の人数だ』それが、しばらくして拡散され、ネット炎上と言われる状態になった。それが週刊誌の記事となったのだった。
 上辻の芸風を考えても、佐飛パラダイスの自由な社風からしても、武田は嬉しくはなくとも問題にする必要はないと思っていた。
「武田君、そうはいかん時代やな。佐飛パラダイスも笑劇場も信頼されてんとあかんからな」
 内川が答えた。
「株価も下がって、取引銀行からも引き上げの打診がありました」
 社員が悲壮な声で答えた。だんだん武田にもまずいことになってきたことが分かった。
「いや、ほんまは自由に言いたいこと言っていいんやで。上辻君がもし会社に不満を持っているなら、会社に直接言うてくれる分にはええねん。外の人に聞かせると、誤解を招くことになってしまう」
 弟子である上辻が、会社に大迷惑をかけている。武田は、自分の責任も感じなくてはいけないことが分かってきた。
 社員が詳しく事情を説明し始めた。上辻がSNSで客数についての質問に答えた。佐飛パラダイスは、会館への入場者とそこからの笑劇場の入場者がいる。閉店興業では、笑劇場の入場者一万人を目標としていたが、実際には会館の入場者数だったのではないかということだった。閉店興業で一万人を達成したのは本当は会館の入場者数だった。がしかし、テレビの番組では笑劇場の入場者数が一万人を達成したように放送していた。
 そんなことは、佐飛パラダイスの関係者にはわかりきっていることである。テレビ局が勝手に笑劇場の入場者数と言っただけだ。もともと、笑劇場の席数は三百ほどで、一カ月で一万人を超えるのは物理的にもあり得ない。ということは、社員も座員もわかっていたはずだった。週刊誌には、それがごまかしだと書かれていた。
 上辻が、日没に近い時間に内川の自宅に到着した。
「なんかえらいことですね。SNSで見てましたけど」
 上辻と武田は、衣装部が持ってきたスーツを着させられた。内川と社員も一緒に夜遅く本社に戻った。会議室にいっぱいの新聞社や週刊誌の記者たちが集まって、謝罪会見が行われた。頭を下げるだけで、上辻は一言も話さなかった。話さないように内川が言ったからだ。内川が説明し、武田も一言二言補足した。
「閉店興業の入場者数は、テレビ局との理解の相違がありました。やらせではありません。自分たちがお客様に喜んでいただき笑劇場を続けていくために考えた方法が閉店興業でした」
 内川や武田は屈辱だと感じたが、この状況を上辻はワイドショーで見たことのある謝罪会見の様子に、少しわくわくしていた。

 記者たちの追尾を逃れ、内川と武田と上辻は近所のホテルに入った。部屋に入ってから、内川に対し、武田が上辻の背を抑えお辞儀させて、自分は深々と最敬礼した。
「会社に迷惑をかけるようなことをして、申し訳ありません。ほんますみません、社長」
「いや、いつか突っ込まれることやったと思う。上辻君が全部悪いわけやない」
 内川自身は、自分の責任だと感じてはいたが、ずっとごまかしていけるものならそうしたいと思っていた。
「SNSに書いたことはよくなかったのかもしれへんのですけど、こんなことになるとは思ってませんでした」
 上辻は軽くそういった。それに武田がいら立った。
「口答えするな、迷惑かけたんや」
「上辻君、しばらくSNSはせんといてくれな。形式上やが、一カ月謹慎してもらう」
 白川が、言いにくそうにそう言った。
「えっ?意味わかりませんわ、嘘ついたのは僕やないです。社長や師匠やありませんか!」
「ごめんな、ごめんな」
 内川は謝っていた。しかし、武田は激高し上辻の胸倉を掴んだ。
「社長がここまで言うてくれているのに、お前は何を言うてんねん。破門や」
「武田君、そんなん言わんといたって。会社の事情やねんから」

「閉店興業については、全て私の責任だ」
 内川は、閉店興業当時、責任は全部自分で取るつもりではあったが、それは武田やテレビ局の人間のを信頼して任せているだけだった。武田もテレビも、目先の面白さや、利益、笑劇場を守る結論のためにごまかしている部分があったことは、全く知らないことではなかった。
「笑劇場に対する思いは、芸人さん以上にあったつもりだ。だけど経営者として断腸の思いで笑劇場を止める決意をしたんだ」
 内川が芸能プロダクションの仕事を辞め、家業の佐飛パラダイスを継がなくてはいけなくなったとき、笑劇場を立ち上げることで仕事への意欲を保っていた。そうでなければ田舎に帰ることには抵抗があった。当時まだ生きていた父への反発が、自分なりの事業展開をする意欲につながっていた。
「でも、座員もテレビ局も頑張ってくれて、残れたんや。感謝している」
「僕は佐飛パラダイスに入ったばっかりで、あの頃よくわかりませんでした。でも笑劇場に客が入らないのは、笑劇場の芸人や作家のせいだと思うし、なのに客に責任を押し付けて入場者数で判断したり、そのために客に入場料を払わすのはおかしいと思ってたんです」
「お前、誰のおかげで芸人させてもらっていると思てるんや」
 顔を真っ赤にして武田が何度か拳を振り回したが、若い上辻はひょいと体を逃してちゃんと当たったパンチはなかった。
「謝りません。暴力が出る時点で、認めてますやん。閉店興業はやらせでしたやん」

演題<血圧道場>
 血圧道場と書かれた道場がある。下手から、大きな荷物を持った武田が現れる。対応する河合が胴着を着て道場の中から出てくる。
「いらっしゃいませ」
「予約していた武田です。血圧下げたいんです」
 同様に太った大久保達の入門者が三人やってくる。
「道場長の松原師範です」
 太鼓がなって現れたのは、黒帯姿の松原。
「食うな、飲むな、怒るな~血圧下げるぞ」
 血圧計で血圧をそれぞれ測るが、武田に至っては血圧が二百ミリエイチジーもある。
「キリン並みの血圧だな。これからキリンと一緒で食事はニンジンだけだ」
「え~」
 味のないご飯に閉口したり、変体な体操をさせられたりする。大久保が怒ってしまうが、怒ったら血圧が上がると叱られる。挫折しそうな参加者は、河合が棒で叩いて道場に連れ戻す。
 三日目の断食道場のプログラムが終わる。血圧を順番に測るが、大久保はかろうじて目標をクリアするが、武田はクリアできなかった。
「あと三日続けるかい?」
 松原が武田にそう勧めるが、武田は嫌だという。
「師範の血圧はどうなんですか?」
 河合が松原の血圧を測るとキリン並み。松原のカバンの中から、酒やたばこ、塩辛が出てくる。河合が松原師範を棒で追いかける。
「師範こそ、これから一カ月は食事はニンジンだけ!」
 


悪戯っ子

佐飛パラダイス笑劇場座員の八木D介でぃーすけは、今時らしくない芸人らしい芸人だ。芸風だけではく、生活も破天荒だった。
 しかし八木はとんでもないボンボン育ちだ。父親は関西で最大の私鉄の社長で、自身は東京の大学を出て一度は父の会社に就職した。それからいろいろあって、養成所に入り芸人になったのだった。
 笑劇場の楽屋には、ひと月に一度は差し入れを持って八木の母親が現れた。
「大輔(だいすけ)がいつもお世話になっております」
と、他の芸人に挨拶はするものの、実は八木に芸人を辞めさせる説得をしに来ている。ということを、武田は知っていた。他の座員は、ただのマザコンだと思っていたかもしれない。
 八木の金遣いはひどく荒い。座員としてはろくな収入はないが、水商売で生計を立てている。親から小遣いももらっていたかもしれない。しかし、いつもすっからかん。酒に博打に女に、金を使い果たしていた。
 芸風は、独りよがりなところも多く、絡むと危険だった。一緒に滑らされてしまう。一応台本はしっかり覚えている。遅刻はしないが、たびたび二日酔いで現れて、グダグダになることもあった。
 楽屋にいる若手の携帯に一斉にラインメッセージが届くことがある。そんな時は大体、八木の悪戯だ。今日は、劇場で鉢合わせしてしまいそうになって廊下の自動販売機の陰に隠れている上辻とそれ越しの武田の写真が届いた。クスクスと笑うものもいれば、引きつっているものもいる。
 早着替えのある役者の衣装のボタンをテープで貼って止めてしまったり、舞台で使う水差しに本当の日本酒を入れておいたこともあった。セリフが多く覚えられなかった役者が、小道具の食器に書き込んであった時にそれを消したこともあった。
 ある時は、楽屋のドアの上の壁に写真が貼ってあった。背の低い年配の芸人には見えない場所だ。泥酔して半裸になり胸や腹に落書きされて寝込んでいる松原の写真だった。
 後輩にばかり悪戯をするなら、いじめなのだろうが、八木の場合は後輩にも先輩にも、時には社員やスタッフにまで悪戯を仕掛けた。
「お前、いい加減にしろよ」
 武田が八木に注意することもあるが、暖簾に腕押し。何の意味もなかった。構ってほしいからいたずらをするのだろうか、病気に近いなと感じていた。

 最近入団した新人の田上翔太が、楽屋で身の上話をしていた。
自分は片親で貧乏してきた話をしていた。
「父親は小学生の時に出て行って、とにかく貧乏でしてん。遠足とか修学旅行とか家庭科の実習とかでお金要るときは、学校休みました」
「給食だけはなんかただになるんです、貧乏やと」
「お腹すいたときは、段ボールしがんでました」
「母親が中学出たら家を出ていけいうんで、芸人目指して大阪の劇場をうろうろしてて入れてもろたんです、掃除の仕事で」
「芸人は、うちにテレビがなくても毎日お笑い見れそうやから」
 他の芸人たちは、まだ未熟な話術だが悲惨な身の上話に大笑いしていた。 
「戦後みたいや、すごいな」
 貧乏自慢が他の芸人に受けている様子を遠くから見ていた八木が、少しイライラした様子で絡んできた。
「片親で貧乏、芸人にとっては最高の環境やないか。身内に反対されんと芸人になって、どんなに稼げなくても昔よりましでええやん。貧乏の話がネタになるし、なんか世間は貧乏に、人の不幸に優しいしな」
「D介はええとこの子やから」
 うっかり武田が口を挟んだ。
「貧乏は芸とちゃいますやん、腹立つわ」
 田上は八木のいった意味が分からず、自分の話題が受けたのに、結局楽屋の雰囲気が悪くなり、戸惑って黙ってしまった。他の芸人たちも「ええとこの子」のことを知らなかったので、キョトンとしている。
「堪忍堪忍。D介はD介で苦労して芸人になってん。みんなそれぞれいろいろあんのや」

 公演二日目の午前中、八木の実家から会社に電話があった。笑劇場担当の社員が、電話を取りながら悲鳴を上げた。
「えー、どういうことですかー」
 前日の深夜、八木は酔いつぶれて車道に寝ていた。そこに通りかかった車に轢かれて即死だった。
 社員が連絡の電話をしたり、笑劇場のスタッフの緊急会議を準備し、今後の公演の対応をしている。女性楽屋から悲鳴が聞こえてくる。その日の公演は、さすがにみんなフラフラした演技になってしまった。
 翌日の夜、芸人たちは八木の父が喪主を務める告別式場の盛大さに驚いた。
「情けない死に様で、親としても大変心苦しくあります。でも親のいうことを聞かず芸能の道に進み、この子はこの子で最高の人生を全うしたのだと思っています。ありがとうございました」 
 喪主の挨拶の後ろに、毎月笑劇場の楽屋に現れていた母親が泣き崩れていた。

演題<悪戯っ子世にはばかる>
 太っている大久保正浩が演じる小学生のええとこの子は、悪戯がひどい。道を歩く人に水風船を投げ、公園のカップルに「お父さん、やっと会えたね。僕を見捨てないで」ととんでもないウソをついてカップルをもめさせる。交番のおまわりさんの背中に『喧嘩上等』という張り紙をして周りの人たちを笑わせる。
 松原の演じるおじいさんが経営するたこ焼き屋の前で、タコが冷凍だとか粉が国産じゃないとかまずいと騒ぎ、他の客を追い払う。
 ある時、たこ焼き屋にみかじめ料を取りにやくざがやってくる。松原がやくざを追い返すのに警察に相談しても頼りなく苦労している。
 大久保少年が、困っている松原を見て言う。
「僕が追っ払ってあげよう」
松原は余計なことをするなとたしなめるが、大久保は用意を始める。たこ焼き屋の横の茂みに後ろを向かせた人形を立たせ、通りがかりのおにいさんの北浦憲一に協力を頼む。
 そこに武田が演じるやくざが子分とともに脅しにやってくる。
「こらー、わしらの島で商売するもんは、みかじめ料を払ってもらわんと困るな」
 やくざが松原のたこ焼き屋に現れ、脅しだす。しかし足元にたくさんの風船が現れ、やくざたちが転ぶ。投網で絡まって起き上がれなくなる。もっと怒ってやくざたちが暴れる。
 大久保が仕掛けた人形の足元で、協力してくれるおじさんに大久保が小さな声でセリフを伝える。
やくざ
「どこの組のもんや?」
「極楽組や、なんか文句あるか」
大久保は、小学生の恰好をしているが、上手にやくざらしい声色で言う。
「極楽組や、なんか文句あるか」
しかし通りがかりのおにいさん役の北浦は、細い声で
「極楽組?なんやうちの傘下やないか」
大久保が、
「もっと太い怖い声で言ってよ」
「もっと太い体で言ってよ」
「それは言わなくていいの」
「それは言わなくていいの」
お決まりのオウム返しのやり取りをする。
「組長にゆうとけ。天国一家の組長がよろしゅうゆうてたと」
「おっさん、なにゆうてんねん」
「わしが天国一家の組長や。みかじめ料とかせこいこというてんのはどこのどいつや」
「ひぇー」
「許してください」
 組長の顔を確認できないのに、人形を組長だと思い込んで怖がる。やくざたちが這う這うの体で帰っていく。
 松原は、いつも悪戯して困らせられている大久保少年に助けらた。
「いっつも迷惑かかられているけど、今日はほんまにおおきにありがとう」
「おっちゃん、悪戯は世界を救うんやで」
 松原が、納得したようなしないような顔で、呆れている。
「でもほどほどにせんとあかんねんで」
 八木の悪戯で実際にいいことなどなかったと思うが、武田も松原もひどい悪戯を思い出しては、ちょっと笑っていた。


貧乏芸人

「学際的研究を行いたい」
 武田にはそれが殺し文句だった。
 内川の知り合いの息子で、佐飛に近い私立大学の四回生の林(はやし)創(はじめ)が卒論のために取材したいと言ってきていた。
「お笑いは、科学的に検証して、医療分野だけではなく文化論的にも学際的に研究解析していきたいと思っています」
 学際という言葉が、芸人をしていると縁のないかっこいい言葉に聞こえた。喜んで協力することにした。
 林は、客へのアンケート調査と座長と作家が行う脚本会議を見学することになった。会議が終わった後、質問攻めを受けた。
「ストーリーは、ほとんど座長が考えて準備されるんですか」
「まぁパターンはあるねんけどな」
「いいもんと悪もんの登場の仕方には、ルールがあるように思いますが、これはどう決められているのでしょうか」
「ルールなんかないで、それぞれのストーリーごとだと思うけど」
「悪もんの中には、改心する人と感情移入を必要としない人と二種類ありますよね」
「そういう風には考えたことなかったな」

 その夜、武田と林と若手芸人三人と一緒に隣町の居酒屋に行った。
「変わった研究するね、正直君は演劇はよく知っているようだけど、お笑いはそんなに興味ないやろ」
 林の質問は、お笑いに関するものが少なかった。演劇論で語られると、笑劇場は薄っぺらいと思われてしまわないか心配だった。
「僕、一回生の時初めて笑劇場見たんです」
 この近所に住んでいて、大学一年生まで笑劇場を見たことなかったというのは、よっぽどお笑いに関心がなかったということがわかる。
 林は、佐飛の隣町で老舗の造り酒屋の次男坊だ。
 小学生時代からの友人、会社員をしている大城とは卒業後はラインで繋がっているくらいで、遊びに行くこともなかった。秋ごろにラインに仕事がつらいと書き始めた。毎日残業で辛いらしい。まともに休みがもらえず、やっと三カ月ぶりの休日が得られたという。
“家で寝るわ”
“パラダイスのタダ券持ってるで。行かへんか?”
 あまり深い意味もなく、林は大城をパラダイスに誘った。風呂に入って休憩室で寝ていればいいと思ったからだった。
 風呂に入り、休憩室でだらだらと寝ながら世間話をして、会社の悪口を言っていた。
 笑劇場の時間になり、笑劇場の入場料二人分を林が払ってチケットを買った。笑劇場が始まり、林は素直に笑っていたが、大城はもしかするとくだらない笑いに怒ってしまうかもしれないと思っていた。ところが、林以上に大笑いしていた。
「その時、友達と来たんですけど、その子ものすごく落ち込んでたんです。でも帰る時元気になってて、笑劇場ってすごいなと思ったんです」
「そういう人もおるんやな、芸人冥利やわ」
 武田はまんざらでもない様子で聞いていた。
 
 酔いが十分に回ってきたころ、一緒に来ていた若手芸人が、武田と話をし始めた。年金のことについての質問が最初だった。
「年金の支払い猶予ってしなあきませんか?」
「しといた方がええと思うで」
 収入が少なすぎて、年金が払えない。支払わずそのままにしておくと追納もできず、老後に年金が減る可能性があることを、武田が説明してやった。笑劇場の芸人の半数以上が、芸人としての仕事だけでは生活できていない。アルバイトをしていてもなかなか経済的には辛い状況である。
「電気止められましてん」
「ハハハハ」
 そういう貧乏エピソードは、芸人にとって勲章でもある。だからこそ武田たち先輩芸人が後輩芸人に食事をおごったり、その他小遣いをやったりすることもある。
 芸人たちが笑う中、林はきょとんとしていた。
「林君、知らんやろ。電気代払わんと電気止まんねんで。ガスかて水道かて、止められんねんで」
「払わない?」
「払えへんねん。芸人は貧乏やねん」
「パラダイスってお給料ないんですか?」
「あるけど、少ないねん」
 お坊ちゃま育ちの林にとって、公共料金が払えないほどの貧乏は想像の世界のものだった。
「友達の働いているブラック企業だって、生活できるくらいのお給料はもらっているはず。生活できない仕事なんて仕事なんですか?」
 林は、腹立たしいと思った。芸人という職業に、生活できないほどの給料しか払わない佐飛パラダイスという会社に問題があると思った。芸人という夢にしがみつき、社会人として支払い義務のある年金を払わないのはダメなことだと思った。生活に困窮する芸人の芸を見て、救われる客は、貧者から搾取しているんじゃないかと思った。
「武田さん、こんなこと許されていいんですか?会社も客も芸人さんから搾取しているんでしょうか?」
 武田は思いもかけない反応に、戸惑った。林の主張を聞いて、少し考えてしまうこともあった。貧乏は自分が苦労すればいいだけではなく、社会にとって許されない存在なんだろうか。
 武田にも貧乏時代があった。芸人として成功したいという夢を持って、それでも自分が貧乏に耐え親を泣かしても頑張ればいつか夢が叶うと思っていた。
「搾取って、客やからってえらい上から目線やな」
 林の言い方にカチンと来たが、逆に芸人が食えるだけ稼げない者がたくさんいるという矛盾を突かれることが不快だった。
「いえ、上からというより、僕らがこんなに恩恵受けているのに、与えてくれている人たちが貧乏なんてひどいと思ったんです」
「芸は金やない。生きてはいかんとあかんけど、好きでやってる仕事や」
 武田はそう言ったが、現実問題として仕事のある芸人とない芸人で収入格差はとても大きい。
「仕事は好きなことをしたいのはわかるんですけど、収入がちゃんとないと勤労の義務を果たしたとは言えないかもしれませんよ」
「ふざけるな」
 どう反論していいか、これ以外の言葉が出せなかった。ただ自分や芸人のことを侮辱されたと思った。こいつとはこれ以上関わり合いになりたくない。席を立って、みんなの分の支払いをして一人で帰った。
 
演題<アホ講義>
 大学の講義室。Fランク校で、勉強する気のない学生がまばらに座っている。女子学生の中村や河合は化粧しながら座っている。
 教授役の松原が、出席を取る。
「青木君、井上君、河合君・・・」
 明らかに、大久保ふんする一人の学生が声を変えて全部返事している。
「二十人、全員出席なんだが、少ないような」
「すみません、遅刻しました」
 慌てて入ってくる武田が扮する詰襟を来た学生。
「もう全員出席なんだが、君は誰だ?」
  


老人と孫

 パラダイス興業のマネージメント担当の社員から、社長の内川に電話がかかってきた。三か月前から休みを取っていたベテラン座員の松原に、仕事をいれたいが、電話がつながらないとだった。内川も今月に入って何度か電話したことがあったが、その都度留守番電話で、連絡がついていなかった。
「いっぺん行ってくるわ、気になることもあるからな」
 内川は、松原の休みの理由を少し知っていた。健康診断を受けたとき、何かの検査に引っかかっていた。それで検査入院をするということになった。それと合わせて年齢も七十を超え、人間ドックに入って一カ月ほど休みもとるとのことだった。
 座員には健康問題については内緒にしていた。これまでも私生活についてあまり明らかにしてこなかったし、自宅に仕事関係の人が来るのを極端に嫌がっていた。
 妻は五年ほど前、ガンで亡くなっている。今は娘夫婦と同居していたはずだ。
 お子さんのことでいろいろあったことも知っていた。松原は、<アホの松原>というネタで、禿ヅラにリボンをつけ腹巻姿で走り回るキャラクタを持っていた。これがきっかけでテレビに出るようになり、お子さんがいじめにあうことになった。その頃から、家庭のことは一切仕事場では話さなくなった。
 松原の自宅は、大阪の郊外の住宅地にあった。古い和建築の自宅は、佐飛パラダイスがそれなりに軌道に乗ってきたころ建てたものだ。
 大阪本社から、社用車で向かった。住所に沿って三十分もかからず着いた。表札には本名の「松葉」と多分娘夫婦の苗字であろう「OKADA」という手作りの表札もぶら下がっていた。インターフォンで女性の声が出た。
「内川と申します」
「あ、社長さん」
 少し時間をおいてすっかり大人になっている娘が出てきた。
「松原さんは?」
「父は先月亡くなりました。もうそっとしておいてください」
 内川は、入院でもしているかなと思ってはいたが、すでに亡くなっていたことには驚いた。
「ご連絡いただきたかったです。手を合わさせてください」
 内川は居間に通され、遺影のある祭壇に手を合わせた。
「すみません。心臓病があって通院していたんですが、体がきつくなってきて。今回は養生するつもりで入院したんですが、もういろいろ限界だったんだと思います」
 娘は、小さい子どもをあやしながら、内川に説明した。
さんですよね。昔はよくお名前聞いていました」
 まだ佐飛パラダイスが本社だったころ、内川はほぼ同年齢の松原とは、何度か飲みながら家庭の話などもしたことがあった。
「私は、父と同居もしていましたし、子どものころそんなにいじめられなかったんですけど、弟とはいろいろあって。すみませんでした」
 連絡しなかったことを、詫びた。
「千嬉って、私の名前知ってくれていたんですね」
「松原さんはよく自慢されていました。嬉しいことが千個あって、楽しいことが永久続くようにって子どもの名前つけたって」
「そんなことまで」
「内祝いの時に、長い手紙ついてましたし」
 穏やかに話していたようだったが、少し間をおいて言い始めた。
「弟は、父が芸人であることでとても嫌な思いをしてきました。父も死ぬときは芸人としてではなく、松葉忠司という普通の人間として死にたいと言っていました。だからパラダイスの人にはもう言わないて下さい」
 家族がそう思うのなら、止むを得ないと、内川は承知した。
「ただ、一緒に長くやってきた武田くんには教えてやりたいんだけど、いいですか」
「弟に聞いてみないとそれは」
 千嬉がその場で、弟にラインをし、間もなく返事が来た。
「いいけど、もうそれ以上は絶対に広げないでくださいとのことでした」
 千嬉が、弟のがもっと怒っていて非常識なことを言うのではないかと思っていたのだが、そうではなく安心したようにそう答えた。

 楽久が小学校に入る前、テレビのバラエティ番組に出て、父と面白音楽の演奏を一緒にやったことがあった。父を食ってしまうほど、可愛く面白く、大変話題になった。
 小学生になってから、その番組を覚えていた同級生に、からかわれるようになった。
「あんなに歌いや」
「面白いことしてよ」
「触ったら、アホうつるわ」
 そういうことがきっかけになって、小学校低学年から登校拒否が始まった。松原は父として何もできず、対応は母に任されていた。病院へ行ったり、相談施設に行ったり、転校をさせたり、あらゆる対策はしただろう。小学校はほとんど保健室登校で、それも週に二日ほど。友達はほとんどいなく、担任に保健室に運ばれた本を読む毎日だった。
 楽久は父と一切話をしなくなった。松原も無理に話すこともなかった。
 中学校は地域外の国立の付属校に入学しそういういじめはなくなった。おとなしい子ではあったけど、それなりに普通の中学生生活を送ることになった。
 一度、中学生のときに問題を起こしたことがある。
 同じクラスの豊の母親が、交通事故を起こしてニュースになった。父親ではない男性と車に乗っていたとのことで、新聞にもそのことが載って、地域でも話題になっていた。
「お前のおかん、不倫してんねんな。そんな奴は五組へ行ったらいいんじゃないか」
 駒田という口の立つ男子が豊に言った。周りの子は笑っていたが、楽久は怒りを抑えられなかった。特に豊と仲が良かったわけではないが、親のことで子どもが罵られることが許しがたかった。しかも五組、つまり障害児クラスに行けという意味の言い方は、何重にも許せなかった。
 言葉より手が先に出た。楽久が駒田を突き飛ばした。机が倒れたくらいのことで、怪我はなかったが、双方の母親が呼び出された。担任も母親も楽久の正義感については認めたが、暴力に出たことについては強く反省を促された。
 豊と楽久は向かい合って謝らされ、握手をさせられた。気持ちでは到底和解していなかった。
 その後、楽久は芸人とは真反対の堅い仕事、県の公務員になった。

 武田は内川が来た日の夜、佐飛パラダイスでの公演のあと松原の自宅にお参りに来た。
「昔、僕が事故にあって半年も休んだことがあったんですよ。そのとき松原さんが書いた脚本があるんですが、再演させてください」
 翌月に大阪パラダイスで武田の座長公演が行われた。座員には松原のことは伏せられた。
 千嬉の家族三人と楽久には招待状が送られたが、当日楽久の席には誰も座っていなかった。

演目<老人と孫>
 開演のブザーが鳴った後、いつもとは違って、下手の幕前から三人のチンドン屋が現れ、幕開きのいつもの音楽を演奏し始める。三人のうち一人は、上辻である。チンドン屋の後ろには、武田雅司が松原に似せて禿ヅラをつけてチンドン屋の法被を着てトライアングルを鳴らしている。その後ろに、子どもの恰好をした北浦憲一と中村一子が鍵盤ハーモニカと小太鼓をもって踊りながらついていく。幕が開いていく。
 松原と北浦が一緒に編曲したこの幕開きの曲が劇場でワンコーラス全部演奏されるのは初めてだった。
 武田と北浦と中村はそのままセットの家の前に行き、
「お疲れ様でしたー。直帰で失礼しまーす」
「アルバイトは楽しいけど疲れるなぁ」
 武田じいちゃんは、息子夫婦が早世したため孫の憲一と一子を育てている。収入が少ないため、孫たちも一緒にチンドン屋のアルバイトをしている。
「おじいちゃん、明日参観日。見に来てや」
 参観日に現れた武田じいちゃんは、手を挙げていない孫に強引に手を挙げさせたり、答えが間違っていても先生に怒りだしたりして、授業は台無しになる。
 変なおじいちゃんだ、親がいないといじめる子が出てくる。おじいちゃんはその子の家に行って、
「俺は変だが、孫たちは変じゃない。間違ったことをしていたら、俺にも、孫にも教えてほしい」
と訴える。
 ある日教材費の集金がある。武田じいちゃんは家中からお守りの中まで探してお金を集めるが、どうしても足りない。いいバイトがあると、通りがかりの親分さんに誘われる。かばんをあるところからあるところに運んでほしいとのこと。それでとても高い報酬がある。
 どんくさいおじいちゃんは、そのかばんを落っことしてしまい、警察に遺失物届を出す。
「届いていますね、中身はなんですか?」
「知りません。見たらだめだと言われたので」
「そんなことは承知できません」
「親分さんならご存知だと思います」
「親分の頃に連れて行きなさい」
やくざの親分のところに行って、やくざを一網打尽に逮捕してしまう。
 おじいちゃんは、お金がないのでアルバイトをしていたと説明するが、警察の代わりにやってきたのは福祉の人たちだった。
「お金なんかなくても、嬉しいことがいっぱい、楽しいことがいっぱいや。一緒に暮らしたい」
「おじいちゃんはお孫さんを育てられません。施設に入れてあげましょう」
と説得される。
 おじいちゃんと孫は、泣いて行きたがらない。
「施設に行ったらご飯の心配はありません、教材費も払えます」
と施設の人に言われ、泣く泣く行くことになる。
「お金のことで心配させてごめんな、勉強教えられんでごめんな、お父さんお母さんの代わりができんでごめんな」
 おじいちゃんは号泣する。客ももらい泣きしている。
「一人ぼっちになった」
 間もなく、隣のビルの窓から孫たちが手を振っている。
「おじいちゃーん」
「施設って隣なんかい」
 客席は、涙のあと大笑いしている。
 本邦初公開の佐飛パラダイスのテーマの松原の歌入りがBGMとして流れた。
『嬉しいことが千個あったら
 楽しいことは永久やーんか
 笑ろて 笑ろて 笑ろて 笑ろて
 佐飛パラダイス』
閉幕。

 最前列に座っていた千嬉は立ち上がり、閉まる幕の間に向かって泣きながら頭を下げた。緞帳をくぐって武田が飛び出てきて、客席に降り、千嬉と声も出せず握手した。最後列で立ち見していた楽久も帰り客をかき分けて最前列にやってきて、禿ヅラの武田に頭を下げた。
「武田さん、すみませんでした。ありがとうございました」
「楽久さんですか。ほんま来てくれはってありがとうございます」
 翌日、佐飛パラダイス興業として松原只男の死去を発表した。テレビのワイドショーはもちろんニュースでも、各界の人からのお悔やみのコメントともに伝えられた。



匙の行方

 確かにここ数年高血圧と言われていた。でも通院しているわけではなかったし、まだ五十五歳と若いし、入院するほどの病気になってしまうとは思っていなかった。
 正月の連日公演が終わった後の休演日、突然武田が体調を崩した。佐飛パラダイスでの打ち合わせ中息苦しいと言い出し、そのまま会社の公用車で大阪の病院に行き、そのまま入院生活が始まった。本人はすぐ退院できると思っていて、笑劇場の座員の見舞いなども断っていた。しかし、心不全の症状は重く回復の兆しはなかった。
 一か月後、病室で心停止を起こし救命処置で一命をとりとめがICUに入った。妻の舞は、医師から厳しい見通しを聞かされた。
 五十五歳。若いと言えば若いが、これまでの不摂生のせいだとわかっていたし、本人にもそれなりの覚悟ができた。少し遅かったが。
 喉の気管に穴をあけて呼吸する機械をつけられて筆談しかできなくなった武田は、小さなホワイトボードに歪んだ字でしか意思を伝える方法はない。ずいぶん時間をかけて「上つじ」と書いた。舞は心が重かったが、上辻に会社を通じて、武田の入院する病院に来てほしいと上辻に連絡した。
 大阪パラダイスに出演していた上辻が、出番の合間の短い時間にやってきた。すぐ病院の一階で舞が迎えた。
「舞姉さん、武田さんどうですか」
「私はあんたを呼びとうなかったんやけど、うちの人が言うから」
 あの一件以来、武田と上辻はほとんど会話も仕事もしていない。一度だけ松原の書いた台本をしたときに、セリフのない役を与えられたことがあった。あの時、上辻は松原の訃報を知らなかったが、いくら二人が断絶していたとしても武田が松原にだけは義理を立てた形だった。それから上辻は大阪パラダイスに出演したり、たまには座長公演もしていた。しかし直接会わないように避けていた。
 笑劇場は、すでに中堅で座長を行える芸人が、上辻以外に二人もいて、興業には差支えがなかった。ほとんどの客が「最近武田見ないなぁ」程度にしか思っていなかった。座員ですら、入院していることを知らないものもいた。
 上辻も、病気だということは知っていたが、大したことはないと思っていなかった。何故呼ばれたのかわかってはいない。あの一件以来、形としては謝ったものの、自分が悪いとは思ってはいない。それで長く仕事を干した武田に対して、思い返すと吐きそうになるほどの激しい感情があった。
「もう長うはあらへんそうです」
 舞がそう言った。なら仕方ない。忙しい中来てしまった自分自身へのいいわけでもあった。
 一般病棟ではなく、ICUにエプロンを付け手を洗ってマスクをつけて入るように教えた。患者たちにつけられた医療機器の電子音が鳴り響いている。ベッドに寝ているのがすぐには武田だとはわからなかった。武田は上辻を見て、わずかに手を挙げた。
 舞が話し始めた。
「台本のことを相談したいゆうてます。」
 武田の前に舞が小さなホワイトボードをかざし、それに歪んだ字で武田が字を書いた。
“台本を書く”
「はい?」
“手はあかんが、頭の中で舞台を”
 台本は頭の中で書く。上辻が佐飛パラダイスに来て最初にした笑劇場の仕事のことを思い出した。あれから上辻はたくさんの台本を入力して、後に書くようになった。なかなかアイデアが出てこないときは、ついつい文字面で台本を書いてしまう。文字から舞台を作っては笑劇場はうまくいかない。舞台が先なのだ。そういう意味ではアドリブは正しい。武田はそういうことを教えてくれていたのだと思っている。頭の中で舞台を動かすという感覚を共有しているから、上辻を呼んだのだった。
 武田は上辻が思っているほど、あの件について引っかかっていない。最初から、和解するもしないも武田の意地の匙加減だった。
 上辻にとっては、ここまで極端な状態だからこそ、武田に向き合える。まして台本を作るという仕事を手伝うことができる。
 武田が、ホワイトボードに時間をかけて歪んだ字を書いた。唇でも表現している。
 患者たちにつけられた医療機器の電子音が鳴り響いていた。

“電子音がシンクロして、リズムに乗って看護師が踊りだす”
 武田がホワイトボードに書き、上辻が復唱し手書きでノートに書いていく。
「ベッドは、ここみたいに三つくらい。奇数で真ん中があった方がいいですね」
 武田がうなづく。
“研修医が抑えようとするがうまくいかない”
「研修医は若くて、看護師の方が偉い感じで止められない」
“患者が起きて看護師をどつき、止めさせる”
 ホワイトボードを持つ舞が、険しい顔をしていたのに、少し表情が緩んだ。
「ベッドに危篤って紙つけておきましょう」
“他のベッドは、今夜がヤマ”
「ほんまにあったら顰蹙ですね、ここで」
“お前、ここに危篤書くだろう”
「ほんまに死んだらええのにと思ってたこともありましたね」
 弟子になりたいと志願し、師匠と慕って可愛がられ、突然突き放されて、自分があんな目に合う程悪いことをしたのか。今でも怒りはある。
“今、生かすも殺すも、お前の匙加減”
「あの時、師匠の匙加減に振り回されました」
“ごめん”
 ホワイトボードを持つ舞が、あやまらんでいいと言いながら泣いている。
「裏切りと思われても、仕方ないことをしたのは俺ですけど」
 笑劇場の信頼を失わさせるようなことをネット上に書いて炎上させた。でも裏切りではない。少なくとも、上辻自身は笑劇場、佐飛パラダイスを愛しているからこそネットに書いたことだった。
“匙加減を間違えた”
「匙がどっか行ってしまってました。今まで取り返せませんでした。拾いに行くべきやったんでしょうね。どっちかが」
 面会時間が終わって、上辻は台本を仕上げるために会社に戻った。
 
演題<笑うI・C・U>
 大学病院のICU、集中治療室。ベッドが三つあり、それぞれに意識のない患者が寝ている。傍らに研修医の上辻が立っている。医療機器の電子音が鳴り続けている。たまにエラーのけたたましい電子音も鳴る。ナースの河合佳代が走ってきて、エラーを対処する。
「先生、ぼーっと立ってるだけであきませんやん」
 河合が上辻の頭をカルテでどつく。
「あ、すみません」
「ようけ医学部で勉強してきはったんでしょ」 
 また、河合が上辻をどつく。
「あ、診察しないと」
 上辻が患者の一人に聴診器を当てて診察を始める。
「先生、どうですか?」
「何も聞こえません、もうあかんな、匙投げたわ」
「聴診器が耳にはいってませんやん」
 今度は患者が起き上がり、上辻をどつく。

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