二丁目小町
こどもの入院応援ページからの移植とか
人によっては面白い事象でも、人によっては面白くなかったり、笑うことをためらわれたり、笑ってはいけないと思ったり、目をそらしたりしたくなる事象がある。 でもさ、笑って欲しいのよ。哀れまれるより笑われた方がましな気がする
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~喜劇の劇団の団員さんたちが、いろいろある20年間くらいの物語~(35,000文字くらい 小説) 遅刻の訳 佐飛町は郊外の盆地にあり、東南から北西にかけて緩やかに佐飛川が流れている。千年前のやんごとなき人たちが多くの詩歌に読むほど、風光明媚な風景があった。近代には、川の両岸は田んぼとなり、近年にはあっという間に田んぼが住宅地になった。 そんな佐飛町のほぼ真ん中に、佐飛パラダイスはある。当初は入浴できるだけの施設だったが、レストランと劇場を併設し、だだっ広い駐車場があり、格
難病のお子さんの夢を支える団体がある。 難病のお子さんが本を出したという ニュースもある。 難病のお子さんが 健気にがんばっている姿は 多くの人に感動を与える。 難病でなくても 表現する力を持っていない 子どもたちがいる。 知的障害とは残酷。 夢を持つことも、難しいことだから。 幼くして亡くなってしまうかもしれない 子どもも、夢を語ることはできない。 親にとっても、 この子にこの世の楽しみを 感じさせてあげることが難しいということが、 とても辛いこと。 何も望んでいないわけじ
毎朝、喫茶店に行くことにしている。定年退職してからは、ずっとそうしている。仕事をしていた頃、喫茶店のコーヒーの香りを羨ましく思いつつ、モーニングを食べる時間を早起きしてまで作ることが出来なかった。実際、見ていると、今から仕事に行くという人ではなく、同輩らしき高齢者が多い様に思う。そこに1人だけ若い女性がいる。ある日、彼女が突然私に話しかけてきた。「この時間いつもいらっしゃいますね、お仕事とかお願いできませんかね」唐突な事で、答えあぐねていると「店番なんですよ、そんなに難しい仕
この季節になると、 テレビでダウン症のある人が ニコニコして現れ、 踊ったり、 不自由ながら一生懸命話す様子が見られる。 ダウン症って、 明るくて、ニコニコで たのしそうで、いろいろ頑張って エライね。 大学に行く人がいるの? 書道も上手なんだって? という誤解を まき散らしている。 ふざけるな。迷惑な情報だ。 ダウン症というのは、 そういう人もいるが、 そうじゃない人もいる。 健常者に天才と凡人がいるのと同じ、 いやそれ以上。 ダウン症のために、 知的障害が重くむっ
付き添ってやれない入院で、 朝食に間に合うように母が病棟に到着。 手術翌日、腫れた目を開けることもなく、 疲れとショックで食事もできない、 まるで呆然としているようなこども。 ベッドには髪の毛がたくさん散らばっている。 言葉を持たないこどもが、 頭をこすり付けて精いっぱい不満を表現した跡だ。 ナースがやって来て言った。 昨日の晩は泣きもせずお利口でしたよ。 お利口だったから、疲れたのね。
大学病院に行って、 検査を山ほどして、 助成を目いっぱい受けて、 診察料が5,000円を超えた。 高いと思った。 今日は先生とお話だけの診察日。 1時間以上。 病気の仕組み、治療のこと、家族のこと、 いろんなこと。 たくさん話して、 それらは今後の治療に必要な情報だと、 親自身もわかった。 会計に行ったら、330円だった。 安いと思った。 医師と話すこと。 そんなに価値の低いことですか。 それが患者の求める医療なのに。
祭りの日に祭りに行かないのは初めてかもしれない。夏祭りは毎年楽しみにしていて、子どもの頃は稚児さんとしてさんかしたり、高校時代は神輿を担ぐ手伝いもしたことが或る。そうでなくても、神社にお参りに行き、出店で買い物をするくらいはしていた。しかし、今年はそういうわけにはいかない。母が昨日交通事故で亡くなってしまった。通夜は明日になるが、祭りに行くわけには行かない。別に私はする事は何もないのだけど、近くの斎場に安置されている母の横に座って夜を明かす。がしかし、祭りの喧噪が聞こえてく
知的障がい、発達障がいなどで、 徘徊というか、どこかに行ってしまうことがある。 日中は見ていられるが、 夜はそうもいかない。 現実には親があまり眠れない時代を 何年か過ごしていた。 発達障がいのある人の親が、 紐で親と繋いで寝ていると言うことを聞いて、 それからそれに倣っている。 児童虐待、人権の蹂躙とも言われかねないが、 子の命を守るために必要だから 仕方ない。(ことにしている) それから何年もそうしている。 脱走して勝手にテレビのスイッチを入れてみていたり、 トイレで水遊
最近の医者は言わない 看護婦は先生に聞いてという ああ大丈夫じゃないんだ 近所の奥さんは 病棟で見たわよ、友達にいるわよ、 大丈夫よなんて言った それは自分の子どもじゃないから言えること 大丈夫 病気は治る 大丈夫 これから良くなっていく 大丈夫 幸せになれる 多分そう言えるのは そう言っていいのは 私達だけじゃないだろうか 〝大丈夫〟という言葉の重さ、難しさ
医療環境の改善を、患者側は求めているのだろうか。 医療環境の改善について、医療者は良く議論している。 でも患者の反応があまりになさ過ぎないか。 ワイドショーで日本の病院の チャイルドライフスペシャリストが紹介された。 その内容は平易で、小学生のわが子にも良くわかるくらい、 「医療者」ではない人向けの内容だった。 しかし、紹介された団体のサイトには、 医療者や医療者を目指す人からのメッセージしかなかった。 おそらく偶然見た医療者を目指す学生より、 子どもを持つ主婦が見ている
人それぞれの天秤。 ご飯とパン。長男はご飯らしい。 男の子と女の子。どっちもかわいいけど長女は一人娘だしなぁ。 睡眠と入浴。ついつい睡眠をとってしまう。 泣いて注射か、笑って悪化か。 白衣の看護婦さんか、ジャージのお母さんか。 病院か、家庭か。 医療か、家族の愛情か。 泣いて押さえつけてまでする注射は、 医療という名のもとでは、どこまでも正当らしい。 医療は世の常識、法律を超えるもの? 泣き叫ぶ子どもを大勢の大人が押さえつけ、 痛い目にあわせることは、 病室の外では犯罪だ
お金なんて、どうにかなるわよ。私もどうにかなった。子育てなんてあっという間に終わるわよ。人目を気にして恥ずかしくないように生きなさい。 母は私にそういう。母は、安定収入のある健康な夫がいたわけだし、私たち兄弟も健康で健常だった。 私はそれなりに健康だけど、夫は数年前精神的な病気で一年休職したし、それは母には内緒にしていたけど。子どもは発達障害を持っていて学校も家庭での育児も、普通じゃない。役所などを駆けずり回って、学校を捜したり、人目を気にしながら精神科病院に通院する夫に付き
大掃除をして、片づけをしていると良くわかる。 必要なもの、不必要なものは、人によって違う。 子どもに必要なおもちゃ、親が見るとごみ。 当然捨てるべきものだと判断し、捨ててしまう。 だって、親の判断は正しいですから。 夜間なのにちょっとした発熱で診察。 予定以上に時間のかかるムンテラ。 子どもの処置に付き添う親のためのガウン。 泣く子どもをなだめる時間。 がんばったね、えらかったねと頭をなでる医師の笑顔。 そんなもの無くたって、 医療はちゃんと病気を治してくれることになって
一人旅は、初めての経験。妻はいつも旅行に出かけるが、私は久しぶりの旅行でもあった。魚料理を堪能するだけが目的だった。 ホテルにチェックインから、ネットで調べた魚料理のおいしいという居酒屋に向かった。居酒屋の店主は、元漁師で魚には目が利く。刺身はもちろん、煮魚などもとてもおいしかった。そして日本酒がとても進んだ。店主と魚の話をたくさんした。 大満足しほろ酔いで店を出るとき、レジの女性が突然話しかけてきた。お客さん、山田町の野田さんじゃないですか。そ、そうですが。私、初田です。夜
我が子にはすくすくと健康に育ってほしい。 親は誰でもそう望んでいます。 医療機関や健診、その他で「発達が遅れている」とか 「再健診しましょう」「専門の先生に見てもらってください」 「○○病の疑いがあるかもしれません」などといわれたら、 親は崖から突き落とされるにも等しい衝撃を受けるものでしょう。 しかしこの言葉は親として真摯に受け止めるべき物です。 子どもを実際に診察、観察している専門家の診断や提案を 信頼を持って聞くことは、たいへん重要なことです。 決して「大丈夫」とと言
お医者さんからの手術のことについての説明を一通り受け、 最後に聞かれるのは、 他にご質問は? 優秀な医学生なら、手術の技術的なことを聞くのかしら。 優秀な看護師なら、術後のケアの注意点を聞くのかしら。 では優秀な母親は何を聞けばいいのだろう。 我が子の体に、病気を治すためとはいえ、 この無垢で傷のない体に刃物を突き刺す話。 信じがたいほど恐ろしくて不安で悲しくて、 替わってやりたいけど替われないこの気持ちの中で、 母親は何を聞けばいいのだろう。 何を聞けるのだろう。