風刺 【「R.I.P IGUCHI」ON SNOW EDIT】
前回からだいぶ間があいたけどまだ続いてますよ。
この作品、概要の説明とかは別に必要ないでしょう。
あと、カリフォルニア出身のラッパーという設定ならもっとこうした方が良いだろ!
みたいなツッコミも無しでいいですね。
あと、これを面白いと思える人もいれば、くだらないと感じる人も当然いるでしょう。
じゃあこの作品について語れることとはなにか。
一見すると、コンテストの賑やかしのために、真面目にふざけただけの作品に見えがちですが、あなどってはいけません。
そんなところにこそ、大事な論点が隠れているものです。
素を演じる
スノーボードの映像作品が必ずと言って良いほど直面する問題があります。しかしなかなか顕在化してこない問題。(または、僕以外誰も気にしてない問題)
それは、出演者(ライダー)が「演技か、それとも素か」という点です。
このことについては、今これを書いている僕自身も明確な答えを持っていないので、書きながら考えを進めていきたいと思います。
まずいえるのは、ほどんどの作品が基本的には脚本やセリフが決まっていないという点において、「演技」ではない。
けれども、映像作品として不特定多数の人に観せるために撮影をしている以上は、ライダー自身が意識的かどうかに関わらず、人に観せることが前提の振る舞いをしているだろうという点で、「素」でもない。
あらかじめ決められた事を演じているわけではないが、人に観せるための立ち振る舞いをする。
これをどう捉えるかで、作品の見え方も変わってきそうです。
そこで、僕の解釈はこうです。
「ライダーはみんな演技している。
ただし、オーディエンスの期待に応えている限り、そのことは気にならない。」
ちょっとまだ整理しきれていないので例をいくつか挙げてみます。
例えば、格闘家の試合前のトラッシュトーク。試合に向けてより盛り上げるためのやりとりなのであれば、お互い本心でいがみ合っているかどうかは重要ではない。
当然、観る側はつまらない「素」よりも、面白い「演技」を求めている。
そんな面白い演技を適切に出せるからこそ、その人物の素の部分に好感が持てるというケースがあります。
他には、スキャンダルを起こした有名人もそう。
本気で反省しているかどうかに関わらず、謝罪会見などでの立ち振る舞いでジャッジされる。
アドリブ力や、よく練られた作戦でその場を乗り切ったときに「上手く乗り切ったな〜」が純粋な褒め言葉となる。アウトプットそのものよりも、そのアウトプットに至る背景について評価するという、ややハイコンテクストな状況です。
例を出したせいで話が余計にややこしくなってきましたが、つまり何が言いたいかというと、ライダーはライダーらしい振る舞いをするし、オーディエンスもそのライダーらしい姿を求めている。
需要と供給が一致しているこの状況で最も必要とされていないのが、赤の他人が「そもそもそれって素のあなたですか?」とか口出しすることに他なりません。
というわけで、「演技か素か問題」というのは、
「オーディエンスの期待に応えられたかどうか問題」に回収されるということにしましょう。これ以上は面倒くさいので。
そんなことも頭の片隅に置きながら、改めて演技160%なこの作品「R.I.P IGUCHI」について考えてみましょう。
詐欺師はまず自分をだます
この作品は、誰がどう観ても明確に演技だとわかる作りです。
ですが、いかに現実離れした内容であろうと作品内の世界観やリアリティラインは一貫しています。
この世界観を、これはこれとして成立させることが出来ているのはオルターエゴを作ったからに他なりません。
オルターエゴとは、分かり易い例でいうと武藤敬司とグレートムタ、佐々木健介とパワーウォリアー、平田淳嗣とスーパーストロングマシン、ケンドーカシンと石澤常光のように同一人物だけど別人格の設定というやつです。
この例からわかるように、オルターエゴの機能とはキャラクターの善と悪を反転させたり、フィクショナルな存在感によって振り切った表現や行動が可能になることなどがあると思います。
なので、例えばこの作品と同じことを、出演者が素の状態でやっていたら、観ている側は乗れないどころか大丈夫かと心配してしまうレベルでしょう。
突拍子もないキャラクターだからこそ、突拍子もない表現をすることに違和感なく納得できるんです。
オルターエゴを演じる意味とは?
そもそも、架空のキャラを演じてまで、この作品で表現したかった事とは何なんでしょうか。
ここに、作り手の強いメッセージがあると感じます。
僕が勝手に受け取ったそのメッセージとは、
「お前らもちゃんと演じきれよ」です。
人に観せるため、更には何かしらの影響を与えるために作品を作ってる以上、大事なのはありのままでいる事じゃなくて世界観を創り上げることなんだと。
たとえ本名で出ていようと、そのキャラクターをやり切ること。
映像表現だからこそできる、虚構と現実の境界の曖昧さを活かして普通じゃ観れないものを観せてなんぼだろうと。
日本から一旦カリフォルニアを経由して、改めて日本のスノーボード業界に対する風刺的なメッセージがこの作品です。
という解釈で今日のところは終わりにしようと思います。
p.s.
一部のプロが作品づくりのために、普通のスノーボーダーではなく異端な存在になろうと頑張るのはいいとして、
普通に趣味でスノーボードしてる僕達だって、スノーボードしていない大多数に対して十分にオルタナティブ(主流ではない、別なもの)な存在だったということを思い出しました。
実は「スノーボーダーらしさ」を期待されてることに自覚的でいたいですねえ。