2022 COWDAY FILM AWARDの感想
COWDAYの映像コンテストが今年も出ましたね。
https://www.cow-day.jp/snow/cowdayfilm/
長編作品部門は事前にYouTubeで公開されていたので、さらっと感想書いてコンテストの周知がわずかでも広がれば。なんて思っていたけど、日銭稼ぎとその合間の家族との戯れだけで時間は過ぎていき、気づいた頃には結果が発表されていました。
とはいえ、そもそもコンテストの行方とは関係なく、それぞれの作品について自分なりにあれこれ言うつもりだったので、今更だとしても書いておきます。
というか実を言うと、自分の言いたい事を言うために、ちょうど良くこの企画を使わせてもらおうってだけでもあります。
では早速、それぞれの作品について書いていくその前に。
映像作品を批評すること
これから書くことを批評というにはあまりにお粗末なので、個人の感想を述べているに過ぎません。
いずれにせよ、なぜ僕がわざわざ脇から出てきてあーだこーだいう必要があるのか。
また、どんなスタンスであーだこーだ言ってくつもりなのか。
まずはそのあたりをハッキリしておきますね。
①ネガティブな批判はしない
なぜなら、スノーボードの映像作品はあまりにも小さくて脆い業界だからです。
いきなりネガテイブな批判めいた物言いですが、誤解無きようお願いします。
要は、分母が小さすぎることが問題なんです。
例えば映画館で上映するような商業映画であれば、良いも悪いも個人の好き勝手を言ったり発信したりすることにはなんの問題も無いでしょう。
なぜなら、他にも良い作品や良い作家は山ほどあるし、いろんな観客からの多様な評価があり得るから。
ことスノーボードの映像作品に関してはそんな環境には程遠いのが現状です。
どっかの誰かのネガティブな批評が、他の多様な評価の中にすぐに埋もれていくほどには視聴者のパイが大きくなく、毎年無数の駄作が出るが確実に良作もいくつか出てくるというほどには作品が作られていない。
そんな環境では、ネガティブな批評が生産的にはたらくわけがないので、
わざわざあれこれ言うとすれば、まずはその作品がいかに良いか、どうすれば面白く観ることができるのかを提示する必要があると思うんです。
言うなれば、トキやパンダのようにみんなで過保護なぐらいに守ってあげなきゃダメな絶滅危惧シーンなのです。
②村の外で考える
スノーボードの村の中だけで通じる言葉があります。
正確には、通じているのかどうかは微妙なところだけど、皆がなんとなくそういうモノとしてやり過ごしているような表現の事です。
例えば、
『トゥウィークはカッコいいものとする』
『歳を取ったらレジェンドとする』
『たいていのことは「ヤバい」で処理できるものとする』
など。
内輪だけで通じる表現や用語(スラングやジャーゴン)が存在するのはどこの業界やコミュニティでも同じでしょう。
なのでそれ自体を特に良いとか悪いとか言うつもりはないけど、それを多用するのはおそらく、自分はその村の住人だということを誇示したいのか、または村の中でのヒエラルキーの高さを誇示したいのか、結局はそんなところのようです。
なので、ある作品がいかに良いのかを、その作品にまだ触れていない人やそのジャンルへの馴染みが薄い人へ伝えようとするときに、内輪向けの表現を使うことのメリットはほぼ無いんです。
③好き勝手に面白がって良い
これは、②の内輪向けにならないという事と若干カブるけど、作品を味わう上で一番大切な事だと思っています。
好き勝手に面白がるとは何か。
具体例はこれから個別の作品に対する僕なりの感想で実践しますが、その言葉通り、観た人それぞれが好きなように楽しんだら良いってだけのことです。
たとえパウダーでスプレーを上げてるシーンでも、「気持ちよさそう」「自分も滑りたくなった」以外の感想が出ることに躊躇しないでいいんです。
僕自身でいえば、スプレーを上げることにたいした価値を感じていないので、雪がキレイに舞上がっている映像を観ても特に良いとは思いません。
だって、滑っている最中に自分が上げたスプレーは自分ではちゃんと見れた事が無いし、道東のとにかく軽いだけで全然踏みごたえが無いパウダーを滑ってきた経験から、高くてキレイなスプレーが即ち気持ち良いターンだという実感が薄いんです。
それよりも好物なのは、カッコよくまとめられた映像の中にわずかに見え隠れする「ほつれ」です。
例えばライダーがコケそうになるのをなんとか修正する一連の動作。
着地した後、コケないよう必死に修正して、更には修正していること自体がバレないよう必死でごまかしきる。そこに滲み出るなんとも言えない人間味についつい惹かれてしまうんです。
他には、特にストリートの映像で、ようやく良いのが撮れたときにフィルマーの「イェー!」とか「フ〜!」とかいう歓声がしっかり作品に入っているときに、彼は自意識との勝負に勝ったんだなぁ。と感慨深くなります。
このような、他の誰かに共感してもらえる見込みがほとんど無い感想だとしても、堂々と好き勝手に言っていくことが、作り手と視聴者の豊かなコミュニケーションの始まりだと信じています。
以上のようなスタンスで、今回のCOWDAY FILM AWARDの出品作品を観ていきます。
どっちが本当の姿か!? 【サラリーマンの週末】
平日はサラリーマン、週末はスノーボードで仕事も趣味も充実。
という単純明快なストーリーの作品です。
この作品の勝因は、多くの人が共感できるストーリーと、それをうまく表現しているカット割りではないでしょうか。
最初のサラリーマン状態のときの、奥行きも広がりも無い仕事場のシーンの中に、スマホの小さな画面にだけ広い空間が現れる。
そこから、山が近くにつれて徐々に開放的で躍動感のあるシーンとなってきて、いよいよ滑り出す。
この瞬間、既にサラリーマンの週末としては満点なのでそこから先、どこでどう滑ろうと、あとはもう全てボーナスみたいなものです。
ここまでを要約すると、
「サラリーマンが休日に、健全な息抜きとしてのスノーボードを楽しみましたとさ。あー羨ましい。」
そんな単純な評論で終わってはいけない、実はもっと深いテーマが隠された作品です。
あえてアホみたいなこと言うと、これは現代の妖怪のお話しとして観ることができます。
いきなりですが、社会学者の宮台真司の言葉を引用しようと思います。
ざっくりと、どんなことを言っていたかと言うと、
”人間はもともと移動生活をしていた。そこから定住生活を始め、農耕し、社会や法が必要になった。しかし、その中で生きるのは不自然でストレスが溜まる。”
更には、
この作品にあてはめると、週末はスノーボーダーに「なりきり」、普段はサラリーマンに「なりすまし」てこの社会で暮らす。
更には、なりすますことで余力ができるとも語られています。
サラリーマンの暮らしはあくまでも「なりすまし」なので、そこでどれほど成功や失敗があったとしても、その人物の核となる部分への致命的な影響にはならない。
スノーボーダーへのなりきりを獲得することで、社会で生きる上でのしたたかさ(余力)を手に入れることができる。
それがこの作品からのメッセージです。
あなたのそばにもいるスノーボードの妖怪
ここまで読んで、「なりすましがどうとか面倒くさいわ」という方は下記のような見方をすればピンとくるんじゃ無いでしょうか。
最後のシーン、仕事モードなのにボードを抱えてビル街(ランドマークタワー?)を歩き出す。
このシーンをどう解釈したらいいのか。
・次の週末に備えて、仕事の合間にショップへ行ってボードをメンテナンス?
・スノーボード好き過ぎて仕事に影響出てしまっている?
・これから山へ向かうところ?
僕の見立ては、「サラリーマンになりすましたスノーボード の妖怪が、気が緩んで本当の姿が少し出てしまった瞬間」です。
例えば「地獄先生ぬ〜べ〜」の普通の教師のふりして鬼の手を持っている設定や、「幽遊白書」で高校生になりすましている妖狐蔵馬の設定のアレです。
その設定がより分かりやすくなるように、もう1シーン足すとすれば、
ボードを担いだ主人公とすれ違った子供が「お母さん、あの人スノーボード持ってるよ」
お母さん「そんなはずないでしょ!ちゃんと前を見て歩きなさい!」
子供(確かに見えたはずなのに、自分にしか見えてないのかな?)
みたいなベタな終わり方でしょう。
ここでの「スノーボード」を「狐のしっぽ」とか「頭から生えた獣の耳」とかに置き換えたら、ほとんどの人が昔なにかのアニメ作品で見たことあるシチュエーションなんじゃないでしょうか。
そしてそのような、社会の外に軸足を置いているキャラクターだからこそ、この社会にありがちな諸問題を見事に解決していく。というのが典型的なストーリーですね。
つまり、この社会にはそうやってなりすまして暮らしているスノーボーダー達がたくさんいて、自分の身近にいるあの人も実は、、。
もしくは、あなた自身がそうやってしたたかにこの世の中をサバイブしているスノーボーダーそのものなんだよ。
というメッセージ性に富んだ作品なのです。
【追伸】
この作品はあくまでフィクションなので、主人公がスノーボードを楽しんでいるそのとき、待受画面の女の子がどんな週末を過ごしていたのかについては考えないことにしましょう。