タイムカレンダー
「さよなら・・・ 」
抱えた腕はだらりと力が抜け目が閉じていく。
目が開くと同時にスマホのアラームが部屋に鳴り響く。カーテンの裾は真白く染まっている。時刻は9月3日7時。
頭はぼやけているが、腕には何かを抱いていた確かな感触が残っている。シャツが汗でびっしょり濡れていた。アラームを止めカーテンを開き、テーブルの上の常温になってしまった炭酸水を飲み干し額の汗を拭う。あの夢はなんだったんだろうと手繰るように思い返そうとするが、起きがけに付けた煙草の煙のように紛れてしまった。
「誰を抱いていたんだろう」と呟きながらシャツを脱ぎ、騒つく背中を携えてシャワーを浴びた。
タオルで頭を拭きながらテレビをつけると、世界情勢がどうのとかとコメンテーターは熱く語っていた。今日は正午からバンドの練習があり、16時からは田岡整備工場でバイトがある。トースターでパンを焼き、グラス一杯に氷を入れてアイスコーヒーを飲む。時刻はまだ9時。電子ドラムの電源を入れ昨日ターくんが作ったギターのリフに合わせてドラムを叩く。ライブは7日の土曜日。LOCKsでスタートは19時から。そこまでに詞も完成させなければいけない。
今は大学の夏休みで、バイトをしたり、俺を含む四人で組んでいる「T-Ash」のバンド活動をしたりと平凡な日々を過ごしている。
バンドのメンバーは、ボーカルのターくん、ベースのヤー、ギターのみっちゃん、ドラムの俺。今日もバンドの練習を見に来る予定の遥(はるか)とは保育園からの付き合いで、まあ俗に言う幼馴染と呼ぶ人。遥も俺と同じ地元八森市の山白大学に通っている。
ドラムラインを8割方完成させ、軽く唸りながら詞を書いていると時刻は11時を過ぎていた。白いリネンのシャツに腕を通し細身のデニムを履き、玄関に置いてあるヘルメットを取り玄関を開ける。今年は残暑が厳しく北国では珍しく今日も真夏日になるらしい。愛車のSR400のエンジンをかけスタジオに向かう。アパートから小道を何度か抜け大通りに出て、片側三車線の沼田の交差点を右折すると直ぐにSCスタジオがある。メットを脱ぎ煙草に火をつけ、地下にあるBスタの扉を開けるとメンバーのみっちゃん、ヤー、ターくんが階段上の踊り場に集まっていた。
「おう遥(はる)、お疲れ」ターくんが腕を挙げる。
「うん、お疲れ。遥は?」
「まだみたいだね」とヤー。
まあ良いかと俺は言い、4人で階段を降りスタジオに入った。
早速みっちゃんは「とりあえずライブでやるニルヴァーナのbreedでもやろうか」と言った。俺は4カウントを取り演奏は始まる。歪んだギターのリフとコードを追うベースライン、2ビートを刻むとターくんのボーカルが入る。ややハスキーなターくんの声はこの曲に良くはまる。スタジオ内に爆音が鳴り響く。
「オッケー」とみっちゃんはまずまず満足そうにマイクを通して話した。次はターくんが作ったオリジナルをやろうと言う。「タイトルは?」
「タイムジャック」とターくんは答えた。
丁度演奏を始めようとした時、ガチャリと防音扉が開いて遥がやって来た。
「ヤッホー、調子どう?」
遥は軽く俺たちの機嫌を伺い、何年使われたか分からない古びれた木の椅子に腰掛けた。遥はややオーバーサイズの灰色のブラウスを着てデニムのショーツを履いていた。スラリと伸びる白く細い足には椅子の丈が足りないようだ。アッシュに近い髪色、ショートヘアで目は大きくやや切れ長、鼻は高く筋が通っていてぽてっとした唇には赤い口紅を塗っている。周りの人間は大人びていて綺麗だとよく言うが、俺は付き合いが長いからいつもの遥だと思った。身長はずっと遥の方が高いままで高校に入り漸く俺が追いついた。なんとか成人の平均身長まで伸びたが、遥は時々ヒールが高い靴を履く事があるからそういう時は今でも俺の方が低いままだ。
「ねえターくん、新曲作ったんでしょ?タイトルは何ていうの?」
「タイムジャックだよ」
「カッコいいタイトルじゃん」
「そうだろ?ただ歌詞は遥任せだからどんな風になるかな」
「そっかあ、楽しみだなあ」
その後10分程取り留めのない会話を5人でしてまた練習に戻った。ターくんが作ったタイムジャックの歌詞は俺がまだ完成させていないから、英語でもない日本語にもなり得ない滅茶苦茶な言葉でターくんは歌った。クリーンなギターのリフで始まり、8小節後に同じリフを歪みに切り替えて弾き始めると、ヤーはペキポキとスラップで演奏し俺は16ビートのリズムを刻んだ。タイムジャックは大体4分くらいの曲。最初の合わせにしては上出来で、良い感じじゃんと顔を見合わせた。土曜日のライブは5曲演奏し、3曲がコピーで残りの2曲はオリジナルを予定している。1時間程通しで練習し、休憩する為スタジオを出て踊り場に行く。ターくんとヤーと俺は喫煙者だから各々火をつけ煙を燻らせる。
誰ともなく皆に届くように今日見た夢の話をした。
「夢の中で誰かを抱きかかえてたけど俺の腕の中で死んでしまったんだよ、起きた後も感触がしっかり残っててさ。起きがけは全身痺れてたのよ。」
「まあ夢だしあり得そうなあり得なさそうな事じゃね」ターくんはごく普通のトーンで返した。
「もしかして予知夢的な?」バンドのリーダーだが普段から会話の輪に入らないミッちゃんが珍しく食い付いてきた。
ヤーはふーんと言う具合に聞いて弱く頷いていた。
遥は?と俺は聞いて見たけど「私はあまり夢を見るタイプじゃないからなあ」と軽く首を傾げて言った。俺もそれ以上の情報は無いし、リアルだったけど飽くまで夢の範疇を超えないのかなと思いサラッと話題を変えた。
「来週14日のバベキューは今年最後になるかもな」
「だねー」
声を合わせて全員が顔を見合わせる。
「じゃあ残りの時間また練習しようか」とみっちゃんが言い、地下のスタジオに戻り1時間弱の練習を終えた。それぞれ、楽器をケースに入れたりマイクの整理をしたり俺はスティックを迷彩柄のケースにしまった。
「大分仕上がってきたね、7日はバッチリでしょ」と遥は全員に檄を入れた。
練習後スタジオの外に出て、次の練習は明後日と確認したりし、俺と遥以外の3人はそれぞれ車に乗り解散した。
「今日バイト何時から?俺は16時からだけど」
「私も今日は16時からだよ」
「じゃあまだ時間もあるし少し時間を潰そうか。後ろに乗りなよ」
「はーい」
俺はバイクの後部座席に遥を乗せて近所のパチンコ屋の跡地に向かった。
5分ほどで跡地に着き、自動販売機でブラックコーヒーを2本買い、ほらっと軽く投げ遥に渡す。
「サンキュー」
「最近バイトの調子どう?」
「まあそこそこかな、相変わらず楽しいけどね」「そうだ!ユウさんが新しいクラフトビール入れたから遥においでって言ってたよ」
「良いね。早速今日のバイト終わりに行こうかな」
ユウさんの店M-Wは昼はランチメニューを出すカフェにして、夜はクラフトビールをメインに出すダイニングバーにしている。俺はクラフトビールが好きだ。ラガーとは違うホップの香りが強いものや、かなり苦味の強いものやフルーツ香がするエールがある。浴びるほど飲むような飲み方はせずホロっと酔うくらいが楽しい。しかし時にバンドメンバーと飲むときはテキーラのショットを何度も挟み酩酊するくらい飲む日もある。今日は一人だし程々にしようと思った。
「なあ、話は変わるけど将来の事とか考えてる?」
「何?急に。まあ再来年には卒業だしそろそろ就活とか先を考えないとね。八森は何も無い所だけど、多分地元で就職して結婚して子供が居て当たり前に歳を取って、平凡でも楽しく過ごしていきたいな。遥は?」
「俺もまだ先の事は分からないな。でも俺も多分八森からは離れないかな。何より今は週末のライブの事でいっぱいだし。今が眩しいみたいな?」
「そっか、最後はよく分からないけど。私たちはこれからも一緒に居られるのかな」
「うーん、そうだと良いなとは思ってるよ」
「そうだね。あっ、そろそろ時間だよ」
スマホの時計を見ると15時30分だった。店まで送ろうかと聞くと、遥はバスで向かうよと言った。バイクのエンジンをかけ、じゃあねと言い俺はバイト先の田岡整備工場に向かった。
工場に着くとイマイさんが作業していた。お疲れ様ですと声をかけるとイマイさんは「おう、お疲れ」と顔だけ向けて応えた。
田岡整備工場は社長のタオカさんと、社長の奥さん、そしてイマイさんの3人で回している小さな工場だが、社長も元整備士で鈑金、塗装もこなしていてメインの整備、鈑金、塗装は社長とイマイさんの二人で行なっている。そこに友人の伝で俺はバイトとして働かせて貰っている。俺は専門知識は乏しく簡単な軽作業をいつも行なっているが、2人の仕事ぶり、事故車が元に戻る様はいつ見ても惚れ惚れしてしまう。田岡整備工場は周りの評判も良く、大手の保険会社からもよく依頼が来て仕事が絶えない。
イマイさんはあまり自分の事は語らず、知っているのは35歳で既婚、子供が2人いるという事くらい。あと知っているのは地元の訓練校で整備について学んで資格を取り、20歳から田岡整備工場で働いているらしいという事。2人だけの休憩の時は、俺は間を埋めるようにバンドをやっている事や、遥の事、プライベートな事もよく話した。
事務所に入ってタオカ社長に挨拶し、休憩所でつなぎに着替えた。
「今日は何をすれば良いでしょうか」
「今日は軽作業がメインだよ。オイル交換にタイヤ交換、車検整備後の洗車とかを頼むよ」
分かりましたと答えて工場に入り、黙々とオイル交換やタイヤ交換を数台分こなした。全ての作業を終わらせてイマイさんが行ってた車検完成点検を手伝い、洗車を終えた。休憩しようかとイマイさんが言い一斗缶に腰掛けてタバコを吸った。
「前から少し気になっていたんですけど、右手の甲の傷ってどうしたんですか?作業中の怪我とかですか?」
「昔ちょっとあってな、まあなんて事ない古傷だよ」
普段から寡黙な人だし、多くを語りたくないのかなと思いそれ以上聞くことはなかった。
いつものように自分の話をしながら休憩しているところに社長から声がかかった。
「おう遥、1台飛び込みの客の車見てくれねえかな。ブレーキの調子が悪いらしいんだよ、ちょっと頼むな。ただ客が酒臭くてよ、断ったり警察呼ぶのもなんか引っかかるからちゃちゃっとやって帰してくれ。必要があれば作業後に話してみるよ。ニガミさんて名前でナンバー4465の軽自動車だ」
車をリフトに上げてタイヤを外すとフロントのブレーキパットが減っていた。ブレーキオイルも黄色味がかっていて少し劣化しているようだった。リヤのブレーキシューは問題なさそうだ。ブレーキパッドとブレーキオイルの交換が必要だとニガミさんに伝えると、やってくれとぼそぼそと言われた。確かに酒臭かったが、呂律はしっかりしていた。俺はそのまま部品交換とブレーキオイルを交換した。
何を話しているかは分からなかったが、ニガミさんは社長と少し話し帰っていった。その後も洗車をメインに仕事をし、19時50分頃社長から今日はあがっていいぞと言われた。
休憩室で着替えて、社長とイマイさんに挨拶をして工場を後にした。
<続く>