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マティスの青はエジプシャンブルー

この世に、ないものはない(例え宇宙とか)、という仮想を創造する人間

今日のテーマは何にしようかと、毎朝考えるのが日課ですが、むしろ自分の内部に溜まっているモノ、それを掃き出せるか、ということが必須なのかと気が付きました。
いってみれば、自己満足とか自虐とか、世間社会に対するウップン晴らしの責任転嫁だとか、方法は千差万別ですが、、それを伝達表現の言葉とか文字で表すのが、生きている証し、そんな安易な到達結果ですが、人の命は短くて、なんにもしないで未達のまま果てるのでしょう。(死の恐怖は宗教的にも命題ですが、それを模擬リハーサルができない、という難題があるからでしょう)

そんなことは私が考えるまでもなく、世界の80億人の人が等しく被る摂理で、逃げようもありません。※2024年4月時点で81億1900万人

その社会で日々、人は何が知りたいか、という基本的ジャーナリズム項目がありますが、出す側と受ける側の相対的バランスが、一致するわけではない、という現実があります。

昨日も書きましたが兵庫県知事斎藤氏の話題がいま日本社会の焦点ニュースですが、世界の出来事をみれば、そうした政治些末など問題外、という話しは、海外で頻発しているのが現状です。

その中で「きょうはなにか」と考えるわけですが、11月30日に相応しい事件事故、が存在するわけではなく、今やっているウクライナ、そしてイスラエル戦争が、突然世界に発火した、という分析予想も否定されないのが、いまの世界情勢です。

だから今平和である、という前提で社会(とくに日本)は動いているわけで、そのかなから、ニュースを吟味してみると、三通りが対象としてありました。選んだ項目は、まったくの主観選定ですから、そのどれを社会は知りたいか、という的を絞るハメになります。

1.# 量子力学 まさに「弘法も筆の誤り」…《稀代の天才》アインシュタインが悔やんだ「生涯最大の過ち」 
野村 泰紀バークレー理論物理学センター長 カリフォルニア大学バークレー校教授 2024.11.29  :現代ビジネス https://gendai.media/articles/-/141972

2.「次男を保育園に入れない?」夫・中田敦彦の提案で福田萌が体感した「日本でも入れてほしい」保育園システム 2024.11.29 現代Media
昨年末に第三子を出産したばかりの福田萌さん。数年前にシンガポールに移住し、10歳の女の子と7歳の男の子、夫の中田敦彦さんと暮らしている。

3.ピカソ、マティスを発掘した画商 「ベルト・ヴェイル」

の三項目で、注目記事は「あっちゃんの子育て日記」というのは知りたいニュース筆頭、というのは判っていましたので、それは各自で検索していただいて、宇宙物理学、についてはやはり無理かな、という感じです。

私のテーマは3.の「ベルト・ヴェイル」についてです。その理由、知名度もなく、パリサロンでも「無名卑下」されていた人物だからでした。

ましてこの日本で「洋画」コレクションといったら投資対象でしかなく、それが贋作かどうかも不明なことも多い、あやしい世界と認識されているからです。

いま問題のEV世界論争にしても、ヨーロッパ主要国の挙げた温暖化阻止啓蒙、という旗印でしたが、ことごとく破綻して、基に戻るという復刻論になっていますが、それらを歴史的に考えれば、西側支配の植民地構図と配色が重なり、また、それに対抗する第三勢力との拮抗が、より顕著化した現代史の結果と観ることができるでしょう。

そなん思想的混沌の中で、これまでの西欧歴史を誇示する絵画に対して、いまの日本人がどう判断するか、それが知りたいと思ったのが、取り上げた最大の理由です。

「微々たる金も稼げないのはなぜ?」──ピカソ、マティスをいち早く「見出した」女画商の苦悩の人生 2024/11/29(金) 12:20配信 クーリエ・ジャポン

アメデオ・モディリアーニによる「横たわる裸婦」(1917)。ベルト・ヴェイルは、モディリアーニの存命中にその個展を開いた唯一の画商でもある
Photo: Johannes Schmitt-Tegge / picture alliance / Getty …(COURRiER Japon)

ピカソやマティス、モディリアーニなど、数々の若き才能を誰よりも早く見抜いた美術商、ベルト・ヴェイル。歴史の陰に埋もれ、忘れ去られてきた彼女の人生と功績に、いま、やっと光が当てられはじめている。

【画像】アンリ・マティス ブルー・ヌード IV 1952 切り紙絵 103×74cm オルセー美術館蔵(ニース市マティス美術館寄託) c Succession H. Matisse Photo by Francois Fernandez 国立新美術館で「マティス 自由なフォルム」展


オルセー美術館蔵


「絵画の蒐集は株を買うのとは違う」──パリの美術商ベルト・ヴェイルは、1933年に出版した回想録でそう説いた。

彼女は、当時の駆け出し美術コレクターたちが、彼女が契約した新進芸術家の作品の価値が上がるかどうかばかり気にかけていると嘆いていた。「あいにくこの手の輩は、自分の目に自信もなければ忍耐強さもない」と書いている。

ヴェイルは、美術に真剣に向き合っていないと判断した顧客は相手にしなかったが、後に蒐集家として名を残したガートルード・スタインとその兄たちのような買い手には大胆な買い物を勧めた。彼らは、1901年に彼女が開いた「B・ヴェイル画廊」の常連だった。当時のパリには、若い芸術家を専門に扱う画廊は他になかった。

ヴェイルは回想録で、「彼らに『私を信じて。マティスは買うべき』と言った」、「彼らはまだ覚悟ができずにいた」と書いた。1902年、ヴェイルはパリで初めてアンリ・マティスを展示した画廊主となった。「しかし、彼らはほどなくして心を決め、大量に作品を買いはじめた(私からではない)」

単刀直入で気の短い女性画廊主のヴェイルは一生、この繰り返しだった。身長150センチ余り、「気難しい性格」で「ヘボ実業家の女」を自称するも、たしかな審美眼と度胸の良さで未知数の芸術家を支援し、40年間、つましい画廊の扉を開けつづけた。

彼女は1900年にパブロ・ピカソの作品を販売した最初のディーラーでもあり、1914年にパリでディエゴ・リベラの個展を初めて開催したのも彼女、アメデオ・モディリアーニの存命中に個展を開催した唯一の画廊主も彼女である──それが1917年、個展開催初日の夜の騒動に発展したわけだが。

陰毛が描かれたモディリアーニの複数の裸婦画が、表通りから窓越しにはっきり見えた。そのため道の往来は止まり、パリ市警察本部長と睨み合うことになった。

警察は彼女に「その汚らわしいゴミをすべて撤去せよ」と命じたと、ヴェイルは回想録に書いている。「おあいにくさま。一部の目利きはそう思ってないわ」と彼女はやり返したが、結局命令に従った。その裸婦画のうちの一点「横たわる裸婦」(1917)は2018年、ニューヨークのオークションハウス「サザビーズ」で、約1億5720万ドル(当時の為替レートで約172億円)で落札された。

ヴェイルの「発掘」

だが、ピカソやマティスらに関する研究や、ガートルード・スタインの『アリス・B・トクラスの自伝 : わたしがパリで会った天才たち』(筑摩書房)で軽く触れられているほかは、20世紀初頭のパリで新しい芸術を擁護する急先鋒的存在だったヴェイルの功績は、美術史ではまったくと言っていいほど触れられてこなかった。

一方、アンブロワーズ・ヴォラール、ベルネーム=ジューヌ兄弟、ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーなど、男性のライバル美術商の名は語り継がれている(彼らはヴェイルが見出した多くの若手芸術家を、資金力にものを言わせる自身の画廊へと手招きした)。

ニューヨーク大学のグレイ美術館で10月1日から開催されている「ベルト・ヴェイルに道を譲れ:パリのアヴァンギャルドを見出した美術商」展(2025年3月1日まで)は、ヴェイルに関する史料を復元し、彼女が目をかけた芸術家を通じてその素顔を浮き彫りにしようとする試みだ。

展覧会にはピカソやマティスをはじめ、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンク、ラウル・デュフィ、ジョルジュ・ブラック、フェルナン・レジェといった彼女の画廊から飛び立った巨匠クラスの芸術家のほか、シュザンヌ・ヴァラドン(モーリス・ユトリロの母)やエミリー・シャルミーといったあまり知られていない芸術家の作品約110点が展示されている(ヴェイルが企画した約400の美術展の3分の1は、女性芸術家の作品展だった)。

ヴェイルの名が再び広く一般に知られるようになったのは、今回のヴェイル展を企画したグレイ美術館館長のリン・ガンパートと、パリのベルト・ヴェイル・アーカイヴの創設者で独立研究者のマリアンヌ・ル・モルヴァン、そして2022年に他界した写真商のジュリー・ソールという、3人の女性たちの並々ならぬ行動力と協力の賜物と言える。

「(大学院で)研究を始めた当初、ヴェイルがどんな人物なのかを知る人は一人もいませんでした。大学の非常に高名な教授でさえ、誰も知りませんでした」と、2011年にフランス語のヴェイル伝を初めて出版したル・モルヴァンは言う。

ニューヨーカーのソールも、フィッツジェラルドの本に出てくるヴェイルの言及に興味をそそられ、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の図書館でこの画商の回想録を探し出した。

父親が廃品回収業者、母親が裁縫師だったヴェイルは10歳以降、学校に通わなくなった。彼女は人に話しかけるように書き、外国人には理解しにくいフランス語のスラングを使用した。この回想録の英訳版を出版しようと決めたソールは、2014年、ガンパートの助力を得た。ガンパートもヴェイルに関する展覧会も開催できそうだと考えていた。まもなく2人は、パリのル・モルヴァンを仲間に加え、こうして2022年、シカゴ大学出版局からヴェイルの回想録の英訳版『Pow! Right in the Eye!(ポン! まっすぐ目に飛びこむ!)』(未邦訳)が刊行されたのだ。

明かされはじめたいくつもの逸話

1865年、パリの裕福からは程遠いユダヤ人家庭に7人きょうだいの5番目として生まれたヴェイルは、10代にして風変わりな画商サルヴァトール・マイヤの店で働きはじめた。

骨董品と版画を売る店で、ヴェイルは20年間、そこで美術商の仕事を学んだ。その店は印象派の画家たちのたまり場で、そこに出入りしていたのが、ヴェイルと同世代のヴォラールだった。有力なコネに恵まれたブルジョワの家に生まれたヴォラールは、1890年に画廊を開き、ポール・セザンヌやフィンセント・ファン・ゴッホの作品を売って財を成した。

1896年にマイヤが亡くなると、ヴェイルは未亡人から少額の資金を借りて自身の骨董品店を開いたが、たちまち多額の借金を抱えた。1900年、カタルーニャの美術エージェント、ペレ・マニャックが、若いスペイン人アーティストの作品をヴェイルの店に持ち込むようになる。

19歳のピカソが闘牛を描いたカンヴァス作品3点も含まれ、ヴェイルが100フランで購入した作品は、すぐに150フランで売れた。ほどなくして、今度はピカソの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1900)が250フランで売れた。現在、ニューヨークのグッゲンハイム美術館に収蔵されているこの作品は、2023年に保存修復され、ピカソ没後50周年の回顧展に展示された。

マニャックはヴェイルを説得して、店を正式な画廊に改装させた。1901年12月、ヴェイルは画廊としての再スタートとして、「Place aux Jeunes!(若い者に道を空けろ!)」と書かれた名刺を作り、フランス人彫刻家アリスティド・マイヨールのテラコッタ彫刻の小品を含むグループ展を開催した。「何も売れなかったと言っても誰も驚くまい」とヴェイルは書いている。「ところが、第1回目の美術展は大好評だった」

ヴェイルは毅然とした態度と、幼稚園の先生を思わせるユーモアで、強烈なエゴを持つ若い芸術家たちと向き合った。1905年のサロン・ドートンヌ(秋季展)で「フォーヴ」(野獣)の異名をとったマティス、ドラン、ヴラマンクと自身の作品を並べたいとデュフィが申し出たとき、ヴェイルは同意した。だが、彼女の回想録によると、マティスは「ダメダメ! あいつは僕らのグループに潜りこみたいだけ。僕らはそれを望んでない!」と叫んだという(結局、ヴェイルは隣室でデュフィの個展を開いた)。引用掲載

Hilarie M. Sheets

https://news.yahoo.co.jp/articles/1286a54de445a9ee45a39b942e88e2357507c65e


https://gendai.media/articles/-/141972



「次男を保育園に入れない?」夫・中田敦彦の提案で福田萌が体感した「日本でも入れてほしい」保育園システム 2024.11.29 現代Media
昨年末に第三子を出産したばかりの福田萌さん。数年前にシンガポールに移住し、10歳の女の子と7歳の男の子、夫の中田敦彦さんと暮らしている。

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