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三島由紀夫 回向(えこう)

三島由紀夫 没後50年(2020年 昭和45年11月25日)

昨日は「三島由紀夫」を正攻法で取り上げた記事ですが、今日は、スターに隠れた脇役にスポットを当てて、その時代を投影した人物伝です。

というのも、この「三島由紀夫」に関する記事が異常に多くの人感心を集めたようで、このnote、はじめて以来の最速閲覧PV15という数を記録したのに驚きました。

このネット読者層から想定するなら、三島由紀夫は伝説の人物であり、二次元でしか知らない人物だ、としても私がここで書く記事も当然、二次元世界の文字形態でまったく変わりませんが、その50年前という時代は、私の個人的な若い時代でもあったし、全共闘も安田講堂も、渦中の対象として映像はしっかり脳に記憶インプットされているものばかりでした。

それとシンクロして「連合赤軍」事件がその延長にあるので、それらは、紛れのない事実として肌身に焼き付いている、そう形容していいでしよう。

私が特に、そのことに傾注していた痕跡はまったくなく、ましてや三島由紀夫が、自衛隊敷地内で自害自刃するなど、思いもよらない事件であり、メディアの騒ぐ「はた迷惑騒動」として付和雷同した一人でした。

話せば長くなるのでしませんが、では、その三島由紀夫がしたその行為というのは、天皇云々を別として、日本人になにをもたらしたのか、というテーゼです。

当然、作家ですから、その関係筋、出版社、学閥派閥交友作家などからの追悼文言は、ちまたにあふれたのですが(今も全く同じ)、それ以外の世間の風評は、あまり訊かれなかった(ノーベル文学賞落選とリンク)ことと、同じような気がしたのです。

ハッキリ言って意中外の人であり、これまたノーベル文学賞候補該当の「村上春樹」と、対極にあると思えてなりません。


ウイキペディア

たまさか、彗星人成田悠輔さんの付和雷同拡声した、「エスタブリッシュメント総懺悔とハラキリ」推奨プロパガンダが、世界大炎上によって、彼もまた、ギロチン刑に処せられたという、まったく日本バージョンスタイルに、世界も反応したという、一休茶番劇はニュース不在の中にあって、一服の清涼汚染水、として日本経済界を活性させたようです。

2023年07月13日記事


三島由紀夫 回向(えこう)

「楯の会」創設者の畏友・持丸(松浦)博くんを偲ぶ

三島由紀夫に最も信頼され、惜しまれた「国士」 大越武著
「楯の会」を、三島由紀夫と2人で創設した初代学生長の持丸博くんが、平成25年9月24日、柏の国立癌センターで息を引き取った。持病の糖尿病のところに食道癌となり、オペして取り除いたら肺炎を併発して15カ月もの入院生活で、歩くことも、食べることも、話すこともできないという過酷な闘病生活を余儀なくされた。最後はリンパにも癌が転移してしまい、臨終の言葉もなく寂しく逝った。
 ボクと持丸くんとの関係は、水戸一高のクラスメート。もともと水戸学のナショナリストで、早稲田大学に入ると学園紛争に巻き込まれ、新左翼の「全共闘」に対抗して、民族派の反共学生組織を結成。左翼学生と同様、ハネ上がり分子の多い右派学生運動の中では、まれにみる冷静な理論派リーダーとして活躍する。三島由紀夫と出会い、同じ憂国思想で意気投合し、昭和43年3月、2人で「楯の会」を創設、初代学生長として第1期生30数名を面接・選抜した。44年10月、カネや組織上の問題で板挟みとなり、やむなく脱会するまで、春夏4期生100名ほどを面接・選抜し、自衛隊富士学校に体験入隊させ、軍事訓練をする。
 その1年後の昭和45年11月25日、三島由紀夫が、森田必勝(持丸くんが面接採用した第1期生で、彼の後を継いだ2代目学生長)ら楯の会4名の学生とともに突如、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現防衛庁)に乱入し、三島、森田の2人が壮絶な割腹自決した。この「三島事件」に、高度成長に浮かれていた日本中が驚愕。とりわけ、ノーベル賞候補の大作家として頂点を極めていた三島の割腹死が、日本の社会と人々に与えたインパクトは計り知れず、今もってその評価をめぐって、あーだこーだと定まっていないことでもわかろうというもの。
 持丸くんが脱会した1年後のこの衝撃的な事件に対して、彼自身、「あの事件の衝撃が余りにも大きく、その後の30数年間は、ほとんど金縛りにあったような状態が続き、とりわけボクが面接した後任学生長の森田必勝が、三島先生と一緒に自決したことは、長い間ボクの心の澱となっている。ボク自身が今もって、あの三島事件の持つ意味を未だに総括できていない」というほどだ。
 彼は事件後、裁判等の事後処理にあたり、事件に関係した同志たちの面倒を見て、地下鉄工事など何でもやって裁判費用の足しにしたが、「西武の堤清二(平成25年11月25日に死亡。なぜか三島の祥月命日と同じ日だった。三島との親交から楯の会の制服を製作・贈呈していた)さんから、当時月10万円という多額の支援を受けて大変有難かったなあ」と、意外な述懐をしていた。一方では、土浦に設立した建築リフォーム会社が倒産したり、松浦芳子夫人との間での苦難が続き、以来なぜか「松浦姓」を最後まで名乗っていた。しかし、晩年は、「彼女もボクの考えをようやく支持してくれたよ」と喜んでいた。
平成25年11月17日、茨城県土浦市のホテルで行われた「持丸博(松浦博)大人命五十日祭、及び偲ぶ会」の祭壇に飾られた①持丸博くんの遺影と、②「楯の会」の血の署名の血判状、③「楯の会」の彼の制服・制帽
長い沈黙を破って語った「三島事件」の真相 晩年といえば、彼が65歳を過ぎた平成22年の秋、彼から一冊の本『<証言>三島由紀夫・福田恆存たった一度の対決』(持丸博・佐藤松男共著、文芸春秋社刊)が贈られてきた。「これまでボクは、あの三島事件の衝撃が余りも大きかったことなど多くの理由から、あの事件に関しての公式な発言はせずに、長く沈黙してきた。還暦を迎えたころからその心境が変化し、楯の会を創ったものとして、自分がかかわってきた事実については、正しく後世に残さなければならないと考え直し、とにかく生きているうちに書かなくてはと思い、この本に残した」と、そのいきさつを語っていた。
 その通り、その著書で彼は、高校時代から彼の思想の原点となった水戸学を語り、三島事件前後の時代背景から、「楯の会」を脱会した理由、三島事件前後の真相に迫り、「天皇の問題」、「戦後体制の問題」、さらには、二・二六事件をめぐる三島との評価の決定的違い等々、これまでの長い沈黙の堰を一挙に破り、人生観、歴史観、世界観を縦横無尽に語っている。あとがきの最後に彼は、「それにしても三島由紀夫は、なにゆえこうも死に急いだのか。三島の死、そのこと自体は、いまだに多くの謎を残して、40年後のわれわれの前に立ちはだかっている」と、結んでいる。


松浦芳子
三島由紀夫と親交 「正しく後世に」女性の挑戦(2020年11月25日)
禁断のスクープ映像、その封印が遂に紐解かれた! 稀代の天才作家・三島由紀夫と、血気盛んな東大全共闘の討論会の全貌だ。

時は1969年5月13日。
東大駒場キャンパスの900番教室に、1000人を超える学生たちが集まり、三島を今か今かと待ち受けていた。旧体制変革のためには暴力も辞さない東大全共闘のメンバーが、この討論会の首謀者だ。世界各国が政治の季節に突入していたこの頃、日本でも自分たちの手で国を変えようとする学生運動が激化していた。

今の日本では想像もつかないほど、センセーショナルな嵐が吹き荒れていた時代なのだ。
そんな危険きわまりない若者たちが、「三島を論破して立ち往生させ、舞台の上で切腹させる」と盛り上がり、異様なテンションが充満している敵地に、三島は警察が申し出た警護も断り、その身一つで乗り込んで行った。(C)2020映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」製作委員会


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