ヒマだし歴史勉強でも読んでみるか!
ナポレオンとか、ピョートル3世そして、エカチェリーナ2世(ロマノフ朝女帝)は、日本の戦国武将、家康とか信長とか、どちらが戦略家だったのでしょうか?
いまさらそうした入試問題をくぐって数十年、すっかり忘れた、という人も多いことでしょう。
ですから、このアフターな時間に、塾生のような問題を読まされて、さぞがっかりされている御仁も多数いらっしゃると拝察申し上げます。私としましても字数も多く、やたら固有名詞と年代数字の羅列で、脳の回転も円滑とはいえません。じゃ、なんでそんなことしてるの、という質問は、三面記事羅列を眺めているい時間なら、ヨーロッパ歴史の方が、まだましか、という程度です。
それにいま進行中の東ヨーロッパのウクライナ、ロシアの争いは、そもそも何が原因なんだと、その質問に誰もこたえられないという不甲斐ない日本社会は、唯一平和国家だと、自慢している場合ではないからです。
勿論、テレビメディアでは、ほぼ毎日「戦況」分析として、茶の間に報道配信していますが、弾薬が足りなくて懇願しているとか、最新鋭戦車何両が欲しいとか、それらを製造するのに半導体が足りないとか、そんな話題を、夕食しながら訊いても、チンプンカンプンだし、チャンネルを変えると、それとは真逆のお笑い番組には、箸を放り投げたくなるし、NHKは違法だと騒がれているし、だったらスマホだとか、入力すれば広告の罠にはまるよう組んであるし、どうするれはいいのでしょう。
そんなことですから、小難しい「ヨーロッパ戦線」のほんの一部だけ、断片的に「ロシア」の成り立ちとか、もう一方の、それに「犬猿の仲」のように見えて袖の下では、サイン交換している「ヨーロッパ」諸国の、老獪したたかな元老院の方々の唱える「ダーウィン進化論」など、どれ一つとっても回答がないという難題を文字にしてみました。
時間が時間だけに、皆さま「家族デー」で不在でしょうから、そこそこに読んで頂ければいいかと思います。
ロシア ロマノフ家の勃興
ロマノフ家は、古くからロシア帝国に於ける有力貴族であったというが明らかではない。一説によるとこの家系のロシアにおける起源は、13世紀にプロイセン地方でドイツ騎士団による残酷な攻撃から逃れてロシアの地にたどり着いた古プロイセン人のグランダ・カンビラ(Glanda Kambila)という名の公であったと言われる。
ただし、明らかであるとされている先祖は14世紀にモスクワ大公のセミョーンに仕えていたアンドレイ・カビラ(Andrei Kobyla)という低位の貴族で、カビラという姓はロバの意味であり、カビラ家はみな馬やその他の家畜にちなんだあだ名をつけられていることからモスクワ大公家の馬丁の家系であったという推測がされている。
ミハイル・ロマノフの祖父ニキータ・ユーリエフ=ザハーリンの代にモスクワ大公にして「全ルーシのツァーリ」だったリューリク家の外戚になった。イヴァン4世(雷帝)死後、リューリク家断絶によるロシアの混迷(動乱時代)、ことに帝都モスクワを占領したポーランドを撃退したことで、1613年ロシアの有力貴族によってツァーリに推戴された。
帝政初期は有力貴族によって政治を牛耳られたが、第2代ツァーリ・アレクセイによって帝権が確立する。1666年のニーコン総主教追放がその顕著なしるしとなった。主な財源は征服地シベリアからの毛皮・木材の貿易、中央アジアの植民地化による市場確保であった。ロマノフ家の経済力はハプスブルク家を超えているとも言われ、世界一の大富豪でもあった。
また、この時代は皇帝による支配が安定した時期であり、それまでロシアの政治を担ってきた貴族階級が没落した時代でもあった(絶対君主制)。
なおロマノフ家の嫡系はピョートル2世の代で絶え、1762年にホルシュタイン=ゴットルプ家から迎えられた外孫のピョートル3世が皇位を継承している(以後をホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家と呼ぶこともある)。
ピョートル3世の皇后であったが夫を廃して自ら即位したエカチェリーナ2世も生粋のドイツ人であり、以後もロシアの帝室はドイツの血統が濃密となった(後にドイツ人との婚姻で、帝室に影を落とす血友病もロマノフ家に流入した)。
ピョートル大帝の時代以降、ロシアではスラヴ派と西欧派がしのぎを削り、それがツァーリの親政にも影響を及ぼした。
歴代皇帝の政策は、主に不凍港の確保と南下政策であったが、19世紀に欧州列強として台頭すると、ロシア帝国も帝国主義化し、植民地主義を標榜するようになった。
特にバルカン半島に対する民族主義を掲げ、汎スラヴ主義を推し進めた。これはオーストリア・ハンガリー帝国との対立を招き、第一次世界大戦の原因ともなった。一方、帝国内では領土拡張によって内部に数多くの少数民族を抱え、民族問題を抱え込むこととなった(ロシアのくびき)。
この様な中でツァーリの親政にも限界が及び、1881年にはナロードニキによるアレクサンドル2世の暗殺事件が起きている。1905年には血の日曜日事件が起き、皇帝ニコライ2世は改革に踏み切ったが、帝国の動揺を抑えることはできず、第一次世界大戦の最中の1917年にロシア革命が起こりニコライ2世は退位し帝国は終焉した。
2007年、ロシア国民の一部がロマノフ王朝の皇帝(ツァーリ)復活を望んでいる事との報道がなされたとされる。(ロマノフ家の末裔の皇帝即位に賛成が35%、反対が7%)。理由は現在のロシアの格差社会の広がりが問題と言われている。2008年10月1日、ロシア最高裁判所はロマノフ家をボリシェビキ政権による弾圧の犠牲者であったとして正式に名誉を回復させた。
”エマニュエル・トッドが指摘する「第三次世界大戦」
“世界最高峰の知識人”エマニュエル・トッドが指摘する「第三次世界大戦」が過去とは決定的に異なる点 「独裁」でも「民主主義の衰退」でもない要因〈dot.〉
2023/2/24(金) 17:00配信 AERA dot.
家族制度や識字率、出生率に基づき、現代政治や社会を分析し、「ソ連崩壊」から「米国の金融危機」などを予言した、フランスの歴史家エマニュエル・トッド。
彼が指摘する、コロナからウクライナ戦争へと向かった現代と第一次世界大戦の始まりを比較することでわかることとは? 最新刊『2035年の世界地図』で語った民主主義の未来予想図を、本書から一部を抜粋・再編して公開します。
【写真】AERA
激変する世界で「歴史」はもはや役立たずなのか?
――ロシアのウクライナ侵攻後、さまざまな議論が行われています。ポスト冷戦期は終わり、西側対ロシアと中国の枠組みで、冷戦の初期段階に入った、というもの。いや、ロシアや中国のあからさまな国際法軽視は帝国主義への復帰を示している、というものもありました。こういった歴史への言及をどのように見ていますか。
人々は歴史について語りたがります。共産主義、ファシズム、全体主義国家の復活について……。フランスでは、いつも記念し続ける傾向があります。第二次世界大戦、レジスタンス……と、歴史的な話がたくさんありますよね。私は歴史家が本職です。
でも、歴史の話はまったく役立たずだと思います。なぜなら、私たちが経験しているのは、まったく新しい何かだからです。
ただ、私が人々に理解してもらいたいのは、過去の歴史になぞらえて現在を考えることのナンセンスを拒否することは、正しい歴史を否定することでもありません。
正しい歴史によって、何が違うのかを理解できます。全世界を5分で説明することはきませんが、ちょっと例を挙げてみましょう。
今、比較の話が出ましたが、地政学者はそのような比較はしません。比較対象は、全体主義国家などではなく、第一次世界大戦になります。なぜなら、第一次世界大戦は主要国による紛争でした。英国、フランス、ロシアが一方の側で、ドイツとオーストリア=ハンガリーが反対側でした。戦争末期になると、ロシアが崩壊し、米国も参戦しました。
「世界大戦」を呼び寄せた人口と産業の発達
ですから、第三次世界大戦の始まりと、第一次世界大戦の始まりを比較するのは面白いでしょう。しかし、人口統計学者としてすぐに気づくのは、第一次世界大戦につながった時代は、世界で人口とともに、産業と力が拡大していたことです。
すべての主要関係国の人口は、劇的なスピードで増加していました。1850年から1950年までの英国で、ここではまるまる1世紀を見ていますが、2800万人から始まり、1950年には5900万人の人口になりました。
日本も参戦しました。第一次世界大戦では少しだけでしたが、第二次世界大戦ではより当事者でした。1850年の日本の人口は3200万人でしたが、1950年には8300万人になりました。相当の拡大率です。同じ傾向がドイツ、ロシアにも当てはまります。フランスは特別なケースでした。出生率の低下が早く始まったので、フランスの人口増加率は低かった。それでも、フランスはダイナミックな国でした。飛行機や自動車の開発、映画など文化産業の発展に関わりました。第一次世界大戦前のフランスは、非常にダイナミックな国だったのです。
米国に関しては、1850年に2400万人だったのが、1950年には1億5000万人に増加しました。当時の世界は、非常にダイナミックでした。そして、国家間の力のバランスの変化が、恐怖を生み出しました。
フランス人はドイツ人を恐れ、ドイツ人はロシア人を恐れました。どの国も人口が拡大していましたが、増加率に差があったからです。 以下割愛
エマニュエル・トッド 歴史家、文化人類学者、人口学者。
1951年フランス生まれ。家族制度や識字率、出生率に基づき現代政治や社会を分析し、ソ連崩壊、米国の金融危機、アラブの春、英国EU離脱などを予言。主な著書に『グローバリズム以後』(朝日新聞出版)、『帝国以後』『経済幻想』(藤原書店)、『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』『第三次世界大戦はもう始まっている』(文藝春秋)など。
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東ローマ帝国(英語: Eastern Roman Empire)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国(英: Byzantine Empire)、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。
ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。なお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて「一つのローマ帝国」であると考えていた。
皇帝府は主としてコンスタンティノポリスに置かれた。五世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようにな」り「西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている。
同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった。9世紀以降には西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになった。
ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく正式な国名及び国家の自己了解は「ローマ帝国(ラテン語:Res Publica Romana; ギリシャ語: Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων, ラテン文字転写: Politeia tōn Rhōmaiōn; ポリティア・トン・ロメオン)」であった。
中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地 (Ῥωμανία, Rhōmania, ロマニア)」と呼んでおり、また彼ら自身も12世紀頃までは「ギリシア人 (Ἕλληνες, Hellēnes, エリネス)」ではなく「ローマ人(Ῥωμαίοι, Rhōmaioi, ロメイ)」を称していた。
西暦476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された際、形式上は当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の皇帝権が再統一された。
帝国は一時期は地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。
また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシア化が進んでいったことから、同時代の西欧やルーシからは「ギリシア帝国」と呼ばれ、13世紀以降には住民の自称も「ギリシア人」へと変化していった。
初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。
領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。住民の多くがギリシア系となり、620年には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。
9世紀には徐々に国力を回復させ、東ローマ皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。
古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシアだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。
ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国
この帝国の7世紀頃以降は文化や領土等の点で古代ローマ帝国との違いが顕著であるため、16世紀になると、便宜上「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンティオン帝国」といった別の名称で呼ばれるようになった。
16世紀に「ビザンツ帝国」という語の使用が確立されたのは、神聖ローマ帝国の人文主義者メランヒトンの弟子ヒエロニムス・ヴォルフ(英語版)(1516年~1580年)の功績とされる。ヴォルフはビザンツ史が単純なギリシア史ともローマ帝国史とも異なる一分野であることを見抜いた人物で、ヴィルヘルム・ホルツマン、ダヴィッド・ヘッシェル(英語版)、ヨハネス・レウンクラヴィウス(ドイツ語版)、ドゥニー・プトー(英語版)、ヴルカニウス(英語版)、メウルシウス(英語版)、レオ・アラティウス(英語版)ら16世紀から17世紀初頭にかけての多くの学者がヴォルフの例に従った。これ以降、学問領域においては近代を経て現代に至るまで一般に「ビザンツ帝国」の名称が用いられ続けている。これらの名称はコンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来し、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz、「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine、「ビザンティオン」はギリシア語の名詞をもとにした表記である。日本においては、歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多く、「ビザンティオン」は英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている。
ただし、これらの呼称は帝国が「古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提として」おり、7世紀頃以降の帝国を古代末期のローマ帝国(後期ローマ帝国)と区別するために使われることが多い。例えばオックスフォード・ビザンツ事典(英語版)や人気のある通史であるゲオルク・オストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』やA.H.M.ジョーンズの『後期ローマ帝国』では7世紀に誕生するビザンツ帝国が6世紀までの帝国とは異なる帝国として扱われている。
ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国
古代ローマの人々は同地の人々を指して「ギリシア人」と呼んでおり、それは同地の人々が「ローマ人」を自称するようになった6世紀以降にも変わりはない。カール大帝の戴冠によって西ローマ帝国にローマ皇帝が復活して以降には、中世の西欧は一貫してビザンツを「ギリシア」と呼んだが、そこには「西欧こそが古代ローマ帝国の継承者であり、コンスタンティノープルの皇帝は僭称者である」という主張が込められていた。
東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。13世紀のパレオロゴス朝ルネサンス以降には、東ローマ帝国の人々も自らを指して「Έλληνες, ヘレーネス, イリネス(ギリシア人)」と呼ぶようになっていった。また、東ローマ帝国はルーシの記録でも「グレキ(ギリシア)」と呼ばれており、東ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国においても東ローマ帝国はギリシア人の帝国だと認識されていた。
例えば桂川甫周は著書『北槎聞略』において、蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving van Russland ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。
※ウイキペディア資料
ダーウィン進化論
オックスフォード論争の真実
今から160年以上も前の話である。1860年にイギリスのオックスフォードで、イギリス科学振興協会の会合が行われた。ちょうどダーウィンの『種の起源』が出版された翌年のことだったので、進化論について活発な議論が行われた。
そこで、ダーウィンのブルドッグと言われた生物学者のトマス・ヘンリー・ハクスリーとサミュエル・ウィルバーフォース大司教が、激しく論争したと言われている。ちなみに、ダーウィンは体調が悪くて欠席していた。
ウィルバーフォース大司教はハクスリーに、「あなたの先祖はサルだということですが、それはお祖父さんの側ですか、それともお祖母さんの側ですか」と尋ねたが、ハクスリーは見事に切り返し、論争はハクスリーの勝利に終わったという。ただし、発言についての正確な記録はなく、実際に2人が何を言ったのかはよくわかっていない。おそらく、このウィルバーフォース大司教の発言も事実ではないだろう。なぜならウィルバーフォース大司教が、そんな愚かな発言をするとは思えないからだ。
進化論のメカニズム
ダーウィンといえば進化論、進化論といえば自然選択というイメージがある。自然選択というのは生存や繁殖に適した個体が生き残ることで、進化のもっとも重要なメカニズムだ。いっぽう、当時のキリスト教徒のなかで進化論を認めない人たちは(当時のキリスト教徒のなかにも進化論を認める人はいた)、自然選択も認めなかったイメージがある。でも、そんなことはない。進化論を認めない人々のなかにも、自然選択を認める人はいたのである。つまり、当時のキリスト教徒には3通りの人々がいたわけだ。進化論も自然選択も認めない人と、進化論は認めないが自然選択は認める人と、進化論も自然選択も認める人だ。そして、ハクスリーと論争したウィルバーフォース大司教は、真ん中の、進化論は認めないが自然選択は認める人だった。
じつは、ウィルバーフォース大司教は自然選択を、生物を進化させない力だと考えていたのである。ちなみに、進化論も自然選択も認めたキリスト教徒としては、その文章が『種の起源』にも引用されているイングランド教会の聖職者、チャールズ・キングズリーが有名である。 部分抜粋
更科 功(さらしな・いさお)武蔵野美術大学教授、東京大学大学院非常勤講師。
(ダイヤモンドンon-line https://diamond.jp/articles/-/318094 )
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