白い恋人はアッといまにデーモンになる
圧倒的な白と青!八甲田山最高峰の大岳を登る・厳冬期日帰り登山│カラログ | 四季折々の山を楽しむ登山ブログ画
地球温暖化で雪も降らないクリスマス/忠臣蔵.1.2
この記事が200回読まれた、という通知がありましたので、雪の厳冬に向けての注意記事を参考に歳時記にして所信を述べてみたいと思いました。
白い雪は、こどもにとっては異次元世界ですからね、もっとフレフレと願いますが、雪国は死活問題であるし、毎年、入試のころ、この雪が降って生徒の脚に支障来たす、という難題もまた頭痛のたねです。
その最も災難というべきか人災というべきか、軍事訓練中に、隊列全滅、という大きな事故があったのは、だれも忘れないでしょう。
それは「白い雪」の悲劇、というロケ―ションも加味されて、物語りとして効果があるようで、その忠臣蔵も井伊直弼暗殺も、白い雪に赤い鮮血という対比が、どうにも日本人受けして人気を誇っていたようです。
ですから、その三つの逸話は、すべて映画化されており、多少の脚色があったにせよ、上的な映画でした。
死刑の重みは、社会的に様々
もう一つ気になる記事がありました。アニメスタジオ放火犯の「死刑判決」です。一部記事を引用して解説します。
【写真あり】京都アニメーション放火殺人事件について語った堀江氏
36人が犠牲になり、32人が重軽傷を負った同事件。1月25日には、青葉真司被告に死刑判決が言い渡された。
「責任能力、刑事責任能力の有無、心身耗弱状態にあったかどうかみたいなところが争われたわけですけれども、まあ当然のように死刑になってしまいました」と切り出した堀江氏。
「まあ、日本の極刑は死刑なので、あの、1番重い刑は死刑なので、こうなるのは法治国家として当然のことだと思います」と判決については妥当だとの認識を示した。
一方で、今回の事件について思うところがあるという。青葉被告は犯行によって、全身の9割超にやけどを負っていた。当初の死亡率は95%超だったというが、医師の治療によって話せるまでに回復した。しかし、犯行の重大さや、治療への労力の大きさから一部で、“どうせ死刑になるのだから治療をする必要はなかったのでは?”と疑問を呈す意見も多かった。
このような意見について堀江氏は「放火で9割以上やけどを負って死にそうになってたみたいですけれども、“どうせ死刑になるんだからそれを治療したのは意味がねえんじゃねえか“みたいなこと言ってる馬鹿がいますけれども」と苦言。
日本は法治国家だとして、「死刑判決が出て、執行されるまではですね、未決なので、最低限の人権、基本的人権というのはありますので、当然、治療を受ける権利があると。これが法治国家というものなので、それを無視した暴論を吐くのはいかがなものかと」と述べた。
2024/1/26(金) 19:08配信 性自身
この、極刑の仕方理由に、意見が述べられていましたが、確かに正論で、民主主義法治国家として、当然な処方です。
その一方、で片やSNS的発言で、そんな悠長な理由なんていらないから、さっさとヤッてしまえという短絡的な匿名いけんです。
よくよく考えてみれば、被害者また死亡者の遺族にしてみれば、とても説得罹患の声、のようですが、もしそれが許されるなら、今やっている戦争行為の殺しても、殺人罪にならない論になって、鬼畜と同じになってしまいます。
では、その軍隊殺人の前の、軍事訓練中に発生した、計画思慮性不備については、何も論じられない。勿論で、その情状酌量な些末部分を逐一吟味していたのでは、戦争行為に至らず、国家は他国の侵略に侵され、主権を失います。ですから、2.26事件とか東京裁判とか、支配占領下のGHQの行った戦略行為が、国際法上瑕疵がないか、という問いは、これから先も問われるでしょうが、敗戦国、という名のもとに日本は傀儡に甘んじている訳です。
堀江氏が指摘した、正当性は、違った意味のアンチテーゼとして、このネット時代SNS区民は、法律を再度確認すべきでしよう。
でも、それはつい最近のことで、古くはキリスト教的異端審問という、一方的な極刑(ギロチン、吊るし首、火炙り刑)が、思想的抹殺の為に僧侶哲学者「ブルーノ」は、火炙り処刑された、と記録に残っています。
「はやくやってしまえ」、というのはその異端審問裁きと、同質で、そこにはエビデンスもなく憎悪憎しみ感情論しかないでしょう。それがある限り、この地球から戦争行為がなくなることは、ないでしょう。
2024年01月27日記事
悲劇 冬の八甲田山行軍
「凍傷で赤く腫れあがり、立ったままの遺体が…」199人が凍えて死んだ“無謀な訓練”…「八甲田山の惨事」で“消された事実”とは
2024/1/24(水) 6:12配信 文春オンライン
〈「殴り合って凍死を防ぐしかなかった」「氷点下41度を観測した日に…」記録的極寒の雪山で210人がさまよい続けた「八甲田山雪中行軍遭難事件」の“顛末”〉 から続く
【画像】寄り添って死んだように見える軽石二等卒と興津大尉の遺体。この写真は、遭難事件における「美談」の筆頭として話題となった
いまから122年前の1902(明治35)年に起きた八甲田山雪中行軍遭難事件。未曽有の荒天の中でいくつも人為的なミスが重なったとされるが、その責任はほとんど追及されないまま、「無謀な行軍」の悲劇は「天災」として片づけられただけでなく、いくつもの「美談」に転化されていった。
訓練に参加した210人中199人が亡くなった「日本山岳史上最悪の遭難」はどのように伝えられたのか。あるいは伝えられなかったのか――。
今回も当時の新聞記事や記録は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中にいまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。部隊名の表記は例えば「歩兵第五聯隊」「三十一聯隊」が当時の正式名称だが、新聞記事の見出し以外「歩兵第五連隊」「三十一連隊」などで統一する。(全3回の3回目/ はじめ から読む)
1902年1月23日に出発した旧軍青森歩兵第五連隊。この年の冬は、北海道から東北にかけて猛烈な寒気団に包まれ、25日は北海道上川で氷点下41度の観測史上国内最低気温を記録した日でもあった。しかし、五連隊の津川連隊長は行軍隊が行程通り進んでいると楽観視。帰還予定の日を過ぎてからようやく救援隊を編成したが、悪天候もあって対応が遅れ、凍りついて直立したままの後藤房之助伍長が発見されたのは27日のことだった。
大規模な捜索により将校、下士官、兵士らが生存あるいは死亡で発見。救助されて病院に収容された17人のうち、5人が凍傷などで死亡し、全治したのは3人だけだった。
210人中199人が死亡した「大惨事の凍死」
訓練に参加した210人中199人が死亡という大惨事に、世論は沸騰した。東京の新聞も1月29日付で東朝や時事新報、都新聞(現東京新聞)などが大きく報じ、黒岩涙香の萬朝報、陸羯南が創刊した新聞の日本なども小さく伝えた。五連隊は岩手と宮城から兵士を徴募しており、参加者210人中、岩手出身は144人。地元紙・巌(岩)手日報も1月30日号外で「嗚呼(ああ)慘事々々大慘事二百餘(余)の凍死」と報じた。新聞報道は当初「一隊の士卒皆凍死」「行軍兵209名の凍死」「140名凍死、他は解散・行方不明」などと混乱したが、その後は連日、行軍隊員が生存あるいは遺体で見つかったというニュースや軍部の対応、侍従武官派遣、犠牲者と遺族関係の情報などを記事化した。「東朝では『全軍凍死』の報が入ると、直ちに(記者の)村井啓太郎と挿し絵画家の河合英忠とを現地に特派した」(『朝日新聞社史 明治編』)。彼らによる「遭難畫(画)報」は2月5日付の「捜索隊の哨所(しょうしょ=歩哨の詰め所)」から連載された。
新聞にほとんど写真のない時代、ほかに時事新報も捜索の状況や遺体搬送などの挿し絵を載せたほか、各紙は山口少佐、神成、倉石両大尉らの似顔絵を競って掲載した。
青森の方に向かい、立ったまま発見された遺体
2月2日付大阪朝日(大朝)は遺体発見の状況を記している。
「岩の上に倒れたのもあり、川の水に足を浸して死んだ者もあり、付近で発見した遺体は7体に及んだ」「死者が履いた(藁)靴のかかとは大いに擦り切れていた。雪中を無我夢中になって歩いた証拠と見るべきだ。遺体の多くは目を開き、生きているよう。外套は凍って板のごとく、履いた藁靴も固まって石のようで、ナタで切り破らなければ取れない。遺体は皆青森の方に向かい、多くはあおむけか立ち往生の姿。帽子は吹雪に吹き飛ばされたらしく、顔は凍傷のため赤く腫れて見るに忍びない」……。
1月30日、時事新報は社説「二百餘(余)名の兵士風雪に斃(たおれ)る」で「不時の天災と諦めざるを得ない」として原因調査と遺族への配慮を要望。都新聞も論説で兵士の犠牲を「戦場の討ち死にと同じ名誉」としつつ、今後の雪中行軍に周到な用意を求めた。河北も31日付でほぼ同趣旨の論説。
一方、2月1日の論説では東京日日(東日=現毎日新聞)が「大慘事」、巌手は「嗚呼斯(こ)の大慘事」の見出しで、いずれも行軍の実施に周到な準備と注意がなされていたかと問い、再発防止を訴えた。
遭難の原因は何だったのか――新聞が指摘した4つの問題
さらに厳しい見方を示したのは萬朝報と日本。萬朝報は2月5日の「言論」で「凍死事件に對(対)する疑問」と題して「空前の大惨事を生じた上官の措置を疑わないわけにはいかない」として行軍の目的地、実施時期などに疑問を提起。
2月8日には「五聯隊の責任」で遭難の原因と思われるポイントを列挙した。筆者は「安藤生」となっており、のちに読売新聞政治部長や衆院議員を務める安藤覚と思われる。
「道案内が必要だ」という忠告を聞かずに…
〈(1)1月24日は青森では「山の神の日」で古来大暴雪が絶えないのを顧みなかった。
2)田茂木野に到着した時、農民が出てきて「とても前進できない」といさめたが、隊長らはこれを叱り飛ばして進んだ。田代までは何カ所も危険な個所があるが、携帯した地図は夏季のものだったうえ、将校、兵士も青森出身者が少なく、青森の雪の経験がなかった。
(3)風雪に遭った時、穴を掘って密集し、携帯の食糧、薪炭を頼りに、静かに風がやみ雪が収まるのを待つべきなのに、慌てふためき、うろたえて風雪をついて連日しきりに彷徨し(さまよい)、ついに道に迷うに至ったのは、ほとんど求めて死を急いだのに等しい。
現に、22日に同時期に切明(現青森県平川市)から十和田、田代を経て青森に到着した弘前第三十一連隊の雪中行軍隊は切明から5人、三本木から7人、道案内を雇い入れたうえ、24日の大風雪の際には雪中に穴を掘って密集し、天候が回復するのを待って無事だったという。五連隊の一部は、沿道の農民らが「道案内が必要だ」と忠告したのに「その方どもは銭が欲しくてそう言うだけだ」と𠮟りつけて取り上げず、雪中密集の方法もとらなかった。これが手落ちでなくて何だ〉
いずれも問題点を突いていると思われる。
地元民は危険を知っていた
既に1月29日付東奥には「村民死を豫(予)期す」という短い記事が見える。「田代方面は冬季は非常に危険な所で、今年のように『厚雪』で『堅雪』にならない時は危険は計り知れないとして、村民は行軍隊が帰ってこないとの知らせを聞いて、一行の凍死を確信していたという」。対して兵士たちはどうだったか――。
2月21日付東奥には、生存者の長谷川(貞三)特務曹長の「(出発前の考えでは)田代というのはわずかに5里(20キロ)ばかりで、湯に入りに行くつもりで、タッタ手ぬぐい1本を持っただけ(のつもり)だった」という談話が載っている。「五聯隊の責任」は特に、小説や映画で五連隊と比較される三十一連隊の行軍成功とその理由を挙げているのが注目される。指摘は続く。〈(4)五連隊の捜索の緩慢さもまたひどい。行軍隊は1泊で24日帰営の予定だったが帰らず、26日、筒井村の村長が連隊長に、村民らが行軍隊が生還しないのではないかと心配していると言って捜索を求めたが、連隊長は「あなた方の関知するところではない」と顧みなかった。
翌27日、青森市の書記がさらに忠告したが、連隊長は「行軍隊は必ず田代に到着している」と回答。書記が「それなら、市が人夫、消防夫を派遣して捜索する」と言って立ち去ると、連隊長もようやく悟ってこの日の夕方、救援隊を派遣した。救援隊の将校はある遺体を発見した際、「死後20時間もたっていない。捜索がもう1日早ければ」と緩慢な捜索に遺憾の意を示した〉
遭難は避けられないものだったのか?
新聞・日本も遭難発覚直後から軍に批判的だった。2月9日から「大惨事と責任」という記事を3回続きで連載。「200の将卒をこのように惨死させたのは、23日から24日にかけての大吹雪と厳寒に相違ない。人力では防げなかった天災に遭遇したためといわれる。しかし、その天候は予想できなかったもので、遭難は人力では避けられないものだったのか」と追及。
萬朝報同様、原因を並べ、最後にこう書いた。「今回、生存は将校が多く、兵士は少ない。それは兵士が自分の身を忘れて死に至るまで将校を保護したためではないか。生存者や遺体の発見の場合にも将校に厚く兵士に薄い感がしないでもない」。
筆者の「三浦生」は自由民権運動家の医師で、夏目漱石の最後の住居「漱石山房」の建築主とされる三浦篤次郎のようだ。主張はもっともだったが、将校と兵の関係は違う形で利用されてしまう。
明治天皇も事態を憂慮
訓練中の大量遭難は当時の軍中央にとっても大きな衝撃だった。しかし、児玉陸相の対応は素早かった。捜査が本格化したばかりの1月31日、善後委員会を設置して対応を協議させる一方、凍死者は全て戦死扱いとし、遭難した場所に官費で埋葬するなどの方針を示した(『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』)。
明治天皇も事態を憂慮。同じ日に侍従武官を青森に派遣して遭難現場の視察や生存者の慰問をさせ、菓子料を下賜(かし)した。以後も天皇・皇后は遺族に祭祀料を下賜。皇后からは手足を切断した生存者に義足、義肢が下賜された。国民の徴兵制への懐疑を防ぐため、早期に問題の鎮静化を図る必要があったとされる。
責任論にフタ、「美談」に転化された
実は当時、軍はもう1つ、頭の痛い問題を抱えていた。「馬蹄銀事件」「分捕事件」と呼ばれ、2年前の1900年に清(中国)で起きた義和団事件の際、第五師団(広島、師団長・山口素臣中将)を中心とする派遣部隊が清の通貨・馬蹄銀を横領したという疑惑が浮上。捜索が行われるなど、新聞紙面を騒がせていた。
捜索が継続中の2月12日には日英同盟成立が報じられる一方、伊藤博文・元首相が進めた日露協商はご破算となり、対ロシア戦争が決定的になっていた。それで打ち出されたのが、遭難の最大の原因は天候悪化だったとして責任論に蓋をする代わりに、遭難劇を「軍国美談」に転化させる戦略だった。
2月7日付東日は「山口少佐の死體(体)」の見出しで「いまは責任を論じて屍に鞭打つの悲惨は忍びない。少佐の遺体はさる3日、火葬を行い、北の果ての一片の煙と化したという。万籟(ばんらい)寂す、責任従って消ゆ」と少佐の責任論を不問とした。
2月14日付東奥は「興津大尉の死状(しにざま)」で次のように書いた。「興津大尉は一兵卒の膝を枕にして死んでいたが、その兵卒は大尉の従卒で、大尉への切なる思いから、死に瀕しながらなお介抱し、ついに共に倒れたと知られる。主従その死を共にす。将校と兵卒の間柄がいかに親密か見るべきで、実に美談として後世に伝えるべきだ」
この「美談」は兵士が誰か、2人の姿勢はどうかなど、情報が錯綜しながらまとめられていく。それらを掲載したのが同年6月1日付からの東奥の「凍難隊美談」だ。
初回は「死に臨んで猶(なお)隊長を省(せい)す(見舞う)」で山口少佐を介抱した一等兵の話。2回目「死して猶上官を庇護す」が興津大尉と元従卒の軽石二等卒のエピソード。2人については救援隊の将校が撮影した写真が新聞などで話題になった。
以後(3)戦友の屍を負うて行く(4)勇躍水に没して血路を開かんとす(5)貴重の器具捨つべきにあらず(6)死して猶その部下を愛す――と計8回連載。
いずれも「忠君愛国」の基盤の上に滅私奉公、上官と部下の相互信頼、戦友間の友情など、軍国主義下の美学を教訓とした内容で、見出しや順番を替えて同年7月刊行の『遭難始末附録』に掲載される。
演劇、映画、軍歌…「雪中行軍神話」として大人気に
そうしたドラマに興行関係者が飛びつく。2月18日付都新聞の「投書一覧」には「八甲田山の慘事」として「俗極まる浅草公園の見世物中、やや学術的に近いものは水族館、電気館、海底旅行、珍世界などなり。また、来たる19日より八甲田山の雪中惨事を小林習古氏の筆にて『ジヲ(オ)ラマ』に表し、広く観覧に供する由(余白拝借生)」という広告が掲載されている。
さらに2月19日付東朝「楽屋すずめ」には、東京・赤坂溜池にあった演伎座で「松永憲太郎一座が例の『雪中行軍』を演じようとて松永は実地視察のため青森へ赴いたという」という記事が。
それどころか、丸山泰明『凍える帝国 八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』によれば、日本橋にあった真砂座では2月4日から「雪中の行軍」三場を上演。電気の作用で吹雪を見せ、雪中の大道具も苦心して造り上げた大仕掛けだった。大入り満員で、台本作者の部屋では行軍凍死者の霊を祭って供物を供えた。劇中では「兵士が服を脱いで隊長に着せる」場面が見せ場で観客に大受けだったという。
巨額の義援金が集まった
『凍える帝国 八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』によれば、遭難事件は「生き人形」や幻灯、講談にも取り上げられたほか、大正時代には歌舞伎出身のスター澤村四郎五郎主演で琵琶を生伴奏にした無声映画も製作された。遭難を題材に落合直文が作詞した軍歌「陸奥の吹雪」がヒットしたほか、詩人大和田建樹ら多くが詩に詠うなどして、事件は悲劇として広く知られるようになった。
小池 新
以下割愛
引用文春オンライン