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神が拠り、そこにヒトが棲む場所

時代が旧くなるほど人の感心事は霊力とか呪術とか超常など、その方向に向いていたようです。なぜかと云ったら、それしか方法論がなかったのでしょう。いまだったら科学的検証、再現性など一定の理論(ギリシア哲学)で、それらを説明して、人はそれである程度納得しています。

中でも、科学著名人といったらニュートンですが、その時代では、まだ物理科学が発展していなくて、そのシャーマン的思考が影響していたようです。ですからニュートンは、物事の事象に、そうしたモノが関与しているとかんがえたのでしょうか、「錬金術」によって「金」が生成できると、思っていた(ニュートンに限らず、錬金術はその時代の最先端テクノロジーだった)。

■サー・アイザック・ニュートン(英: (Sir) Isaac Newton、ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日)は、イングランドの自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者・神学者。

そして最近またまた、それが復古調の兆しがあって、UFOとかピラミッド宇宙人説とか、テレビ(限定でネットSNSはやらない)のようで、やっぱり枯渇ネタの掘り出し作業だと思います。

じゃ私が日頃なに云ってるかといったら、その神だのシャーマンだの、巫女の祈祷だの、訳の判らないこと云ってわけですから、それは、1642年のニュートンと比較して、あんまり変わりない(アインシュタインも同格)と思っているので、どっちかといったら2000~3000年来のシャーマンの比率が強いと、おもったりします。
みなさん、そこいらはどう思っているのでしょうか、カミか科学か、それとも異星人エイリアン切望説なのかね、だれだって不安材料じゃないかと思います。
全知全能は「金」だといってタヌキやらキツネにお願いしてもね、所詮詐欺罪で捉まるのは、テレビでよくやってますが。(昨今多額オレオレ詐欺電話被害が多いので注意)

その先日も書いた左廻りか右廻りかというイザナキイザナミの例ですが、その古事記712年の昔と、2023年のいまと、どう変化したかといったら、むしろ、逆転現象とか、女性優位説などおもったら反転しそうですが、じゃ、地球は太陽に対して左か右か、という哲学なんてないわけですから、一般的に太陽は東から、すなわち地球は、その逆回転している訳で、それは46億年同じという身もフタもないはなしです。

だから神社詣でして、その参拝した年増女性が、境内参拝回転方法が間違った、だからどうしましょう、という質問は、ギリシア哲学より難しい質問です。(そんなこと自分で決めろよ!)

そんなことで、「マルクス」も重要課題ですが、現況経済のメカニズムも、知る必要があるので―別項に書きました。

故事伝承「神洗神社」

「神洗神社」の由来

かみあらい、といっても地元民でさえ知らない人が殆どで、ましてやその場所さえ知らない。それもそうで写真を見る限りでは、古色蒼然とした祠づくりで、それらしいが、40年前に修理してきれいにした。それ以前では朽ち果てて痕跡すらなかったという。

神社本体の格式とか歴史的価値とか、それらは物理的な社家とか境内面積とは本来無関係だが、日本の神社仏閣を見る限り、「広大な敷地と見事な建築様式」とそれが一体化し評価されるようだ。
比較にはならないがエジプト、ピラミットの巨大さは、それだけで崇めたいという気持ちになる。

そうした意味からするとこの「神洗神社」の規模はコンマ数パーセント程度しかならないが、調べれば調べるほどに格式巨大さがわかってくる。如何せん、小ささゆえの存在感が、知名度を低くしている。

この度の、オリンピックサーフィン会場(2020東東京O)としての「釣ヶ崎」志田下ポイントは、そのむかし、「タマヨリ姫」御神体が打ち上げられた浜辺として伝承されている。
古来より神が拠り、そこにヒトが棲むという原始人間の物語が、この場所にはあった。
その話しを、この近代的コンテンツのパソコンで綴るという因果は、日本ならではの手法であり、それができることを誇りにおもう。

伝承説話.1
釣ヶ崎(つるがさき)、その奥に控える「御神体」、すべての神事はここからはじまった。その歴史は「延喜式神名帳」によれば2600年前にさかのぼるという。 

あかる(珠)伝説

古代の人々は海から寄せられた石に霊力を感じ、これを光り輝く神として祀っていました。
九十九里浜地方に見られるこのような寄石伝説が一宮では明(あか)る玉(珠)の伝説として多く伝えられています。
一宮に汐汲みの翁がいて、ある早朝海辺で汐を汲んでいると東風(こち)が吹いて波間に光る12個の明(あか)る玉が現れた翁が持ち帰ると夜になってピカピカ光を放つのであわてて玉前神社の神庫に納めたという。
8月12日の晩に一宮の五兵衛という男に夢のお告げがあり、次の朝弟と海に行くと、東風が吹いて光る錦の袋が流れてきた兄弟はその袋を拾い上げ持ち帰って中を見ると、袋の中に光る珠が入っていたので神社を建て、その珠を納め、風袋(ふうたい)姓を名乗ったというその珠が12個あったともいい、珠を納めた神社が玉前神社であったともいわれている。
玉前神社のご例祭で12社の神輿が釣ヶ崎の海辺に会合するのはこれら12個の珠の説によるものともいわれ、このような12個の珠が2個の説、1顆の説もあります。
※1) 玉の信仰 (玉前神社~ HP )


おおよそ1300年前の、その神話世界が、こんにちまで伝承され、そして継承維持されていることは稀なことだ。

画像その祭りを支える石文に刻印された外氏子の名簿

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上総国の歴史変遷 伝承説話.2

上総権介広常(かずさごんのすけひろつね)自著ブログ~
826年、天長3年に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王(常陸太守)、仲野親王(上総太守)、 葛井親王(上野太守)で、いずれも桓武天皇の皇子である。
※仲野親王(なかのしんのう)は、平安時代初期から前期にかけての皇族。桓武天皇の第十二皇子。宇多天皇の外祖父。官位は二品・大宰帥、贈一品・太政大臣。
上総広常(かずさ ひろつね)は平安時代末期の武将、豪族。上総権介上総常澄の八男(嫡男)。上総介広常 (かずさのすけひろつね)の呼称が広く用いられる。
房総平氏惣領家頭首であり、東国最大の勢力であった広常の加担が源頼朝挙兵の成功を決定付けたとも言われる。上総氏は上総介あるいは上総権介(かずさごんのすけ)として上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた。上総は親王任国であるため、介が実質的な国府の長である。
甲冑 「萌黄縅胴丸」(もえぎおどしどうまる)一宮町指定文化財 有形工芸品かつて上総権介広常が源頼朝の東国泰平を祈願した願文をそえ、玉前神社に甲冑一式を寄進した(戦国末期の戦乱により焼失)故事に因み、天保14年(1843)、一宮藩主加納久徴が寄進したものと伝えられる。
その縁で長い間、甲冑「萌黄縅胴丸」を保管していたのが上総国一宮玉前神社である。
『延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社4座4社の計5座5社が記載されている。
大社1社は、名神大社である。埴生郡玉前神社 (長生郡一宮町一宮) - 名神大社
長柄郡橘神社 (現 橘樹神社、茂原市本納)
海上郡島穴神社 (市原市島野)姉埼神社 (市原市姉崎)
望陀郡飫富神社 (現 飽富神社、袖ケ浦市飯富)
総社・一宮以下総社 戸隠神社 (市原市惣社) - 鎮座地名が「惣社」であることから、総社であったと推定されるが未詳一宮:玉前神社二宮:橘樹神社三宮:三之宮神社このほか、市原市八幡の飯香岡八幡宮が「総社八幡」であった。中世以降、飯香岡八幡宮が総社として機能した。


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