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昔の風(空気の質)は何処にいったか

風に吹かれて2014 風神雷神図屏風(2014/1/1再編集記事)

古来アコースティク楽器は、竹に穴、竿に弦、石盤の短長など、音律が簡単に変調できるような仕掛けです。
だから調弦するとしても、フレット調整だけで音律が整ってしまうという安易さがあります。その反対に簡単に調律が狂うという二律背反の要素をもっている。

実際、その古典楽器を私は使っていますが、そのスタイルは2000年前と殆ど変わっていない、と云えるでしょう。ヘエーと驚いてはいけません。楽器というのは古来のスタイルから変わっているものは殆どないのです。

余談ですが9000年前の笛が中国で発掘されたという話し、信じますか?
随分前の新聞ニュースに載りました。ツルの骨を削って縦笛構造になっており、吹いてみると、いまの音階と殆どかわらない音程で調整されていたと記事にありました。だから音階というのは、普遍的な説得力があるのでしょう。また世界各地の民族音楽は、独自の音階をもっており、その土地に育ったのが古来の伝統音楽なのです。

また構造的に、時代を反映した形の楽器もありますが、もともとは原始系が発展したものです。
あるとすればエレキギターでしょう。それだってギター本体の構造は板または共鳴箱に弦を張ったスタイルだ。そこに電気磁石を利用して音源のボリュームを電気的に増幅して大音響を出せるように工夫した。

それはジャズ界の初期の頃に出回っていたころの、そのギター音楽を聴いたが、ブリキ箱が鳴っているような未完成の音源だった。それから約50年経って、今ではエレキギターなくして音楽は語れない、そこまで到達した。それと同時に優れたギタープレイヤーも出てきた。

洋楽ジャズではなく古典邦楽の話しでした。

正月の街角にバッククグランドで流れる曲は、宮城道雄の「春の海」、と云っておけば大方、納得していただけると思うのですが、昨今の邦楽事情は、だいぶ変わってきて新曲だのオリジナルだの、コラボだのと、この世界もグローバル化していて、いまどき「春の海」ではない。
 
「もがり笛」というのをご存知だろうか。虎落笛、書きますが、どうもこれは当て字らしい。辞書には諸説が載ってますが大筋として竹の柵で出来た垣根、そこに冬の風が当たってヒューヒューと音を出す。これを「もがり笛」と呼んでいるようです。

これも住宅事情の産物で、昭和初期から中ごろの住宅の塀は堅固なコンクリートで出来ていない。竹柵か板塀でした。社会的生活インフラが総てそんなスタイルで作られていた。それを「のんびりしていた時代」と形容してもいいのですが、当時の風潮は、せっせと働いて欧米並みの「豊かな生活」を目標に頑張っていた。
 
そうした時代の隣家と隣家との間には隙間がはっきり見えていた。そこの間仕切りに埋められていた竹柵が奏でる音が「もがり笛」というわけです。いま、その笛を聴くのは皆無に等しい。もちろん、そんな仕掛けをして竹を立てて風を当てれは同じ音は出るでしょう。だけと、そうして鳴った音が、さあこれがもがり笛の音色だ、といったところで意味はない。

その時代の社会的構造を現した、その結果的な音であると定義しておきましょう。
だから、その時代に鳴っていた琴だとか三味線、はたまた尺八は、丁度時代の空気を振動させていた。いまはエレキギターがー5万人の大観衆に向って演奏している、そんな時代です。

その純邦楽和楽器(伝統芸能)にまつわるお話しをしましょう。舞楽放送のガイダンスを張っておきましょう。おそらく、そんな番組があったのか知らなかった、という人のために。

■ホームページ「舞楽」~
番組内容 千年以上前にアジア大陸から伝わり、日本古来の芸能と結びついて発展した舞楽。日本の伝統芸能の原点とも言える風雅な舞を、宮内庁式部職楽部の演奏と舞でお届けする。演目は左方の舞「賀殿破(かてんのは)」。4人の舞人が甲(かぶと)と襲装束(かさねしょうぞく)を身につけ、変化に富んだ優雅な舞を披露する。この「宮内庁楽部」というのは皇居内の建物で、普段の日は立ち入りが禁止されている施設です。

毎年、春と秋に「宮内庁式部職楽部」が、この宮内庁楽部で演奏会を行う。早い話がコンサートを無料で提供している。無料といっても抽選応募式ですから、当たる確立が極端に少ない。しかし一度それを観ると音楽の本質というものを考えさせられる。それほど、視聴覚にアピールする音楽会なのです。

「2013年12月31日2013年を振り返って特に印象に残った出来事2 今頃の音楽東と~西と~」で、西アジアの伝統音楽の話しをしました。

「早朝のNHKで民俗音楽紀行という番組があって、そうした国々の伝統音楽、古典伝承音楽をやっていた。実際、私も日本の伝統音楽をやっているので興味がありそれらを録画して保存してある。そうした音楽を聴いていると、そこから一定の共通事項が読み取れます。まず基本中の基本の音程、それは古来より「ラ」の音程を基準として音階が構成されますが、その「ラ」の音程周波数が430ヘルツで決められていた。それには驚きました。民俗音楽紀行はアジアとアフリカ、その他ヨーロッパの音楽もやってましたが、私の記録したものはアジア・アフリカが多かった。

それらの音楽の基準音が430Hzで作られている。作られる、といっても楽器によっては竹とか木の枝とか、そんな素材で、荒っぽく穴を開けて作るでしょう から音程は多少狂っていて仕方ないでしょうが、そこは楽器ですから、きっちり音程は合っている。そこで不思議と思うのは、その基準としている「ラ」の 430Hzを、どこから測っているのかという問題です。絶対音感という西洋的な考えもありますが彼らは、まったく自然に絶対音感を身に着けている、と思 う。」という話しでした。

そのころすでに古典音楽をやっていましたが、正直なはなし、音楽の基準音という基本を理解していなかった。若い頃は、右に倣って、ギターをやってましたから、コード進行という、曲の仕組みは大まか理解していました。いわゆる変調によって曲が出来ているということです。

したがって、その曲のキー音が決まっていれば、それに絡む音調は自ずと決まり、プログラムすれば機械が勝手に弾くという、はなはだコンピーター好みのジャンルが音楽です。いまでは個人が譜面をパソコンに打ち込んでオリジナル曲を大量生産できる。

それを極大解釈すると天動説・地動説に変換できる。いったん譜面に音を書き込んで一曲出来ると後は、その音符を追うだけの話しです。
そのさい、指で音符を時系列的に追うか、それとも譜面をロール状にして、くるくる回して自分は固定しているか、の違いです。後者の場合はオルゴールがそれに相当しますが、一般的には譜面は回さない。指でなぞるか視野で追うかのどちらかです。それを地動説と置き換えてもいい。

オルゴールは天動説で、音符は自分のために廻って音楽を弾いている。そのとちらも、まったく変わらない物理学的な事象状態ですが、論理的に音符が廻っている(宇宙)のは自分が主体であるからだ、という論理になる。それは電流も同じでマイナスの電子エレクトロンはプラスのプロトン(仮定)に向って進んでいる、と仮定されている。実は、電子の性質そのものがよく解明されていない、という問題を抱えているのですが。

電子の性質・価電子(Valence electron) 

原子が化合物、結晶等になる場合の化学結合は、その原子内の核外電子が深く関わっています。 但し、原子内の各軌道を回る電子で化学結合に深く関わるものと、ほとんど影響しないものがあります。 化学結合に関わる電子は、原子内の最外殻など外側を回っている場合がほとんどで、これらを価電子といいます。
電子がある軌道から別の軌道へ飛び移ること、あるいは価電子帯の頂上から伝導帯の底へ電子が飛び移ることを電子遷移といいます。一般に、物質がエネルギーを吸収(あるいは放出)し、状態が変化することも遷移といます。

1300年前の音楽

雅楽の音階、その複雑さは歴史の中にあり、海外諸国の古代音楽をその当時の日本に導入したときから始まっている。

林邑楽、吐羅楽、呉楽、新羅楽、高麗楽、唐楽などは発祥国がベトナム・インド・朝鮮・中国である。同じ中国でも、当時唐の国と拮抗していた渤海国は渤海沿岸北東文化をもち渤海楽を作り上げている。それらの楽師が日本に渡来し演奏したと古い記録に残っている。

『日本書紀』に記された音楽の渡来楽人として新羅王が楽人80名を遣わしたと記されている。720年より遡って453年のことである。
701年に大宝律令が施行されたことに伴い、音楽も官制下によって整理統合されている。その後にも試行錯誤を繰り返して現在の大別スタイル、唐楽と高麗楽に淘汰された。3000年前の中国、殷から周にかけての時代に一オクダーブを12の音に分け、それに音名を付けたのが12律音階である。円周9分長さ9寸の律管を吹いた音を標準音の黄鐘と決めている。

この時の周波数が幾つであったのか判らない。この時代の黄鐘周波数が437ヘルツ、という科学的裏付けの根拠は何もない。しかしアジアの国々に伝わる民族音楽の基準音周波数をデータで拾って聴き較べると『日本音楽概論』に示すデータの437ヘルツの、上下1から2ヘルツの差しか認められない。人間の聴覚でこの差は無いに等しい。

「今、日本で用いている標準高度は、宮内省の雅楽部で制定して、各音を音叉に作りイギリスの1875年の博覧会に出品したもの」と伊庭は『日本音楽概論』に明記する。
また「音響学者のエリスが振動数を測定して、それによると標準の壹越は292・7で国際高度(A、430HZ)のD、290・33に最も近いのである」、と伊庭は説明している。 

この周波数対比を今の考え方に直すと、エリスの測定したAの数値は435HZで、雅楽の12律の中の黄鐘437HZに対応する。そこで考えられるのは1875年当時の西洋の国際高度Aが435HZであり、雅楽の音調にすると黄鐘の437HZである。このデータは昭和3年現在を基にしたもので、現在の基準音は430HZである。 
アジアの国々に伝わる民族音楽の基準音が437ヘルツを示している、その事実は伊庭孝の執拗な分析と、そして『管絃音儀』に代表される音楽理論に示された概念の「理屈」よりも、人間の原始的感覚に潜む本能が読み取れる。本質を変える必要がない、という伝統を正統的に踏襲する世界、短絡的に言うなら近代社会の資本市場原理に翻弄されている圏外の国々においてのみそれは有効なのである。

ある絶対的な資本的価値観に左右されることなく、日常生活に密着した普遍的価値観に支えられた伝統こそが信頼に足る形を残すのである。伊庭の調査したイギリスの1875年の博覧会に出品した周波数データ、音響学者のエリスが振動数を測定したデータのそれぞれが、現在我々が使用している基準音と乖離していても、アジアの国々に伝わる民族音楽の基準音が、その当時の伊庭の示したデータと一致するという事実を冷静に受け止める必要がある。

雅楽の音律定義は古代中国の五行説と方位によって決められ、中央に壹越、東西南北に盤渉、双調、黄鐘調、平調を配する。伊庭が示す概論の標準高度根拠は、この中央の壹越と考えられるが黄鐘を基準とする考えは古くからあった。

1330年に書かれた『徒然草』に音律の記述があり「天王寺の伶人は律を調べ合わせ音が綺麗だ。これは太子の時代の律をもっているからだ。
いわゆる六時堂の前の鐘である。その音は黄鐘調のもので、この一調子を用いて、いずれの音も整えた。鐘の音は黄鐘調なるべし」、とする。その時代でも天王寺の鐘が日本音階の拠所としていることが判る。
新羅楽・高麗楽の音律は編鐘・編磬の律によって決められ、「黄鐘はわが国の神仙に近く、壹越よりは二律ほど低いのであるが、これは決して壹越調と神仙とが同一物であり、黄鐘と異なるものであるという事ではなく、唐代の正楽の律は、俗楽よりも二律低く、朝鮮には正楽俗楽ともに傳わり、日本には律の高い俗楽のみが傳わったに基因するのである」と、朝鮮系の音律が日本に渡来したときの経緯にも伊庭孝は言及していた。

伊庭孝による『日本音楽概論』という金字塔、それに匹敵また凌駕する著作は以後輩出しないだろう、という思いが私にある。2016年の今の世相を考慮すると、その結論に到達してしまう。また伊庭孝の生きた昭和初期という時代が古典音楽の貴重な残滓が日常生活の中に生きていた時代ということも見逃せない要素である。

そうした時代背景を目敏く察知していた伊庭は、己が感じた音楽に対する気持ちを誠実に述べている。序説で論じている記述には将来を見据えた伊庭の気持ちが伝わってくる。

「日本音楽という言葉は、おそらく今日以後は、新しい意味を帯びて、次第に内容が変じて来るであろう」、と断って西洋と東洋の音楽がクロスオーバーすることを予告する。近年、ごく一部ではあるが現実にそのことが起きつつある。

伊庭孝の言葉にもっとも共鳴したエッセンスがある。 「政治的には明治元年に日本は新たに生まれ変わった。我等の研究する日本音楽は、その維新の前の音楽であり、それに関連する諸相である。
日本の旧い音楽的活動は決して明治以前で終息したのではない。明治改元直後は無論のこと、現代においても猶盛である。しかも西洋音楽と何の関係もなしにである。そうである以上私どもは慶應を以って日本音楽を締切ってしまうことは到底出来ない」。

現代世相に蔓延している盲目的な西洋音楽一辺倒の傾向を、昭和の初期でありながら既に察知したその伊庭孝の信条を、今の時代に同調するものが殆どいない、ということが危機的である。

かつて狛近真がその当時の音楽情況を憂いて著した『教訓抄』と心情心理的に同等である。しかし、その当時と現代社会の置かれている環境が余りにも違い、寛喜三年「寛喜の飢饉」の年、諸国の大飢饉があった二年後の1233年である。そして『日本音楽概論』が発行されたのは1928年だった。 

『日本音楽概論』の緻密なプロットとはまったく無関係に、昭和という時代が日本にとって激動の時代であったことを物語る生き証人として『日本音楽概論』が名著であることにに変りはない。

空理・空論・想像を許さず一々資料の出典を明らかにされた学者的態度と伊庭孝の業績を絶賛したのは文学博士今井通郎である。

当時の日本音楽界が置かれている情況を博士は真摯な視点で分析している。「洋楽作曲家は、ただでは歴史のある伝統をもった欧米作曲家と伍しては行けず、彼等のもたない日本音楽を素材としたもので対しなければ、勝負にならないことを知り、日本音楽を知らなければならない、ということになっており、教育音学界においても、教員養成機関の教育大学、学芸大学は勿論、音楽大学でも日本音楽の教育をうけないで卒業させられ、教壇に立てば、日本音楽の教材のもられた音楽教科書を取扱わされる現代の音楽教育の現状であるから、何としてでも、その教育担当者は日本音楽を知らなければならない境遇に追込まれているのである」、と辛辣な意見で論評している。

その論説は現代社会に向けて発信しているかのようである。博士の抱いた危惧が何も解決されず現代に至ってしまった経緯は、伊庭孝が『日本音楽概論』を著した信条とピッタリ重なると蒼山は感じていた。それは近代歴史に隠された日本文化の過渡期現象でもある。 博士の抱いたその危惧を国内で音楽を職業とする専門家が安閑として見過ごした訳ではない。

「インドネシアの伝統的音楽ガムランには、幾種類かの伝統的な音階がある。ヨーロッパの音楽で育った耳や、日本音楽で育った耳には、はじめて聞くその音階のガムラン音楽は、どの音も全部調子はずれに聞こえる。少し馴れてくると、今度はがぜん魅力的に聞こえ出すだろう。
その魅力のうちの半分は、その不思議な音程、調子外れが魅力だと感じるということになる」。(『現代音楽の冒険』間宮芳生著 岩波新書)  雅楽・能・文楽はかつての都市音楽であると捉え東西問題分類として、比較の難しい古典音楽を判り易く解説している。

そして、現在我々が持っている聴覚的音楽の感性が、いかに偏重しているかを、ヨーロッパ音楽に組み込まれないガムランを引合いに出して、その違いを間宮氏は証明してみせた。
今日、日本に限らず西洋思想傾向が益々求められ人々はそれに順応することに疑問を差し挟む余地はない。それが正しいとか間違いだとか一極傾向による危惧だとか、そうした論理を抜きにして現実は西洋思想傾向に向かっている。

その情況下、日本では表層的な部分では一過性的現象である髪の毛を疑似西洋色に染め、その意識内部も西洋思想の延長である。そこで彼らは西洋人に成り切ったのかと問えば、ギリシア神話の枝葉末節をアニメ的に捉えることはしても、エーゲ海クレタ島ミノア文明に存在したクノッソスの歴史は知らない。翻って狛近真の著書である『教訓抄』のことに及んではまったく知識を持たない。

それもまた国民的伝統なのかもしれない。何時からどんな理由で何が変化したのか、という問いに日本人的な情緒表現で応える。私自身もまた日本人の衣を脱ぎ捨てることができない。斉藤広成が綴った「これだけは言い遺こしておかなければ死ねない」、 けだし明言である。 

画像検索グーグル(東京国立博物館)


風神雷神図

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