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社会「俯瞰図」(テレビ非演出論)

゛切腹゛「引退勧告」、が炎上する異常さの日本社会を論破する

そして社会は「何を」見たり、読んだりしているか?

゛切腹゛「引退勧告」、が炎上する異常さの日本社会を論破する、そんなテーゼで、いま最も相応しいのが成田氏の゛切腹゛「引退勧告」だったので、そんな見出しにしてみた。

たぶん、それだけでPVが取れる(成田悠輔)ネム―バリューであるし、当の本人は、「そんなもん夏に飛んでくる蚊みたいなもので」、冬になったらいなくなるし、もともとバカ相手にしたところで何の生産性も生まないと、至って辛辣発言でそれらを論破した。

さらに云えばれ「テレビメディア」(成田をテレビに出すな意見)を見いてる人にとって、成田はそんなカテゴリーで括られていることを、教えてくれて感謝しているという、パラドックスで還す言葉は、さすがに成田流じゃありませんか。



それで、日本が、そんなことしている間には、アメリカ最大のガーファ集団が、大量解雇1万人程度の削減していて、その訳が何かまったく判らないという原因で、そんなのを探ってくれませんかと云いたいのですが。

それら関連した記事を昨日、書きましたが、その一つに「ChatGPTの衝撃」があって、その日に書いた記事のPVが即座に10カウントという最速記録でした。
そして、今朝になってみると同類記事が、あちこちに出回っていて、さすがにAIリテラシーに関心が集まっていることが、それで判ります。

さらにです、当事者「ChatGPT」Japanのサイトより、直接、スキをいただいたものですから、こちらが驚いてしまいました。

それと、もう一つは日本の年中行事の一つとなった「芥川直木賞」発表の顛末を書きましたが、こちらは、AI記事の半分以下、と云うことで、社会がなにを知りたいか、というのを如実に語っていると判断されました。

そのいわゆる作家(書籍)というクリエイターのスタンス、さらに活字媒体という、旧来メディアに対する、社会評価またその価値とか、新聞読むのにタブロイドサイズなんて、今どき死語だぜ、とその動態表現でさえ、通じなくなってしまった、この社会リテラシーは、何が問題なのかという、テーゼさえも不問、じゃないかとおもってしまうのです。

だから成田氏のように「バカ」騒ぎに賛同しないし、冬にいない蚊(いや、今どき過暖房で冬も刺してくるバカ蚊)だったり、一概には、云いきれないのがあって、だからそれは「相対的」であると判断したアインシュタインは、やはり逸材の天才なんですね。

数日前、ゴースト・ブラック・ライターについて、書きましたが、いま製本とか書籍出版とか、完全システム化されていて、へんな話し、直接原稿書きしなくても本ができる、という出版業界という現実が、そこにあるんですね。
そんなことは薄々、感じてはいましたが当の本人(出版社がいう訳ない)は、しらん振りして「期待の新人ついに出来」、とか帯が躍りますが、売ってしまえば儲けになるし、社は安泰という訳です。



0121童図



「かやかや馬」の夢

ロッピーMS-DOS変換第二弾

「童歌・かやかや馬」 千葉県長南町芝原に古くより伝承される「カヤカヤ馬」と「おひな様よ」という童歌。 


「画像 千葉県の七夕馬」


「画像 千葉県の七夕馬」 http://www.chiba-muse.or.jp/MURA/kikaku/tanabatauma/kujukuri.htm

西洋化してしまった現代社会の日常生活リズムに童歌が同調しない、また必要とされない、社会がそれを要請しないという人々の思想観が根底にある。

森のたった一本の樹を蟻が時間をかけて食いつぶし、やがて百年たつと森全体の樹々を食いつぶしてしまう、そのことが恐怖である。それが伝承の一つ童歌を駆逐することである。童歌はまさに陽炎でありやがてこの地球上から消える、そのことを予感させた。 
童歌の「童」は子供である、という一般的解釈を一寸掘り下げてみると、そこには想像もしない字面の意味がある。ワラベは単に子供という意味に限定されない深淵な意味が込められていた。

漢字の歴史を遡れば篆書の篆、印篆、金文であり隷書で、さらに甲骨文字に及ぶ。二千数百年の歴史の時間を使って作られた漢字だが、その間の経緯は省略されて現代社会でも現役で使われている。したがって漢字の語源的意味がもともと何を基にして作られたか、という起源の根本が今日では稀薄なのである。

「童」という字の意味が目に針を刺して盲目にした男の奴隷とした、と解いたら、その説を信用する人が幾人いるだろうか。それほど残忍な表現を持っているのが童である。当然のこととして、この場合の童に子どもの意味はない。

古代中国の殷帝国が強大な力を誇った理由の一つとして残忍残虐行為を盾に勢力拡大を図ったと伝えられるが、もしそれが事実なら目に針を刺して盲目にした男の奴隷、とした理由は充分考えられる説であり漢字の起源と古代「殷」の辻褄が一致する。殷帝国は甲骨文字の歴史と重なる理由がそこにあるのかも知れない。

勿論、現代でいう童の意味は子供や未成年という意味が筆頭に上げられるが、その他の意味では、角の生えない牛・羊、山の草木がなくなる、頭髪がなくなる、禿げる、愚か、しもべ、召使など、およそ現代の子供のイメージとは程遠いものばかりだ。童という字の組合わせが辛と目と重、の省略形から成り立っていて辛は針の意味があり、その昔、子供らがその様に扱われていたと考えられるなら、その昔の生活習慣的思想と今で考える字の意味が、およそかけ離れたものになってしまっている。
その童に歌を付加えた童歌とは、とんでもない含蓄のある歴史的な物語が展開されている。

源氏物語研究や「古事記伝」を著した江戸中期の国学者で本居宣長による古代史研究成果は現代でも必需文献である。日本古来からの古代歌謡として童謡がある。

「神が人の口をかりてうたわせた歌が童謡」と評したのが本居宣長である。本居宣長が指摘する童謡と童歌は異質な概念で出来ており近代でいう童歌では違った発展の歴史があってそれと区別する。また中国での童謡は社会的事件を予言もしくは批評した歌の意味が含まれる。
他では作者不明のはやり歌として流布されるのが一般的である。さらには謡歌という同様な言葉もある。意味する内容もほぼ同類で流行歌、ひなうた、悪口などと解している。

童謡は一般的解釈では「子供の遊びで自然発生的に生まれ伝えられたものや、子供の遊び歌としての既成曲の全体を総称する」というのが童歌の定義とされている。童歌の旋律は二拍子型が基本で、ラ・ド・レ(ミ)のような伝統的な民謡音階の音楽語法を用いる歌が童歌の主流とされている、とは百科事典の解説だ。
自然発生的とは甚だ曖昧な言葉でとらえどころがない。そんな抽象表現をするくらいだから童謡が余程漠然とした歴史伝承なのだろう。
自然に発生する歌、また生まれるとは具体的にどんな様を言うのだろうか。生物の異常発生ではないのだから自然に歌が発生するわけはなく、ましてや子供たちの間から独創的な歌謡が生まれるとは考えにくい。

そこには動機があり仕掛人が存在したはずである。童歌の種類を歴史年代的に上げれば、手鞠唄・子守唄・天気気象唄・動植物唄・歳時唄・遊戯唄などがあり、時代を下っておはじき・石蹴り・お手玉・羽つき・縄跳び・じゃんけん・鬼あそび、など道具を使った唄が昭和の初めまで生きていて記憶に新しい。童歌のルーツは手鞠唄にあるらしく『日本書記』に蹴鞠の記述があり、また江戸時代の『守貞漫稿』に手鞠の記述が認められるが、文献が証明することと変遷する伝承形態が合うことはごく稀なことで、それは必ずしも一致しない。江戸から明治にかけて生まれた歌も多く、当時大人の歌であったものが童歌に昇華されて残りそして歌われたものもあると童歌の資料は語っているが、そのような諸説を羅列していては童歌の本筋が皆目みえてこない。やはり童という字の原義に戻って考える必要があった。

辛は一と熙(つみ)の合字で罪人の意味がある。その罪人にイレズミする針にかたどった象形文字である、という有力な説がある。そして童という字の組合せが辛と目と重の省略形から出来ている。童の字意は角の生えない牛・羊、山の草木がなくなる頭髪がなくなる、禿げる、愚か、しもべ、召使など、それらは子供を意味しない。どちらかといえば囚われの身であり殷代に発生したであろう童の原字の意味をうかがい知ることができる。また中国での童謡は社会的事件を予言もしくは批評した歌にある。また「神が人の口をかりてうたわせた歌」を考慮すると古代呪術の思想観が顔を覗かせる。

社会的事件を批評した歌とは趣を異にするが古来より日本では換え歌として今様があった。今様の一例として中世の歌舞と見られる白拍子は雅楽の拍子とも伝えられ、その拍子に合せて舞う遊女による男舞が今様を歌う、とした歴史上の説も存在する。

ふるい童歌の解釈を参考にすると日本の中世今様の換歌的歌謡、また中国の童謡などにみる歴史的思想観がうかがえる。

中国には故郷を思う郷愁歌の漢詩が歴史に記されている。七・八世紀の中国には漢詩という優れた詩が多く残されているが、その内容は徴兵で外地に赴いた戦士、また戦禍に巻き込まれ失意のうちに自由を奪われ疲弊した民など、彼ら望郷の念が漢詩に託されている。その代表例が杜甫の『春望』である。

「国破山河在」、国破れて山河あり、の書き出しはつとに有名である。民の心は戦で荒れ果てたが故郷の山河は昔のままで何も変わらない。戦は止まず家族からの便りは万金の価値があると「杜甫」は認めた。軟禁中であった杜甫四十六歳の作とされ、それは七五七年のことである。仕官の職にあった杜甫は反乱や左遷を経験したのち仕官の職を捨て家族とともに流浪の生活を余儀なくされる。時世を憂える社会派的な詩を多く残し、社会詩人の名を与えられ人物と評されている。

その時代の日本国内では752年に「東大寺大仏開眼法会」が営まれている。その時の音楽が唐楽、渤海楽、呉楽などの外来音楽である。日本的な雅楽のスタイルがこれから確立するという黎明期であり唐楽、渤海楽、呉楽などの渡来系の音楽が演奏された時期である。
聖武天皇(45代・724~729年)時代ではベトナムの林邑僧・仏哲、インドの天竺僧・波羅門が渡来している。
七三六年彼等によるベトナムとインドの楽舞が伝えたられた。740年には渤海楽が天皇の前で初めて演奏されている。渤海国は音楽の盛んな国で、その頃日本は渤海国との交流が盛んであったらしく日本から渤海遣使を送るなど、お互い国の使者が頻繁に往来していた。

その時代の日本の政治動向と、反乱や左遷を経験して仕官の職を捨て家族とともに流浪生活を強いられた杜甫と年代的には同時間の線上にある。

春望、「国破れて山河あり」、は民の心を歌い荒れ果てた人の心を癒すのは故郷の山河であり、戦は止まず家族からの便りは万金の価値があると詠んだ杜甫。詩人であった杜甫は民の心情を汲み取りそれを漢詩に託した代弁者であるにちがいない。

社会的事件を予言、もしくは批評した歌の中に童謡がある。また中国の詩歌は時の政治を痛烈に批判した詩でその歴史はかなり古い。中国最古の詩集である『詩経』は各地の歌謡を集めた民謡とされ、民の声は天の声である、として政治的色彩の強い中国文学の伝統が生まれる。

周時代の文化を代表する『詩経』は時代を下り、漢の武帝のとき儒教とともに国教と定められ経書の一つとして特別の尊敬が払われ、その解釈にも政治的、道徳的色合いが付加された。その詩は民衆の喜び悲しみを土台として現実的色彩が強い詩となった。

奈良平安時代に興った日本の漢文学は、遣唐使の派遣で日本と唐の国の交易が隆盛した時期と重なりその影響を強く受けていた。時代が過ぎて本居宣長が評した童謡、「神が人の口をかりてうたわせた歌が童謡」、その本質が中国にあり、王者が各地の歌謡三千余編を収集し国風民謡が基になっている詩経に辿り着く。

本居宣長が指摘する童謡と童歌は異質な概念で出来ていると分析した理由がそこで判る。中国における童謡は社会的事件の予言、批評歌、風刺など盛り込んだのが童謡で、そこから体制批判的な意味の文言を散漫にすると古代日本の流行歌であった今様に変化する。

その時代の日本では一体どのような生活習慣が営まれていたのか。八世紀、世界の大国として賑わいをみせていた中国唐の国と、その先進叡智を学ぼうとしていた日本国との差は歴然としていた。

聖徳太子が601年に天皇系譜の初代を神武天皇とした皇紀、その起点を定める時に参考としたのが中国の先進思想である。さらに年代を遡れば海を隔てた国々との交流があったことを示す伝記が今に伝えられ、古代文献の記述と現代考古学の発掘調査で、それらの史実が合致することも明らかになっている。

雄略天皇(21代)時代、『日本書紀』に記載されている渡来系氏族を飛鳥に住まわせた東漢氏の本拠地、今の奈良県高取町にある清水谷遺跡である。そこから五世紀後半の渡来系氏族の集落跡が確認されている。歴史の事実をその遺跡が証明したのである。また453年に允恭天皇(19代)の崩御を悼み新羅王が楽人80名を遣わしたと記された『日本書紀』の記述は何れも年代的に一致している。

中国大陸唐時代では異国色が漂っていた。雅楽より以前にあった伎楽の舞には酔胡、崑崙、波羅門、迦楼羅など西域や南方を指す楽舞がある。
中央アジアのサマルカンドを中心としたソグト人、とくに西方を意味する「胡」はペルシアに通じシルクロードとしても重要ルートでサマルカンドはその中継地であった。彼らペルシア人を胡人と称していたが商業人としてペルシア人やソグト人が唐代の港湾都市に定住していた。新羅人もいて中国沿岸に居住していた。

そのような東アジアの活発な交易は古くより中国朝鮮の民が日本との関係を緊密に持ち、そして居住していた歴史の史実を克明に残している。様々な理由によって生れ故郷を離れた彼らは、いわゆる外来の民でありそこに故郷を想う気持ちが湧く、と想うのは穿った想像だろうか。五世紀後半、渡来系氏族を飛鳥に住まわせた東漢氏がどの様な経緯で日本に滞在するようになったのか詳細を知る手掛かりはないが、戦禍を逃れ国を捨てた民は現代社会でも同じである。少数民族というだけでいわれなき迫害を受けるのは常に一般市民である。

千葉県長南町芝原に古くより伝承されていた「カヤカヤ馬」「おひな様よ」という童歌は極めて単純に出来ており、いかにも古い時代の作を予感させる。独特の旋律は単純でありながら心の奥底にある琴線に同調する。
表層ではなく肌の孔に染みるような振動をもっている。「カヤカヤ馬」はラドレの三音しか使っていない。そうした旋律は古来より培われていた人間の持つ音楽遺伝子を振動させる力があった。神の憑依した人の歌が童謡、国風民謡、故郷の山河や緑繁る野山を想う人の心など、童歌の源流を形成したそれらのエキスを総合的に判断しても「カヤカヤ馬」が生まれた時代と篳篥や笛など楽器の構造的音階が年代的に同時代にあった、と思うのは不思議ではない。

各地の歌謡を集めた民謡の『詩経』は中国最古の詩集である。時代を下って周代になると『詩経』は漢の武帝のとき国教の一つとして経書があり、それは特別の尊敬が払われ政治的道徳的色合いが付加された。
その詩は民衆の喜び悲しみを土台として現実的色彩が強い詩であった。杜甫による春望はそうした古代中国文学の歴史を背景に醸成した。遣唐使の派遣で日本と唐の国の交易が活発になると、奈良平安時代に始まる日本の漢文学は、その影響を強く受けて成熟する。

明治21年生れの国文学者折口信夫が日本文化の源流である平安時代の声楽歌謡について講釈している。『日本藝能史六講』、その中で『蹈歌』について折口は次のように指摘する。

平安時代宮中で行われた舞踏としての蹈歌。年の始めに歌に巧みな男女を召喚して祝詞を歌い舞わせたもの、として宮中の平安雅を彩る「蹈歌」が親しまれ、中国、朝鮮、西域など渡来音楽としての色合の強い音楽は貴族、とくに上流の貴族の仲間から伝統が伝わって、さらに伝統が幾つもの階級をとび越えて最下級層に直接に下りて行った。たとえば寺や社に附属している奴隷たち賤民階級の仲間に伝播して行った。高い所にあった例えば貴族間にあった芸能文化であっても、大衆を引き付けるものとして初めて世の中に認められ大衆芸能の歌謡が生まれる、と折口は注釈した。

蹈歌は足を踏みならして拍子を取り歌い舞う集団的な舞踊である。もと隋唐の民間行事で正月15・16・17日の夜に行われた。平安時代、宮中で行われた舞踏。年始に京中の歌に巧みな男女を召して新年の祝詞を歌い舞わせたものが蹈歌と呼ばれる。
「男踏歌」を陰暦の正月14日または15日に、「女踏歌」を16日に行った。その歌曲、最初は唐詩が用いられていたが後には「万春楽」などの催馬楽の曲も用いられる。一曲の終わりに「万年阿良礼」とくり返して退場したので別の称、「阿良礼走」ともいう。「蹈歌の節会」は天皇が紫宸殿で蹈歌を御覧になってから五位以上の群臣を召して宴を賜った宮中の年中行事である。その原義を辿れば踴躍運動で道の上を踏んで踊る。踴躍してその力で精霊を地の中に圧服して置くという意味をもった、一種の呪術性を伴った意味の深い踊りが原始にあるとは折口は解説している。

歌謡というものが発達する機会は色々ありましょうが、或点  まで歌謡が社会に遍満して来たその時代にどういう形が行われて、それで後の歌の理想的な時代が出て来るのだというと、まず普通申されますと歌垣というものがありました。これは男と女が両側に分れて歌のかけ合いをする、つまり或一首の歌を一方で謡いかけると、他方が半分を謡いかえすということですが、また別々になってかけ合いをすることもあったようです。

聖武天皇(724年)の御代に、都の宮城の正門雀朱門の外で行われておった群衆舞踊は蹈歌と記し、次代の孝謙天皇の御代に河内の弓削の宮で行われた時は歌垣と書いております。

つまり在来の歌垣が支那の蹈歌の様子をとり入れ、或はとり入れなくともすこぶる蹈歌の色彩を有って来た時代でありましょうから言い方によっては蹈歌とも歌垣とも言えたのだろうと思います。この歌垣と蹈歌とは殆ど同じものなので、名前だけが違っているものであるということです。だから宮廷の記録を掌った人が、或場合には蹈歌と書き、或場合には歌垣と書いたのでしょう。
当時、行はれた蹈歌は、何処から出て宮廷に練って参るという形で、これは日本の蹈歌の為方であったのです。昔から行われていた伝統の民謡から、漢文の詩に近いもの、その譜を謡うものが多くなって来るのです。それだから蹈歌の章曲は唐楽の調子で謡われたものらしいのです。
支那では正月15日上元の日夜を期して道の上を踏んで踊る訳であるから、これは一つの踴躍運動です。踴躍してその力で精霊をば地の中に圧服して置くという意味をもった、一種の呪術の意味の深い踊で  す。

(『日本藝能史六講』折口信夫 講談社学術文庫)

日本の漢文学が遣唐使の派遣で日本と唐の国の交易が隆盛した時期と重なりその影響を強く受けた。和漢朗詠集、新撰朗詠集など日本の声楽で唐楽調に謡うものがある。折口は国文学者であるから日本の古代について研究し、古代藝能は『祭り』から起こっていると言い切る。また氏の一貫した哲学のように思われた。

神様が居ないと『まつり』にはならない。ところが高等教育を受けた者にとっては神様を必要としない『まつり』を感じている。
一般民の間、えてして教育のない者の間では『まつり』は神様がそこに居ると信じている。簡単に言えば教養人は空っぽの『まつり』を祭りと捉える。此はよくない、と折口は批判的意見を述べる。しかし客観論も周到に用意していて、文字を解剖して藝能だということは、いくら考へてもよくないことです、と折口は諭している。

祭りの形自身も世の中が進むと共に変って来たのです。かの『まつり』に遠い所から神様が出てお出でになる。更にいへば、ある晩を期し、何時も必ず、ある大きな家へ遠来の神が、姿を表される、といふことになりますが、其際、沢山の伴神を連れての来臨の場合が多いのです。と、折口信夫はいう。それは、その時代の日本人的思想観を反映し、さらに現代日本人が忘れてしまった敬いの気持をよく表現しているように思える。

時代が過ぎて本居宣長が評した童謡、「神が人の口をかりてうたわせた歌が童謡」、その本質が中国にあり王者が各地の歌謡三千余編を収集し国風民謡が基になっている詩経に辿り着く。ワラベ歌の故郷は何処か、また故郷を思う歌謡が童歌なのか。 

日本文化の源を探れば古代に栄華を誇った海の向こう「殷」にたどり着く。そのユーラシア大陸には古代交易のシルクロードが幾通りのルートで西につながっている。

神が人の口をかりてうたわせた歌が童謡、と本居宣長がいう。古代藝能は「祭り」から起こっている。そこには沢山の伴神を連れての来臨の場合が多いと語り、「踴躍してその力で精霊をば地の中に圧服して置くという意味をもった一種の呪術の意味の深い踊」であると古い日本の儀礼形態を分析した折口信夫。

古代に生きた人間のいとなみを覗いてみれば呪術的祈りがあり、そこに舞踏が生まれる。かつてこの世の楽園を映し出していたエーゲ海クレタ島、クノッソス宮殿跡はミノア文明の幻影を今に伝える。青々とした緑の樹々がエーゲ海の潮の匂いとともに生い繁り人々は豊かな秋の収穫を神に感謝し祈りを捧げた。
そこには蛇に象徴される呪術の痕跡が認められる。遠く離れた東の国、古代中国の殷では蛇を表す文字の基がタタリの意味として甲骨文字に記されていた。かつてクレタ島に古代文明が存在しヨーロッパ世界に多大な影響と恩恵を残して消滅したクノッソスの幻影。古代東の国「殷」も、いま、という時間の痕跡を残して消え去った。

パソコンに打ち込まれた童歌の旋律と詞が二千年経過して、それが発見されることがあってもまったく意味不明の文字と記号が並んでいる、と未来の人は思うだろう。我々が二千年前の古代文字や絵文字をいま理解できない。 

それはいま必要なことなのか、人が生きていくために大切なことなのか、忘れ去ってしまったモノを捜し出す時間が、この忙しい今の世にあるのだろうか。 

参考文献(『日本藝能史六講』折口信夫 講談社学術文庫)


続き.2


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