好奇心旺盛の弊害
私はたぶん、世間一般の、ふつうのひとよりは好奇心旺盛なタイプだ。
好奇心のまま、心の思うままに行動しようとすると、自分一人では好奇心を満たせないことがある。
自分で調べて、調べて尽くしてもわからないことは当然ある。
基本調べるのって、ネットで、図書館で、書籍で、現地へ足へ運んで。
必要とあらば博物館、美術館、文書館、動物園でも。
家に引きこもって全て知る事ができるとは思っていない。
場合によっては、人に教えを乞うこともある。
知的好奇心を満たすには、必然的に人と接することになるのだ。
私自身、人付き合いはそこまで上手でもないが、いわゆる「コミュ障」と呼ばれる人たちほど人と接することを苦手とするわけでもない。
話すのは好きだし、話を聴くのは好きだ。
上手かどうかは別にして。
人の話を聴くにしても、もちろん私の興味関心の範囲で、という感じであるので、当然のごとく聴くに堪えない話も存在する。
でも、その話聞きたくないと、耳をふさぎたくなるものってあんまりない。
悲しい話とか、辛い話は、私の心の余裕があるときにしてほしいとは思うけれども。
「知りたい」という知的好奇心は飽くなきものだ。
何がどの物事に結び付くかわからない。
そう私は信じているので、聞かなくてもいい話などないと考えるのだ。
ちょっと話が関係ないように見えるかもしれないが。
私の友人で長く付き合いのある子は、比較的警戒心が強い子たちだ。
彼女たちはとても魅力的で、私よりも数段頭のいい子が多い。
学歴がある、という意味で頭がいいというよりは、地頭がいい。
賢くて、洞察力の鋭い、頭の回転がはやい人が多いのだ。
警戒心の強い人たちは仲良くなるのに時間を要する。
彼らは、警戒心を露わにすることで、まず自分の敷地に入ってこようとする人かどうかを見極める。
彼らが警戒を強めた時点で去っていく人間は、自分にとって害あるものだとみなすらしい。
……警戒心がないと彼らによく呆れられている私からすると、その時点で「はてな?」ってなる。
好奇心でいろいろなことを取り込もうとすると、警戒心ってすごく邪魔なのだ。
だって、つまり、危険なものを排除するってことだから、好奇心の赴くままに見知らぬものや人と出会おうとすると、<危険ですから入ってはいけません>って柵や塀を飛び越えなきゃいけない。
警戒していたら、好奇心を抱いたものへ触れることができない。
それって、自分の好奇心を殺すことだ。
いやもちろん、私だって死にたくはないから、「あ、これは命の危険にかかわりそうだな」と感じる生命の危機には警戒する。さすがに。
命がなきゃ好奇心も持ちようがない。
とはいえ、日頃から自分という人間の敷地の周りを、塀や柵、果ては鉄壁の要塞では?と思うレベルで警戒している彼らからすると、私の警戒心なんてものはぺらっぺらな紙ですらなく、塀も柵もなんにもない野っぱらを開放しているようにしか見えないらしい。野外でよく寝れるね?とか、放牧でもしてんの?みたいな感じだとか。
そのせいかは知らないが、「あんた、今までそれでよく死なずにすんだね?」とか「よくぞ犯罪に巻き込まれずに生きてこれたね?」ってしょっちゅう言われる。心外である。
ただ、彼らの話をずっと聞いていると、だんだん私も「確かに運がよかった……かも?」くらいには思うのだが、所詮はその程度。
好奇心の前に、警戒心など無用の長物である。
とはいえ、好奇心は猫をも殺す、ということわざもあるそうなので。
彼らのありがたい忠告に従って、少しばかり警戒心を強めようと思ってはいるのだ。
さして頭がよくもないのに知的好奇心のままに動くと、自分で集めた情報量に押しつぶされることがある。
「情報はなんでもかんでも集めればいいってもんじゃない! 纏められもしないのに集めすぎんな!! 自分のキャパ考えろや!」って学生時代にめちゃくちゃ助けてくれた友人の言葉が思い出される……彼は元気にしているだろうか。
……もしや今まで心傷つくことはあっても、怪我なく無事に生きてこられたの、この友人たちのおかげなのでは?
ここまで書いてみて気づく。
知的好奇心はほどほどに、あくまでも自分の能力に応じて使うのがきっと正しいのだろうな。友人たちはきっとそうしている。
とはいえ、私は好奇心を殺すことなく思うが儘に、警戒心の強い友人たちに助けられながら生きている。
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