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アルプススタンド

今年も高校野球夏の甲子園大会が終わった。
毎年夏になると地方の予選大会に足を運んだ。
年々暑く、観る方も大変だ。
しかし、どうしても見ない訳には行かない。
夏の白球に誘われる
まるで甘い嗜好品だ。

高校野球をしていた時代があった。
毎日遅くまで泥まみれになりながら野球をした。
電車で通学をしていて、野球が終わると毎日終電に乗る。
帰りは練習場から駅まで自転車で猛ダッシュ。
電車組には極なタイムスケジュールだった。

学校生活にも慣れ何週間か経つと、同じ電車で帰る先輩と一緒に終電に乗る習慣がついた。

時間ギリギリまで練習をしていた。
終電に乗り遅れると親に車で迎えにきてもらうことになるのだが、そうなると家に帰るのが更に1時間以上遅く帰ることになる。
僕らは毎日が必死だった。

そんな毎日が続き
僕は段々と本音が出るようになる。
「皆んなはいいよな。練習が終わった後に綺麗にグローブを磨いたりスパイク汚れを落としたり。ゆっくり友達と会話したり、筋肉トレーニングしたりできる。僕にはそんな時間もない。」

部活が終わってから、わざとゆっくり着替えて、ゆっくり自転車をこぎ、自販機に寄ったりして終電に乗らない日も多くなった。
一緒に帰る先輩もそんな僕に愛想が尽き、気がつけばひとりで帰るようになった。
僕は”何か”に反抗するように終電を逃した。故意にだ。
先輩が嫌だから、学校が嫌いだ、とか‥そのへんの理由では決してない。
毎日を”急ぐ”のに疲れたのだ。
時間は僕に合わせてくれない。
なら僕は僕のペースで”時間”に合わせる。
犠牲になったのは親と仲の良かった先輩だ。

僕が”合わせた”時間は僕に有意義な”時間”をくれた。
犠牲にした人達と代わりに僕は”グローブを綺麗にする時間”と”友達と部活終わりに語り合う何気ない時間”を手に入れた。
そこで意外にも知った事がある。
僕が急いで家に帰った時間と、皆が過ごすこうした時間の到着点は実は一緒の時間だった。

家が遠いものにはそれなりのリスクがある。
近いものには近いなりの理由があった。

寮に帰る人は晩御飯を食べて、そこから練習着や制服、私服を洗濯する。それも順番待ちがある。

僕はまた先輩と一緒に終電に乗るようになった。
時間はやはり皆んなに平等に与えられ同じ間隔を一定に刻む。
僕はこうして、”時間に追われる”のではなく、”同じ時間の中で過ごす”事を知った。
先輩はこんな僕を「いいよ」と心良く受け入れてくれた。人の温かみを感じた。
それから3年間弱、部活終わりに終電目指し、与えられた時間の中で野球生活は終わった。

毎年野球青年の熱気に包まれるこの舞台にいると、あの当時の思い出が必ずよみがえる。
白球を追いかける青年をみると、先輩の自転車を漕ぐ背中だけがはっきりと思い出せた。
「(もう少し先輩と話がしたかったな)」
そう思い返して少し後悔する。いつものパターンだ。

予定があえば今でも母校の応援にかけつける。
あの時と同じユニホーム。
僕と同じ背番号。
そして、必ず”する事”がある。
勝てば校歌を歌う。その時は僕もあの頃に戻る時だ。人目を気にせずに大声で歌う。歌詞は大会パンフレットを見ながら。音程は外さない。
目をつむり、ああ僕はあの頃にいる。
今年は一回だけあの頃に戻れた。
来年は大丈夫か?せめて一回だけは歌わせてくれよな。
そう願い今年の”僕の”、夏の高校野球選手権大会は幕をとじた。

応援スタンドは埋まる事はない。
もっと僕のようなあの頃の選手達が集まればいいのに。と思う。
あの高校生活があったから社会に出ても、僕はどんなにしんどくても耐えられた。
時間を大事にする事も。
親への感謝へも忘れる事はない。

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