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快適なおうち 1

 カツッ、カツッと硬いものが夜気を吸い込んだコンクリートを容赦なく打ちつける。
 その音は敵意に満ちていて、もしそれがパンプスのヒールではなく鋭いアイスピックで、コンクリートが氷塊であったなら、瞬く間に砕け散っていたに違いない。
 マナベミユは自室があるマンションに辿りつく。オートロックのはずなのに、なぜかいつも鍵の掛かっていないガラスの玄関扉を思い切り手前に引っ張って中に入る。マンションの玄関に設置されたゴミ箱には、住民のポストに投函され捨てられたリサイクルショップのチラシや、「コンピュータ審査なし! すぐ貸せます」という文言と携帯電話の番号のみが記されたサラ金のチラシなどが乱雑に積み上げられ、その一部は床にばら撒かれたように落ちている。
 チラシを踏みつけて、階段を昇る。ヒールの音がカツッ、カツッと響く。このマンションにはエレベーターがない。三階の部屋だから支障はないと思ってここを借りたが、電灯が消えかけた薄暗いこの階段を昇るたび、いつも惨めな気持ちになってしまうのだった。マナベミユは三階まで昇り終えると、息を切らしながら自室の前に進んで鍵を挿す。
 部屋に入ると、真っ暗だった。靴を脱ごうと屈みこんだが、そのまま玄関の床に尻をついて座った。もう、靴を脱ぐ気も電気を点ける気もわいてこない。座ったまま鞄からスマホを取り出した。着信画面を開いて、カツラギユウト、と表示された文字をじっと見つめる。マナベミユはホームボタンを押してその文字を消し去ると、スマホを鞄の中に突っ込んだが、しばらくするともう一度スマホを取り出し、SNSを開いてメッセージを打ちつけた。

《さっきは取り乱してごめんなさい。突然あんなこと言うからびっくりして。そうです。カツラギさんが言っていたとおり、私は》

 そこまで一気に打ちつけると、ため息を吐いた。スマホを操作する親指が画面の明かりを受けて、青白く浮き上がっている。この指であたしは触れた。いや、手を取られて、あたしの意志とは無関係に触れさせられた。
マナベミユは軽い高揚感を覚えるが、すぐに不安が大きな口を開けて彼女に襲いかかってくる。
 今日のこと、誰かに言いふらすんだろうか? どうしよう。情緒不安定だと思われた? もう死んでしまいたい。一緒に公衆便所に入った方がよかったんだろうか? スマホで撮られたんだろうか? そうすればカツラギユウトは喜んでくれただろうか? 駄目、撮られるのは。違う、撮られるんじゃない。カツラギユウトに、撮らせてあげるだけ。
 マナベミユはデリートを押して「そうです」以下の文章を削除した。そして、その後に続くメッセージを瞬く間に打ちつけると、読み返すこともなく、すぐさま送信した。

 すでに蚊に刺されたのかもしれない。
 左の二の腕のうらを見ると、小さな赤い膨らみがあった。リカコは、やはり公園の傍にあったスーパーで虫除けスプレーを買っておけばよかった、と後悔したが、今さら引き返す気にもなれず、膨らみの周りを少し掻いて公園を進んでいった。リカコの隣を揃いのユニフォームを着た少年たちが走り抜けていく。とおり過ぎる瞬間、若い汗のにおいが漂った。リカコは懐かしい気持ちになって少年たちを振り返ったが、既にその姿は小さくなっていて、まるで少しずつ縮んでいくように、リカコから遠ざかっていく。
 リカコは向き直り、木陰になっている歩道の端に寄った。あやうく、後ろから走ってきた中年男性とぶつかりそうになる。日曜日の緑地公園はにぎにぎしい。ランニングや犬の散歩をする人で混み合っていて、進路変更もままならない。リカコはその光景を眺めながら、公園とは不思議な場所であるとつくづく思う。年齢も性別も風貌もさまざまな人々が、各々の目的を持ってここへ集まってくる。都会の一角にあるこの緑地公園には、驚くほどたくさんの人が密集していた。リカコは、地面が人々の重みに耐えきれず、公園のかたちに沿ってひび割れを起こし、人々を乗せたまま地中へと沈んでしまうのではないかと思った。しかしその瞬間、人々は各々の所業に夢中で、地面が沈んでいくことには気がつかないのだ。そこまで考えると、思わずリカコは周囲を見渡し、地面がいつもどおりの高さと水平を保っていることを確認して安堵した。
 ベンチの前をとおり過ぎる。年老いた男性がひとり腰掛けていて、ぼうっと空を眺めていた。リカコの姿には一瞥もくれない。一体、何を考えているのだろう。ゆっくりと歩くリカコのロングスカートに風がふわりと入ってくる。リカコはスカートを軽くおさえながら、今ここを歩く自分は、一体どんなふうに見えているのだろう、とぼんやり思い、二の腕のうらを軽く掻いた。
 公園内に設けられた植物園の入り口で入園料の四百円を払い、今日の日付がスタンプされた入園券を受け取って中に入った。植物園は屋外型だ。頭上に広がる空の大きさから、植物園が相当な面積を有していることがわかる。園内は公園よりも人がまばらで、カメラを持った中年男性や日傘を差しながら花を観賞する婦人たちなどがゆったりと時間を過ごしているようだった。リカコは入り口で手に取ったマップを広げ、バラ園の位置を確認する。数年前、結婚前のユウトとともに訪れたことがあったため、場所はなんとなく覚えていた。目の前のこの道を進んでいき、小さな森を抜けたところにバラ園はある。リカコは歩きながら、咲き乱れるあまたのバラを想像する。赤、黄、ピンク、オレンジ。この道の先に、綺麗なバラが私を静かに待ち受けている。想像するとリカコは少し明るい気持ちになった。

「植物園のバラが見頃みたいでさ、ちょっと一緒に観にいかない?」 
 今朝、リカコがユウトを誘ったとき、ユウトはスマホでゲームをしていて、「オレはいい」と画面から目を離さずに言った。最近、ユウトは、休みで家にいるときはスマホのゲームばかりしている。画面の中のモンスターと戦う表情は真剣そのもので、ゲームに興味がないリカコは、なにがそんなに面白いんだろうと、いつも疑問に思う。ゲームに没頭するユウトはプラスチックの人形のようだった。冷たくて、硬くて、がらんどう。だから、話しかけてもこちらを見ない。リカコはそんなユウトを見ていると、ねじのついたその腕を、ぐりっと回してやりたくなる。生きている人間では、ありえないような角度に。しかし、そうされても、ユウトはゲームに夢中で気がつかないかもしれないと思う。腕を反らせたまま、じっと画面を見続けているかもしれない。リカコは、もしかしてがらんどうなのは自分の方なのではないかと疑ってしまう。本当は存在していないから、ユウトには見えないのではないか。その考えはリカコを虚しくさせ、リカコの神経を削った鉛筆のようにぴんと尖らせる。
 リカコは深呼吸を一つして、「そっか、なら私ひとりで行ってこようかな」と呟いたが、ユウトは何も答えなかった。リカコは冷蔵庫のあまりもので二人前のチャーハンを作り、自分の分を平らげると軽く化粧をした。ユウトはまだゲームを続けていたので、チャーハンにラップをかけ、無言で家を後にした。残してきたチャーハンは、あのまま放置されて、冷めて固くなってしまうだろう。そしてゲームに飽きて空腹を覚えたユウトは机上のチャーハンを見つけ、電子レンジで温めるようなことはせず、そのままむしゃむしゃと咀嚼するのだろう。無表情でチャーハンを頬張るユウトの姿が目に浮かんだ。
 ユウトと結婚してから二年が経つ。特に大きな喧嘩をすることもないのだが、違和感を覚えるようになったのは結婚して半年を過ぎたあたりからだった。リカコが見ているテレビのチャンネルをユウトが突然ほかのものに変える。リカコが好まないこしあんの饅頭をユウトがコンビニでたびたび買ってくる。一緒に食器を買いに行けば、リカコの趣味に合わない皿を、「お、これいいじゃん」と言って買い物籠に入れる……。そうした出来事に出くわすたび、リカコの心はざわついたが、そもそも他人同士が暮らすのだから様々な違いがあって当然なのだ、と自分を納得させてきた。それらはきっと、二人の家庭を形作っていく過程で混ざり合い、または調和し、二人の生活に馴染んでくるに違いないと思った。
 しかし、生活を共にするにつれ、その違いは蛍光マーカーを引いた重要な語句のように、リカコの中で際立っていった。次第にリカコは、チャンネルを変えたにも関わらずテレビを見ずにスマホをいじっているユウトを心の中で罵るようになり、こしあんの饅頭を仕方なく咀嚼してはねっとりとした食感に不快感を覚え、夕飯をユウトが選んだ趣味の悪い皿に盛りつけるたび、料理の味付けが損なわれたような気がした。そんなとき、リカコは親指の爪を噛んだ。苛立つと幼い頃からの癖で、やってはいけないと思いながらもやってしまうのだった。しかしそれがリカコの苛立ちの合図であることにユウトはいまだに気がついていない。
 あるとき、夕飯を食べ終えたリカコがその皿を前にしてギリギリと音を立てて爪を噛んでいると、ユウトは鬱陶しそうに目を細めて、
「なんか怖いからやめろよ、それ」と言った。
こ・わ・い? 一瞬、リカコは、ユウトが言ったことを理解できなかったが、爪を噛んでいる自分の姿のことを言っているのだと気がついて、激しい怒りがわきおこった。油の染みた布が突如発火したかのようだった。しかし、リカコは、そのために声を荒げて怒りをユウトにぶつけるということはしなかった。大きく深呼吸を二、三回して、炎が静かに燃え尽きるのを待った。すると、次第に落ち着いていった。言い争いは不毛だ。無駄な体力を使い、精神を消耗させるだけだ。リカコは、できるだけユウトとの諍いを避け、結婚生活を穏やかに過ごしたいと考えているのだった。

 風が吹くと気持ちがいい。自分の肌を優しくなでていくようだ。リカコは既に森の入り口まで歩いてきていた。都会の一角とは思えないほど空気が澄んでいて、公園の周囲を走る車の騒音はまったく聴こえてこない。リカコは小径を進んでいく。前方に小径を遮るように幅二メートルほどの小川が流れていた。陽を受けて、川面がきらきらと光っている。リカコは小川を渡るため、スロープのように勾配の緩やかな土手を降り、小川に敷かれた三つの飛び石を慎重に踏んで向こう側に渡った。もともと運動が苦手なリカコは、その石を自分が踏みはずしてしまうところを想像してしまう。小川に落ちたリカコは、下流へと流されてしまうのだが、水は澄んで美しく、ひんやりとしてあまりにも心地よいので、ゆっくりと目を瞑り、川の流れに身を任せるのだ。一体、どこに辿りつくのだろう。どこか美しい湖に辿りつけばいいのに。リカコはその情景を思い浮かべた。森の中で、深いコバルトブルーの湖に、リカコがぽつんと浮かんでいる。長い髪は湖面に広がり、水に濡れたシャツやスカートが、しっとりとリカコのからだを包んでいる。魚がリカコの髪に触れた。小さな波紋が、音もなく湖面に広がっていく。リカコは穏やかな気分だった。ずっと、ここでこうしていたい。
 思わず、小径に出ようと土手を登っていたときに足を滑らせて、からだがかしいだ。リカコは近くの木を掴み、なんとかバランスを保った。木に上体を預けながら、小川を振り返る。飛び石の連なりから川下に目を這わせると、その先は曲がりくねり、鬱蒼とした木々に覆い隠されていて見えなかった。その光景を眺めていると、これは実際は自然を装った人工的な川で、辿りつくとすれば植物園の中央にある大きな池くらいなのだろう、とにわかに現実的になった。緑色に濁り、あまたの亀が浮いたお世辞にも綺麗とはいえない池を思い出したリカコは、ちょっといやな気分になり、木から手を離して土手を登った。
 しばらく歩くと、小径と交わるアスファルトの歩道に出た。「植物園管理事務所」と書かれた軽トラが停まっており、「ただいま、雑草を刈っています。ご迷惑をおかけしますが、立ち入らないようお願いします」と看板が立てかけられている。その後ろに再び森が広がっているのだが、数本の赤いコーンが森への侵入を阻んでいた。森の奥からは、草刈り機の音だろう、ウィインと唸るような低いモーター音が響いてくる。バラ園に進むには、この小径をとおるのが最短だった。しかし、立ち入り禁止とあっては、少し遠回りになるが、この歩道を進むよりほかはない。リカコは小径をとおる気でいたため気落ちした。否、むしろバラ園に通じるこの小径をとおるためにここへ来たと言ってもよかった。
 日傘を差した三人の婦人たちが歩道の前方を歩いていく。リカコは詮無くその婦人たちの後に続こうと歩き出したが、ふと足をとめて後方を振り返った。
 誰もいなかった。ただ、陽に照らされたアスファルトの歩道が、幻のようにそこにあるだけだった。リカコはしばらくその光景を眺めていたが、踵を返すと、コーンを越えて森の奥へと続く小径を進んでいった。

 森の中には、当然ながら人は誰もいなかった。キュルルルル、と鳴く鳥の声と、モーター音だけが響く。ああ、見覚えがある、とリカコは思う。この木の前あたりだったんじゃないだろうか。リカコは大木の前で立ち止まり、すう、と胸いっぱいに森の空気を吸い込んだ。
 リカコは結婚前、ユウトとこの小径を歩いていたときにプロポーズされた。リカコの作った弁当を公園で食べ終えて、植物園を散歩していると、ユウトは突然この小径の真ん中で立ち止まり、「リッちゃん、オレと結婚しない?」と言ったのだった。
あのときはとても嬉しかった、とリカコは歩き出しながら思う。洒落た演出こそなかったが、その素朴さがユウトらしくていい、この人と一緒ならどんなことがあっても大丈夫だと思った。
 だか、今はそうではない。数日前、お昼の情報番組がこの植物園のバラが見頃であると報じているのを見て、プロポーズのことが思い出されたのだが、懐かしむ気持ちはわいてこなかった。ユウトが発した味気ない、短い言葉。一生に一度のことなのに、どうしてもっと、こだわってくれなかったのだろう。どうして私は、あれっぽっちで満足してしまったのだろう。素朴で素敵、なんて思った自分が馬鹿みたいだ。今のリカコにとって、あのプロポーズは不満でしかなかった。また、それに有頂天になった自分自身が虚しくてならなかった。
コツ、と小径に落ちていた石を右足で蹴ると、砂がサンダルの中に入ってきた。そのまま歩き出すと、尖った石が足のうらにあたって痛かった。リカコは右足をぶらぶらと振ったが、石は落ちない。しまいに苛々してきて、なんなの、と呟きながらサンダルの隙間に指を入れて石を払い落とした。落ちた石はとても小さかった。こんなに小さいくせに。睨み付けていると、石がその輪郭を失った。視界がどんどん滲んでいき、リカコがぐずっと洟をすすると、胸のなかに言葉が溢れてきた。プロポーズは不満だけど、この道を、もう一度ユウトと歩いてみたら、どんな気持ちになるのだろう? そう思ったから、今朝、誘ってみたのに。ここへ来たら、もしかしたら、何か新しいものを自分たちの家に持ち帰ることができるんじゃないか、と思ったのに。
そのとき、突然、草刈り機の音が途絶えた。鳥がバサバサと木々から飛び立つ羽音が聴こえ、リカコは周囲を見渡す。植物が青々と茂り、小動物が集うこの場所は、生の気配が充満している。でも。
ここにいる私は、とてつもなくひとりぼっちだ。
ウィイン、と鈍い音が再び鳴り響いた。リカコは涙を手で拭いながら、その不快な音に引き寄せられるように、森の奥へ進んでいった。

 ユウトはスマホのゲームを終了すると、あああ、と大きく唸って伸びをした。
 既に二時を回っている。トイレに行くためスマホを置いて立ち上がり、キッチンを覗くがリカコの姿はなく、テーブルの上にラップのかかったチャーハンが載っているのが見えた。ああ、そういえばバラがどうのって言ってたな。トイレに入って用を足した。どうして女は花が見たいと思うのだろう。ユウトにはその価値がわからなかった。何が面白いのか自分にはわからないが、見に行きたいのなら勝手に行けばいい。
 水を流してトイレを出る。洗面所に行き、手を洗おうとハンドソープのポンプを押すが、石鹸が切れてしまったのだろう、中身が出てこない。チッと舌打ちをして洗面台の下の扉を開けて詰め替え用のハンドソープを探すが、見当たらなかった。ユウトは、なんだよと言い捨てると、力任せに扉を閉め、水だけで手を洗った。履いているステテコで手を拭きながらキッチンへ戻る。テーブルに座ってリカコが作ったチャーハンのラップをめくり、食べ始めた。チャーハンは冷めていて、食べるともそもそしたが、温めなおすのも面倒なので、ユウトはそのまま食べ続けた。もともと、ユウトはあまり食に関心がない方で、腹を満たすことができれば何でもよかった。リカコの作る料理は特に美味しいとも思わないし、まずいとも思わない。ただなんとなく、実家とは違う味付けだ、と思うだけだ。
 チャーハンを食べ終えると、ユウトはソファに寝転んで時計を見た。二時三十分。今日は何をしようかとぼんやり考えていると、職場のマナベミユのことを思い出した。
マナベミユはユウトと同じ営業部の社員で、営業マンの持ち帰った契約書のチェックや見積書の作成などをする事務員だ。年齢はユウトより六つ年下の二十六歳で、陰気な感じのする地味な女だった。器量はそこまで悪くないと思うのだが、やぼったいロングの黒髪で、いつも眼鏡を掛けていて愛想もなく、必要最低限の会話しかしてこないので、ユウトは、こいつはハズレだと思っていた。別にやらしい気持ちは無いのだが、できれば可愛いくて愛嬌のある女子社員と仕事をする方が楽しいし、やる気も出る。家に帰っても、近頃ではリカコと話すことも特にないし、会社くらい、女の子と楽しく会話をしたい。隣の企画部は営業部と比べて若い女子社員が多く、華やかで羨ましかった。
 ユウトと同期の山本が企画部にいるのだが、女子社員と冗談を言い合っている姿をよく見かける。山本の鼻を伸ばした顔を見るたび、チッ、と舌打ちをしてしまう。あいつアタリ引きやがって。ユウトは心の中で独りごちると、取引先から届いた商品の見積もり依頼のメールをプリントアウトして、斜め前の席に座るマナベミユに腕を伸ばして渡す。
「これ、四時までに見積もり作成頼むよ」
 マナベミユはユウトを一瞥し、「わかりました」と消え入りそうな声で答えると、用紙を受け取って俯いてしまった。ユウトは舌打ちしそうになったのを堪える。なんなんだよ、まったく。再び心の中で独りごちるのだった。
そんなユウトがマナベミユに関心を持つようになったのは、山本からある話を聞いたからだった。
 昼食時、会社の食堂の入り口で偶然山本と一緒になり、同じ席で食べることになった。ユウトは営業部なので、普段は外出することが多く、昼食も大抵出先で済ませてしまうので、会社の食堂を利用するのは珍しいことだった。一方、山本は企画部のため基本的には内勤で、いつも食堂で妻の弁当を食べているらしい。ユウトは注文した日替わり定食を受け取ると、山本のいるテーブルに着いた。山本の弁当は、唐揚げやブロッコリー、鮭や卵焼きなど様々なおかずが入っていて彩りが良い。ユウトは弁当におかずを詰める山本の妻を想像した。彼女はもともと営業部の事務員で、ユウトと一緒に仕事をしていたのだった。明るくサバサバした性格で、仕事の手際も良く、ユウトとしても仕事をやりやすい相手だったが、山本との結婚を機に惜しまれながらも退社してしまった。その三カ月前に、ユウトは彼女から直接退社することを聞き、「続ければいいじゃん」と勧めたのだが、
「なんか仕事も家事もどっちも中途半端になっちゃうのが嫌なんですよねえ」
 と、ハキハキ答える彼女の表情がとても幸せそうに見えたので、自分が出しゃばって言うことでもないのかもしれないと思い、それ以上は何も言わなかった。それに、リカコも結婚を機に仕事を辞めたので、大きなことは言えなかった。
「毎日作ってもらってんの、それ?」
「そうなんだよ。ありがたいけど、正直、毎日だとちょっと飽きてくるね。これ冷凍だと思うんだけど、どう?」
 山本は自分の弁当に入っている唐揚げを箸でつまみ、ユウトに見せてくる。そう言われると冷凍食品のようにも見えるが、正直よくわからない。
「どうかなぁわかんないよ」
「いや絶対冷凍だよこれ。嫁は手作りだっていうんだけど、なんか妙に皮の色が綺麗なんだよね」
 そう言うと山本は唐揚げを頬張った。しかし、その表情はさして不満気でもなく、むしろなんだか幸せそうにも見える。
「お前ホント幸せそうでいいよなあ」
「そんなこと全然ないって」
山本は咀嚼しながら照れくさそうに笑った。
ユウトはリカコが作る弁当を想像する。結婚してからずっと営業部なので、作ってくれと頼んだことはなく、どんなものが仕上がるのかうまく想像できなかった。結婚前、ピクニックなどに出かける際に作ってきてくれたこともあったが、どんなおかずが入っていたか、まったく思い出せない。ユウトは日替わり定食の鯖の塩焼きを箸でつつきながら、リカコは今頃、家でお昼の情報番組でも見ているのだろうか、とぼんやり考える。
「なぁ、あの後ろの方の席に座ってるお前の部署の子さあ」
 山本に話しかけられてユウトが振り返ると、食堂の壁際でひとり昼食を摂るマナベミユの姿があった。ユウトは向き直り、「ああ、マナベミユさんね」と鯖の身をほぐしていると、「俺見ちゃったんだよね」と山本がもったいぶって言ってくる。少し苛立ったユウトは、鯖を頬張りながら、「なんだよ早く言えよ」と急かすと、山本はユウトに顔を近づけて、「あの子、AV出てんだよ」と声を潜めて言った。
「AV!?」
 驚いたユウトが声を上げると、思わず口から鯖の身が飛び出た。「馬鹿! お前汚ねえな、声でかいんだよ!」と山本にたしなめられ、箸をおいて机上のナプキンに手を伸ばした。しかし、慌てて五、六枚引き抜いてしまい、戻すのもなんなので重ねて口を拭っていると、山本が声を潜めて再び話し出した。
 山本曰く、彼女は山本がレンタルしたアダルトDVDに出演していたらしい。正確には、数組のカップルのホテルでの情事を隠し撮りしているという設定のそのビデオに、マナベミユらしき女性が映っていた。今とは違って髪は茶髪で、化粧も濃いが、山本の直感としては、マナベミユに間違いないという。
「それって色々映っちゃってんの?」ユウトは口を 拭ったナプキンで落ちた鯖の身を包み、自分の皿の下に隠すようにしながら訊く。
「そりゃあね。あの子が上に乗ってんの。やばいよ。一回、お前も見てみたら? てか見てよ。同じ部署だし、見たら本人かわかるんじゃない」
 山本は、ちらとマナベミユの方を見て言った。
 ユウトは興味本位でそのDVDのタイトルを教えてもらうと、その日の晩にレンタルDVDショップへ行った。そのDVDは一本だけ棚に陳列されていた。ユウトはそれを手に取り、パッケージをしげしげと眺めたが、マナベミユらしき人物は映っていなかった。裏面を確認すると、五年前のビデオであることがわかった。ユウトはDVDをレンタルして家に持ち帰ると、リカコが眠りについた後、リビングのテレビでこっそり再生した。
 山本は、三組目の女がマナベミユだと言っていたので、最初の二組は早送りにし、三組目が出てきたところで再生した。
ビデオは部屋の隅から撮影している様子で、女の顔がはっきり映っているわけではなかった。初め女は男にされるがままになっていたが、途中で男に馬乗りになると大胆に腰を振り始める。そこで、上に乗っている女を下から見上げるカットに切り変わった。確かに、マナベミユに似ていた。雰囲気は今と違うが、確かに化粧が違うだけなのかもしれない。女は上半身の衣服を捲り上げ、腰の動きに合わせて、ブラジャーから半分ほどはみ出た乳房を揺らしている。喘ぎ声は激しかった。泣いているような、喜んでいるような、艶めいた声だった。胸は大きい。Eカップはありそうだが、職場のマナベミユの胸がどうだったかまったく思い出せない。ユウトはDVDを見ながら、自分の性器に手を伸ばした。画面の中で、男が女の衣服を脱がせて全裸にした。乳房がつんと上を向いていて、若さが漲っている感じがした。ユウトは、やらしいからだだと思った。リカコの胸はBカップで小さい。ユウトは女の揺れる乳房を見ながら手を動かす。画面の女がマナベミユなのか、正直、確信は持てなかった。女の声が荒くなっていく。ユウトはその動きを速める。女が画面の中で、
「イッちゃう」
 と声を上げるとともに、ユウトも果てた。まるで、マナベミユとセックスしたかのような気分だった。
 翌日、出勤したユウトは、斜め前の席に座るマナベミユの顔を直視できなかった。マナベミユはいつもどおり眼鏡を掛け、無愛想な表情でパソコンに何かを打ち込んでいる。あのビデオに出演していたのは、マナベミユ本人なのかもしれないし、似ているだけで別人なのかもしれない。ただ思い出されるのは、DVDに映っていた女の大きな乳房だった。
 ユウトは資料を手に持ってやにわに立ち上がると、マナベミユの席まで出向いていき、
「これ、忙しいところ悪いんだけど、明日までに頼めるかな?」と、仕事を頼んだ。これまでなら、自分の席に着いたまま腕を伸ばしているところだ。マナベミユは一瞬驚いた表情になったものの、すぐに嬉しそうにはにかむと、
「はい、わかりました!」
 といつもより明るい声で答え、ユウトから資料を受け取った。ユウトは、「ありがと」と付け足して席に戻った。気分が良かった。
 数日後、山本と顔を合わせたときに、件のビデオを見たかどうか訊かれた。ユウトは、「ああ、あれ」と小指で耳を掻きながら、「見たけど別人だと思うよ。間近で本人見てみろって」と無愛想に返しておいた。

 ソファに寝転びながら、ユウトはスマホを再び手に取った。もう一度ゲームをやろうかとも思ったが、少し疲れたので、なんとなく他のアプリを開いたり閉じたりしたあと、電話帳を開いてスクロールする。「マ行」の欄に、マナベミユの名前が出てきた。ユウトの職場では、緊急時に備え同じ部署の社員の携帯番号を登録することが義務付けられているため、彼女の番号も登録してあった。その番号を見ながら、ユウトは考える。仮にあれがマナベミユ本人だとすれば、あのビデオは五年前のものだから、彼女が学生のときに撮影されたことになる。単なるアルバイトとして、やっていたのだろうか。ユウトは、マナベミユに興味を抱き始めている一方で、カメラの前で裸になる女は理解できない、とも思うのだった。AVに出るなんて、一体何を考えているのだろう。その道で生きていく、と腹をくくっているのなら、それは本人の自由だし、他人がどうこう言う権利はない。だが、もしアルバイトでそういう仕事に手を出して、後になって、やめておけばよかったと後悔したらどうするのだろう。誰かと結婚したいと思ったとき、そのビデオの存在に怯えることはないのだろうか。
 ユウトはリカコがもしもそんなビデオに出ていたら、と想像しようとしたが、まったくできなかった。リカコは、行為の最中に明かりが点いていることすら許さない。必ず、消すようにせがんでくる。それは、リカコが自分の小さな胸を恥らっているからであるとユウトは気づいている。結婚前は、リカコを気遣って必ず明かりを消してから始めていたが、最近では、灯りを消さずにリカコの上にまたがる。そしてリカコが本当に泣きそうになったところで、ようやく明かりを消してやるのだった。当初、それはリカコをいやがらせるためわざと始めたわけではなかった。ただ単に、立ち上がって明かりを消しに行くのが面倒だったというだけなのだが、リカコの恥らう様子がいじらしく、次第にその姿に興奮するようになり、繰り返すようになったのだった。
 ユウトは自分にそうした気質があったことに驚いた。なぜそんなことに興奮を覚えるのか、自分でもよくわからない。今まで、そんな趣味はなかったのだ。もしかすると、リカコが自分をそうさせているのかもしれない、とユウトは思う。リカコだから自分はそんなふうになってしまうのではないか。自分を特別に刺激する何かが、リカコにはあるのではないか。

 ユウトはスマホを床に置いて伸びをした。再び時計に目をやる。まだ二時三十五分だ。リカコはしばらく帰ってこないだろう。ユウトはちょっと眠ろうと目を瞑ったが、寝付けなかった。ユウトは再びスマホを拾い上げて、マナベミユの番号を見つめる。画面を閉じようと思ったが、気づいたら発信ボタンを押していた。
 ユウトは、しまった、と思った。何をしている。プルルルル、と呼び出し音が鳴っている。オレはマナベミユに電話をして、いきなり何を話そうというのだろう。
 君、AV出てたよね?
 ……いや、あり得ない。そんなことを、こんな唐突に訊けるわけがない。それに、第一、間違っていたらどうするのか……。ユウトは、呼び出し音を聞きながら、出ないでくれと願った。そして、明日、出勤したときにマナベミユに告げる言い訳を考えていた。あ、昨日ごめんね、つい掛け間違えちゃってさ。呼び出し音が五回鳴った。ユウトは、電話を切ることができない。六回目が鳴る。……やはり出ないか。ユウトが遂に電話を切ろうと思ったそのとき、「もしもし」という普段より気の抜けた、甘えたようなマナベミユの声が聞こえてきた。

第二回に続く

#小説

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