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11代目伝蔵の書評100本勝負3本目

福島の原発事故をめぐってーいくつか学び考えたこと
                    (山本義隆 みすず書房)
唐突だけれど、思い込みが激しいタイプなので、原発推進派の後は反原発派の本でバランスを取る必要があります。そこで手に取ったのが何故か書棚に並んでいた「福島の原発をめぐって」です。
著者である山本義隆氏の著作をこれまで1冊も読んだことはありませんが、名前だけは知っていました。既に引退されたようですが、某予備校のカリスマ?講師(物理)でした。僕は関西人も真っ青のコテコテの文系人間でしたから本来縁遠い人なんですが、理系の同級生には熱烈な信奉者もいました。それ以上に彼の名を高名たらしめているのは「元東大全共闘議長」という経歴です。こういう先入観?は読書という行為において有益なことはほとんどないでしょうね。ごめんなさい、って、誰に謝ってるんだ?
 
 著者は内容を問わず原子力利用に徹頭徹尾反対する立場です。
批判の矛先はまず電力会社、そして原子力政策を推進してきた経産省の官僚、東大を中心とした学者グループ、族議員へと向けられます。その筆法は激しく、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」の類と思えるような箇所もありますが、全体としては説得力を持つ批判です。
著者の論説に僕が一番賛同できる点は原発の安全性に対する疑問です。たとえ原発推進派であってもまともな?研究者や技術者なら「原発は100%安全」とは言い切れないでしょう。それなのに福島以前の原子力政策は「安全性」を前提として推進していたように僕には思えます。そして推進派の人たちは「様々な対策を講じることでその危険性を限りなく0にする」と強弁してきたようにみえます。時には原子力が「クリーンエネルギー」ということで安全性を蔑ろにするかのような印象さえあります。
その点著者の原発における「安全性」を全否定しています。原料であるウランの産出から核廃棄物まで例証を挙げながらその危険性を論証していきます。著者が強調するのは「放射性物質を無害化するともその寿命を短縮することも事実上不可能である」ということです。だから「無害化不可能な有毒物質を稼働に伴って生み出し続ける原子力発電は未熟な技術と言わざるを得ない」と言い切ります。この論証の正否は僕には判断しきれませんが、一定の説得力を持ちました。
また本書により知えたファクトもあります。一番驚いたのは人形峠(鳥取県と岡山県の県境)にまつわるファクトです。
 1955年人形峠でウラン鉱床が発見されました。原子力燃料公社(名称からして腐臭がしますな)が10年間の試掘の後、品質が低いことが判明して廃坑になりました。その数十年後鉱山周辺に放置された土砂が放射能を出し続けていることが発覚しました。住民は原子力燃料公社を引き継いだ動力炉核燃料開発事業団(通称、動燃。これまた芳しい香りのする名称)に残土撤去を要求します。動燃は誠実対応をせず、住民との間で裁判となります。最高裁まで争い、住民側の勝訴となりました。すると動燃から名称を変えた日本原子力機構は
”とくに放射線量が高い残土二九0立方メートルを、なんと米国ユタ州の先住民居留地に搬出したと報道されている”
というのです。
 因みに日本原子力機構はその後一部の組織を国立研究開発法人放射線医学総合研究所に分離し、放射線医学総合研究所は量子科学技術研究開発機構となりました。このように組織の名称が度々変わり、改編を繰り返すのは常識的に考えて、自分たちの利権を守るためのように思えます。このこと一つをとっても日本の原子力政策が利権構造であり、それを守るために閉鎖的で隠蔽体質であるという著者の主張を証明することではないでしょうか?
 また著者は原子力の平和利用を隠れ蓑にして虎視眈々と核武装を画策していると主張し、岸信介の国会での発言や自伝を例証として挙げています。時代的には東西が対立していましたから「あの時代はそういう計画があったかもしれないけれど、流石に現代では無理だろう」と安易に考えていました。ところが
”小泉内閣の官房長官である福田康夫は核兵器について『法論理的に言えば、専守防衛を守るなら持ってはいけないという理屈にはならない』と再確認している”
とあり、
”将来的な核武装の可能性を開けておくことがつまるところ戦後の日本の支配層に連綿と引きつがれた原子力産業育成の究極の目的”
とします。にわかには著者の主張を肯定できませんけど、「原子力の平和利用は核武装の隠れ蓑」は原発の是非を考えるとき考慮に入れなければならないとは思いました。
概ね著者の主張は肯定できるものですが疑問というか賛同することに躊躇する主張もあります。
”こういうこと(原発廃止)を言うと、必ず生産活動に支障が生じるとか、これまでの快適な生活を持続できなくなると言う反論(恫喝)が出される”
”たとえ電力会社や経産省の言い分どおりだとしても、そして生産活動にいくばくかの支障が出るとしても、生活が幾分か不便になるとしてもそれでも原発はやめなかればならないと思っている”

福島での事故もあり、割合で言えば反原発派の方が多いと推測できますが、「生産性に支障なく」「快適な生活の維持」が前提だと思われます。もしこの前提が崩れたら皺寄せが来るのはおそらく弱者と呼ばれる人たちで、格差が大きいと言われる現代日本社会の分断化が益々進むのではないでしょうか。つまり脱原発とは社会のあり方を見直すことでもあり、国民の合意形成が重要です。それを主導する集団や個人が今の日本にいるとはとても思えません。また欧米その他のいくつかの国(スウェーデン、フランス、中国、カナダ、アメリカなど)が原発に舵を切っているいこと、脱原発を宣言したドイツが方向転換しつつあることも考え合わせなければならないでしょう。
改めて原発問題は根深く我々の生活スタイルにも切り離すことができないと痛感させられた一書となりました。

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