役割を演じない群衆たちへ。/映画「愚行録」
先日、映画「愚行録」見た。
嫌ミス、っていう言葉が大分根付いてきたけど、
まさに!これこそ!!
というくらい、後味が悪い嫌ミス。
もうでだしっから陰鬱で、嫌な感じで、
二日酔いの朝のような、
夜更かしした日の朝のような、
つまるところ、
朝に感じる気持ち悪さが続くのだ。
そして、結末が本当に嫌な感じで、
うまいこと言えないんだけど、
ゾワゾワっとして、胃の中に空気詰め込んだみたいなむかむかで終わる。
主役たち以外はみんな人間臭くて、面白い。
愚かしさとは、こんなにも人間くさいのだなあ。
だからこそ、満島ひかり演じる光子の存在、
そして、この映画全体の異様さが際立つ。
(それから、小出恵介演じる役みたいな男って、
クズみたいに見えるけど、やっぱモテんだよな。
あの生々しい向上思考とギリギリアウトの狡さ、
それに対する潔さもまた魅力的に見える。
ああいう男に出会ったら、
怖いくらいに惹かれるんだろうな。)
見てすぐはそんなふうに思って、
しかしながら、
映画を見てから時間が経つごとに、
この映画に気付かされることがたくさんあって、
見せかけ、しがらみ、見栄、
自分の中にある下らなくて、しかしながら、どうしても捨てられないそれらを、
私は、どうしたらいいのだろうか、
なんてことを考えたりしてた。
ふと、思ったのは、
愚かさというものは、ものすごく人間くさい反面、
ある種の超越的なものの近くにある、とういうこと。
神や仏なんかではなくて、
禍々しくて、私たちの手ではどうしようもない、という意味で超越的な、なんて言ってみた。
愚行が顕にされた時、
私達は、跪くしかないんじゃないだろうか。
他人の愚かさを笑う自分の愚かさが、
この映画を通してむき出しにされてしまう。
この映画は、とても怖い映画だと思った。
結局、恐ろしいのは、人間、静かなる狂気と狂乱。
最近の世の中は、
(なんて、世の中を語ることほど野暮なことはないけれど、)
自分自身が自分の人生の主人公、
誰もが皆、人生における主人公、
なんていう思想が主流なんだろうけど、
この映画を見たあと、
その思想を逆行したい気持ちになった。
この主人公思想は、清く正しいと思う。
そういう風に生きていた方が楽しいかもしれない。
そして、わたしは、自分自身が脇役だなんて思ったりしない。
だから、やっぱり、世の中に同調してるんだろう。
けれども、この映画を見て、
私は群衆でしかない、と痛感した。
自分の愚かさに気づき、
私は、単なる人間なのだと、当たり前なことを思ったら、
どこか虚しさと寂しさを感じた。
そして、清く正しいものの前に立つにふさわしい人間ではないのではないかということを、
なんだか空々しい気持ちをともないながら考えたりしていた。
たくさんの人の中に埋もれるひとり。
ずっと何者かになりたかった、
というよりならなくてはならないと、
使命感のようにさえ思っていたのに、
主人公じゃない、脇役でもない、
なんの役も与えられていない、
群衆のひとりなのだと思うと、
とても楽で、
どんなに愚かしくても、どんなに普通でも、
逆説的に、自分に出会えた気になる。
愚かしさは、罪だろうか?
清く正しいことは、美しいのだろうか?
そんな思いが倒錯して、
この映画は、独特の異様さを放っている。
その異様さは、鉛のように心を重くする。
その一方で、どうしょうもなく魅力的で、
やっぱり、嫌な映画だ。