中編小説 『狂龍』
★目次(序章無料公開)★
【序章 上海の迷い子】
【第一章 銀座の菜の花】
【第二章 洛陽の鈴の音】
【第三章 納西(ナシ)族の女】
【終章 迷走の旅の果てに】
*
【序章 上海の迷い子】
改札口に殺到する人混みからひょいと抜け出し、手を振りながら駆け寄ってきたその姿を見て、思わずのけぞった。
黒かったはずの髪が、ど派手な金髪に変わって逆立っている。脂肪の付き過ぎたぷよぷよの体にぴったりと張り付いた真っ赤なへそ出しTシャツ。光沢のある檸檬(れもん)色のミニスカートからは、お世辞にも細いとはいえない太腿が円柱のように突き出ている。おまけに膝下は、てらてら光る蛇皮模様のイミテーションブーツだ。
憚(はばか)るように、あたりを見回した。ここは中国の上海鉄道駅。駅頭や構内は、大荷物を抱えた農村地帯からのおのぼりさんで溢れかえっている。彼らは一様に地味で古びた服を身につけており、全体としてくすんだ灰色に見える。
彼女の出立ちは、完全に浮き上がっていた。そんな異装の女を改札口に出迎えた日本人らしき私に向けて、行き交う人の群れから無数の鋭い視線が突き刺さる。
まわりの気配に無頓着なまま、くしゃくしゃに笑み崩れた丸っこい鼻の頭に汗粒を光らせている彼女の腕を取り、脇の壁際に身を隠した。
「小霊(シャオリン)、その頭はどうしたんだ? 老板(ラオバン=店主)に染めろと言われたのか?」
声をひそめた私の問いかけに、
「ううん、旅に出るから自分で染めたんだけど、見事に失敗しちゃった」
大口を開けて、あっけらかんと笑うのだった。
小霊は中国江南(こうなん)地方の某都市で、外国人相手に春をひさぐお女郎さんである。
顔も体もマシュマロのようにぷよぷよで、一見したところ若いのか年増なのかさっぱり分からない。これでよく裸の商売が勤まるものだと呆れるくらいなのだが、両のえくぼが深くて妙な愛嬌がある。
その上、前歯の真ん中が大きく透いていることもあって、異国での一夜の冒険の前に緊張している客には、不思議な安堵感を与えるらしい。そこで無警戒に事に及ぶと、
「肝を抜かれる」
彼女を私に紹介してくれた日系企業駐在員の常連客は、そう言いつつ照れたような薄笑いを浮かべた。まれに見る名器だ、というのである。
男が我慢の限界に昇りつめる直前。それが根元を強くきゅきゅっと締め付け、「あ!」とうろたえているうちにその動きが中程に及ぶ。思わず腰を引きかけると、あたかも無理矢理引き止めるかのように蠕動(ぜんどう)が先端に至り、きつく包み込む。
そうして、自分でも驚くほど長々と続く射出に呆然と身を委ねている間にも、その収縮とうごめきは同じ順序に従って繰り返され、初めは搾(しぼ)り取るがごとく激しく、次には優しく慰撫するがごとく密(ひそ)やかに、しまいには波が引くごとく、そっとそっと終焉を迎えるのだという。
「それが、決まって三段階なんです。必ず、根元、中、先と三度ずつ締めつけるんです」
ここに至って常連客の薄笑いは消え去り、その表情には畏敬の念さえよぎるのである。
残念至極なことに、こうした性の売買を含めた海外からの企業進出を「新たなる侵略行為」と位置づけ、発表の当てもない取材活動を行っていた私には、その稀有な恩恵に浴する機会はなかった。
なにしろ、彼女も例に漏れず貧しい農家の娘で「弟を学校にやるために」身を売ったというのだから。私自身はと言えば、何よりも妻を亡くしたばかりで、かつ異様な躁状態に翻弄されて、自身の性愛についてはまったくの埒外(らちがい)にあった。
だが小霊と私は取材の過程で妙にウマが合ってしまい、「いつかこの仕事をやめたい」という彼女のひそかな訴えが心に引っかかってならなかった。そこで一度日本に戻って、荷をほどく間もなく中国各地を再訪した折り、彼女を電話で上海に呼び出したのである。
無謀にも、彼女が春をひさぐ地方の町から適度な距離をおくこの大都会で、新しい仕事に就かせようと企てたのだ。
とりあえず、上海が初めてという彼女を連れて東方宝珠タワーの高見から黄浦江(こうほこう)沿いに広がる街を俯瞰し、珍奇なデザインのビルが林立する浦東(プートン)地区を案内して回った。およそ10年前、ここは上海および中国の経済成長の兆しを象徴する代表的ビジネスゾーンだった。
その間、何かの支払いをするたびに、彼女は財布やパスポートが入っている私のウエストポーチのジッパーが開いていないかを確かめた。そうして「ここは大都会だから掏摸(すり)や泥棒に気をつけなければいけない」と母親のように諭すのである。
「俺のことはともかく、どうだい、小霊。この街でやっていけそうか?」
「ちょっと疲れるけど、なんとか頑張ってみる」
そう言いながらも、顔色は蒼い。言葉とは裏腹に、彼女は上海の偉容と雑踏に圧倒し尽くされた様子である。生まれて初めて乗ったというタクシーによる車酔いも、まだ尾を引いているようだ。
「ともかく、その格好を何とかしなきゃいかんなあ」
彼女に千元を手渡し、服装と髪を普通に戻すよう促した。当時のレートで換算すれば、およそ一万五千円前後だったろうか。小霊は私の先に立ち、足取りも軽く雑踏の中を突き進んでいく。
先ずは、ファッションビル内の靴屋に入り込んだ。さっきから「足が痛い、痛い」と言うから、歩きやすいサンダルかスニーカーを買うのかと思いきや、目もくれずにブーツコーナーに向かい、いま履いているそれよりもさらに派手な柄物を手に取ろうとする。
「おい、おい、小霊、ブーツは駄目だよ。これから普通の仕事をするんだから、とにかく普通の格好をしろ、普通の」
それでも彼女の目は、私から見ると派手なもの、派手なものへと向かう。あれこれと迷った末に選んだのも、白地にピンクの水玉模様が目立つ相当に派手なローヒールだった。いくら言っても譲らないのである。
彼女は、着替えもろくに持参していない。旅行バッグどころか、手にしているのは小さな手提げの紙袋だけだ。
「小霊、新しい靴を買ったんだから、次は靴下を買えよ。それに、地味で長めのシャツやスカートもな」
「分かった」
とは答えたものの、途中の店先に並べられた派手な柄のパンツが目に入ると、他のことは忘れてパンツ選びに夢中になる。
試着室から出て来た姿を見て、思わず吹き出した。前止めのフックが弾け飛びそうだ。彼女はうつむいて、へそ出しTシャツとパンツの間からはみ出したぷるぷるの脂肪を眺め、前歯の透き間を見せて照れくさそうに笑った。
可愛いところもあるのだが、なにせ意固地だ。人の勧めも聞かず、やはり派手な柄のパンツをあれこれ物色し続けたものの、突然何を思ったか、靴下もパンツも買わずじまいで急に出口を探し始めた。
彼女を追って急ぎ足でビルから出ると、今度は道沿いの貴金属店に飛び込む。ショーケースの中の金のネックレスに目を留めるや、さっそく店員と交渉を始めた。そして、入り口付近でその様子を眺めていた私に向かって、右手の指先で札ビラを切るポーズを示し、
「もう千元ちょうだい」
「バカなことを言うな!」
店の外に強引に連れ出し、説教するしかなかった。
「おい、小霊。お前さんは一体、上海に何しにきたんだ? 今の商売をやめて、まともな仕事に就きたいんだろう? 俺が千元渡したのはお前さんが売春をやめる手始めとして、普通の髪形や服装に戻すためだ。それを忘れたのか?」
「……ごめんなさい」
「よし、次は美容院だ。その頭を何とかしよう」
「うん、分かった」
そう言ったにも拘らず、高級店が軒を連ねる洒落た歩道を歩き出すと、すぐさま別の貴金属店に入り込んだ。そして、またもやネックレスコーナーに直行する。
もはや、ここまでだ。気の済むようにさせてやろう。
「小霊、俺は外で待ってる。自分でじっくり考えて、結論を出せ」
歩道脇のガードレールに腰をおろして待ったが、なかなか出てこない。腰に鈍い痛みを感じ始めた。三十分ほどすると、ようやく透いた前歯を見せながら満面の笑顔で現れた。自慢気に突き出した左手中指に、金色の指輪が光っている。
「いくらだった?」
「七百元」
「じゃあ、金はもうほとんど残っていないな」
「うん」
「で、どうやって仕事を見つけるんだ? 俺は、もう一元もくれてやらないぞ」
下唇を噛んで考え込みながら、陽光を受けてキラキラと輝く指輪を右手で撫でさする。
「小霊、お前さんはもうすぐ三十歳だぞ。いつまでも今の仕事は続けられない。それは分かっているな?」
「うん」
「どうやら、お前さんには上海での会社勤めや工場勤めは無理なようだな。それなら、自分の故郷で何かできることを考えてみろよ。一体、何ができると思う?」
「……料理づくりならできるよ、田舎の味付けで」
「郷土料理か? よし、じゃあ食堂を始めるにはいくら資金がかかるか、じっくり考えてみろよ。とにかくホテルに帰る前に、その髪をなんとかしなくちゃ」
こくんと頷(うなず)いた小霊は、きょろきょろと道の左右をうかがいながら歩を進め始めた。自分が住む町の美容院は、狭い道沿いや路地裏に店を開いているからだ。そうして、彼女が働く売春宿も外見は小さな美容院のように装っていた。
だが、上海は大都会だ。繁華街の美容院はたいていビルの中に入っている。たまたま見つけたビルの壁面のサインを示し、そこに連れて行くと、小霊はスタッフに値段を聞いた途端、私のジャケットの袖を引っ張ってそそくさと逃げ出した。
「若い女性に訊けば、きっと安い店を教えてくれるよ」
街角をうろうろしながら何度か試みたが、スラリと背が高く垢抜けた装いの上海娘たちは、娼婦スタイル丸出しの小霊をうるさそうに鼻先であしらうだけだ。しまいには、通りがかりの杖をついた老人に美容院の場所を尋ねるので、ついに私の我慢が切れた。
「爺さんが美容室を知ってるわけないじゃないか! もう、やめだ。俺は疲れた。お前さんは、上海駅から自分の町に帰れ!」
すると小霊は泣きそうな顔で唇をとがらせ、上目づかいで私を睨(にら)みつける。
「だって、お金がないもん」
「金もないのに、なんで指輪なんか買ったんだ? さあ、ここでサヨナラしよう」
「いやだ!」
持病の腰痛が激しくなって、立っていられない。
「食堂のこと、真面目に考えるか」
「うん」
「よし、とにかくホテルに帰ろう。腰が痛くて死にそうなんだ」
だが、ベルボーイや受付係、ロビーに出入りする人々、エレベーターに乗り合わせた宿泊客などの好奇の視線を浴びつつホテルの部屋に入っても、小霊は相変わらず能天気なままだ。
ついさっき持ち帰りの食事をひとりで済ませたばかりだというのに、今度はベッドに腹這いになって缶ビールを飲み、残った鶏の唐揚げをむしゃむしゃとかじっている。
食堂開業資金の計算も、いい加減なものだった。二度やり直しをさせると、考えに考えたあげく「八千元」と言う。いくら物価の安い地方都市でも、この値段では店を借りるための支度金だけで消えてしまうのではなかろうか。
自分の人生を変えるかもしれない重要な岐路に立っての計算にも、彼女はすぐに飽きてしまい、私の携帯CDプレイヤーで大ヒット中の甘いラブソングを聴き始めた。
ぷよぷよにたるんだ大きな尻を左右に揺すり、調子はずれの大声を張り上げながら。
あげく、「このプレイヤー、いいね。あたしにちょうだい」
私はそれを無視して浴槽で腰を温めると、鎮痛剤と抗鬱剤と睡眠剤を同時にあおり、うつ伏せにベッドに倒れ込んだ。小霊が殊勝にも私の尻の上にまたがって痛む腰を揉もうとするが、怒りは収まらず邪険に振り払った。
「そっちのベッドで寝るんだ! 俺は客じゃない」
翌朝、小霊は私の沈黙に堪えきれず、タクシー代と汽車賃をねだると、ひとりで上海駅に向かった。「ありがとう」も「さよなら」も言わず、とびっきりの膨れっ面のままで。
食欲が落ち、上海の汚れた空気がうとましくなってきた。中国各地での無理な取材がたたったのか、体重が再び五十キロを割りそうだ。これは、まずい。上海に住む中国人旅行業者の友人に電話すると、「雲南省の麗江(れいこう)に行け」という。
「あそこは、まさに桃源郷です。しばらく静養した方がいい。チケットとホテルは、僕がすぐに手配するから」
今にして思えば、麗江を通じて中国との縁(えにし)をさらに深めるきっかけを作ってくれたのは、あのだらしないけれど、底抜けに能天気で気のいい小霊にほかならない。
謝謝(シエシエ)、小霊! その後、町の景気はどうだ?
悪い病気にだけは、気をつけるんだぞ。
【第一章 銀座の菜の花】
涙は、流れるのではない。噴き出すのである。
妻の最期を看取ってから、およそ半月後。容赦なく押し寄せる事後処理の雑事にひと息ついた途端、堰が切れたように不意に襲ってきた身をねじ切るような号泣のあと、眼鏡レンズの内側一杯に飛び散った涙の跡を見て、私はそのことを初めて知ったのだった。
白い壷から取り出した妻の骨は、少しばかりしょっぱいような味がした。
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