マスク

【マスク美人に気をつけろ!】

 「チェンマイの病院に入院中の中国人患者から新型コロナウイルスが検出された!」

 そんな衝撃的なニュースが流れた1月中旬以降。

 私の暮らす郊外の田舎町でも、近所のコンビニやスーパーの店頭からまたたく間にマスクが姿を消した。

 仕方がないから、2月初旬にチェンマイに遊びにやってくる予定の友人に日本でのマスクの調達を頼んだ。

 ところが、彼の暮らすかなり大きな地方都市周辺のドラッグストアやホームセンターなどを二日がかりで20数軒回ったところ、エタノール消毒液を含めてまったく見つからなかったという。

 世界同時進行の「マスク欠乏パニック」に苦笑しながら、私自身もさらなる田舎回りを始めた。

 そうしてメーリムという町の薬局でやっと冒頭写真の中国製マスクを見つけたのだが、新型肺炎騒ぎの前には50バーツ程度だった一枚の値段がなんと65バーツ(約234円)に跳ね上がっていた。

       *

 それでもどこかで、ひそかに供給は続いたのだろう。

 マスメディアやネットを通じた政府の啓蒙活動も、さらに活発になったに違いない。

 基本的には面倒くさがりである筈のタイ人のマスク姿が加速度的に町にあふれるようになり、最近ではわが近所の川沿い遊歩道でもマスクをしてウォークキングやランニングに励む人の姿まで見られる始末だ。

 そんな中でいま私が胸ときめかせているのが、まだ名も知らぬマスク美人である。

 遊歩道におけるウォーキング途上で、この人と初めてすれ違ったのはおよそ一週間前のこと。

 ほぼ半等身に見えるすらりとした体型である。

 長く形のいい足をぴたりとしたタイツに包み、上半身は軽快なスポーツウエア。頭には趣味のいい黒いキャップをかぶり、後ろの留め具の隙間から漆黒のポニーテールが愛らしく揺れている。

 そして、マスクに覆われた顔の中で唯一露出しているのがきりりとした形の美しい眉と長いまつ毛、いかにも涼しげな切れ長の両目である。

 前方から近づいてくる美観に思わず見惚れていると、その人はすれ違い様に小首をかしげ、その濡れたような黒い瞳に微笑をたたえて、

「サワッディ・カア」

 タイ語で「お早うございます」というさわやかな挨拶を送って来たのだった。

 すっかり乾涸びていると思い込んでいたわがハートが、「トックン」と鳴った。

 その瞬間、私は恋に落ちたのかもしれない。

       *

 その後、私はこの人と数度すれ違ったのだけれど、未だに挨拶以外の言葉を交わしたことがない。

 そうして、当然のことながら彼女の眉と目と耳しか見たことがない。

 感染予防のためにマスクをかけている人の前に立ちふさがり、わざわざ声をかけて名前を訊くなどは愚と野暮の骨頂であろう。

 それだけで嫌われることは目に見えている。

 今の状況からすると、新型肺炎騒ぎはまだまだ当分の間続きそうである。

 だから、私もまた当分の間彼女の顔を見ることはできないことになる。

 それはとても辛いことだが、いや、今の状態がずっと続いた方がいいのかもしれないという複雑な想いもある。

 なぜなら、私はこれまでに何度かマスク美人に心惹かれ、その度に失望したという苦い経験があるからだ。

      *

 最初は数年前のこと。

 病院でマスクをかけて血圧測定と予備問診を担当していた女性看護師の目元に釘付けになったのである。

 私は2時間にも及び長い長い待ち時間のあいだ、惚けたようにその濃い眉と生き生きと動く両目に見入っていた。

 そして、彼女が席を立とうとして何気なくマスクをかけ直した瞬間に、「あらら」という激しい虚脱感を覚えたのだった。

 眉と両目から勝手に想像していた容貌とは、まるで別人だったのである。

       *

 半年ほど前には、さる豪邸の前で落ち葉を掃いていたマスク美人のエキゾチックな目元にくらくらとなった。

 玄関口に貼ってある「売り家」の表示を口実にあれこれと話しかけて、携帯番号の交換に成功した。

 彼女は不動産管理の仕事をしているのだという。

 数日後、Lineに新しい友人として見知らぬ女性の顔写真が表示された。

 首をひねりながら名前を確認すると、あのマスク美人だった。

 けれど、その顔写真は先日会った彼女とはまったくの別人だ。

 もっとはっきり言えば、私の好みではない。

 ふと思い立って、その顔写真の鼻から下を指で覆ってみた。

 あれえ!?

 それは紛れもなく、数日前に豪邸の前で私がくらくらとなったあのマスク美人であった。

 いやはや。

 ところで、私自身のマスク姿は人には一体どう映っているのだろうか?

 

 

 

 

 

 


 

 

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クンター吉田@チェンマイ在住物書き
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