「遺された者こそ喰らえ」とトォン師は言った****タイ山岳民族カレンの村で****(晶文社ノンフィクション)
★目次(序章無料公開)★
【序 章 遺された者こそ喰らえ】
【第一章 オムコイの空に昇る】
【第二章 鳶(とび)色の瞳 カレン族の女】
【第三章 困ったもんだ!《ナッケー》】
【第四章 飯喰ってけ《アンミーヨー》】
【第五章 大蛇に食欲を覚えるとき】
【第六章 気にしない、気にしない《マイペンライ》】
【第七章 サバイバル戦略迷走す】
【第八章 霊に憑かれて金縛り《ピーアム》】
【終 章 放浪修行僧トォン師からの贈り物】
*
【序 章 遺された者こそ喰らえ】
お尋ねのあった人の生き死にについて、ちと話をさせてもらおうか。
あんたにもきっと覚えがあると思うが、人間というものはどうにも厄介な生きもんでなあ。たとえ、最愛の人を奪われて魂がちぎれそうになっているときにすら、腹が減るようにできておる。情けないことには、噴き出す涙と一緒に屁も出るし糞も出る。
これは、儂(わし)みたいに長年タイや国境沿いの山の中でいくら修行してもどうにもならん。
それはな、乱暴に言ってしまえば天上の仏とその膝元に昇った最愛の人の霊がな、「生きよ、生きよ」と励ましてくれている証拠なんじゃよ。
だからな、何がなんでも飯だけは喰わねばならん。
だって、そうじゃろ。
逝った父や夫や息子や兄弟は、なんのためにあんなに懸命に働いてきた?
それは、家族に飯を喰わせるためじゃろが。
逝った母や妻や娘や姉妹は、なんのために朝からコマネズミのように動き回ってきた?
それは、家族に飯を喰わせるためじゃろが。
生まれたばかりの赤ん坊だって、誰が教えずとも必死におっぱいに喰らいつくわな。
そうじゃろ?
地獄の味のような飯を喰らっているうちにな、やっぱり人間というのは不思議な生きもんでなあ。
ああ、飯というものはやっぱりうまいもんだと思えるようになってくる。
ああ、花はやっぱりきれいなもんだと思えるようになってくる。
ああ、子供の笑顔はいいもんだと思えるようになってくる。
ああ、助け合える仲間はいいもんだと思えるようになってくる。
いつの日か、ふと、つまらん冗談に笑っている己に気づいて自分を責めるかもしれん。
だが、それもいずれ自然に受け止められるようになる。
それはな、逝った者が遺された者を生かそうとしているんじゃよ。飯さえ喰らっていれば、力が湧いてくるんじゃよ。そうでないとな、空に昇った最愛の人の霊がな、辛いんじゃよ、哀しむんじゃよ。心を地上に残してな、いつまでも思い惑うんじゃよ。
先に逝った者にな、遺された者はな、絶対にそんな思いだけはさせてはならんのじゃよ。
幸いなことにあんたは今、この村で新しい家族や知り合いに囲まれて、とにもかくにも毎日何かをしっかり喰い続けている様子じゃ。おかげで、笑ったり、派手な夫婦喧嘩もしていると聞く。
その力の元が、たとえ亡くなったあんたのカミさんが悲鳴をあげそうな蛇や野ネズミのような代物であったにしろ、それをありがたく命の糧にしてゆくことこそが先に逝った者に対する供養なんじゃよ。
最善の供養なんじゃよ。
つい最近、あんたの国で起こった理不尽な大災害を考えてみてもな。死の数と被害の膨大さにはたじろがざるを得ないが、そこをぐいと踏ん張ってな。
逝った者と遺された者、それぞれ一人ひとりの魂と胸の底を深く深く問うてみれば、タイ人も日本人もさして変わらんのじゃなかろうか。かつては、タイ南部でも同じような津波被災があったから、決して儂の身勝手な想像でもないと思うんじゃが……。
まあ、出家前には刑務所の飯も喰らった極道もんの至らぬ修行なんぞ、今の日本の大きな不幸には屁の役にも立つまいが、もしも暇つぶしにでも聴こうという人がひとりでもいるのなら、あんたの口からこの話をそっと伝えてもらっても構わんよ。
むろん、屁と糞の話は抜きにして、上品な日本語に変えてな。
〈わが村出身の高位放浪修行僧トォン師との対話より構成。師は五十歳を超えてなお住職を拒み、タイ・ラオス・ミャンマー国境の山中をさまよいながら仏教修行と説法を続けている〉
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