【クンター流カレン族生活体験 その⑦】
<瞬殺! 鶏解体講座>
わが家では、およそ30羽の鶏を放し飼いにしている。
およそ、というのは雄鶏が飼い主に勝る好色体質ゆえか休みなしに雌鶏を孕ませるわ、かえった雛が蛇、猫、イタチなどの天敵に襲われて次々と姿を消してゆくわ、なんとか生き残ってもしばしば食い意地の張った人間様の胃袋に収まってしまうわで、正確な頭数がなかなか掴みにくいからである。
従って、わがバンブーハウスに宿泊すると庭のあちこちで鶏たちの姿を目にすることになる。とりわけ、かえったばかりのヨチヨチ歩きの雛に頬を緩ませつつ見入っているゲストは数多い。
若い人にとってはきわめて珍しく、年輩の人にとってはきわめて懐かしい光景であるらしい。もっとも、明け方にはけたたましい鶏鳴や羽音で連日と言っていいくらいに眠りを破られるから、その胸の内はかなり複雑なものなのかも知れないけれど・・・。
放し飼いの目的は、むろん食べるためにある。時おり、買い手がつくこともある。なぜならカレン正月、先祖供養、各種の祈祷ごとなどの際に、供物としての鶏料理は欠かせないからである。そして、生きている鶏を調理するためには、当然それを「締める」という作業が不可欠となる。
わが村では、かつての日本でのように刃物で首を落としての血抜きはしない。文字通り喉頸を締めて、頭から蹴爪まですべてを調理の具材にする。おかげで、私の締め技も相当に錬磨されてきた。
まずは、前夜のうちに狙いをつけた鶏を竹籠に隔離しておく。寝入りばなを襲えば、鶏はいとも簡単に捕まる。
翌朝、両手でそっと羽を包み込んで籠から引き出す。右手で喉頸を軽く掴んで地面に横たえ、自分の左足で両脚をふんづけ体を伸ばし、同時に左手で羽を押さえ込む。こうしないと、蹴爪で攻撃されたり、羽で思い切り顔や腕をはたかれたりして痛い目に遭う。
さて、敵の動きを完全に制御したらば、あとは右手の人差し指を喉仏の辺りに食い込ませつつ一気にぎゅっと締め込むのである。
この必殺技は、柔道の裸締めの原理を応用したものだ(嘘です)。村の衆は単に首を鷲掴みにするから、臨終までに数分かかる。だが、常に殺しの質にこだわり、最近では頸骨が折れ曲がるように捻りまで加えるようになった私の場合は1分足らずだ。いかに鶏とはいえ、できるだけ断末魔の刻を短縮するのが屠殺人の仁義というものだろう。
そんな非情な姿におののき、村の衆は私のことをひそかに「冷血鬼クンター」と呼ぶようになった(嘘です、嘘です)。
昇天した鶏は、熱湯に浸して素早く羽と羽毛をむしり取る。そして、丸裸になったきれいなご遺体を焚火でこんがりとあぶる。
ナマンダブ、ナマンダブ。
ここで、私よりもさらに冷血の噂高い嫁が、口元に冷酷な薄笑みを浮かべつつ大振りの山刀で平然と腹を割く。
「キャーッ、残酷う!」
なんて言っていては、わが村では生きていけない。
本来なら私が捌(さば)きたいのだが、解体については嫁はまだ私のことを信用していない。刃の入れどころを間違えると、苦い胆汁などが散って内臓全部を台無しにしてしまうのだそうである。
故に、私の立場は屠殺人どまりで、いつまで経っても調理人に昇格することができない。
それにしても、肝臓や心臓の色合いはいつ見ても鮮やかだ。これらを主なポイントにして配置された各内臓やできたて卵の造詣の妙にもうっとりさせられる。むろん、腸腔の内部まで細い棒を使って洗浄するから、捨てるところはほとんどない。
肝臓、心臓、砂肝などはすかさず湯がいて、焼酎のつまみにする。ナムプラーをちょっと垂らして、ああ、オイテテ(カレン語でうまい)!
あとは、肉を手で裂き、肉の薄い部分は調理用山刀でぶつ切りにして、庭に生えたウコンや地生姜などの各種香草や薬草などを小臼で搗きつつ、トムヤム味やレモン味の鍋に仕立ててゆく。
米や青野菜を加えて呆れるほど長時間グツグツ煮込むと、カレン料理のゲーンカブワッ(粥状スープ)になる。この料理は冠婚葬祭や田植え、稲刈りなどに欠かせない。
さて、今回はゲストのリクエストに応えてトムヤム仕立てにした(ちなみに、ご存知「トムヤムクン」のクンは海老のこと。具が鶏の場合は「トムヤムガイ」、蛇の場合は「トムヤムング」となる)。
うーん、やっぱりオイテテ!
生まれて初めて鶏の屠殺と解体に直面し、やや顔を引きつらせていた若いゲストたちも、ふうふう汗をかきながら予想以上の量を平らげてくれた。
(次号に続く)