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"準"ミニマリスト的な暮らし

決してミニマリストのススメなんかではない。
と冒頭から伝えておく。
そしてこの準ミニマリストというのは私が作った造語であり、通称ではない。漢検準2級、とかの準だ。ミニマリスト検定があれば、準ミニマリストには合格出来そうな(主観)、ミニマリストになりきれてない、中途半端な奴だと思ってほしい。

栄枯盛衰、盛者必衰、諸行無常の世の中と私

小学校2年生のとき、友達と雑貨屋に行って
好きなキャラクターの小さな風鈴を買った。
吸盤が付いていて、ガラス面ならどこにでも貼れると
テレビ台に貼り付けて好きなだけ鳴らして喜んだ。

その日の夕方、
粘着に耐えきれなくなったその風鈴は落ちて割れた。
その数時間限りの命に、絶望に似た感情を抱いた。
大袈裟だが、世の中には永遠などないと初めて思った瞬間だった。
確か500〜800円くらいだったはずだが、当時の私には大金だった。

そこから、可愛いだけで実用性のないものは失ったときのことを考えるとより切なくなるから持たないと決心するのである。

モノが増えることがストレスな私

もともと、熱しやすく冷めやすかった。
だから何かに熱中するのが怖かった。

小学生の時に集めたシールや文房具も、
中学生の頃に買った小説も、
高校生の時に買った服も、

増えたモノたちは行き場をなくし、
そのためのスペースを確保するようになるのだが、
社会人経験から、空間すらも金なんだと知った私は
(今から思えば、土地にお金が発生するのは当たり前だが当時はその発想がなかった)
それを圧迫するモノが諸悪の根源のように思えてくるのである。

そうして本を置くための本棚や
服を入れるための衣装ケースを持たない
という選択をするようになる。

今の住まいは置き物やぬいぐるみやゲームなどは一切置いていない。その代わりにお気に入りの家具と暮らすと決めている。
(ちなみに今一番気に入っているのは写真にもあるバブルシャンデリア)

見た目がすっきりすると、清掃状況がわかりやすく、在庫管理もしやすく結果無駄が減ることがわかった。

筋トレとの出会いで料理を辞めた私

かつての私は料理が趣味だった。
(興味がある人は、インスタグラムで透果と調べてほしい。消そうかと思っているので最後に供養しておく。)
一人暮らしとは思えないほどの調味料と調理器具に囲まれていた。それが幸せだった。
でもあるきっかけから、筋トレに出会い、料理を辞めた。
(そのきっかけはまた別の記事に書こうと思う。)
激務で料理に手をつけられなくなり、
カロリー計算が複雑になることでさらに料理を避け、
ボディビルダーの食事例を見ては
人間の身体に必要な栄養素は非常にシンプルだと思った。

そうしてついに、調味料たちを手放した。
鶏胸肉と米と卵、鮭や鯖、素材のままでシンプルになった。あまりに素朴な私の食事を人から揶揄されたり、ストイックだと言われたりするけれど、これで私は毎週の買い物が楽になった。献立を考える時間が要らなくなった。

空いた時間で他のことができる。
モノがないというのは、事実、悩みを減らすのである。

スキルさえ残ればいい、という考え方と私

調味料がないけど、料理できるスキルはある。それでいいじゃないか。
スペースが不要なモノ(私にとっては経験やスキルや人脈)はありすぎて困ることはない。
だから、投資するならモノじゃなくコト。
そう思えて、モノに対するトキメキを捨てたら少しだけ人生が豊かになった。

本当のミニマリストとは

私も人からの見て呉れを捨てて、かの有名なスティーブ・ジョブズさんのように毎日同じ服を着て
季節感のあるアイテムを手放してしまえば
"準ミニマリスト"ではなく
"ミニマリスト"と言い切れる、かもしれない。

でも合理的すぎない方が、人としては魅力的だ。

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