シリーズ北海学園大学新聞の戦後史:第12回(1955年④)片割れ月夜の
これまで北海学園大学(昼)の片割れのように扱われてきた夜間部(Ⅱ部)において、ついに自治会が結成された。これを祝して今回は2面あるうち1面のみを取り上げることとする。決して2面を記録し損なっていたのに今気付いたとかそういう理由ではない。うん。
北海学園大学新聞第16号(1955年12月16日(木)発行)(一部十円)見出し一覧
一面
・夜間で自治会結成/高まる学生自治の気運
→一部自治会に反省の好機/早くも全学協議会の声
・ホールの設置有望/本紙、学長と定例会見
・(論説)二部自治会の結成にあたって
・体育会新役員/決定さる
→早坂幹事長談
・(就職)増加した求人数
→決定者は二割未満
→厚生部長池田教授談
・(学園随想)GOOD BYE JOHN(ささきゆうすけ)
・実現不能か学生健康保険
→=私立大学は反対の意向=
・南助教授が報告
→道経済学会本学で開催
・大学設置基準決定
→三十一年度から実施
・バイト見込薄
・就職と部活動で討論
→道学生記者クラブ開く
・私立短大協議会
→藤短大で開かる
・会告
・経済史研究会発足
・道学生写真撮影会
・北星で英弁大会
・晴好雨奇
①ホールの設置有望/本紙、学長と定例会見
大学事務員(現在で言うところの『学生部職員』)の「態度の悪さ」がこの頃から言われていたと思うと、いっそ彼等の応対の悪さは本学の伝統であると吹聴したくもなってしまう。このように振り返ってみると、案外本学において「問題」として語られていることは開学の昔からずっと語られていることばかりであるというのが分かる。勿論ホール問題など現在の本学学生は全く頓着しないようなネタもあるものの、それは解決したというより、単に時代の変化により気にかける者がいなくなったというだけだろう。
②会告
全文引用!(いつもの)
以前も有料で新聞を発行していた点については目をつむろう。もしかしたら発行主体がしれっと変わったのかもしれない。しかし気になるのは重要な問題についての記事が要望されたという点である。正直なところ本記事でも取り上げていないように、それらのネタを取り上げた記事はそれほど大したことは言っておらず、道新か全国紙でも読めばいいんじゃないかという気がしたのだ。単に新聞会が強がりかウソを言っただけの可能性もなくはないが、ここではそうでないといと仮定して話を進めよう。
一つ考えられるのは当時の本学学生が新聞を購読しにくかったのではないかという説。そもそも当時は札幌市立図書館はひとつかふたつしか無かったようだし、購読料も案外馬鹿にならない。まぁそんなところだろう。もしかしたら当時の人間は「何を言ったか」より「誰がどの場で言ったか」を気にしたからこそ「自分たち」の手で作る言論にこそ(たとえそれが凡庸なものだとしても)価値を見出していたのかもしれない。
③晴好雨奇
昔の就職について知ることが出来るので一部引用しよう。
「▼」を使いながら一回を除いて改行を繰り返し、それでなお二行と少しの余白を作るあたりよほどネタに困っていたのだろう。うるさい主張を紙面の枠内に押し込んだ「論説」や「学園随想」欄よりたとえ話や人から聞いた話が多く、資料としては案外こちらのお粗末さの方が親しみをもてたりするものである。▼昔の就職の話としてよく「四年生になってからはじめた」という話が聞かれて、私のような古式ゆかしい四年生(になる直前の三月)からの就活をはじめちゃったような人間はインターンシップなきベル・エポックを勝手に羨んだりしたものだが、なるほど「われわれが今迄に学んだ全てが就職問題に延長されるのである。」のならば何やかんや就職にかけるリソースは現代とあまり変わらないものであるとも言える。▼私自身としてはそんな過去でもなお羨ましいがしかし、当時は学歴や銘刀コネクション号がものを言う時代であり、これはもはや当世流行りのインターンシップなんぞよりもっと早い高校生時代に就活をしていたようなものだと言えるのではないだろうか。このように過去の実情を振り返ってみると、相も変わらず茶番まみれとはいえ、なんとか学歴にとらわれれず総合的にキャンパスライフを見ようとしている当世風の就活も案外そう悪いものではないのかもしれない。
あとがき
今年はこのシリーズを14本しか書けなかったってマジ?1976年に一度廃紙になった時にゃ既に120号を超えているから下手したら第一部完!まで6年くらいかかるかもしれない。