【第85回】韓国の独立記念館で歴史を考えた。(韓国旅行記 Vol.3)
「Hey, Siri.ソウルの気温を教えて」
ソウルの気温は-5℃です。
うん、そうだよね。どうりで寒いと思ったわけだ。
ソウルは緯度の割に寒いと聞くけれども、想像以上に寒い。-5℃と聞いて余計に寒くなってきた。こんなことなら調べなきゃよかったな。
寒さで白くなるため息をつき、iPhoneをポケットに入れると僕は手に持っていた上着を慌てて着直した。せっかく朝風呂に入ったのに温まっていた体が急速に冷めていくのが、よくわかる。
湯冷めしないか心配だなと思いながら、シルロアムサウナを出た僕はざわけんとの待ち合わせ場所であるソウル駅に向かった。
朝のソウル駅
日が出て明るくなったことで、昨晩はわからなかったソウル駅周辺の様子がよくわかる。ソウルは山に囲まれた盆地だ。その様子もはっきりと見えた。
現役で使われているソウル駅もガラス張りの近代的な建物で美しい。
ソウルの中心駅なだけあって、それなりに人の往来もある。その様子を駅内の自販機で300ウォン(当時のレートで約30円)だった激安ホットミルクを飲んで、ぼんやりと眺めながら待ち合わせの時刻を待っているとLINEが。
約束の時間より若干早いが、僕らは合流することができた。
韓国人の優しさに触れた
僕らが、この日訪れようとしているのは韓国の独立記念館。
その名前が示すとおり、朝鮮半島を植民地支配していた日本からの韓国独立を記念する博物館となっている。そういった背景もあってインターネット上では反日記念館と呼ばれることもある。
いささか日本人としては心理的に行きにくい場所だけれども、韓国の歴史観に触れるにはうってつけの場所だろう。
本当は、ざわけんとは韓国と北朝鮮の軍事境界線上に位置する板門店に行き、この場所には一人で行くつもりだった。しかし流行するアフリカ豚コレラの感染拡大防止の目的で板門店ツアーが中止になってしまったので、こちらに一緒に行くことにしたわけだ。
独立記念館はソウルから南の郊外の街「天安(チョナン)市」にある。独立記念館に行くためには、まずは天安市に行かなければならない。
アクセスの方法は色々あるけれども、都合のいい特急も無かったこともあり僕らはソウル地下鉄1号線を使いソウル駅から天安駅へと向かうことにした。
そして、これが大きな間違いだった。
2時間かかる道のりが約5時間近くかかってしまったのだ。
そもそも、最初から目的地と真逆の方向に行く電車に乗るという幸先の悪いスタートを切ってしまったのだけれども、似ているようでぜんぜん違う韓国の電車のシステムにだいぶ翻弄されたわけで。
上の図の通り、僕らが乗ったソウル地下鉄1号線には支線がかなり多い。2人とも韓国語が一切わからないので、自分が乗っている電車が、どこに行くのか不明になるという問題が発生する。しかも駅や乗っている車両のシステムによっては英語すら無いこともあって本当に何がどうなっているか、わからない。
そのせいで乗り換えできずに挙句の果てに、ほとんど無人となった電車の中に閉じ込められたりもした。
更に、この日、運の悪いことに韓国鉄道でストライキが発生したので、電車が大幅に遅延し餅店(ピョンジョム)駅で立ち往生をくらってしまったのだ。
そんなことをつゆほどにも思わず、何で電車が来ないのか、ただただ混乱するばかりの僕ら。だって日本でストライキのせいで電車が動かないなんてこと、ありえないでしょ。事態が飲み込めなさすぎて日本にいる韓国語ができる友達にビデオ電話してしまったほど。
電車が来ないせいでホームは大混雑。
なんとか電車は動き、やっとのことで天安駅にたどり着いた時には、僕らはもうクタクタになっていた。
すべてが噛み合わない。そういう日ってあるよね。
しかし、この1件で韓国人の優しさに触れられたのも確かである。
電車を乗り間違えた時、改札を通してくれた駅員さん。駅のホームで乗るべき電車を教えてくれたお姉さん。地下鉄車両に閉じ込められたときに電車から出してくれたおじさん。トイレに行きたい僕らを改札から一時的に出してくれた駅員さん。餅店駅で次の電車がいつ来るか教えてくれたお兄さん。
僕らが2人でいたので、困っているのが丸分かりだったというのもあるけど、海外旅行していてこんなに人に助けてもらったのは初めてだった。実は昨晩、ソウル駅行きの切符を買う際に「ソウルヨク」という表記がソウル駅を指していることに気が付かず混乱していた僕の代わりに切符を買ってくれたお兄さんもいたのだ。
中には教えてもらった情報が間違っていたこともあったけれども、決して悪意があったようには思えない。困っている人を見ると助けたいんだと思う。
そう考えると、あながち、この経験も無駄ではなかったのかなと思えるけれども、流石に疲れた。ずっと立ちっぱなしだったし。
そういうわけで、遅めの昼食を食べつつ少し休憩をした。
入ったのはヤムセムキムパッという韓国のチェーン店。
僕はトック(韓国の餅)入りのラーメン、
ざわけんはキムパッ(韓国風のりまき)を注文。
見た目ほど辛くないけど日本の辛いものよりは辛い。
韓国の独立記念館で考える
お腹を膨らませ少し休憩した僕らは、独立記念館に向かうためにバスに乗った。天安駅からはたくさんバスが出ているが、独立記念館に行くのは400番と書かれたバスなので注意しよう。
バスはT-moneyを使えるので便利。
車内は日本のバスより広い気がする。
それからバスに揺られること40分。やっと、独立記念館に到着することができた。ソウルを出発してから6時間。長かった…。
この独立記念館、とても広い。
しかも寄付によって作られたというから驚きだ。
この独立記念館は7つの主要展示館と、敷地内に建てられた様々なオブジェから構成されている。
キュレ(同胞)の塔
キュレ(同胞)の家と太極旗広場
韓国の光復節(独立記念日)である8月15日にちなんで
815本もの太極旗(韓国の国旗)が並ぶ。
独立記念館の入り口にパンフレットが置いてあったので手にとってみる。
パラパラと中をめくると、とある言葉が目についた。
日帝強占期という言葉だ。僕たち日本人には馴染みがないけれども、韓国で日本が朝鮮半島を植民地にしていた1910年〜1945年の時期をこう呼ぶらしい。
相手を貶すために嘘をでっちあげるというのは、よくある話。色んな感情で溢れる日韓関係なので日帝強占期という言葉自体、本当にあるのか懐疑的だった節があるけれども存在したようだ。
この言葉、日韓の歴史認識の違いを非常によく表している言葉だと思う。日韓併合そのものが違法であり日本に強制的に占領されたのだと考える韓国政府の考え。それに対して、韓国併合は合法的に行われたと考える日本政府の考え。結局、この問題に関しての解決は、日韓基本条約の第二条に「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」とあるように先延ばしにされたまま今日に至っているのだ。
こういった両国間で歴史観が大幅に異なることを踏まえ、工事中であった第二展示館を除く7つの主要展示館をすべて回ってみた。
感想としては「言うほど反日記念館か?」と思ったわけで。
ネットの前評判を見る限り、もっと反日感情に渦巻く怖い施設なのかと思っていたけれども実際は淡々とした展示が続いていたし、敷地内は市民の憩いのような場所でほのぼのとした空気が流れていた。
日本を批判するよりも韓国独立の正当性と、その偉大さを主張する展示がメインで、その名の通り独立記念館だったと思う。韓国の独立は、朝鮮半島を統治していた日本からの独立であり、その過程にあったことを反日と捉えるなら、うん、まあ反日なんじゃないといった感じだった。
残念ながら入れなかった第2展示館が日本統治下の朝鮮半島を紹介したものであり、この時代がもっとも評価の分かれる時代なので、それを見ることができなかったのは非常に残念だったのだけれども。もしこの記念館を見ることができたら感想は大きく変わっていたかもしれないが、こればっかりはしょうがない。
それより興味深かったのは、日本からの独立したということが韓国という国のアイデンティティの一つなんだなと展示を見て伝わってきた点だ。独立記念館の中では様々な抗日運動や運動家の紹介がされていて、こういった人たちの活躍によって独立を勝ち取った…とまではいかないが、彼らのおかげで今の韓国があるんですよーというストーリーが韓国国内には存在するんだと思う。
現在の大韓民国憲法の序文にも「久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統(中略)を継承し(後略)」との記載があり抗日運動から生まれた大韓民国臨時政府を経て今の韓国があると読み取ることができるので、あながちズレてはいないはずだ。
更に、日本に帰国した後、日本語に翻訳された小中高の国定韓国歴史教科書を読んでみたところ、その確信が強まった。
ときにその一部が引用され反日教育だ!と批判されることもある韓国教科書。確かに日帝の蛮行、侵略といった非常に強い表現が使われている箇所もあるけれども、全編を通して読んでみると日本を批判するよりも様々な苦難を乗り越え今日に至る偉大な韓民族という方が強調されていると思う。
そうは言いつつも、3・1独立運動を始めとする様々な抗日運動を経て日本から独立したのではあれば、日本に対しての風当たりが強くなる土壌があり、そこから発展して反日感情を強く持つ人がいるんだろうなとも感じた。もちろん世の中には様々な考えを持つ人がいるのが普通なので、韓国人が全てそうだと言っているわけではない。
この独立記念館に来ることで、なんとなく韓国が反日的であるという印象から、この目で見たもの学んだものを元に国の成り立ちを考えるとそうなってしまう側面もあると考えることができたのは非常に大きかった。前者で韓国を捉えるのと、後者で韓国を捉えるのでは似ているようで見方が全然違ってくるはずだ。
印象や偏見だけで判断するのではなく、まず事情をしっかり把握して理解を示していくことが大事だと思いたい。
旧朝鮮総督府撤去部材展示公園
想像していたより強い反日感情を感じなかった独立記念館の中で、唯一、その感情をひしひしと感じた場所も紹介しておきたいと思う。
旧朝鮮総督府撤去部材展示公園だ。
ここで展示されているのは、その名の通り植民地となった朝鮮半島を統治するために設置された朝鮮総督府が使用していた庁舎の残骸。
在りし日の朝鮮総督府。
この庁舎は1926年に完成してから、日本が敗戦し朝鮮半島から撤退した後も国会議事堂、中央庁、国立中央博物館と使われ続けていたが1995年に光復50周年を記念して爆破解体された。
(2023/08/04 追記 爆破解体ではなく尖塔を切断の上、解体とのこと。日本国内のみならず韓国国内でも爆破したと思い込んでいる人が多い。よく考えたら爆破してしまうとソウルの近くにある景福宮や光化門にも被害が及ぶ。ましてやソウルの中心地だ)
その残骸がここにあるというわけだ。
様々な背景があるにしろ朝鮮総督府が1910年〜1945年の間、朝鮮総督府を統治していたのは事実。韓国国内で歴史を後世に伝える遺構として保存を主張する意見と日帝残滓として解体する意見があったらしいが最終的に解体された。
そうは言っても別に解体したことや残骸そのものに反日感情を感じたわけではない。あの人類史上最初の原子爆弾投下の惨状を現代に伝えるヒロシマの原爆ドームも現在は世界遺産に登録され残されているが、当時は「被爆当時を思い出す」という市民の意見もあり解体の意見もあったそうだ。原爆ドームと対象的にナガサキの原爆投下のシンボルとなりうるはずだった浦上天主堂は解体されてしまっている。そこまで遡らなくても、東日本大震災の震災遺構は保存と撤去との間で揺れてきた話は聞いたことはあるのではないだろうか。
東日本大震災の震災遺構に関する記事。
本記事を趣旨とはズレるが一度見てほしい。
それを踏まえると、特別な話ではないと思う。何しろ朝鮮総督府庁舎は植民地時代の象徴だったのだから。
それよりも、その残骸の展示方法とその説明に心が動かされた。
展示横にあった説明文の引用にあるとおり、解体された残骸が粗末な形で散りばめられている。
一つ一つの塊はかなり大きい。その残骸をわざわざ庁舎のあったソウルから、この独立記念館から運んできて展示したと思うと、その執念を感じたわけで。
この文を読んだとき、正直「すごいな…」としか言えなかった。
たぶん日本人のほとんどは、この場所を知らない。朝鮮総督府という存在も僕らのような若い世代だけではなく、かなり上の世代の人たちも知らないだろう。僕ら以外の日本人の姿は、まったく見なかったことが、それを物語っている。
朝鮮総督府の象徴であり地下5mに埋められた尖塔。
これを前にして僕らは何を思うべきなのだろう。
相手の事情も知らないで、もしくは憶測や偏見で議論することはできないと思う。それはただの一方的な決めつけ、糾弾でしかないのだから。
そういった意味でも、日韓関係を考えるために歴史を知る上でこの独立記念館に来た価値はあった。
それに日本にいては、かつての戦争を被害者としての立場でしか認識できないと思う。空襲や原爆によって受けた被害などは、実際に話しを聞いたり資料をみたりすることはできても、日本が海外でしてきた加害者的な立場を知るのは難しい状況だ。
戦争は正義と正義のぶつかり合い。どちらも被害者となるし加害者となる。そういったことを経験値として知るためにも、ぜひとも海外に行き戦争というものを別の視点で考えてみてはどうだろうか。
最後に
この独立記念館に行った話を書くかは迷いましたが、思ったことを書きました。
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