校則は何を守るために存在するのか
日本にはブラック校則と言われる、根拠のない生徒たちの「個性」を奪うようなものがいまだに存在している。
特に私が今回話したいのは、髪色だ。
また、この話はどこかの学校について特に話しているのではなく、概論として話したいと思っているので、そこについては承知しておいてもらえると嬉しい。
自分の中のモヤモヤ
最近一部では社会のルールやしきたりに対して疑問を呈するような歌詞が流行っていたりする。
流行っているというか、よく聴いている生徒を見かけることが多くなった。
そんな気がする。
私は今まで学校という場所で頭髪チェックたるものを受けたことはないが、教育関係のアルバイトをしていると必ずと言って黒染めをするように言われる。
いや、なんで!!!
私は元々生まれつき毛量が多いから少し茶色味がかった髪色にすると全体としてカラスのような印象が抜けるので、中学2年生ぐらいの時から染めている。
しかし、黒染めをしなさいと言われる。
これは自分にとってはとても心地が悪いような、自分のベストの状態で指導をできないというのもあって、どこかもどかしい気持ちだった。
教員は生徒のモデルになるから、という意味があると言っていた気がする。
確かに手入れをしていなかったり、寝起きのままのボサボサの髪で教壇に立つのは、はてそれは生徒や働いている場所へのリスペクトが足りているだろうかというところに疑問が残る。
しかし、その先生自身が自分のアイデンティティーとして自信を持って髪色や髪型を決めて、生徒の師として教壇に立っているという点では、そこを尊重する責任があるのではないかと私は思う。
それと同じように生徒にも髪色で自身の個性や考えを主張する権利があるのではないかと思う。
ましてや生まれながらにして茶色や金髪、癖っ毛やストレートなど、色々な髪のスタイルがこの世の中にはあるっているのに。
それを一律にすることが本当に学校としてやりたいことなのか。
学校のゴールとしてに近づくために必要な制限なのか。
じゃあ、学校ってどんな場所?
一旦上のお話しから離れ、曲を一曲紹介したいと思います。
私はこのAnlyさんという沖縄県のシンガーソングライターの歌を聴いて、こんなことを歌わせてしまう学校教育が残っているということに対してどこか悲しくなった。
同時に、彼女の強さにとても勇気をもらった。
なぜ自分の愛している自分の姿を変える必要があるのか。
ましてやなぜ生まれたままの自分の外見に文句をつけられなくてはならないのか。
「多様性」の重要性が声高に語られるこの世の中の「多様性」を知る機会はどこにあり、どこで培われるものなのか。(私の中にはまだ「多様性」という単語に対して考えるところがたくさんあるので、ここでの多様性は、あえてかっこ書きにさせていただこうと思う)
学校という場所こそ、自分の家庭や自分の環境を飛び出して、新鮮なものと触れ合う機会があり、知見を広げ、より色とりどりな世界が外にあることを知る、学ぶ場所だと思っている。
そんな学校という場所で髪色や髪型を揃えること、
本人が本人らしくいること、
本人が本人を好きでいることに制限をかけるのはどうなのだろうか。
だから日本の学生は特に自己効力感が低いのでは?
と思ってしまう節がある。
自分がいいと思ったもの、好きなもの
そのようなものを身につけることさえも制限がかかってしまうような環境で自己効力感を上げようとしてもやはり限界があるんじゃないかなと思ってしまう。
テストや成績の結果がいいだけでは、あげられないものなのでは?と
髪色を変えることで周りにどのような影響を及ぼすか考えましょう
とか
学校の代表として出るからには
とか
もっと人の根っこの部分を見て、そこに自信を持ってもらえるように、そんな教育を行えたらいいと思う
校則について考えたきっかけ
今回校則について考えるきっかけになったのは、お世話になった大学の先輩が「NHKスペシャル君の声が聴きたい」という番組の取材に関わられていたからです。
働きながらも、「やりたい!」と思ったことを行動に移して、このように形にして発信までされている姿は本当にかっこいいし、いつまでもこのように成長してこうなりたいと思うロールモデルがいることはとても幸せなことだなぁとしみじみ。
学びを続けることは机上だけじゃなくてこうやって発信したり
対話をしたり
いろんな活動をすることによってより深まる気がする。
校則は何を守ためにあるのか。
私たちの社会、何気なく生きてきた環境を今一度見直していきたいな。
そんなことを考えた一週間でした。
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