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山代温泉の開湯伝説に関する調査(二次報告)

一次報告において、以下のように記した。

 山代温泉における八咫烏とは、明治32年「温泉寺略縁起」に霊烏として登場して以来、大正4年の魯山人作品群を除いて当面の間無視されていた伝説である。昭和45年にカラス、1992年に八咫烏として再登場し、2003年の観光協会による再発見以降はほぼ定着した。
 ただし民間伝承として存在し続けていた可能性は残る。

 本頁では民間伝承としての八咫烏を探る。
 結論から言うと、カラス類としては1958年頃までは遡れ、八咫烏としては1989年頃まで遡れそうだが、それ以前に関しては要調査である。

 本文は、
1.民間伝承はいつまで遡れるか?
2.民間伝承はいつまで遡れたか?
3.八咫烏はいつまで遡れるか?
4.八咫烏はいつまで遡れたか?
まとめ
参考文献
…とした。

 また「山代温泉の八咫烏伝説を追う」「山代温泉開湯伝説7種盛り」「山代温泉の開湯伝説に関する調査(一次報告)」も参照されたし。

1.民間伝承はいつまで遡れるか?
 ここではカラス/八咫烏の区別をせず、カラス類による開湯伝説が民間レベルではいつまで遡れるかに注目する。
1-1.住民インタビュー
 温泉寺住職、観光協会職員、旅館や店舗の人など14,5人へのインタビューと言う少ない調査量ながら、うち6人ばかりはおおよそ50年ほど前(1960〜70)にはカラス類による開湯伝説を聞いたと語った。他は「温泉地で働くようになってから聞いた」が多い。
 人の記憶はすぐに変化するとは言え、それなりの数の人間が同時期・同伝説を語ったのだから、信憑性は高い。
1-2.えぬのくに
 インタビューとほぼ同時期、1970年えぬのくにには略縁起の引用とともに「カラスが傷を癒していた」とするバリエーションを紹介している。
 略縁起との差異を見ると、「瑞烟を見て」が「紫色の雲のたなびくのを見て」に、「霊烏の指授」が「怪我をしたカラスが翼を濡らしているのを見て」に、また「杖を立てると湯が湧き出した」と追加がある。概して詳細に、物語的になっており、これをどう判断するかが迷いどころである。子供や観光客向けに「筆者が」作り替えたとも取れるし、「民間で」作り替えられた物語を採集したものだとも取れる。同記事には山代の昔話が2,3編収録されており、それはラジオ用の原稿だと書かれている。
1-3.カラス浴衣
 1972年のカラス模様の浴衣を確認した。広報やましろによれば「各家庭で揃いのカラス浴衣を作り」とあるので、一集団のシンボルではなく山代全体のシンボルとしてカラスが用いられていたことが窺える。
 この「カラス浴衣を作ろう」と言う動きがどのように発生したのかは調査の必要があろう。混乱や反発が無かったのならば、既に山代と言えばカラスと認知されていた事の裏付けになる。
1-4.1958「やましろ」
 温泉寺略縁起を引用しつつ「一羽の鳥が飛んで来て、山陰の田の水に翼を濡らす有様を眺めて発見した」と描写。引用元では「霊烏の指授」としか書かれていないのだから、それ以外の描写は創作又は民間伝承の採用であろうか。
1-5.カラス着物
 「戦前の」としか判らなかったが、揃いのカラス模様の着物を着て山代小唄を歌う場面の絵葉書を確認した。
 どこかの旅館の芸妓と言う一集団に過ぎない可能性はある。
1-6.霊烏延壽皿
 1923年頃、魯山人が「地元の要請で」霊烏延壽皿を作る。
 この記述が「めでたい皿を作れ」なのか「開湯伝説に因んだ霊烏の皿を作れ」なのかで変わってくる。また、注文主が誰なのかも重要である(あらやならばカラス伝説はあらやだけのものだった説の補強になるし、他ならば山代一般の伝説説の補強になる)。
1-7.あらやの「烏湯」「暁烏」
 1915、大正4年、魯山人があらやに「烏湯」と書かれた看板と「暁烏」と呼ばれるカラスの絵の衝立を作っている。
 あらやHPなどによると、「カラスが見つけたのはあらやの源泉」とあるので、この時点でカラスが山代一般のシンボルだったかは怪しい。ただしこの記述も近年のものなので、大正4年頃の自認は不明である点、注意が必要だ。
1-8.鈴木華邨による「三羽烏の絵」
 市美術館によると「1905、吉野家旅館で即興的に描かれた絵」との事。
 これが開湯伝説に関わる画題なのか、単にカラスの絵を描いただけなのかは不明だが、伝説に関わるとするならばあらや以外にもカラス伝説を認めた旅館があった事になる。
1-9.明治32年、温泉寺略縁起
 文書上の初出「霊烏の指授」がある。
 この縁起書は、これ以外の縁起書に比べて山代・温泉寺のアピール意識が強く、霊烏に関しても古く見せよう、明治政府(皇室)との繋がりをアピールしようとしただけの創作に過ぎないように見える。
 ただし、東山温泉に見るように、行基と八咫烏がセットで用いられる伝説もあり、また西尾正仁「薬師信仰-護国の仏から温泉の仏へ」
(岩田書院、2000)によると行基・薬師による開湯伝説をもつ一派と熊野の一派が互いに影響を受けたとあるから、八咫烏が流入する余地はある。
 また、従来の縁起文とほぼ同じ内容を語る部分と行基について新たに追加された部分とで若干の矛盾があることは、二つ以上の伝説を一冊にまとめたからだろうと推測できる。となると、霊烏に関してもなにがしかの伝説、あるいは民間伝承を取り入れたものかもしれない。
 矛盾点とは、「舟で山代に来た」とする一方、「吸坂(山)で瑞烟を見た」、また「白山開山の後」とするなら舟で山代→白山→山代→吸坂→山代となり、不可解な行程となる。創作ならもっと上手くやる。よって霊烏も元となる伝説があった可能性がある。
1-10.山中温泉の白鷺伝説
 記された年号によると1194年や1812年の縁起には既に白鷺がいる。立地の近さ、行基-薬師の伝説の共有などを考慮すると、同時期に山代にも似たような伝説があっても不思議は無い。
 ただし、これは全くの想像である。

2.民間伝承はいつまで遡れたか?
 以上1-1〜3から、1970頃には民間でもカラス伝説が語られていたであろうと思われる。同様に1-4.から、1958年まで遡れるか。
 戦前に関しては不確定ながら、少なくともあらやはかなりカラスを意識していたと思われる。
 明治略縁起のカラスに関しては、創作の疑いは強いが全く不自然とも言えない事が分かった。
 それ以前に関しては、証拠はないが、山中に鳥があるなら山代にも有っても良いだろとは感じる。

 反例としては、一次報告にある通り、そもそもカラスの記述が少ない・近年のものばかりと言う点がある。また「山中の白鷺には言及するのに山代のカラスには触れない」「山代の花山法皇の霊夢には言及するのにカラスには触れない」など、不自然な記事もある。これは民間伝承が無かったか、限られた範囲でしか語られていなかった事を示唆する。

 また1923(皿)〜1958(やましろ)の間に約40年の空白期間がある事が気にかかる。新たな資料を探し、この間隙を埋めねばなるまい。

3.八咫烏はいつまで遡れるか?
 民間伝承としての八咫烏について探る。
3-1.1992年、いで湯の街・やましろ
 「八咫烏」の文書上の初出は1992年の「いで湯の街・やましろ」である。
 ここで著者を見ると、北陸銀行とあり、山代支店開設何周年だかの記念として作ったと有った。銀行に伝説を変更する動機が無いと思われるから、この記述は誰かから聞いた話をそのまま収録したのだろうと思われる。
3-2.1989年、温泉寺門前の石碑
 温泉寺略縁起として「霊烏の指授」と書かれた石碑が建つ。
 この時、カラスによる開湯とされていたものが霊烏による開湯が正しいと認識され、霊烏すなわち八咫烏へと変化した、もしくはカラス版と八咫烏版の伝承があり、八咫烏版が優勢になったと考えると、「いで湯」で急に八咫烏と言い出したかのように見える事の説明が付く。或いは「いで湯」が石碑を参考に八咫烏と言い出しただけかもしれないが、疑問を持った大衆も石碑の霊烏と言う証拠を以って伝承を修正させ易かっただろう。
3-3.インタビュー、但し文書とは齟齬がある
 インタビューによると1970年代には八咫烏だったと言うが、文書上では1970年頃はカラスの記述が出始めた時期である(現状最古は1958)。
 ここは両者に矛盾があるため、確定した証拠とは言えない。
3-4.明治略縁起
 明治32年の温泉寺略縁起に「霊烏の指授」の記述がある。1-9にある通り八咫烏が伝わっていても不思議はないし、一般的にも霊烏とは八咫烏を指すが、八咫烏以外の霊妙なカラスの可能性も残るため、確定とは言えない。
 また、1958まで文書に見られない事から、この記述が一般に広く知られていた・重視されていたとも考えづらい。
3-5.月うさぎ伝説
 加賀には月うさぎ伝説があったと言う。これを中国の玉兎とみなすなら、同じく太陽に住む金烏(八咫烏と同一視される)が同市にあってもよい。金烏玉兎と言うモチーフが知られており、それが民話に取り込まれたものが月うさぎ伝説と八咫烏の開湯伝説だ、とするのは無理があろうか?
 また、この月うさぎに関しても出典を確認できていないので、信憑性に欠ける。

4.八咫烏はいつまで遡れたか?
 1989年の石碑、1992年の「いで湯」から、この辺りで八咫烏が変化・固定した可能性は高い。ただしインタビューや温泉寺略縁起から、明治32年以前・以降もずっと八咫烏だった可能性も残る。

まとめ
 山代温泉のカラス類による開湯伝説は、現代における証言、えぬのくにの記述、カラス浴衣が同年代に確認できる事から、おそらく1970年代には民間伝承として存在した。1958年「やましろ」もおそらくは民間伝承の採用だろう。それ以前に関しては有ったようにも無かったようにも見える。調査の継続を要す。
 八咫烏に関しては、1989年頃に変化・固定したものと推測出来るが、やはりそれ以前から八咫烏だった可能性は残る。

 根本的な所では、明治略縁起が何故「霊烏」と記載したかの解明が課題である。それには明治略縁起の性質や編集意図を探る事が重要になろう。
 また「あらやの源泉が一番古く、かつカラスの伝説を持つ」とするあらやの説も気になる。家伝が縁起に取り込まれたが一般化せず、一部の民間伝承として伝わるうちにじわじわと広がって書籍にも採用され、一般化し現代に至ると言うのは説得力がある。ただしまだ証拠が足りない。
 なんにせよ、いいかげん素人の単独調査も限界があるので、協力者か行政・学者の本格調査を期待したい所である。

参考文献
インタビューに関しては、「山代温泉の八咫烏伝説を追う」の下の方を見てくれ。

1970、(1985.昭和60年、えぬのくに 復刻版(第11号〜20号、p454による)「略縁起には〜とある」の後に更に続けて「白山に修行に来た時、吸坂山の上から白山を眺めると、遥か彼方に紫の雲のたなびく処がある。…山かげの田に、一羽のきずついたカラスが翼を濡らしているのを見られ、そこに杖を立ててみられると温泉が湧き出た。入ってみると霊泉だったので薬師如来等を彫り…」
1972、昭和47年の菖蒲湯祭りの写真(平成18、ふるさとの移ろい 山代の半世紀、市立図書館、p70による)
浴衣にカラスあり。
1972、(2017、写真アルバム 小松・加賀・白山の昭和、p213による)、カラス浴衣あり
1973、加賀・山代温泉「昭和48年度菖蒲湯祭」8mmから(2018投稿)
https://youtu.be/_nC_rq70HTM?si=Sel_l2oPuO9kO-cU
9:58、一瞬映ったのはカラス浴衣か?
2014.6.広報やましろ、p2、菖蒲湯祭りのあれこれ。「昔から山代音頭を町中で盛り立てようと色々やったらしいよ。みんなカラスの浴衣を作りましょう。とか」「我が家も4人全員作りました」誰の、いつの話かは不明。
1958、昭和33、やましろ
p402、
「「…当郡吸坂に至り東方瑞烟の上るを見て霊鳥の指授により発見し玉ふ温泉なり」と見えるので、行基菩薩が白山登山のさい山代の里を通りかかると一羽の鳥が飛んで来て、山陰の田の水に翼を濡らす有様を眺めて発見した温泉となっている」
2001、平成13、魅せられて山代、p35,36、カラス着物。翼に模様?びみょーにカラスじゃ無いかも?帯はタカか何かに見える。菖蒲湯祭に関連するかは不明。後のカラス浴衣とはデザインが違う。
 年代不詳だが、「山代小唄」「山代節 作者 千里庵竹友」とあり。年代特定のヒントになるか?明治〜昭和初期の絵葉書である事はわかっている。
2015、平成27、夢境 北大路魯山人の作品と軌跡、p42
「霊烏延壽皿 大正12年頃の作品。山代温泉発見の伝説にちなむ八咫烏を描いたこの皿は、…現地の求めに応じて作り」

あらやに関する出典は「山代温泉の八咫烏伝説を追う」の下の方を見てくれ。

温泉寺略縁起は「山代温泉開湯伝説7種盛り」に書き写した。

鷺や霊夢に触れてカラスに触れない例として、
1975、石川県大百科事典、p763、771、773がある。

山中温泉の縁起
1803、茇憩紀聞(昭和6年本)、p15
1195、石川県江沼郡史、p398

1992、いで湯の街・やましろp14、「略縁起によれば(略)。湧き出る泉に翼を休める一羽の烏がいた。手を浸すと温泉だった。……この烏は記紀に出てくるヤタガラスと同じで足が三本ある霊鳥」湯浴み烏として菖蒲湯祭の提灯や浴衣などにあしらう。

門前の石碑は「山代温泉開湯伝説7種盛り」に書き写した。

月うさぎの話は観光施設「月うさぎの里」関連の看板やHP以外に確認できていない。


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