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令和最新版!山代温泉の開湯伝説と歴史(非公式)
以下は山代の一村民フェイが勝手にまとめた山代の伝説・歴史である。
序文
山代温泉の開湯伝説と一口に言いましても、温泉が見つかりました、それ以来続いていますと言うほど単純でもないのが山代の歴史。
実のところ4部5部の構成になっておりまして、その第一は神話の時代にスクナヒコナが作ったと言うところから話は始まります。次いで行基による発見、第三は花山法皇による再発見、第四に前田利長による再興、第五に前田利治による整備。
この次に昔話として前田利鬯(としか)が共浴場を作ったとあり、その先は明治以後の歴史になりますが、今で言う古総湯が建てられたり、源泉の利用権を巡る争いが起きたり、解決したりもありました。社会情勢の変化はブランディングにも変化をもたらしました。
このように長い歴史を持つ山代温泉ですが、山代の由来書と言うものは実のところそんなに古いものはありません。1700年頃、1800年頃、それと時代のわからないものが数点と明治の略縁起が確認できただけです。しかもそれぞれに少しずつ、あるいは大きな変化があったりして、今でも変化を続けているくらいです。実は江戸時代の書物にはカラスが登場しないという、興味深い事実も有ります。ですが本書は令和最新版。新しい伝説も忘れられた伝承も、全部書くことにしました。
本文
山代温泉と温泉寺の由来・歴史
神話の時代、まだ人々が薬の知識を持たなかった頃、医薬の神スクナヒコナは人間たちが病気や怪我で苦しんでいるのを見て、大変心を痛めておりました。そこで日本各地に温泉を作り、人々の病気を癒やして下さったのです。山代のお湯もその一つとされています。
神亀2年(725)、泰澄と言う偉いお坊さんが白山を開いたと言うので、これまた偉いお坊さんの行基(行基菩薩とも呼ばれます)はお話を聞くために白山へ向かいました。その途中(あるいは帰り道に)吸坂と言うところを通りがかったのですが、そこから東の空を眺めると、瑞雲すなわち不思議な紫色の雲がたなびいているのを見つけました。一羽のカラスがその方向へ飛んでいったとも言われます。行基はその雲、カラスを追って行くと、やがて山代に辿りつきました。そこには(岩間から染み出す水/田の水/水たまり)があり、足または翼を癒すカラスが居たのです。不思議に思って手を浸してみると、それは温泉でした。行基がそこに杖を立てると、お湯が湧いたと言う話もあります。この時のカラスこそが実は三本足の八咫烏だ、と言われています。
さて、行基は早速お湯に浸かりました。すると病気によく効く良い温泉、他とは違う霊泉だと感じました。そこでこの温泉を広め、守護するために薬師如来と日光菩薩、月光菩薩、更に十二神将の像を自ら彫って、(近くの巌窟に/茅のお堂に/石のお堂に)まつり、更に白山権現を勧請しました。これが白山五院の一つ温泉寺の始まりであり、山代温泉の始まりと言われています。
同じ頃、越前国山背郷計帳(740年)と言う文書に山代(当時は山背と書いたようです)の事が書かれています。また山代小学校の辺りは地名に山背と入っておりますから、ひょっとしたら当時から続く表記なのかもしれません。
さてそれから何百年か経ち、山代のお湯もお堂もすっかり忘れ去られてしまいました。
長徳年間(995〜999)、又は寛和永延(985〜987〜989)、又は長徳3年(997)、帝位を退いて出家した花山法皇と言うお方が北陸を巡っていた時、吸坂の辺りで辺りを見渡すと、山の隅に湯気が立っていて蒸すような熱気を感じました。不思議に思って行ってみると、そこには温泉がありました。法皇は早速入ってみますと、心身が爽快なされたと言います。
その夜、法皇の夢に一人のお爺さんが現れました。
「私は瑠璃浄刹(薬師如来の住む国)からやって来た。この泉は私の悲願力によって湧き出し、私の方便力によって護られている。昔、行基がこの温泉を開いたが、いまではすっかり廃れてしまった。だが今(法皇が来た事で)縁は熟した。仁あるものよ、あなたがこの温泉とお寺を建て直しなさい」
そう言うと、お爺さんの姿はすっと消えて行きました。
法皇は夢から覚めると愕然として驚きました。しかし薬師如来からお願いされたと言うのでとても喜び、再建を志しました。そしてすぐにそれを達成しました。更に山代郷に持っていた荘園の一部をお寺に寄付し、名前を「霊方山薬王寺」と変更しました。そして従者の僧侶・明覚(妙覚または命覚とも書かれます)をお寺に残し、護国安民の為に祈らせました。多くの人が集まり、温泉もお寺も大層賑わったと言います。
この明覚が作ったのがあいうえお五十音図のルーツの一つ、「反音作法」です。また、温泉寺と服部神社の後背地・万松園には明覚の供養塔が残されています。これは地元では「メカクシサン」と呼ばれていました。
伝説っぽいのはここまでです。これ以降は歴史っぽい記述になりますが、縁起書には書かれているのでこのまま続けましょう。
また500年くらい経ちました。
天文年間(1532〜1555)の事です。越前の朝倉義景は朝倉教景を遣わして加賀国に攻め入りました。温泉寺も兵火に焼かれ、灰燼に帰してしまいました。お坊さんたちは何体かの仏像だけはどうにか持ち出すことが出来たので、兵が去った後、跡地を掃除して、それを茅や葦で作ったお堂にまつりました。
また同じ頃、一向一揆も盛んに行われていた為、その被害もあったと言います。
またこの頃、明智光秀ができものを治す為に山代に湯治に来たと言う話もあります。
慶長5年(1600)、前田利長は大聖寺城の山口玄蕃を攻め破りました。その帰り道、兵を松山城に詰めさせるため山代の辺りを通り過ぎました。お寺の主はその陣地に赴いてお寺の由来を語りました。すると利長はお寺の土地と山林、田畑を与え、更に免税もなされました。お寺は再興し、朝夕の勤めも果たせるようになったのです。
この山口玄蕃の供養塔が万松園にあり、また大聖寺○○寺には首塚もあるとかなんとか。
寛永年間(1624〜1644)の事です。加賀藩主・前田利常は前田利治を加賀藩の支藩の大聖寺藩主に任命なさいました。今の加賀市、当時は江沼郡と言った辺りは大聖寺藩となりました。
その利治は少年の頃、仏像を見て感動したことがあり、それ以来、立派なお堂を建てたいと考えていました。そこでまずは良い建材を城の中に集め始めました。しかし江戸勤めに出なければならなくなり、しかもその翌年に病に罹り、お寺作りはてきなくなってしまいました。
利治はあらかじめ村井長之に命じてあったので、彼の貯めた木材を山代に移し、仏像も安置することが出来ました。これが今の薬師堂です。
この時に授かった利治からの手紙は箱に入れて大事に保管していると書かれた書があります。
またこの時、利治がやって来て歴史を書き記すように言われたそうです。当時の住職は古老に話を聞くなどしてまとめたそうです。
ここまでが凡そ縁起書に書かれた内容です。
次の話は山代に伝わる昔話です。
大聖寺藩最後の藩主・前田利鬯(としか)が登場しますから、明治の直前でしょうか。
病気の父を持つ与一と言う男が山でカラスが飛んでいくのを見た。それを見上げていると、ひょうたんが6個ぶら下がっていた。それに山代の温泉を詰めておじいさんに勧めた。しばらく続けたら病が治った。村民にも話題になった。
大聖寺の姫が病気になったので、与一は山代の湯を詰めた6つのひょうたんに、それぞれ温泉を一杯につめて、1日1個の瓢箪の湯を飲ませて、6日目には治った。殿様は喜んで歌と褒美を贈った。
なかなかに二つのすかた有てこそ
世にふたつなき 宝とはなれ 利鬯(としか)
「では山代に共浴場を作ってください」
そのようになった。
それからはこの話にちなんで六つのひょうたんを持っていると病気にかからないと言って、みんな腰に下げて歩くようになりました
また山代温泉には前田家専用の湯壺もありました。山下屋にはその跡があると記されています。
補足
ここからはざっと歴史を見ていきましょう。
一説には男生水・女生水は温泉よりも古いとも言われているそうです。それから同じくらい古い神社として大堰宮神社もあります。
前田何某の頃に作られた市之瀬用水も充分に歴史があると言えましょう。その名を冠する市之瀬神社は、何度か移転をしているそうですが、もともとの名前は山代神社とも言い、町名の由来だともされています。
練羊羹にも昔話があり、老人を助けたところ、羊羹の製法を教わった。それが評判になり大聖寺の殿様の耳にも入った。ところが献上しようとすると妖怪が現れて羊羹が消えてしまう。殿様は「では私の家紋を付けると良い。妖怪も恐れ入って悪さをしないだろう」と言った。すると無事届けられるようになったと言う。
明治元年には大聖寺藩の贋金作りに山代の湯が使われたと大聖寺城跡の看板に書かれていました。
明治20〜30年頃には今で言う古総湯が建ったり、万松園を整備したりしました。総湯は何度か建て替えがなされており、今の古総湯は2010年に開業しました。
明治40年頃からは源泉利用権を巡って酷い争いがあったそうです。これを山代騒擾事件と言い、なんだかんだ昭和5年頃まで尾を引きました。
明治45年には陸軍病院というものもできています。この時代に軍部相手に訴訟を起こしたと言うから中々の胆力です。多分今の駐車場の辺りでしょうか。
大正4年、魯山人が山代に逗留しました。山代のあちこちで見るカラスの絵「暁烏」はこの時の作で、また魯山人自身にとっても陶芸との出会いだったようです。この時の逗留地が魯山人寓居跡いろは草庵として公開されています。
昭和11年、新源泉を掘り、その結果旧来の源泉は枯れてしまったようですが、結果的に源泉管理の統一が出来たので町としては助かったようです。
筆者の興味の問題で調べていませんが、馬車鉄道や二つの駅(今の西口、東口)なども明治以来の歴史を感じられるかもしれません。どっちに駅を建てるかで揉めて両方に建てたなんて記録もありました。よく揉める町ですね。
小学校跡地が現リブマックスリゾート加賀、中学校跡地が松籟公園。
ここらで第二次世界大戦がありました。山代は特に被害を受けていません。
山代は、「戦前は農民の休養地」などと言われていますが、では戦後はと言うと(あるいは戦前から)、男性向けのサービスや大規模宴会で人気を博しました。これが変わったのが平成元年頃。女性客や少人数客にも対応をはじめ、2000年代には歴史の再評価をしたりして、古き良き温泉地の風情を残したり、再建したりしました。そして今に至ると言うわけです。
もちろんここに記さなかった歴史も沢山あります。それにこれから紡がれる歴史もどうなってゆくのか、ただの一村民たる筆者には想像だに付きません。また元より伝説伝承の類である事、筆者の思い違いがある事も充分に予想されますので、あくまでも一つの参考程度に留め置かれますよう、ご注意願います。
2024.先勝.フェイ
参考文献や八咫烏に関する調査・報告は以下のページをご覧ください。