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戦前の加賀温泉の由来集:山代温泉を主眼に

 山代温泉の開湯伝説の調査において、近隣諸温泉の伝説がどのように伝えられているかを比較する事が重要だろうかと思い、"山代の伝説を集めるついでに"と言う形だが、山中・片山津・粟津についてもメモを取ったので、それを列挙する。
 雑感として、山中はほぼ変化なし。片山津は余り書かれないが、変化は少ない。ただし「水鳥」「水禽」と表現され、種の特定はなされていない。粟津は余り調べていないが、変化は少ない。
 山代については本題なのでまた別の頁に纏めるが、変化が大きいように感じる。基本的に鳥類は現れず、4例ある「鴉が流れに脚を浸して」と言うのは現行の伝説「八咫烏が水たまりに脚を浸して」とは異なる表現である。
 なお、文中の国会DCとは国立国会図書館デジタルコレクションの略であり、○○コマは国会DCにおけるページ表記である。「」内が引用であり、「」外は私のメモである。気分次第で旧字新字を改めたりしている。また、全ての本で全ての地名を探したわけではない。

 拙note「山代温泉の開湯伝説に関する調査」及び関連記事をマガジンにまとめてあるので、そちらもご覧頂きたい。

因みに、
1935、昭和10、旅はクーポン : 附・クーポンコースと共に、国会DC
129コマ
「加賀温泉はクーポン施設の為め便宜附けられた名称であるから、加賀温泉と云ふ温泉場は実在しない…片山津、粟津、山代、山中の四温泉を総称したもの」
と言う記事もあった。これが事実なら、加賀温泉郷と言う名称の意外な発端と言えるだろう。余談。


1889、明治22、江沼志纂、国会DC
16コマ
「山中温泉…行基之を開き…長某猟に因て此に来り白鷺創を洗ふを見て…」
16コマ「山代温泉…行基之を開き其後一たひ廃し長徳の頃に及んて再興すと」
「片山津温泉…能登の役夫恒右衛門といふもの始めて槽を埋て…」

1897、明治30、郷土地理歴史談、国会DC
6コマ
「山代温泉…行基これを開きしかと…花山法皇…再これを興したる」
、山中、片山津も○○これを開き、**再び〜程度の記述。

1898、明治31、金沢繁昌記、国会DC
31コマ
「山中温泉…長谷部信連発見す」
31コマ
「山代温泉…僧行基の発見也」

1899、明治32、北陸鉄道七尾鉄道中越鉄道案内記、国会DC
96コマ
「山中温泉…行基薬師仏の霊告により来りて此温泉を発見し…長谷部信連此地に鷹狩して之を知り臣下十二人を留めて浴場を開かしめたり」
文には無いが、挿絵に「傷鷺洗脚」と鷺の絵があり。片山津に水禽なし。
97コマ「山代温泉…行基北陸を巡錫して此霊泉を発見し手づから医王善遊及び日光月光十二神将の像を彫刻して岩宇に安置し…花山法皇北陸を遊幸し給ひける途次此処に恠しき気の氤氳として立ち騰るを……比丘尼妙覚を留めて…」
比丘尼?

1901、明治34、山影水声避暑旅行、国会DC
118コマ
「(山代・山中には)謂れもあれど長ければこれを略す」

1904、明治37、瑶琴、国会DC
228コマ
「(山代村、旅館荒屋に投宿した云々)此温泉は…僧行基が北陸を巡錫せし時之を発見し、其後長徳年間花山法皇北陸を巡幸し玉ひし御時、亦此温泉を探見して一浴を試み玉ひ、…比丘妙覚と云ふを留めて…」
旅行記。

1906、明治39、石川県地理詳説、国会DC
45コマ
「里伝に云ふ。神亀二年、僧行基、北陸巡錫の時、之を発見せしを、長徳年中、花山院、北國巡行の途次、行基の遺跡に就き、薬王寺を創建し、従ふ所の尼、妙覚を留めて、主と為せり」
「山中温泉…行基上人、また之を発見せりと、…長谷部信連、此山中に入りしとき、白鷺の病脚を洗ふものあるを見て、其霊泉なるを知り…」
46コマ「片山津温泉…前田利明の発見に係る」

1906、明治39年、大日本地誌 巻5 北陸、国会DC
336コマ
「山中温泉…僧行基の発見せしところと称され、塩類泉に属せり」
336コマ「山代温泉…僧行基の発見と称し、泉質は塩類泉なり」
片山津に伝説なし。

1907、明治40、地名人名書名新辞典、国会DC
808コマ
「山代温泉…神亀二年乙丑行基僧正の発見」
山中無し。

1908、明治41、夏季旅行案内 西部、国会DC
18コマ
「山代温泉…行基発見の霊泉。幽遂の地である」
「山中温泉…同じく行基発見の霊泉である」

1908、明治41、漢文避暑案内 1冊、国会DC
21コマ
「山代温泉…行基所発見之霊泉也」
山中も同。

1909、明治42、石川県案内記、国会DC
50コマ
「山代温泉…行基北陸を巡錫して白山に登りける時途此に浴して奇験あるを覚りしかば榛莽を芟りて始めて湯池を開けり…花山法皇北遊し給ひし時輿を停めて澡を取り給ひ」
53コマに薬師如来を彫った話。
50コマ「山中温泉…行基之を発見し…長谷部信連塚谷保を巡視して此の地に抵り偶々白鷺の病脚を洗ふを見て復た之を発見せし」

1911、明治44年、新撰名勝地誌 巻6 北陸道の部、国会DC
80コマ
「行基北陸巡錫の時この霊泉を発見し、手づから医王善遊の像を彫刻し、これを岩宇に安置して去る。長徳年中花山法皇北陸遊幸の途次この泉の霊あるを知りたまひ行基の遺跡に就て薬王寺を創建し、随ふ所の尼妙覚を留めて主となす。」
82コマ「山中温泉…行基薬師仏の霊告に依り来りてこの泉を発見し…長谷部信連この山に分け入り、偶々白鷺の病脚を洗ふを見てその霊泉なるを知り…」
86コマ「片山津温泉…前田利治の発見と称し…」

1912、明治45、山河拾四州 : 通俗教育、国会DC
62コマ
「山中温泉は…長谷部信連が治承の役に受けた負傷を*(なお)さふとして発見したものと伝えられる」
*:醫に見えるが潰れて読めない

1912、大正1、帝國地名辭典 下卷、国会DC
369コマ
「山代【石川】…僧行基山代温泉を開きし時、手から薬師仏及日光・月光十二神像を刻み、」
参考分籍として「加賀山代温泉誌」「江沼郡山代紀行、写本」を挙げる。温泉寺略縁起読んでないのか。

1912、大正1、石川県統計要覧、国会DC
124コマ
「山中温泉…僧行基巡教の際薬師仏の霊告に依りて之を発見し…長谷部信連此地に狩猟の際再ひ発見し…」
125コマ「此温泉は神亀年間僧行基巡教の際に発見せりと伝ふ」
片山津は特に伝説を語らず。

1912〜6、大正1〜3、石川県統計要覧  明治44年、国会DC
122コマ
「山中温泉…行基巡教の際薬師仏の霊告に依りて之を発見し…信連此地に狩猟の節再び発見」
122コマ「山代温泉…行基巡教の際に発見せりと伝ふ」

1913、大正2、新註漢和大辞典 : 熟語詳解、国会DC
249コマ
「山代温泉…行基僧正の発見といふ」
「地名に山を冠せるもの頗る多しといへども煩はしければこれを省く」ともある。代表例として選ばれるほど有名だったのか。ただし山中にページを割いて山代は一行二行という本も多い。

1913、大正2、現代紀行文、国会DC
194コマ
「山代温泉…僧行基の発見したるもので、南には…」
大正11年のものもあり。山中、片山津には伝説なし。

1913、大正2、能美郡小松案内、国会DC
157コマ
「片山津温泉…水禽の群れるを見、…」
159コマ「山中温泉…行基北國巡錫の砌薬師如来の霊告に依り之を発見し、亂草を芟り、茂樹を伐り、芥を除き、岩骨を穿ちて、水脈を疏し、浴槽を設くるに昉まる。……長谷部信連、此地方へ鷹狩の折偶々白鷺の芦葦間に傷脚を洗へるを見て…」
妙に細かい描写だな。
162コマ「山代温泉…行基の発見に係る、榛莽を芟り、豪茸を除きて湯區を開き、手づから医王善遊及日光月光十二神将の像を彫り、温泉の守護として草庵を結びて霊方山薬師寺と称せり…花山法皇巡幸のとき、此温泉に一浴を試みられ、堂宇のいたく頽れ果てたるを慨み、再建して今の薬王寺と改号し給へり」

1916〜7、大正5〜6、最新大日本地理集成 續 交通名勝之部上巻、国会DC
410コマ
「薬王院…曾行基山代温泉を開きし際、自作の薬師如来日光月光十二神将の像を安置し、温泉の守護とせり」
「医王寺…僧行基が温泉守護佛として薬師如来を安置せしに始る」(山中)

1917、大正6、日本温泉案内 : 保養遊覧 附・入浴者の心得、国会DC
53コマ
「行基菩薩北陸巡錫の途次、此の温泉に浴して其の霊効あるを知り、始めて民庶の為めに浴場を開いた…花山法皇が入浴を試み…」
山中はもう少し詳しいが、白鷺は割愛されている。

1918、大正7、石川県案内、国会DC
8コマ
「神亀年間名僧行基北陸を巡錫せる折此地に温泉あることを発見し榛莽を芟りて湯地を開き傍らに茅宇を結び手つから医王善遊及日光月光十二神将の像を彫り…其後長徳年間花山法皇北國を巡幸し玉ひ一浴を試みられ類(?)廃せし堂宇を再興して…」

1918、大正7、温泉巡礼記、国会DC
34コマ
「この辺一帯の温泉は、何れも僧行基の発見せし由を、土地の案内記に吹聴いたし居り、山代も亦た行基菩薩が湯の池を開きしなど、由緒書きはなか/\勿体無く候」

1919、大正8、近畿五大都市中心日がへりの旅路、国会DC
258コマ
「山中温泉…僧行基薬師の霊告によってこの泉を発見し…長谷部信連がこの地に来て脚を痛めてゐた白鷺が頻に浴してゐるのを見てその霊泉ある事を知り」
259コマ「山代温泉…これも行基が発見したものと伝へてゐる」
「片山津温泉…大聖寺藩主前田利治の発見したものと伝へ、…」

1920、大正9、大阪を中心として名蹟勝地一晩とまりの遊覧、国会DC
139コマ
「山中温泉…神亀年間、行基僧正北陸巡錫の際発見…長谷部信連偶ま此の山中に鷹狩して霊泉の湧出するを見、(浴槽を作った)…一説に、長谷部信連此山に来り、白鷺の病脚を洗へるを見て計らず霊湯を発見し…」
142コマ「山代温泉は神亀二年行基僧正北陸地方行脚の際発見せられし処」
144コマ「粟津温泉…泰澄大師の白山に参詣し霊夢に感じて発見せるもの」

1920、大正9、全国の温泉案内、国会DC
282コマ
「山中温泉…僧行基が北國行脚の折、薬師如来の霊告によってこの温泉を発見し、…長谷部信連といふ武人が、或日此地に鷹狩に来て、偶々白鷺が葦や荻の生ひ茂った間で、其の病める脚を洗ってゐるのを見てその霊泉なるを知り…」
284コマ「山代温泉…僧行基が北陸巡錫の時、一羽の鴉が流水に脚を浸してゐるのを見て発見され、荊棘を芟って湯地を開き、手づから医王善遊の像を彫刻して岩宇に安置した。…花山法皇は北陸遊行の途次この温泉に立ち寄らせられ、…尼妙覚を留めて主となさしめられた」
285コマ「片山津温泉…前田利明が鷹狩の途次、水鳥の群をなすを見て之を発見し」

1920、大正9、名所ところどころ、国会DC
132コマ
「山中温泉…僧行基の発見と伝へ、…長谷部信連の開いたものださうな」
132コマ「山代温泉…ここも行基の発見で花山法皇も曾て此処に浴せられたと伝へられて居る」
片山津、粟津に伝説なし。

1921、大正10、金沢案内記、国会DC
50コマ
「山中温泉…僧行基の発見で一旦中絶したが、白鷺の流に傷脚を洗ふによりて再び世に現れた」
51コマ「山代温泉…開湯は今を去る千二百余年前僧行基である」
片山津に由来なし。
「粟津温泉…泰澄大師が白山に巡錫し、白山大権現の御つげにて発見したと云ふ」

1922、大正11、療養本位温泉案内、国会DC
195コマ
「山中温泉…行基が北陸行脚の折、…薬師如来の霊告に依って発見し、…長谷部信連が鷹狩の際、偶然白鷺が蘆荻生ひ茂る泉の中にて病める脚を洗ってゐるのを見て、此に霊泉あるを知り、…」
197コマ「山代温泉…行基北陸巡錫の砌、鴉が流れに脚を浸してゐるのを見て発見したと伝へられる。」

1923、大正12、新撰鉄道旅行案内、国会DC
430コマ
「山代温泉…行基僧正によって発見され、浴場を開いて…」

1923、大正12、北陸温泉めぐり、国会DC
32コマ
「山代温泉…僧の行基によって発見されたと伝へられ、花山法皇も北國巡遊の途上立寄られたと口碑にある。」
山中の白鷺、片山津の水鳥に言及している。

1924、大正13、裏日本旅行案内 : 附・裏日本商工案内、国会DC
22コマ
「山中温泉…行基の発見になり」
23コマ「山代温泉…行基此温泉に浴し、奇験あるを感じて霊泉となせしと。其後花山法皇、賓輦を此地に停め給ひしより朝野の貴紳の遊欲するもの尠からず」
「片山津温泉…前田利治の発見」
「粟津温泉…泰澄…霊夢に依り発見」
輦:レン、こし、てぐるま、
尠:セン、すくない

1938、昭和13、北陸・高山線地方 (ツーリスト案内叢書 ; 第12輯)、国会DC
10コマ
「温泉の発見は(山中と)同じく行基菩薩と伝へ、」
山中も行基の発見程度しか記述なし。

1925、大正14、摂政宮殿下御統監北陸大演習行啓記念史、国会DC
168コマ
「薬王院…僧行基巡錫の途、此処に杖を留め、温泉を拓きその鎮護として自ら医王善神及び日光圓光十二神将の像を彫り、霊方山薬師寺と號して一宇を開く。後、花山法皇之を再興し給ひ」
175コマ「山中温泉…僧行基の発見する所と称せられ、温度…」
176コマ「山代温泉…山中温泉と同じく神亀年間僧行基の発見にかかると称せられ、長徳の頃花山法皇此地に行幸し給ひ」
「片山津温泉…前田利明柴山潟に舟を*べ水禽の群がるによりて湖上に温泉あるを知り、…」

1925、大正14、三都中心名所の旅、国会DC
181コマ
「山中温泉…神亀年間僧行基が北陸巡錫の際初めて発見したもので、…長谷部兵衛信連之を再興し」
182コマ「山代温泉…神亀二年僧行基白山に登れる途次此の温泉に浴し、奇験あるを覚り霊泉となし、湯地を開き傍に一宇を建て…其後花山法皇が賓輿を此地に停め給ひしより朝野の貴紳の遊浴する者が少くない」
182コマ「粟津温泉…僧泰澄、白山に参籠し霊夢によって発見したもので」
183コマ「片山津温泉…前田利明が舟を此の湖上に浮べて遊んだ時、水鳥の群をなせるを見て之を検するに、…」

1926、大正15、新編日本温泉案内、国会DC
205コマ
「行基菩薩北陸巡錫の砌り、鴉が流れに足を浸してゐるのを見て霊泉湧出を知り、浴場を開いたと伝へられている」

1926、大正15、隠れて優秀な温泉新案内、国会DC
184コマ
「山中温泉…行基行脚の時…薬師如来の御告によつて発見したもので、…長谷部信連が鷹狩の際、偶然白鷺が葦荻の間に病める足を洗ってゐるのを見て、其処に霊泉のある事を知り、」
186コマ「山代温泉…行基菩薩北陸巡錫の砌り、鴉が流れに足を浸してゐるのを見て霊泉湧出を知り、浴場を開いたと伝へられてゐる。」

1926、大正15、温泉場の女、国会DC
108コマ
、粟津の開湯伝説を語るが、筆者のおふざけが多いように感じる。泰澄が白山権現の霊夢により温泉を見つけたと言う流れ。

1926、大正15、趣味と実用をかねた日本名所めぐり、国会DC
183コマ
「山中温泉…神亀年間僧行基が北陸巡錫の際初めて発見したもので、…長谷部信連之を再興し、以来…」
184コマ「山代温泉…神亀二年僧行基白山に登れる途次此の温泉に浴し、奇験あるを覚り霊泉となし、…其後花山法皇が賓輿を此地に停め給ひしより…」
184コマ「粟津温泉…僧泰澄、白山に参籠し霊夢によって発見したもので」
185コマ「片山津温泉…前田利明が…水鳥の群をなせるを見て之を検するに…」

1926、大正15、加賀と能登、国会DC
43コマ
「山中温泉…行基菩薩北國行脚の折薬師如来の霊夢に依つて発見したものである。…長谷部信連鷹狩の折、偶々白鷺の芦荻間に傷脚を洗ふを見て又之を発見し…」
44コマ「山代温泉…当温泉も又僧行基の発見にかかり1200年の古い歴史を有している。花山法皇此の地に行幸あって此の温泉の埋れたるを再興…」
45コマ「薬王院…行基の此の温泉を拓いた時、傍に一庵を結び、自ら医王善神及び日光月光十二神将の像を彫り…後、花山法皇之を再興し給ひ」
大正13年版もある。余り変わらないので略す。

1926、大正15、北陸旅行案内、国会DC
9コマ
「名物綜餅あんころがある」
26コマ「山中温泉…僧行基北錫の砌り発見されたもので…(信連が)白鷺の芦葦間に傷脚を洗へるを見て」
「山代温泉…山中と同じく僧行基の発見で、陸軍療養所があることから…」
27コマ「片山津温泉…前田利明…水禽の群り飛ぶを見て発見されたもの、」

1928、昭和3、日本山水名勝めぐり、国会DC
119コマ
「この辺一帯の温泉は何れも僧行基の発見せし由を、土地の案内記に吹聴いたし居り、山代も亦た行基菩薩が湯の池を開きしなど、由緒書きはなか/\勿体なく候」

1930、昭和5、自治団体之沿革、国会DC
200コマ
「山中温泉…僧行基の発見に係り、…長谷部兵衛信連、此附近へ来りて鷹狩し偶々白鷺の葦原の流に傷脚を浸すを見て、響泉の湧出するを知り、…」
201コマ「山代温泉…僧行基北陸巡錫の時是に浴して其の霊泉するを認め………僧行基が北陸巡錫の時これに浴して、其霊泉であることを知り、…其後長徳年間花山治皇遊幸の際、温浴を試み給ふたこともある」

1931、昭和6、旅程と費用概算 昭和6年版、国会DC
142コマ
、「山代温泉…山中温泉と同じく僧行基の発見と云ふ」
と言いつつ山中、粟津に縁起を書いていない。
昭和5年版139コマ「山中温泉…僧行基の発見であると云ふ霊泉である」と書かれる。
昭和9年版も同。山中他無し。
昭和13年版、山中の行基あり。
昭和3年版、山中あり、山代なし。
昭和7年版、山中なし。
昭和10、山中なし。

1933、昭和8、新愛知年鑑 : 附・中部日本特輯 昭和9年、国会DC
295コマ
「山中温泉…行基菩薩北國行脚の折薬師如来の霊夢で発見したもの」
295コマ「山代温泉…山中温泉同様僧行基の発見になる」
「粟津温泉…泰澄大師日山権現の霊夢に依って此所を発見したもの」
片山津なし。
1933、昭和8、国民年鑑 昭和9年、国会DC、296コマも全く同じ記述。

1933、昭和8、趣味の風景通信日附印集、国会DC
73コマ
「山代温泉…行基の発見に係ると云はれる」
72コマ「片山津温泉…大聖寺藩主が潟に遊んだ折水禽の群るを見て知られたと云ふ」
山中は縁起なし。

1933、昭和8、北陸だより、国会DC、
27コマ
「山中温泉…その由来は古く…僧行基の発見と伝へられるが、其の後一時中絶して居り、分治年間長谷部信連が鷹狩の折、白鷺が葦の間の霊泉に傷ついた脚を浸してゐるのを見て、…」
30コマ「山代温泉…温泉の発見は山中と同じく僧行基の発見と伝えられ、大聖寺の藩主前田氏によりて再興されたと云ふ。」
31コマ「片山津温泉…温泉は大聖寺藩主が柴山潟に船遊の折、水禽の群るを見て発見されたと伝へられ、…」

1934、昭和9、日本国勢総攬 : 市町村別 上巻、国会DC
701コマ
「山中町…由来は千二百年前の昔僧行基の発見で一旦中絶したが、白鷺が流に傷いた脚を洗ふによって再び現れた」
山代、片山津なし
704コマ「粟津町…千余年前泰澄大師の発見と云はる」

1935、昭和10、児童百科大辞典 12 (日本地理 1)、国会DC
196コマ
「山代温泉は千二百年も昔、行基菩薩の発見した所」

1935、昭和10、現代展望・郷土誌 [富山県・石川県・福井県]、国会DC
267コマ
「山代町…僧行基北陸巡錫の時是に浴して其の霊泉あるを認め、湯池を開きたる」
「薬王院…(行基が像を彫ったよなどの後に)花山法皇が…気烟熾に立ち騰(?)るを見て之を探索して温泉を発見し、」
山中町に縁起なし。伝説として「泪の雨」「天狗の舞踊」とタイトルだけ記す。
219コマ「山代温泉…山中温泉と同じく僧行基の発見にかかり、…片山津温泉…前田利明が鷹狩の途次発見したものである」

1935、昭和10、帝国産業興信録 3版、国会DC
294コマ
「当あらや旅館は由緒極めて古く、今日まで連綿として四百数十年の歴史を誇り…」
「因に当館のある山代温泉の歴史は、聖武天皇の神亀二年僧の行基が発見してより一千二百余年、その霊験は一世に謳はれ…」

1936、昭和11、大日本市町村案内、国会DC
43コマ
「山代町…僧行基北陸巡錫に当り是に浴し霊泉なるを認め湯池を開きしによる」
山中、粟津なし

1936、昭和11、療養本位温泉案内 関西篇、国会DC
52コマ
「山代温泉…(山中温泉と)同じく僧行基が北陸巡錫の砌発見したものだ相で、泉脈は…」
山中に縁起なし。
54コマ「粟津温泉…泰澄大師が、白山大権現の霊示に由って発見したと伝へられる」

1936、昭和11年、江沼郡勢
p8
、「山中温泉…行基菩薩北陸行脚の折、薬師如来の霊夢に依って発見したものである。其の後…白鷺の芦狭間に傷脚を洗ふを見て、…白鷺の湯の別名ある」
「僧行基の発見にかかり、1200年の古い歴史を有して居る。長徳年間、花山法皇此の地に御幸あって、此の温泉の埋れたるを再興」
「片山津温泉…前田利明、柴山潟に舟を浮べて居た時、たま/\水禽の群るを見て湖中に湧泉あるを知り」
p17.19.20.にも三温泉の略説あり。ほとんど同じ事を言っている。やはりカラスは無い。

1936〜40、昭和11〜15、日本都市大観 昭和11年版、国会DC
765コマ
「(山中の)よしのや旅館…僧行基が発見した霊泉と伝へられ、」
796コマ「山代の「くらや」…行基菩薩が発見したと伝へられる…「くらや」は山代温泉の開祖であって、古い歴史と由緒(と最新設備を持つ)。同旅館内に安置してゐる持仏堂はよくこれらの輝かしい伝説を物語ってゐる。また温泉旅館中源泉を自家内にもつといふことは他に類例があるまい」
開祖ってのは気になるが、自家源泉はいくらでもあるのでこの記事の取材力に疑問を持たざるを得ない。

1937、昭和12、産業と観光 : 新興日本の全貌 昭和13年、国会DC
190コマ
「山中温泉…僧行基の発見したもので、…長谷部信連が鷹狩の折、白鷺の傷脚を洗ってゐるのを見て、温泉のあるのを知り」
190コマ「山代温泉…山中温泉と同じく僧行基の発見にかかり、塩類泉で…」
「粟津温泉…泰澄大師の発見にかかるもので、北陸温泉中最古の歴史」

1937、昭和12、麗山名水、国会DC
36コマ
「行基が発見したと伝へられ、泉質は…」

1938、昭和13、北陸、国会DC
126コマ
「山中温泉…僧行基の発見と伝へられるが、…長谷部信連が鷹狩の時、白鷺が芦の間の霊泉に傷ついた脚を浸しているのを見て、ここに浴槽を設けたといふ」
129コマ「山代温泉…僧行基の発見と伝へられ、大聖寺の藩主前田氏により再興されたといふ」

1939、昭和14、大聖寺縦行一二横行二一図幅第一四五号地質説明書、国会DC
30コマ
「山代温泉…山中温泉の由来は頗る古く1200余年の昔、行基菩薩の発見と伝へられる」
前後の文脈から、文中の山中温泉は山代温泉の誤字だろう。

1939〜42、昭和14〜17、石川県勢 昭和16年、国会DC
19コマ
「山中温泉…行基菩薩が北陸行脚の折、薬師如来の霊夢に依って発見したものである」
19コマ「山代温泉…山中温泉と同じく僧行基の発見に係り、1200余年間の歴史を有している」
昭和15年版もある。大差ないので略す。
昭和14年版もあった。

戦後

1954、昭和29、片山津町史
p100、「土地の伝えによると承応二年(1653)大聖寺藩主前田利明が鷹狩りにやつてきたとき、水鳥が群れをなしているのを見て発見し…」

1961、昭和36、郷土のあゆみ(社会科資料)、
p105、「僧行基が北陸巡錯の折、発見したと伝えられ、古い歴史を誇っている」
「行基菩薩が白山登山の途中この霊泉に浴し、自ら薬師如来などの像を刻まれ温泉の守り仏とされたもので、白山五院の一院でお薬師さまと呼ばれ、…花山法皇巡幸のみぎり、堂を建立され薬王院温泉と名ずけられた」
p107、「片山津…承応二年 大聖寺藩主前田利明が鷹狩りの途上潟の一隅に水鳥の群なすのを見て…」
p110、「僧行基が発見したが、一時兵乱のために中絶し、…文治年中、源氏の長谷部信連が狩猟の折、白鷺が病脚を洗うのを見て霊泉のある事を知り、」
p126.127、城郭跡として11の城跡を挙げる。

1961、昭和36年、加賀名跡志、
p101
、「寺伝によると、行基菩薩が白山登山の途次、この温泉に浴してその霊効あるのに感じ、自ら薬師如来及び日光、月光、十二神将の像を彫刻して温泉の守護仏とした。その後、廃滅に瀕していたが、長徳年中(995〜999)に花山法皇が北陸に巡幸しこの温泉に浴した際、霊夢に感じて堂宇を建立された」
p127、「山中温泉…温泉は千二百年の昔、僧行基の発見したもので、一時兵乱のために荒廃したが、文治年間長谷部信連が鷹狩りの折、白鷺が葦間に傷脚を洗えるを見て温泉のあるを知って浴槽を設けて中興した」

1969、昭和44、こども石川県史 地名編
p210
、「山中…昔、長谷部信連という武士が、家来たちと狩に出て、山のなかをさまよいました。ふと、1羽のシラサギがアシのしげった池のふちにたって脚をいれています。けがをしているようです。名高い山中温泉は、こうして発見され…」
p212、「片山津…およそ300年前に、大正寺藩主前田利明が、このあたりに狩にこられました。潟の上に、いつも水鳥がむらがっているさまを見て、ふしぎに思い、舟をだしてしらべました」
p213、「山代…昔、行基というお坊さんが、白山にのぼるとき、はじめてこのお温泉にはいったと伝えられています。行基は、おいしげった雑草をなぎはらって、湯地をひらき、温泉の守り仏をきざんでいったといわれています」

1981、昭和56、ふるさと加賀・能登、
p151
「行基が、神亀二年(725)に発見したと伝えられている」
p154「山中温泉は…行基が発見した…長谷部信連によって再興が図られ」特に白鷺の話題無し。

1986、昭和61、温泉之行者薬師如来
https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&as_vis=1&q=%E5%B1%B1%E4%BB%A3%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%80%80%E4%BC%9D%E8%AA%AC&btnG=#d=gs_qabs&t=1732664932461&u=%23p%3DAdX2KQ9hhqIJ
p9、「山代温泉は行基発見…花山法皇が来錫…老翁が夢に現れて来歴を奏した」
「山中温泉も行基が…発見したと言う。長谷部信連が…白鷺が傷ついた足を芦原の中の湯にひたすのを見て再発見」

2020、観光まちづくりと地域における次世代育成の課題─ 温泉観光地における中学生の職場体験学習実態調査より─
https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&as_vis=1&q=%E5%B1%B1%E4%BB%A3%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%80%80%E4%BC%9D%E8%AA%AC&btnG=#d=gs_qabs&t=1732663819978&u=%23p%3D9ke3RcBXNnIJ
p5、「行基による開湯伝説があり、1300年の歴史を誇っている」
「山中温泉は…白鷺が傷を癒しているところから発見」

現代語訳 茇憩紀聞(市中央図書館)に山代温泉並薬師縁起と山中温泉縁起の現代語訳がある。

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