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山代温泉の八咫烏伝説を追う

・2024.9.27追記。文献とインタビュー。及び写真編へのリンク
・同29.追記。文献、住職の証言。また無関係な話は別記事に分離
・同10.2追記。文献、証言、仮説3
・同10.7追記
・同10.13追記。文献、証言、「霊烏および八咫烏とは?」、仮説4
・同10.20追記。文献、証言。また「滝谷寺文書」を年代不詳に。「あらや仮説」に関する項。一時報告へのリンク。
・同11.18追記、「開湯伝説7種盛り」へのリンク
・同12.26追記、noteリンクを「マガジン」に一本化、暁烏について


石川県加賀市山代温泉の開湯伝説にはこうある。
「昔、高僧行基がカラスが湯浴みしているのを見つけ、そこが温泉であると発見した。そのカラスは八咫烏だった」と。

然し筆者が子供の頃(1990年頃)聞いた話は以下の通り。
「昔、高僧行基がカラスが湯浴みしているのを見つけ、そこが温泉であると発見した」

つまり八咫烏は何か気が付いたら付け加えられていたよく分からん伝承なのだ。ここでその出自について調査している。
但し、
1.元々八咫烏だったが忘れられていただけだ
2.元々八咫烏だったが話者(私の父)が知らなかっただけだ
3.近年の創作である
など、色々考えられる。

気が向いた時に図書館に行く程度のやり方なので、参考程度にして下さい。
以下は図書館等で山代温泉の開湯伝説について言及しているもののメモである。まだ見てない本も多い。
また、研究者や県及び市町村、観光団体及び山代について紹介する人、あと学生などはこの記事を好きに使って構わん。むしろ引き継いで欲しい。

目次の作り方わかんねえので各自スクロールしてくれ。
・疑問、出発点(ここ)
・文献調査
・霊烏とは?八咫烏とは?
・インタビュー
・仮説
・あらや仮説に関する記事
・「暁烏」と言う言葉について
・なんとなくのまとめ

やたら長くなったので、拙noteまとめマガジンより「山代温泉の開湯伝説に関する調査」を見てくれ。その他の資料やらもあるよ。

もっと簡単に言うと「2003年に観光協会が八咫烏推し出したよ」
一応はそれで解決。


740:越前国山背郷計帳(未調査)
 人口調査票の類であって伝説は語られていなさそう。
年代不詳(1649〜1706か?)、[加賀古文書]加州山代温泉縁起、(但し昭和5年、加賀藩資料3、p292による)
行基が初めて浴して云々。
花山法皇が吸坂でゆけむり?を見て云々はこの時からあるようだ。
「右山代温泉並薬師縁起一巻は、薬王寺の集蔵にして、何人の作なる事を知らず。年月日も詳ならず。山代温泉の由来、此一巻の外に書伝へし書は一切無之候也」
 薬師寺の設立に触れている〜「この他に縁起なし」を信じるなら上記の年代。ただし、後段が昭和5年のものなら歴史は浅くなる。
 コピーの写真を「写真編」に上げた。
年代不詳、瀧谷寺文書「薬王院略縁起」(加賀市史 資料編第三巻p272〜、加賀市史自体は昭和52年)、スクナヒコナが作って行基がこの温泉に浸かり、この温泉奇特あることを感じ薬王善○等を作り寺を開く(その後明覚が再興するまでに滅びたとかの話は無い)。
1706、宝永丙戌、温泉并寺記 又は 山代温泉并薬王寺記(昭和52、加賀市史 資料編3、p272より)
スクナヒコナ云々、「行基登白山時浴此温泉、旋覚奇験以為霊泉、…」
1803(享和3)、茇憩紀聞(但し平成23年、加賀市郷土資料 現代語訳 茇憩紀聞、p71による)
 「『山代温泉並薬師縁起』には次のようにある。……スクナヒコナがあちこちの温泉で人々の病を治した。この不思議な効果がある温泉もその一つであると言う。……行基は白山に登った。そこで入浴してみてはじめてこれはただの泉ではなく不思議な効果がある温泉であることを知った。」
1824(文政ななとせ)、(加賀市史資料編1、p498、湯神詞より)、
 「(スクナヒコナがつくった?)そも山代の郷山しろの里なる出湯は、……この神たちのみたまのふゆならずや」
 この後に詩が幾つか書かれているが、鳥類、行基など確認できず
1845(原文。本書は昭和20年):【現代語訳】藩国見聞録(「大聖寺藩史談」より)p76〜
 スクナヒコナは各地に温泉をつくった、山代もその一つ。725年、行基が山代の湯に浸かり、他とは違い神仏の恵み深い湯であると知った。薬師如来他を彫り、寺を作った(意訳)。
同、(本書は昭和46年):大聖寺藩史談より「藩国見聞録」(現代語には訳されていない)、p126
 当然ながら同上である。彫ったのは医王善○(しんにょうに折)
1852、温泉寺縁起図(未調査)、粗い画像なら見た。ただし目立つところにカラス類の姿は見当たらない。住職への聴取及び写真編を参照のこと。
1854、山代志(昭和53、加賀市史 資料編第1巻、p505)
「薬王寺(寺記事長し一二を記す)神代の時スクナヒコナ命温泉処々に相たり、今此温泉其一処なり。神亀2年行基湯池を開き、……」
1868、明治元年
1876〜1883、明治9〜16(えぬのくに49号p91による)、加州山代温泉惣図、上部枠内「行基がみつけた」程度の事しか書かれていないように見える(観光協会にある縮小版。フェイの視認による)
1889、明治22、江沼志纂、国会DC
16コマ
「山代温泉…行基之を開き其後一たひ廃し長徳の頃に及んて再興すと」
1892、明治25、江沼郡史 全、最終ページ
「行基が見つけた」
1897、明治30、郷土地理歴史談、国会DC
6コマ
「山代温泉…行基これを開きしかと…花山法皇…再これを興したる」
1898、明治31、金沢繁昌記、国会DC
31コマ
「山代温泉…僧行基の発見也」
1898〜1902、明治31-35、旅の家つと第20加賀能登の巻、6コマ、国会DC
「神亀二年僧行基の発見と伝ゑられ、…」
1899、明治32年:温泉寺略縁起、「霊烏の指授により」
 現状、これが最も古いカラス類への言及である。
1899、明治32、江沼誌 全、p39、「行基が此れに浴し奇験あるを覚り〜」
1899、明治32、北陸鉄道七尾鉄道中越鉄道案内記、国会DC
97コマ
「山代温泉…行基北陸を巡錫して此霊泉を発見し手づから医王善遊及び日光月光十二神将の像を彫刻して岩宇に安置し…花山法皇北陸を遊幸し給ひける途次此処に恠しき気の氤氳として立ち騰るを……比丘尼妙覚を留めて…」
比丘尼?
1902、明治35、避暑旅行案内 3版、164コマ(国会デジコレ)
 行基初めて此温泉を発見し、その後花山法皇が〜」
1904、明治37、瑶琴、国会DC
228コマ
「(山代村、旅館荒屋に投宿した云々)此温泉は…僧行基が北陸を巡錫せし時之を発見し、其後長徳年間花山法皇北陸を巡幸し玉ひし御時、亦此温泉を探見して一浴を試み玉ひ、…比丘妙覚と云ふを留めて…」
旅行記。
1905、明治38年、山代温泉案内p2、行基北陸へ巡錫せる折しも此地に温泉あることを発見し諸病に奇験あるへきを知り……
1905、明治38、加賀山代温泉誌 改訂2、11コマ(国会DC)
「山代温泉并(多分この字)薬王寺記に徴すれば……(スクナヒコナが作って行基が)この温泉に浴し旋りて奇験あるを覚り……」
同25コマ、詩、「神か*の岩ねわき出るいて湯には」*は「’さ」のような字。多分変態がな。読めねえ。文脈から察するに神がみの?「岩から湧く」に言及した例として記録す。
 他の句にカラスなど見当たらず。ただし、漢文調の「序」を読んで無いので何かあるかも?
1906、明治39、石川県地理詳説、国会DC
45コマ
「里伝に云ふ。神亀二年、僧行基、北陸巡錫の時、之を発見せしを、長徳年中、花山院、北國巡行の途次、行基の遺跡に就き、薬王寺を創建し、従ふ所の尼、妙覚を留めて、主と為せり」
1906、明治39年、大日本地誌 巻5 北陸、国会DC
336コマ
「山代温泉…僧行基の発見と称し、泉質は塩類泉なり」
1907、明治40、地名人名書名新辞典、国会DC
808コマ
「山代温泉…神亀二年乙丑行基僧正の発見」
1908、明治41、夏季旅行案内 西部、国会DC
18コマ
「山代温泉…行基発見の霊泉。幽遂の地である」
1908、明治41、漢文避暑案内 1冊、国会DC
21コマ
「山代温泉…行基所発見之霊泉也」
1909、明治42、石川県案内記、50コマ、国会DC
「行基…此に浴して奇験あるを覚りしかば**(よめねえ)初めて湯池を開けり」
1909、明治42、石川県案内記、国会DC
50コマ
「山代温泉…行基北陸を巡錫して白山に登りける時途此に浴して奇験あるを覚りしかば榛莽を芟りて始めて湯池を開けり…花山法皇北遊し給ひし時輿を停めて澡を取り給ひ」
53コマに薬師如来を彫った話。
1911、明治44年、新撰名勝地誌 巻6 北陸道の部、国会DC
80コマ
「行基北陸巡錫の時この霊泉を発見し、手づから医王善遊の像を彫刻し、これを岩宇に安置して去る。長徳年中花山法皇北陸遊幸の途次この泉の霊あるを知りたまひ行基の遺跡に就て薬王寺を創建し、随ふ所の尼妙覚を留めて主となす。」
1912.大正元年
1912、大正1、帝國地名辭典 下卷、国会DC
369コマ
「山代【石川】…僧行基山代温泉を開きし時、手から薬師仏及日光・月光十二神像を刻み、」
1912、大正1、石川県統計要覧、国会DC
125コマ
「此温泉は神亀年間僧行基巡教の際に発見せりと伝ふ」
1912〜6、大正1〜3、石川県統計要覧  明治44年、国会DC
122コマ
「山代温泉…行基巡教の際に発見せりと伝ふ」
1913、大正2、現代紀行文、194コマ、国会DC
「僧行基の発見したるもの」
1913、大正2、新註漢和大辞典 : 熟語詳解、国会DC
249コマ
「山代温泉…行基僧正の発見といふ」
1913、大正2、現代紀行文、国会DC
194コマ
「山代温泉…僧行基の発見したるもので、南には…」
大正11年のものもあり。
1913、大正2、能美郡小松案内、国会DC
162コマ
「山代温泉…行基の発見に係る、榛莽を芟り、豪茸を除きて湯區を開き、手づから医王善遊及日光月光十二神将の像を彫り、温泉の守護として草庵を結びて霊方山薬師寺と称せり…花山法皇巡幸のとき、此温泉に一浴を試みられ、堂宇のいたく頽れ果てたるを慨み、再建して今の薬王寺と改号し給へり」
1915、大正4、魯山人、「暁烏」や「あらや 烏湯」の看板などを作る
1916〜7、大正5〜6、最新大日本地理集成 續 交通名勝之部上巻、国会DC
410コマ
「薬王院…曾行基山代温泉を開きし際、自作の薬師如来日光月光十二神将の像を安置し、温泉の守護とせり」
1917、大正6、日本温泉案内 : 保養遊覧附・入浴者の心得、53コマ、(国会DC)
「行基、此の温泉に浴して其の霊効あるを知り、初めて民庶の為めに浴場を開いたとされている」
1917、大正6、日本温泉案内 : 保養遊覧 附・入浴者の心得、国会DC
53コマ
「行基菩薩北陸巡錫の途次、此の温泉に浴して其の霊効あるを知り、始めて民庶の為めに浴場を開いた…花山法皇が入浴を試み…」
1918、大正7、温泉巡礼記p46、「行基が開いた」
メモがいい加減だったので改めて下に記す。
1918、大正7、温泉巡礼記、国会DC
34コマ
「この辺一帯の温泉は、何れも僧行基の発見せし由を、土地の案内記に吹聴いたし居り、山代も亦た行基菩薩が湯の池を開きしなど、由緒書きはなか/\勿体無く候」
1918、大正7、石川県案内、国会DC
8コマ
「神亀年間名僧行基北陸を巡錫せる折此地に温泉あることを発見し榛莽を芟りて湯地を開き傍らに茅宇を結び手つから医王善遊及日光月光十二神将の像を彫り…其後長徳年間花山法皇北國を巡幸し玉ひ一浴を試みられ類(?)廃せし堂宇を再興して…」
1919、大正8、近畿五大都市中心日がへりの旅路、国会DC
259コマ
「山代温泉…これも行基が発見したものと伝へてゐる」
1920、大正9、大阪を中心として名蹟勝地一晩とまりの遊覧、国会DC
142コマ
「山代温泉は神亀二年行基僧正北陸地方行脚の際発見せられし処」
1920、大正9、全国の温泉案内、国会DC
284コマ
「山代温泉…僧行基が北陸巡錫の時、一羽の鴉が流水に脚を浸してゐるのを見て発見され、荊棘を芟って湯地を開き、手づから医王善遊の像を彫刻して岩宇に安置した。…花山法皇は北陸遊行の途次この温泉に立ち寄らせられ、…尼妙覚を留めて主となさしめられた」
1920、大正9、名所ところどころ、国会DC
132コマ
「山代温泉…ここも行基の発見で花山法皇も曾て此処に浴せられたと伝へられて居る」
1921、大正10、石川縣之研究第三 宗教編、p117
「薬王院 行基山代温泉に浴し、其霊効あるに感じて、自ら医王善神の像を刻し、……後花山法皇この地に行幸して霊夢に感じ給ひ」
1921、大正10、金沢案内記、国会DC
51コマ
「山代温泉…開湯は今を去る千二百余年前僧行基である」
1922、大正11、療養本位温泉案内、国会DC
197コマ
「山代温泉…行基北陸巡錫の砌、鴉が流れに脚を浸してゐるのを見て発見したと伝へられる。」
1923頃、魯山人、霊烏延壽皿を作る
1923、大正12、新撰鉄道旅行案内、国会DC
430コマ
「山代温泉…行基僧正によって発見され、浴場を開いて…」
1923、大正12、北陸温泉めぐり、国会DC
32コマ
「山代温泉…僧の行基によって発見されたと伝へられ、花山法皇も北國巡遊の途上立寄られたと口碑にある。」
1924、大正13、裏日本旅行案内 : 附・裏日本商工案内、23コマ、国会DC
「神亀二年僧行基此温泉に浴し、奇験あるに感じて霊泉となせしと。其後花山法皇、……」
1924、大正13、裏日本旅行案内 : 附・裏日本商工案内、国会DC
23コマ
「山代温泉…行基此温泉に浴し、奇験あるを感じて霊泉となせしと。其後花山法皇、賓輦を此地に停め給ひしより朝野の貴紳の遊欲するもの尠からず」
輦:レン、こし、てぐるま、
尠:セン、すくない
1925、大正14年:石川縣江沼郡誌p446

 神亀2年行基山代温泉に浴し、其の霊効あるを知り、自らが医王善神の像を刻し、温泉の守護仏として……
同p450、行基が温泉を発見し、新たに湯池を開いた(意訳)
 また山代を歌った詩が何編か書かれていたが、八咫烏、烏、三足などのモチーフは見当たらなかった。
1925、大正14、摂政宮殿下御統監北陸大演習行啓記念史、国会DC
168コマ
「薬王院…僧行基巡錫の途、此処に杖を留め、温泉を拓きその鎮護として自ら医王善神及び日光圓光十二神将の像を彫り、霊方山薬師寺と號して一宇を開く。後、花山法皇之を再興し給ひ」
176コマ「山代温泉…山中温泉と同じく神亀年間僧行基の発見にかかると称せられ、長徳の頃花山法皇此地に行幸し給ひ」
1925、大正14、三都中心名所の旅、国会DC
182コマ
「山代温泉…神亀二年僧行基白山に登れる途次此の温泉に浴し、奇験あるを覚り霊泉となし、湯地を開き傍に一宇を建て…其後花山法皇が賓輿を此地に停め給ひしより朝野の貴紳の遊浴する者が少くない」
1926、大正15、趣味と実用をかねた日本名所めぐり、国会DC
184コマ
「山代温泉…神亀二年僧行基白山に登れる途次此の温泉に浴し、奇験あるを覚り霊泉となし、…其後花山法皇が賓輿を此地に停め給ひしより…」
1926、大正15、北陸温泉めぐり、32コマ(国会DC)
「行基によって発見されたと伝えられ、花山法皇も北國巡回の途次立寄られたと口碑にある」
1926、大正15、新編日本温泉案内、国会DC
205コマ
「行基菩薩北陸巡錫の砌り、鴉が流れに足を浸してゐるのを見て霊泉湧出を知り、浴場を開いたと伝へられている」
1926、大正15、隠れて優秀な温泉新案内、国会DC
186コマ
「山代温泉…行基菩薩北陸巡錫の砌り、鴉が流れに足を浸してゐるのを見て霊泉湧出を知り、浴場を開いたと伝へられてゐる。」
1926、大正15、加賀と能登、国会DC
44コマ
「山代温泉…当温泉も又僧行基の発見にかかり1200年の古い歴史を有している。花山法皇此の地に行幸あって此の温泉の埋れたるを再興…」
45コマ「薬王院…行基の此の温泉を拓いた時、傍に一庵を結び、自ら医王善神及び日光月光十二神将の像を彫り…後、花山法皇之を再興し給ひ」
大正13年版もある。余り変わらないので略す。
1926、大正15、北陸旅行案内、国会DC
26コマ「山代温泉…山中と同じく僧行基の発見で、陸軍療養所があることから…」
1926、昭和元年
1928、昭和3、日本山水名勝めぐり、国会DC
119コマ
「この辺一帯の温泉は何れも僧行基の発見せし由を、土地の案内記に吹聴いたし居り、山代も亦た行基菩薩が湯の池を開きしなど、由緒書きはなか/\勿体なく候」
1929、昭和4年7/7、聖城公論、第五十三号、p4
「山代温泉並薬師縁起の中に、…………、昔行基己に開くといへども荒塞して年久し。……」
https://www.city.kaga.ishikawa.jp/material/files/group/79/40707.pdf
1930、昭和5、自治団体之沿革、国会DC
201コマ
「山代温泉…僧行基北陸巡錫の時是に浴して其の霊泉するを認め………僧行基が北陸巡錫の時これに浴して、其霊泉であることを知り、…其後長徳年間花山治皇遊幸の際、温浴を試み給ふたこともある」
1932、昭和7、石川県に於ける温泉の研究、p75
「温泉寺の縁起に據ると、神亀二年(紀元1385(註:西暦725))、行基北陸巡錫の折此地に温泉の湧出せることを発見し、新たに湯地を開き其傍らに茅宇を結び自ら薬師如来…を刻み」
「その後…花山法皇諸国巡業の砌り当温泉に澡浴を試み給ひ」(霊夢や紫雲の話なし)
同151、「山代温泉並薬師縁記云 …行基…白山によぢ登り給ふ時、初めて浴して泉の異なる事を知る。医王善逝及び……」
1931、昭和6、旅程と費用概算 昭和6年版、国会DC
142コマ
、「山代温泉…山中温泉と同じく僧行基の発見と云ふ」
昭和3.5.7.9.10.13年版もあり。内容は同一だけどメモは6年版からなのでここに記す。
1933、昭和8、新愛知年鑑 : 附・中部日本特輯 昭和9年、国会DC
295コマ
「山代温泉…山中温泉同様僧行基の発見になる」
(1933、昭和8、国民年鑑 昭和9年、国会DC、296コマも全く同じ記述)
1933、昭和8、趣味の風景通信日附印集、国会DC
73コマ
「山代温泉…行基の発見に係ると云はれる」
1933、昭和8、北陸だより、国会DC、
30コマ
「山代温泉…温泉の発見は山中と同じく僧行基の発見と伝えられ、大聖寺の藩主前田氏によりて再興されたと云ふ。」
1935、昭和10、児童百科大辞典 12 (日本地理 1)、国会DC
196コマ
「山代温泉は千二百年も昔、行基菩薩の発見した所」
1935、昭和10、現代展望・郷土誌 [富山県・石川県・福井県]、国会DC
267コマ
「山代町…僧行基北陸巡錫の時是に浴して其の霊泉あるを認め、湯池を開きたる」
「薬王院…(行基が像を彫ったよなどの後に)花山法皇が…気烟熾に立ち騰(?)るを見て之を探索して温泉を発見し、」
219コマ「(山中に縁起なし)、山代温泉…山中温泉と同じく僧行基の発見にかかり、」
1935、昭和10、帝国産業興信録 3版、国会DC
294コマ
「因に当館(あらや)のある山代温泉の歴史は、聖武天皇の神亀二年僧の行基が発見してより一千二百余年、その霊験は一世に謳はれ…」
1936、昭和11年、加賀志徴 上編、p114、江沼志を引用か?スクナヒコナが作ったよ云々(行基すら描写なし)
同p117、行基が白山に登った時、初めてこの温泉に浴し、泉の霊なることを感じ、……薬師如来等を彫り、寺を作る
1936、昭和11、療養本位温泉案内関西篇、52コマ、国会DC
「(山中温泉と)同じく行基が北陸巡錫の砌発見した相で、…」
1936、昭和11、大日本市町村案内、国会DC
43コマ
「山代町…僧行基北陸巡錫に当り是に浴し霊泉なるを認め湯池を開きしによる」
1936、昭和11、療養本位温泉案内 関西篇、国会DC
52コマ
「山代温泉…(山中温泉と)同じく僧行基が北陸巡錫の砌発見したものだ相で、泉脈は…」
1936、昭和11年、江沼郡勢
p8、
「僧行基の発見にかかり、1200年の古い歴史を有して居る。長徳年間、花山法皇此の地に御幸あって、此の温泉の埋れたるを再興」
p17.19.20.にも三温泉の略説あり。ほとんど同じ事を言っている。やはりカラスは無い。
1936〜40、昭和11〜15、日本都市大観 昭和11年版、国会DC
796コマ「山代の「くらや」…行基菩薩が発見したと伝へられる…」
1937、昭和12、産業と観光 : 新興日本の全貌 昭和13年、国会DC
190コマ
「山代温泉…山中温泉と同じく僧行基の発見にかかり、塩類泉で…」
1937、昭和12、麗山名水、国会DC
36コマ
「行基が発見したと伝へられ、泉質は…」
1938、昭和13、北陸・高山線地方 (ツーリスト案内叢書 ; 第12輯)、10コマ、国会DC
「温泉の発見は(註:山中と)同じく行基菩薩と伝へ、…」
1938、昭和13、北陸、国会DC
129コマ
「山代温泉…僧行基の発見と伝へられ、大聖寺の藩主前田氏により再興されたといふ」
1938、昭和13、北陸・高山線地方 (ツーリスト案内叢書 ; 第12輯)、国会DC
10コマ
「温泉の発見は(山中と)同じく行基菩薩と伝へ、」
昭和13、江沼郡山代町治一覧:昭和13年統計
「沿革」

 温泉は聖武天皇神亀二年、僧行基北陸巡錫の時是に浴して霊泉なるを認め湯池を開きたるを以て濫膓となす。
1939、昭和14、大聖寺縦行一二横行二一図幅第一四五号地質説明書、国会DC
30コマ
「山代温泉…山中温泉の由来は頗る古く1200余年の昔、行基菩薩の発見と伝へられる」
前後の文脈から、文中の山中温泉は山代温泉の誤字だろう。
1939〜42、昭和14〜17、石川県勢 昭和16年、国会DC
19コマ
「山代温泉…山中温泉と同じく僧行基の発見に係り、1200余年間の歴史を有している」
昭和15年版もある。大差ないので略す。
昭和14年版もあった。
1940、昭和15、郷土資料、41コマ、国会DC
「鹽類泉で行基の発見と言はれてゐる」
1956、昭和31、山代志p76「行基湯池を開き」
同p60湯神詞、よくわからんが「スクナヒコナが作った」。カラスの記載は無さそう。
1956、昭和31、改訂増補 加能郷土辞彙、p909
「薬王院 寺記にいふ。行基…白山に登った時、初めて此の温泉に浴し、湯地を開きて…」
1958、昭和33、山代温泉観光協会、発足
1958、昭和33、やましろ
p402
、「「…当郡吸坂に至り東方瑞烟の上るを見て霊鳥の指授により発見し玉ふ温泉なり」と見えるので、行基菩薩が白山登山のさい山代の里を通りかかると一羽の鳥が飛んで来て、山陰の田の水に翼を濡らす有様を眺めて発見した温泉となっている」
1960頃?、いっぷくやの奥さん「八咫烏だと言っていた」
1961、昭和36、郷土のあゆみ(社会科資料)、
p105、「僧行基が北陸巡錯の折、発見したと伝えられ、古い歴史を誇っている」
「行基菩薩が白山登山の途中この霊泉に浴し、自ら薬師如来などの像を刻まれ温泉の守り仏とされたもので、白山五院の一院でお薬師さまと呼ばれ、…花山法皇巡幸のみぎり、堂を建立され薬王院温泉と名ずけられた」
1961、昭和36年、加賀名跡志、
p101
、「寺伝によると、行基菩薩が白山登山の途次、この温泉に浴してその霊効あるのに感じ、自ら薬師如来及び日光、月光、十二神将の像を彫刻して温泉の守護仏とした。その後、廃滅に瀕していたが、長徳年中(995〜999)に花山法皇が北陸に巡幸しこの温泉に浴した際、霊夢に感じて堂宇を建立された」
1965?昭和40年頃?、父「カラスが傷を癒してた」
1969、昭和44、こども石川県史 地名編、
p213
、「山代…昔、行基というお坊さんが、白山にのぼるとき、はじめてこのお温泉にはいったと伝えられています。行基は、おいしげった雑草をなぎはらって、湯地をひらき、温泉の守り仏をきざんでいったといわれています」
1970?昭和45年頃?、温泉寺住職およびたちばな女将「八咫烏と先代から教わった」
1970、(1985.昭和60年、えぬのくに 復刻版(第11号〜20号、p454による)「略縁起には〜とある」の後に更に続けて「白山に修行に来た時、吸坂山の上から白山を眺めると、遥か彼方に紫の雲のたなびく処がある。…山かげの田に、一羽のきずついたカラスが翼を濡らしているのを見られ、そこに杖を立ててみられると温泉が湧き出た。入ってみると霊泉だったので薬師如来等を彫り…」
1972、昭和47年の菖蒲湯祭りの写真(平成18、ふるさとの移ろい 山代の半世紀、市立図書館、p70による)
浴衣にカラスあり。
1972、(2017、写真アルバム 小松・加賀・白山の昭和、p213による)、カラス浴衣あり
1973、加賀・山代温泉「昭和48年度菖蒲湯祭」8mmから(2018投稿)
https://youtu.be/_nC_rq70HTM?si=Sel_l2oPuO9kO-cU
9:58、一瞬映ったのはカラス浴衣か?
1975、(えぬのくに復刻11〜20号、p934による)『「薬王寺記」(加賀志徴記載)によると……行基が初めてこの温泉に浴し……花山法皇が吸坂で東の山に気いんうんとして蒸すがごとし、尋ねてみるにこの温泉だった』
及びp935、「山代温泉が行基によって発見され、そのお手引きとなったのは、傷ついた鳥であり、だから山代温泉のシンボルは鳥である
 温泉発見の手引きとしての、烏(山代)白鷺(山中)鴨(片山津)小鳥(粟津)などが……」(前半はトリ、後半はカラスと書かれている。誤植か?)
同、『「加賀志徴」は別の説も記す。……スクナヒコナが作った』
1975、石川県大百科事典、p763
「薬王院…行基が開いたとされるが、行基開創伝承は、加南の温泉の守護堂にほとんど共通するものであって…」
同p771「山代温泉…温泉は行基が開いたと伝えられている」
同p773「山中温泉…開湯は行基、…白サギが傷をいやしていたのをみつけて復興したと」
1976、昭和51.日本の伝説12 加賀・能登の伝説 p69
 「行基が足を痛めた一羽のカラスが田の水に翼を濡らす有様を眺めて、温泉を発見した」
 「湯女のニックネームがつきものだ。片山津は鴨、山中では獅子、粟津で小鳥、山代では太鼓の胴」(源氏名、チーム名みたいなものか?山中で獅子なら必ずしも開湯伝説に関わるとは限らん。山代のは同名の昔話が元だろうし)
1977、昭和52、加賀の旅路、p44
「寺伝によれば行基が白山登山の途中、この温泉に浴してその効に感じ、薬師如来他をほり……」
1978、昭和53年:加賀市の歴史p134、「略縁起」を引用して短文のみ言及。
1978.昭和53年:こども加賀市史p40、および
1978.昭和53、こども加賀江沼史、p40
行基がこの地をおとずれ、カラスが群れをなして遊んでいるのをよく見かけました。その中に足の傷口をひたしている一羽のカラスを発見し、水たまりに手を入れてみたら温泉であったと言い伝えられています。
(この2冊は加賀向け、山中向けのバリエーションだろうと司書に聞いた)
1978、昭和53、加賀市史 通史上巻p861
「「温泉寺略縁起」には「菩薩……白山開山の後温泉を開き」云々」
1978、生きている民俗探訪石川、pメモ忘れ
「薬王院温泉寺には、行基が白山に登る途次山代を通ると一話の烏が山陰の田で羽を濡らしており、近寄ってみると湯が湧き出していた、……との伝えがある」
1978、昭和53、南加賀探訪
p134、
「1200年前、山中温泉と同じく僧行基によって開かれたと伝承されている」
1979、昭和54年:霊方山薬王院温泉寺寺宝展、巻末
 行基は江沼郡の吸坂にさしかかった時、東の空に瑞雲のたなびくのを見て不思議に思った。たまたま一羽の霊鳥がその方向に飛ぶので、そのあとをたどるうちに、一つの温泉を発見した。今日の山代温泉である。……温泉寺略縁起に記された要旨である。
1981、昭和56、加賀郷土かるた(平成25、第5版)説明書、p42
「奈良時代の始めごろ僧行基によって発見されたと伝えられている」
1981、(1992,平成4、えぬのくに 復刻版(21〜30号)p730による)「行基によって発見された」
1986.3.17.北國新聞、朝刊、p15
湯の街散歩17 山代編 開湯千三百年 戦前は農民の休養地 僧行基が発見 藩が管理人置く
「行基が…一羽の烏(からす)が岩間からわき出る湯に翼を濡らす光景を眺めて……と温泉寺略縁起が伝える」「烏の湯と呼ばれる」
挿絵は二本足のカラスに見える
1981、昭和56、ふるさと加賀・能登、p151
「行基が、神亀二年(725)に発見したと伝えられている」
1986、昭和61、温泉之行者薬師如来
https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&as_vis=1&q=%E5%B1%B1%E4%BB%A3%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%80%80%E4%BC%9D%E8%AA%AC&btnG=#d=gs_qabs&t=1732664932461&u=%23p%3DAdX2KQ9hhqIJ
p9、「山代温泉は行基発見…花山法皇が来錫…老翁が夢に現れて来歴を奏した」
1988、ドキュメント ホテル百万石の飛翔、p66
「薬王院の略縁起によれば、…神亀2年に…行基が…鳥(ママ)が湧水で傷口を癒すのを見て発見した」
1989?.平成元年頃、ワイ「傷ついたカラスと聞く」
1989、平成元年、霊方山薬王院温泉寺縁起(門前の石碑)
行基菩薩が白山登錫の途次霊鳥の指授により発見された温泉
1989、平成元年、句集 かが・えぬま、p140
 「古くは山背と書かれていた。行基が温泉を発見し湯池を開いた」
同p147「行基が浴してその霊験あることを知り、自ら医王喜神の像を刻み……」
 句にカラス、八咫烏、行基、スクナヒコナ無し
1992、いで湯の街・やましろp14、「略縁起によれば(略)。湧き出る泉に翼を休める一羽の烏がいた。手を浸すと温泉だった。……この烏は記紀に出てくるヤタガラスと同じで足が三本ある霊鳥」湯浴み烏として菖蒲湯祭の提灯や浴衣などにあしらう。
1992〜2003?、山代の看板にカラスの絵(2012じゃらんブログ(後述)より)
1993、平成5、花山法皇の伝承、p108
「山代温泉の伝承によれば、…行基発見し、医王善遊(などを)彫刻して…」
1993、平成5、石川県大百科事典、p992
「山代温泉…行基によって発見されたと伝えられている」山中は特になし。薬王院も特になし。
1993、平成5、花山法皇の伝承、p108
「山代温泉の伝承によれば、神亀二年行基発見し、医王善遊…彫刻して岩宇に安置し、」
1993、平成5、加賀の旅路、p46
「寺伝によれば行基菩薩が白山登山の道中、この温泉に浴して効を感じ、自ら薬師如来・日光・月光・十二神将を彫刻して温泉の守護仏としたといわれています」
「その後荒れ果てていたものを、花山法皇が…夢のお告げを受けて建立」
1993.11.28.北國、朝刊、p24
山代温泉を再活性化 観光協会が計画 ことしを「開湯1300年祭」宣言の年に 通り整備やPR作戦 来春、テーマソングも
特に伝説なし。イメージキャラクター「おもてなしの天女」はなんとなく見覚えがある?
開湯725年なら+1300年は来年2025年やんけ
1994、源泉公園の烏像「お湯だす烏」完成、やましろ街事典(1996、p22)によると「傷を癒す1羽のカラスを見つけた事に始まるとされる山代温泉の由来に基づく」
1994、平成6、加賀の文化 第2号、p78
「寺伝によると、行基が白山登拝の道中この温泉に浴してその効を感じ、(薬師他を彫って云々)」
1996、1300年祭 実施(協会)
1996、やましろ街事典p23、「略縁起によると〜、山代あたりに向かっていくと、紫色の雲がたなびき、湧き出る泉に足が三本あるカラスが羽を休めていた。不思議に思い手を浸すとそれは温泉だったという」
同p32「烏【鳥類】山代の温泉を行基に教えた鳥。このカラスは〜ヤタガラスまたは中国の伝説の三本足の霊鳥である」→湯浴の項に三足八咫烏の図絵あり。文は「カラス」。
同p111、「行基がカラス(霊鳥)の導きを受けて温泉を発見」
1996、平成8、加賀の文化 第4号、p10
「山代温泉は、約千四百年も昔に僧行基によって開かれたものと云われ、」1400年???
同p27、「この時の作品に「赤絵霊鳥文延年画賛銘々皿」(写真)がある。……行基が……山代の里を通りかかると、一羽の烏が飛んできて、山かげの田の水に翼を濡らすさまを見て、温泉を発見した。…入浴すると、病気療養に効果があり、霊泉であることを認めたという古事がある。この古事に因んだ文様作りで……」
1996、平成8、加賀の道 1、
p92、
「「薬王院略縁起」によれば、山代温泉は神亀二年行基によって開湯され、その後花山院によって再興されたという。」
p96、「薬王院…「薬王寺記」によれば、神亀二年行基が薬王・日光・月光等の像を刻して岩窟中に安置したのに始まり、その後花山法皇が精舎を建立したという」
1998、大友粂満『山中紀行』
p67
、「山代の出湯→…神亀二年行基菩薩が開湯。その後、花山法皇が再興したと伝える」
原本はもっと古そうだけど年代わからぬ。
2000、平成12、句集 かが・えぬま 第二集、p103
「僧行基によって開かれた由緒ある温泉である」
 句にカラス等言及なし。魯山人は居た。
2000、平成12年、加賀商工会議所(と言うタイトルの、キャンバス事業に関する報告書?)、p3
https://www.syoutengai.or.jp/pdf/12/12/kaga_sk.pdf
【参考資料:キャンバスの停車駅】
山代温泉……1300年前、高僧行基がカラスが湧き出る泉で傷を癒しているのを見て、発見したと伝えられている温泉
2001、平成13、魅せられて山代p1、行基が発見した
同、p35,36、カラス着物。翼に模様?びみょーにカラスじゃ無いかも?帯はタカか何かに見える。菖蒲湯祭に関連するかは不明。後のカラス浴衣とはデザインが違う。
 年代不詳だが、「山代小唄」「山代節 作者 千里庵竹友」とあり。年代特定のヒントになるか?明治〜昭和初期の絵葉書である事はわかっている。
2001、平成13、奈良仏教の地方的展開の研究p10
「(山代も開湯伝説がある、のみで具体例なし)。「霊宝山薬王院略縁起」並びに宝永3年(1706)「山代温泉並薬王寺記」が伝存している」
2002、平成14、加賀藩 前田家ゆかりの地 大聖寺藩、p28、
「殿様が入った山代温泉 殿様が見つけた片山津温泉」
「山代温泉は歴史が古く、千三百年前、行基が湯の中で羽の傷を癒しているカラスを見つけたことによって、温泉が発見されたと伝えられています。カラスと言っても「ヤタガラス」で神武天皇の道案内をしたと言われる霊鳥です」
「秀吉も入っただろうと言われています」
2003、平成15、新山代CI 策定(協会)
2003、平成15、加賀の伝説、p15、
「行基が白山登山の道中、カラスの導きを受けて温泉を発見し、入浴して効能を感じ、薬師如来を……」
2003、北陸の民俗 第21集、p19
「山代温泉の由来は、神亀二年、僧行基が…山代の里を通りかかり、足を痛めた一羽の烏が水たまりに足をつけているのを眺めて、温泉を発見したという」
2004.平成16(2004)新市における温泉のあり方に関する報告書<概要版>p3、「湧き出る泉に足が三本あるカラス(八咫烏)が羽を休めていた」
2006.心にひびく加賀の休日、p186
行基が湧き出る泉で傷を癒すカラスをみて、温泉を発見したと伝えられている
平成18、ふるさとの移ろい 山代の半世紀、市立図書館、p3
「行基が白山登錫の途上霊鳥の指授により、温泉を発見」
2007、平成19、美と食の天才 魯山人 ART BOX
p33、
「山代温泉は約1300年前、行基和尚が一羽の傷ついた鳥が湧き湯に浸かっているいるのを見て、その水溜まりが温泉であることを知り、里人に告げて去ったのが起源とされていて」
2008、平成20、越前・加賀みずといで湯の文化連邦 みて歩きガイドブック 歴史と文化の散歩みち、
p5、
「行気菩薩が、傷を癒すカラスの姿を見て」
山代のカラスには言及して山中の白鷺には言及しないのは珍しい。
2009.角川日本地名大辞典17石川県、p920
 行基が開いたと伝えられる
2009、かが四湯ひなか本2010、p24
 「三本足の霊鳥が宿る山背の湯。」
 「行基に烏が温泉を教え、山代温泉が開湯。カラスは「古事記」や「日本書紀」に出てくるヤタガラス、または、中国の伝説で太陽の中にいると想像された三本足の霊鳥。」
同26p、「行基が白山登錫の途中、温泉を発見して深く霊感にうたれ、……」
2010、平成22、山代温泉第二次CI 策定(協会)
2010.6.10.北國、p27
サッカーW杯日本代表 同じシンボル 山代のヤタガラスも話題
「開湯伝説ちなみヤタガラスの像から湯が湧き出ている足湯」
「山代温泉のシンボルは3本足のカラス「八咫烏」」「同温泉観光協会によると、ヤタガラスがシンボルとなったのは、今から約1300年前、…行基に温泉の場所を教えたのがヤタガラスだったという開湯伝説が由来だという。源泉公園がその場所だとされ、足湯になっている。ヤタガラスの石像から……」
「あらやには魯山人から贈られた大きなヤタガラスが描かれたついたてが置かれている」
2011年、ゆるキャラすぱクロくん(八咫烏モチーフ)命名
2011、内外M&A事情調査研究報告 2011、p161、国会DC
「山代は1300年前に開湯したところで、カラスが羽を休めたという話が残っており、……ヤタガラスが山代の源泉のシンボルとなっている。魯山人が描いたヤタガラスの絵をシンボルエレメントとしている」
2011.5.1.北中、朝刊、p18、「黒いパン?不思議 ヤタガラスバーガー販売 山代温泉」
「加賀市山代温泉のシンボルで伝説の鳥「八咫烏」をイメージした」1300年祭?の時だけ?の販売っぽい。
2011.6.6.北中、朝刊、p11、「命名「すぱクロくん」山代温泉の新キャラ発表
 「キャラクターは同温泉ゆかりの三本足の伝説の鳥「ヤタガラス」をイメージした」
 「行基が、わき出る湯で体の傷を癒していたヤタガラスを見つけたことがきっかけとされている。
2011、平成23、山代陸軍病院史、p2
温泉寺に残されている「霊宝山薬王院略縁起」に次のように記されている
 行基白山に登り玉ふ時、初めてこの温泉に浴し、奇特有る事を感じ……(フェイ要約)
一般的には次のように解されて伝えられる。
(スクナヒコナなどを省いた上で)行基がこの温泉の奇特あることを感じて……
(次の段)行基が、山代あたりに紫色にたなびく雲を見て、引き寄せられるように向かっていくと、湧き出る泉に翼を休める一羽の烏(カラス)がいた。不思議に思い手を浸すと温泉だった。この烏は「古事記」等に出てくるヤタガラスと同じで足が三本ある霊鳥。湯浴み烏として山代ではこの烏をシンボルにしている。
同p83、行基がカラス(霊烏)の導きを受けて温泉を発見し……
2011、平成23、加賀市歴史文化基本構想、p149
「古代から続く「大堰神社」や「服部神社」……温泉もこの頃に行基によって開湯されたと伝わる」
2011、やましろ町並み読本、p2、p4
「行基が温泉を発見した」以上の事は書かれていない。
2011.5.広報やましろ、p2、すぱクロくんについて「山代温泉の開湯伝説に登場する"三本足の八咫烏(ヤタガラス)"を可愛らしくキャラクター化したデザインが完成しました」「愛称募集」
2011.8.広報やましろ、p2、「今年の三年生は…三本足のカラスが見つけたこと等を知っている子が沢山いました。…地道な活動の成果ではないかと感じました」
同、p3、「縁起には、「北陸行化白山登錫の途上当郡吸坂に至り東方瑞烟の上るを見て、霊鳥の指授により発見し玉ふ温泉なり」と見えるので、行基が…山代の里を通りかかると一羽の烏が飛んで来て、山陰の田の水に翼を濡らす有様を眺めて発見した温泉となっている」
2011.11.広報やましろ、p1、「山代温泉といえば1300年にさかのぼる…開湯伝説に登場するのがお馴染みの「八咫烏(ヤタガラス)」です。行基がこの地を行脚中に湯浴みをする一羽のヤタガラスを発見し、山代温泉の歴史が始まったと伝えられています。…ヤタガラスは山代温泉のシンボルとして親しまれ、揃いの浴衣の絵柄に描かれたり、ちなんだお菓子が作られたり、よさこいのチームもありました。魯山人が八咫烏の屏風絵を残していることは有名です。」
2012.3.広報やましろ、p1、「伝承として広く知られているものは、白山登山の途中に行基がカラスが傷を癒している霊泉を見つけ、薬師と日光月光を彫り…。この縁起図では、白山登頂の帰り、吸坂の峠から瑞雲たなびく地を見つけ、その地に温泉を発見したことに始まり、花山法皇の夢枕に仙人が立ち、温泉寺の復興を告げた事。その後明覚が〜」
2012.6.6.北中、朝刊、18ページ、「山代温泉縁起図 紙芝居に 住民制作 まつりで上演」
 「行基による温泉の発見に始まり、」
2012.6.広報やましろ、p2、「お薬師さんの歴史をさかのぼれば今から1300年前、行基が温泉を発見し、薬師・日光月光・十二神将を彫り…また五十音図の創始者と明覚が…」
2013、平成25、かが風土記、p15
「行基が白山に向かう途中、傷口を湧水で癒す烏を見つけた事により温泉が発見された…この古事に登場する烏が、古事記や日本書紀にも出てくる伝説の霊長、三本足のヤタガラスです。」
2013.8.広報やましろ、p2、「一羽の烏との出会いが1300年の歴史の始まり…。総湯のすぐそばにある源泉公園には開湯伝承ゆかりのヤタガラス像があり、その下からは源泉が湧き出ている。ここは山代温泉発祥の地。……薬壺の湯、山代のお湯なんですよ」
2014.平成26.改訂30.加賀ふるさと検定 加賀市歴史文化学習帳2、p28
 「(山代大田楽の説明として)カラスによって発見されたという開湯伝説を取り入れた……」
2014投稿、加賀・山代温泉「むびょうたん伝説」
https://youtu.be/AhdI366jebs?si=FVKcKyx9S0Flfcwn
1:38「山代温泉には八咫烏、魯山人というイメージキャラクターが居ますけど」
旧総湯映ってた?古総湯2010開業だから、もっと古い映像か。
2014投稿、山代温泉・紙芝居
https://youtu.be/FYFLHBBr_lk?si=lDhbmDf9grQC1HTp
1:50、「一羽のカラスが」
2014、たまひめちゃんTwitter
https://x.com/tamahime_kaga/status/425957687554109440?s=46&t=zo71frtsAI41QRFUNbCfsQ
「その中でも山代温泉の歴史が古く1300年前に遡ります。行基という大僧正が霊峰白山へ修行に向かう途中、傷口をわき水で癒している一羽のヤタガラスを見つけたことから、温泉が発見されたという伝説があります。古からこんこんと湧き続けている温泉、魅力的です(*❛◡❛*)」
2014、【公式】ほっと石川旅ねっと 「山代温泉」
https://youtu.be/4RGJfRvcklE?si=-alQQ4GdxBmcoH6C
「高僧行基が…湯の中で傷を癒す八咫烏によって」
2014.6.広報やましろ、p2、菖蒲湯祭りのあれこれ。「昔から山代音頭を町中で盛り立てようと色々やったらしいよ。みんなカラスの浴衣を作りましょう。とか」「我が家も4人全員作りました」誰の、いつの話かは不明。
2015、大阪観光大学観光学研究所年報「観光研究論集」第14号温泉観光の再生におけるクリエイティブ経済と社会的共同消費手段p32、
「歴史は古く、温泉は古代から自然湧出していたが、…行基が白山へ向かう途中、傷口を癒す鳥(註:トリと書かれてた)を見つけその効能を発見して温泉を開いたと伝えられている」
2015、平成27、夢境 北大路魯山人の作品と軌跡、p42
「霊烏延壽皿 大正12年頃の作品。山代温泉発見の伝説にちなむ八咫烏を描いたこの皿は、…現地の求めに応じて作り」
2015.11.広報やましろ、p2、芸妓道ながしの写真にカラス提灯あり。「あすなろ会」とも書いてあるから、やはりこれも特定集団のものではなく、山代一般のものか。
2016、平成28、中期ビジョン計画2016>>2022 策定(協会)
2016.12、広報やましろ.p3、ホテルききょう女将インタビュー「私の両親は昭和36年、山代の地へ移ってきた…幼いころは、カラスの揃いの浴衣で街の皆さんと輪踊りに参加するのが楽しみで…」
 正確な年代は不明だが、戦前戦後のあたりかと推測できる。カラス浴衣は一般的だったように見える。
2017.7、広報やましろ、p4、菖蒲湯まつり写真。「婦人会」「ゆいの会」の看板とともにカラス浴衣集団あり。特定集団の装束ではなく、街全体の装束なのか?
2018年、温泉むすめ山代八咫公開
2018.7、広報やましろ、p4、菖蒲湯まつりの写真のうち、総湯にかけられた幕に暁烏のマーク。
2019,令和元年
2019.1.広報やましろ、p3
、区長、まちづくり会長対談『「山代・行基・ヤタガラス・明覚」の言葉が入ったものを、至る所で皆さんの目につくようにしていくことが出来ないか…』
2019.4.広報やましろ、p3、
小学校の学習の一環として小学生が解説しているシーンか?「ぼくが、足湯の魅力を紹介してあげるよ。足湯は1300年前に行基さんが修行に行く途中に見つけたよ。この烏の像は、伝説の三本足の霊長(ママ)のヤタガラスの像なのです!」パンフレットを作り、総湯に置かせてもらったとある。
2020、観光まちづくりと地域における次世代育成の課題─ 温泉観光地における中学生の職場体験学習実態調査より─
https://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0%2C5&as_vis=1&q=%E5%B1%B1%E4%BB%A3%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%80%80%E4%BC%9D%E8%AA%AC&btnG=#d=gs_qabs&t=1732663819978&u=%23p%3D9ke3RcBXNnIJ
p5、「行基による開湯伝説があり、1300年の歴史を誇っている」
2020.6.広報やましろ、p3、
「行基が傷口を湧き水で癒す烏を見て、その湧き水が温泉だった事を発見して1300年あまり」
2021.えぬのくに、p34
「行基による山代温泉の発見を縁起とする……『白山之記』に記載される白山五院一つ「温泉寺」の後進ともつたえられる」
2021、石川ふるさと遺産、p243
「白山を開山した行基が八咫烏の足元に温泉の湧出を発見し、…」
2021.11.広報やましろ、p1、レインアートなる企画をやったらしい。「ところ/服部神社ほか それぞれの温泉地に関わりの深い伝説鳥などが雨の日に現れる仕掛けです」
題は加賀雨紋様。鳥の姿に白抜きで山代、山中、片山津と書かれたやつ(加賀温泉郷ポスター「三湯三景三養」と同)
2022、令和4年、新東巡記行、p82
「山代…神亀二年、泰澄から白山権現の由来を聞いた行基が白山からの帰路に、羽を休める八咫烏を見つけ、手を浸したところ温泉を発見したという」
2023、令和5、山代温泉中期ビジョン計画2023-2030 策定(協会)
同年、観光協会、法人化
2023、加賀市ふるさとめぐり、p14
「言い伝えによると…行基が白山に行く途中、一羽の烏が羽根の傷を癒している水たまりに温泉が湧いていることから発見された」
2023、加賀市美術館Twitter
https://x.com/kagabi02/status/1673258136495599624?s=46&t=zo71frtsAI41QRFUNbCfsQ
「月夜に佇む三羽の烏。#山代温泉 の老舗旅館に伝わった一幅で、日本画家 #鈴木華邨 が明治38年(1905)、その旅館で即興的に描いたと考えられます。
烏(#八咫烏)は山代温泉の開湯伝説にも登場する、まさにご当地 #イチ推し生きもの です。」
市美術館によると、吉野家所蔵、ずっと吉野家のものだっただろう、「八咫烏をモチーフにしたのだろう」、所有者から伝え聞いたもの、明文化した文書などは無い、知らない。
また、霊烏延壽皿についても、特に知らない。
2023.10、広報やましろ、「やたがらす元気塾紹介」
2024?「温泉×脱炭素」の観光地ブランディングに向けたグランドデザイン(年次の記載見当たらず。能登地震に言及していたから多分2024年)、p15、「約1300年の歴史があり、ヤタガラスの開湯伝説が残る」
2024、今建っている観光案内等
 「八咫烏である」「カラスである」「カラスに言及なし」とバラバラ。また、「すぱクロくん」及び「山代八咫」は八咫烏モチーフだが、観光協会か何かのマークは二本足である。源泉公園のカラスも「よく見ると三本足」と書かれてはいるが、よく見たら二本足だった。
2024、温泉寺のパンフレット
 「寺伝によれば……行基、霊鳥の指授により温泉を発見」
2024、街頭ポスター、「第13回やたがらす駅伝」つまり2011年に開始か。

年代記録忘れ、保存版 小松・加賀・能美今昔写真帳、p54
山代の菖蒲湯祭の写真あり。浴衣にカラスらしき絵。二本足?

HP(2024年時点のもの)
wikipedia:山代温泉「行基が白山から帰る途中、羽を休める八咫烏を見つけ、手を浸した」https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%BB%A3%E6%B8%A9%E6%B3%89
また、修正履歴を追った感じ、2004〜2022までは「行基による開湯伝説がある」のみでカラス類は書かれていなかった。2022〜2024までは八咫烏で変更なし。
山代温泉観光協会>山代温泉について:「行基が白山へ向かう途中、1匹のカラスが羽の傷を癒している水たまりを見つけた。このカラスが三本足の八咫烏である」https://yamashiro-spa.or.jp/introduction/
山代温泉商工振興会:「一羽の烏と高僧・行基との出会いにより開かれた」https://www.yamashiro-spa.com/
加賀温泉郷>はじめての加賀温泉郷:「三本足のヤタガラスが発見した伝説が残る」https://www.tabimati.net/feature/detail_3.html
2024、吉田屋山王閣HP、「温泉」より
「行基が白山へ趣いた帰りに当地へ立ち寄ったところ、三本の足を持った烏(ヤタガラス)が泉で傷を癒しているのを見つけた事が山代温泉の開湯の発端と伝えられております」
2024、瑠璃光HP「温泉」
「湧水で傷を癒すヤタガラスが開湯したことが由来の山代温泉」
2024、ホテルききょう>お風呂
「伝説の霊長ヤタガラスと 行喜菩薩
山代温泉の湯は、行喜菩薩(668~748)が白山登山の際、一羽の烏が田水に翼を濡らす様を眺めて発見したと伝えられています。」
2024、あらやhp、温泉、烏湯伝説の項
「山代温泉の開湯は、神亀2年(725)。
温泉縁起には、霊峰白山へ登拝に向かっていた行基上人が、紫色にたなびく雲の方向へ向かっていくと、 一羽の烏(ヤタガラスまたは中国の3本足の霊鳥ともいわれています)が、水たまりで羽の傷を癒しているのを見つけ、
温泉を発見したという逸話が残されています。
当館の源泉は、この烏湯伝説の泉であり、山代温泉発祥の湯元でございます。」
2024採取、ヤタガラス薬局(謎解きゲーム)HP
https://blacklabel.takarush.jp/event/yamashiro/
「山代温泉の開湯伝説は、神亀2年(725年)霊峰白山へ修行に向かう途中の高僧行基が傷を癒している一羽の烏を見つけたことからが始まります。この烏が古事記や日本書紀にも登場する伝説の三本足の霊鳥「ヤタガラス」です。」

2024.パンフレット群
総湯:「一羽の烏が見つけた、山代温泉
 一羽の烏との出会いが1300年の歴史のはじまり…。行基が白山へ向かう途中、傷口を湧水で癒す烏を見つけたことにより、温泉が発見されたと伝えられています。
 烏といってもただの烏ではなく、「ヤタガラス」という、……伝説の三本足の霊鳥。ヤタガラスは太陽の使者、勝利を導く幸運のシンボルともされ……」
 「総湯のすぐそばにある源泉公園には開湯伝説ゆかりのヤタガラス像があり、」
あらや:「温泉縁起には、白山へ向かっていた行基が、紫色にたなびく雲の方向へ向かっていくと、一羽の烏が水たまりで翼の傷を癒しているのを見つけ、温泉を発見したという逸話が残されています」
萬松閣、客室案内のページ、「赤烏 太陽に住むという三本足のカラス伝説がテーマの斬新な雰囲気を」
山代温泉開湯伝説には触れていないが、三足烏なので記す。
同、浴場案内「ヤタガラスの湯」
同、「いろはの湯」
 仮に明覚絡みだとしたら、いろはじゃなくてあいうえおなんだよなぁ。魯山人ならいろは(屏風書いたっぽい)でおk。
白山菖蒲亭 表紙「花しょうぶと天女」
 菖蒲と天女と言えば1300年祭のキャラを思い出す。
無何有、p1
「行基菩薩が白山登錫の途上で温泉を発見。温泉の守護のために、薬師如来他を彫り……」
「無何有は、薬王院温泉寺の跡地に…たたずむ旅館です」
瑠璃光(大きいパンフ)、3枚目中央
「行基が白山登山の途中発見されたといわれるお湯(山代温泉)」

宝生亭、大江戸温泉物語グループ(山下屋、彩朝楽)、リブマックス、葉渡莉、たちばな四季亭、ゆのくにの森、雄山閣、吉田屋山王閣、ゆのくに天祥、瑠璃光、百万石、森の栖、白山菖蒲亭、萬松閣、星野リゾート(界 加賀)、ききょう、多々見には縁起なし。1300年の〜くらいは書いてあった。
また、2020の百万石のチラシ(観光協会に置いてあった)にも縁起なし。おそらく取り逃がしがあっても1〜2件だと思う。
無何有は薬師部分に注目したのか、薬やらなんやらの紹介がやたら多くて新鮮だった。
「界 加賀」は元白銀屋?魯山人の作品も幾つか展示してあるが観覧は宿泊客だけとのこと。しゃーない。
雑誌の1ページか何かをコピーしたもの?(リブマックスリゾート加賀山代にて配布されてたやつ)(裏面右上にYAMASHIRO SEASONの文字が見える):「一羽のカラスとの出会い…行基が白山に向かう途中、一羽の烏が羽の傷を癒している水たまりを見つけたのが*に受け継がれているという山代温泉。この故事に登場する鳥が、伝説の霊長、三本足のヤタガラスです。
(文字がひどく潰れていてはっきりとはしない。霊長は多分誤字ってる)
同、E源泉・足湯の項
 「岩の上に立つ八咫烏(やたがらす)の像が目印です。
山代温泉あいうえおマップvol.10:
 源泉足湯の項「岩の上に立つのは山代開湯伝説に登場する三本足の霊鳥「ヤタガラス」。」
2024.観光パンフ、もっと石川、p52、
「山代温泉は、白山へ向かう途中の行基が発見したと伝わります」
同ちょっと石川には縁起なし。
同ほっと石川まるごと観光マップ2024にも縁起なし。
同るるぶ特別編集加賀の國に縁起なし。

魯山人看板等
大正4(乙卯)、魯山人作、あらやの看板(年代不詳、特別展加賀市と魯山人、p3による)
「乙卯 十一月 吉日 烏湯 源泉 閣主人 属大観 学人◻︎」「烏湯は山代の湯のことで源泉閣主人とはあらや主人のことである」
同p4、衝立(烏の絵)
「暁烏」と呼ばれているがここにはその記述なし。
同p6、白銀屋 看板 には烏に言及なし。
同p14、吉野家 看板 も言及なし。
くらや看板「七福湯 くらや」(山王閣ロビー)
吉野家看板「吉野家 碧泉館主人属大観作「宣孫」」
 碧泉館は吉野家の別称
封松軒看板 横の文字は「大観」か?(平成29、魯山人と初代須田菁華、p8。七尾美術館所蔵とのこと)
同p24、染付鉢「碧泉」注に吉野家の別称とあり
白銀屋看板「白銀屋 ……香泉館…」

烏湯、七福湯、碧泉館、香泉館と旅館ごとに?源泉ごとに?別名があったようだと推察できるが、推測を出ない。
「魯山人は彫る前に由来などをよく聞いた」と言われているので、あらやだけに烏湯と書いたのは意味が有りそうには感じる。

2006、観光カリスマ紹介 : 伝統・文化を重視した温泉街づくりのカリスマ : よろづや観光株式会社代表取締役社長(石川県加賀市・山代温泉)萬谷正幸氏、国会DC、
1992
、萬谷正幸(よろづや観光、社長)は観光協会副会長及び「1300年祭実行委員長」「長期ビジョン策定委員長」に就任した。
ポスターを男性向けから女性向けに変える、「人にやさしい温泉文化のやましろ」を基本コンセプトに。ロゴ等平仮名にしたのもこの辺っぽい。
99年、「歩いて楽しい街並み」をセールスポイントにしようと、観光協会がまちづくり推進部を発足。萬谷は観光協会会長(当時)
2003、1300年祭当時のコンセプトを修正、「より山代らしい、人にやさしい湯の里づくりをめざして」
1.観光協会のマーク(魯山人のやつをモチーフにした)、ロゴ(魯山人の篆刻をベースにした)、参考として「魯山人の絵、山代温泉を発見したという伝説の烏を描いている」。
また、ロゴのやましろを漢字にした。
2〜5.なんか諸々やってる。看板、総湯、連番屋など。
山代グランドホテル→瑠璃光
「1300年祭、商店街に協力を申し込んでも旅館のイベントになんかつきあってられないと言う構え」「当時は旅館と商店街は仲が悪かった。」
2003年頃?
湯布院の人「山代は湯布院には無い歴史がある」
「そこで見直してみると、九谷焼や文人などがあった。中でも北大路魯山人」
「そのなかに、山代温泉を発見したと伝えられるヤタガラスをモチーフにした屏風絵がありました。そこでこのヤタガラスを山代のシンボルとし、ロゴも魯山人風に変えたのです」

2024閲覧、最終更新日2012/05/14 、じゃらん 宿泊施設ブログ「カラスが愛される町」
https://www.jalan.net/yad344540/blog/entry0001844030.html?yadNo=344540&aid=0001844030&convertedFlg=1
当時のものと思われる「やましろ温泉通り」の看板写真。カラスが描かれている。
「やましろ」とひらがなな事から2003以前の看板だと思うが、「八咫烏をシンボルにした」2003以前にも烏の絵が描かれているのが興味深い。それまではカラスがシンボルだったのを、八咫烏に変更したと言う事だろうか?
ひらがなロゴは1992辺り〜2003頃。書き足しが無いのなら、このカラスもその期間の作となる。


そもそも霊烏(れいう)とは?
温泉寺略縁起に「霊烏の指授」と出るのが八咫烏っぽいものの初出であり、混乱のもとだ。
温泉寺住職は「八咫烏のことだ」と言っていた。

新潮国語辞典 現代語・古語 第二版「霊妙な力を持つ烏(カラス)。[盛衰記40、維盛入道熊野詣]」
国語大辞典「霊妙不可思議な烏(からす)。瑞祥をもたらす烏。熊野神社などで、神の使いとされる。」
新編 大言海「クスシキカラス。尊く不可思議なる烏。」なんか例文あったけどよくわからん!
明治32、高野山独案内 3版、36コマ、国会DC
「霊烏の事 一つかひの烏あり 眼金色にして足の爪青し ……不動愛染の変身と習へるにや……この烏は伊勢大神宮より進(まい)らせし……」
ちょっとよくわからないけど、霊烏が来た、それは愛染の化身だったり伊勢の遣わしたものだったりするよ!かな?
明治14、瑞穂蒙求、37コマ、国会DC
「霊烏なんちゃら…神武天皇……頭八咫烏……」
読めないけど、多分神武東征の話だろう。少なくともタイトルの霊烏と中身の八咫烏は同一と思われる。
明治25、陸海軍勅諭衍義、7コマ、国会DC
「天皇名付けて頭八咫烏を曰ひ給ふ 其霊烏(くしきからす)の……」
ここでははっきりと八咫烏=其の霊烏と呼んでいるように見える。
明治28、日本の優美、7コマ、国会DC
「神武天皇之を患ひ玉ひ…東征…其際霊烏ありて軍の向ふ所を嚮導せし…」

よって霊烏の中に八咫烏は含まれるが、その他の霊妙な烏も含まれるため、略縁起の霊烏が八咫烏であってもおかしくないとは言える。確定ではない。

では、八咫烏とは?
明治44、少年日本歴史読本第四編、21コマ〜、国会DC
22コマ口絵、烏は3本足じゃない……けど取り立てて大きくも見えない。
23コマ「成程並々の烏ではない大きな立派な烏が、じっと翼を休めて居た」
以降「ははあコレが八咫烏だな」「この烏が八咫烏だろう」などと続くが、3本足には全く触れない。
26コマ「八咫烏は人が烏か」「八咫烏は名の如く大きな烏だといふ説もあるが、又一説には本当の烏ではない、人間であって、健角身命といふが本名で、後には山城の賀茂に居て其子孫を賀茂縣主といったとある。」
昭和13、古事記物語 (少年少女世界名作物語)、50コマ、国会DC
口絵には足の見えない(飛んでいるからか)烏の絵。また本文に3本足らしき描写なし。

明治、昭和の2冊だけだが、3本足に全く注目していない事がわかる。こんな特徴的な事略すか?と思うので、当時は3本足説は主流じゃ無かったんだろうなと推察する。


2024年、山代の一村民への聴取
(山代の開湯伝説を語ってください)
 泰澄だかなんだかが傷ついたカラスが湯に浸かっているのをみて温泉を見つけた。あいうえおは明覚が作ったと言っているがその頃にはもう有ったから、平安か、その前か、結構古い事は古いらしい。
(八咫烏については?)
 知らん。八咫烏ったらあれやろ?ヤマトタケルの〜……
(ただのカラスですか?それは貴方が子供の時から?)
 そうだ。子供の時からただのカラスだ。二本足だ。
(話者は特に山代の代表や古老でも無い、70前後の一般男性である)
上記村民への聴取2
(誰に聞いた?)
覚えてない。あの頃は学校帰りに総湯で待ち合わせとかしてたから、その時に近所の老人にでも聞いたんじゃないか?あるいは図書館で友人と語り合ったのかもしれない。
(その後、誰かと開湯伝説について語ったことはあるか?)
ない。
山中の白鷺に対抗したんじゃないか?とも。山中に対抗意識があるのは周知だと言わんばかりだ。

2024、観光協会のひと(60年くらい山代住みとのこと)への聴取
(子供の頃に聞いた開湯伝説を語ってください)
いや、私は子供の頃には伝説なんてそんなに聞かなかった。働くようになってからきいた。
行基が温泉で羽を癒しているカラスを見て発見したと聞いている。
(いつのまにか八咫烏になってない?)
でも魯山人の絵には八咫烏がーー
(観光協会のマークと同じなら二本足では?)
そうだ。「暁烏」だったかな。
(八咫烏はいつごろから?)
それも知らない。当時カラスは今ほどイメージ悪く無かったけど、ゴミとか漁るようになってきたから八咫烏の方が良いだろうってなったんじゃないか?
(Jリーグの頃?)
いや、もっと前じゃないかな?
(これ以上は?)
知らないし、古い書画も(観光協会には)無いね

2024.温泉寺住職への聴取
(山代温泉の開湯伝説をしらべています)
(奥さん)それは行基がカラスの傷ついてるのを浸してるのを見て発見したと。
(住職)(パンフレットを渡して)そうそう、それとそこに書いてある以上のことは知らんねえ
(古い形を探しています)
古いのは伝説だから歴史としてはわからん。明覚さんは史実と証明されている。
(伝説を知りたいのです。八咫烏の話を聞きたい)
源泉の所に八咫烏がいるぞ、三本足の。
(2本足でしたよ)
あらそうか。どっかに三本足なかったっけ?
(見当たらんのですわ)
(住職さんが先代から何か聞いたりしてませんか?)
先代から聞いたのはそこ(パンフ)に書かれているのと変わらん。八咫烏が傷を癒してたと。
(八咫烏とはっきり聞きましたか?)
聞いた。それは4〜50年前の事だ。
(いつの間にか八咫烏になったと思ってました)
いつのまにかただのカラスになったと思ってた。
行基伝説を持ってくる時に、縁深い八咫烏も持ってきたのでは無いか?
(略縁起とありますが、略じゃない縁起ってのはありますか?)
無い。恐らく明治頃に縁起のないのを気にして作ったんじゃないか。正確な記録が無かったと言う点でも「略」縁起なんじゃないか?
(この「霊烏」と言うのは鳥ですか?烏ですか?)
カラスだ。レイウだね。パンフや門前の石板は誤字だ。印刷屋に何度も注意したけどやっぱり間違えられた。

(温泉寺縁起「図」を見せて頂き、解説していただく事は可能か?)
あれには明治頃の作で、八咫烏描いてないよ?行基さんがあのー、どこだったかの山で紫の煙を見て、云々……
(スマホで図をみせる。ここら(右上)が温泉発見の場面だと思うのですが、カラスは無い。ここにあるのは薬師か何かでしょうか?)
多分そう。
(先代から読み解き方とか教わりました?)
教わったよ。
(結局現物は見せてもらってない)

明覚の話、古書は無い(燃えたり別の寺に行く時に持ってったり、そもそも無かったり)、歴史は文書主義、寺の歴史は古くしよう古くしようとする力が働くから自分で調べよと(住職が学生時代に)言われた、寺も客商売だから話を盛ることもある、などの話もした。
「霊烏の指授」とは何か?怪我をしていた?その部位は?などは聞き忘れた。

あと「私よりあなたの方が詳しいかもね」とか言われたけどそれじゃ困るんだよ!!!何でワイが第一人者になっとんねん。

同年後日、温泉寺住職へ2
(略縁起は明治32年のものしかない?)
それしかない。
(後で書き足したり、代替わりの時に改めたりは?)
ない。
(ではそれだけが唯一の縁起書だということで共通認識とします)
(霊烏の指授てのがどうも曖昧なんですが、これは何をさしますか?)
八咫烏が温泉で傷を癒してたと言う意味だ。
(八咫烏が飛んでって、後を追うと、と言う説も一話ありましたが?)
そう言うのを指授という。温泉に浸かったり、飛んでって後を追わせたり。
(どっち?公式見解は?)
ない。そこらへんは曖昧にしとるんだろうね。両方でも良いし。
ちなみに霊烏はカラスと書く。寺としては霊烏で統一されてて八咫烏だとは書いてないはずだ。
(そのカラスの怪我をした部分も曖昧なんです。翼か、足か、特定してないのか、そもそも怪我してたのか)
特に特定してないが、足だろう。翼だったら飛んで指授できないからね。

寺の縁起は古くしよう古くしようとするから信じられないぞ、とまた教わる。

2024、山代地区会館職員
子供の頃にはそんなん知らんかったけど、ここに勤めるようになってから聞いた。今の子は小学校で教えてるけど私らの頃はそんなん無かったからね。
 八咫烏が傷を癒してて、それで掘ってみたら温泉だったと。
(いつ頃ここにお勤めになられましたか?)
16年前、やたがらす駅伝の頃に。

その後「古い話を知ってそうな職員」に連絡をもらったが、諸々の通話のうちに「あなたの知っている伝説」を聞きそびれた。

2024.たちばな四季亭、女将さん
(嫁いでこられた当時、どのように聞かれましたか?)
行基さんが白山を巡っている頃に、山中を開いて、山代も開いてと聞いています。カラスが傷を癒していてですね。
(そのカラスと言うのはただのカラスですか?)
いえ!八咫烏だと。
(それはその当時から?)
はい、50年くらい前になりますか、嫁いで来た時、そのように聞きました。

四季亭は前は総湯の前・近くにあったが、平成(うろ覚え)にここに移転した。開始は明治の初めだ。
息子は観光協会?の会長?とかなんとか。機会があれば話を聞いてみたいものだ。

2024、自分自身への聴取
子供の頃、フェイ、父より山代開湯伝説を聞かされる。多分平成元年頃。父も私も一般人である。
昔、偉い坊さんがこの辺りでカラスが傷を温泉で癒してるのを見かけた。それで山代温泉が始まった。
 とは言え山中は白鷺、粟津は**、片山津は○○〜、と似たような話は多いから、こんなもん伝説に過ぎない。全国各地にある。
(杖ついたら湧き出たとかも類例で言ってたような気がする)

2024、図書館司書への聴取
大聖寺住みなんで山代の事は調べないとわからない。行基がカラス?ヤタガラス?白鷺?の傷を癒すのを見て発見したんだっけ?

2024、まちのほんやさん
(山代の開湯伝説をどのようにお聞きになったか?ーー温泉むすめグッズを買いながら)
あー、そんなに詳しくないわ。カラスが見つけたんやろ?だから八咫烏になっとるんかねー?(「だから八咫烏」が山代温泉に掛かるのか、八咫ちゃんに掛かるのかは疑問が残る。他の客も居たので話題はこれきりである)

2024、はづちをの店員さん
20年ほど前、ここに勤めるようになって初めて詳しく知った。「こーゆーこと聞かれるよ」として、また、街事典か何かで少し調べたとのこと。
(オーナーや観光協会から言われた?)
いえ、そう言うわけではない。
(語ってください)
「八咫烏が見つけたと。昔、お坊さんが熊坂かどこかから、紫色にたなびく雲を見て、それでやってきたら湖に浸かるカラスがいて、手を入れてみたら温泉だったと。それで村人に教え、茶屋か何かを建てたのが山代温泉の始まりだと聞いています」
(それ以前に聞いたことは?)
子供の頃にカラスがどーのこーのとは聞いた。今の子は学校で教えてるでしょうが、私の頃は無かった。
(それはカラスでしたか?八咫烏でしたか?)
そこまでは覚えてない。

2024、いっぷくやの奥さんへの聴取
八咫烏が傷を癒しているので発見したと聞いています。
(それは昔から?)
はい、子供の頃から。60年も前になりますかね?
(たとえば父から聞いたとかそんな感じで?)
はい、みんなそう言うとりました。

余談として、「八咫烏……足何本だっけ?4本?」と言っていたのを記す。

2024、総湯の受付のひと
行基って人が見つけたと聞いています。カラスが傷を温泉で癒していたので掘ってみたら出たと。3本足の。
(初めて聞いたのはいつ頃ですか?例えば子供の頃?)
それは小学校の頃で、もう50年くらい前ですかねー。
(3本足でした?)
はい、その時から3本足だと。

2024、あらや玄関番?女将?
特に知らないとのこと。忙しい時間なのでこれ以上は聞けず。

2024、和菓子屋、奥さん
(山代の始まりについて)
三本足のカラスが傷治しとって見つけたと
(子供の頃にはどうでした?あ、お嫁さん。では嫁いできた頃には?)
その頃から三本足と聞いている
(何年くらい前か?50年くらい?)
まあそんなもん。

2024、酒屋、店主
(山代の始まりについて)
725年、行基が三本足の八咫烏がお湯に浸かっているのを見て、それで見つけたと
(それはいつ頃お聞きになられた?)
昔っから
(何年前とかは?)
そこまで覚えていない。
(子供の頃?)
子供の頃はそんなん興味無かったからなあ
(初めて聞いた時は、三本足でしたか?)
三本足だ。そーゆーのを八咫烏と言う

そう言えば「あんなもん作ったもんやぞ」とも言っていたが、それは「神話なんて誰かの作り話だ」と言う意味か、「具体的に誰それさんが作ったのを私は知っていますよ」なのか、気になると言えば気になる。


街中に掛けられていた中学美術部による絵(おそらく2000〜2024のいずれか)
特に八咫烏らしき個体は見つからず。「写真編」も参考のこと。


仮説
邪推であるが、「いつのまにか」の期間にはJリーグ発足(1988又は1991年)が含まれている。そこで3本足の八咫烏と言うモチーフが有名になり、それにあやかって山代のカラス(霊烏とも書かれていた)をこの際八咫烏だと言うことにしておこう!となったのではないか?同じ頃、即ち1995年頃にはカラスのお面を被って踊る山代大田楽なる創作祭も開始されている。このタイミングでなら「より古そうなモチーフを盛り込んで伝統っぽさを演出」しやすいのではないか?これは邪推である。

この説は「いで湯」(1992)でハッキリと八咫烏と書いている点でやや疑念が残る。たった一年でそこまで浸透するか?

そもそもが八咫烏=3本足ではないと言う話もある。それは中国の三足烏の伝承とごっちゃになったものだと言う。同一視の起源は古いとも、ごく最近(それこそJリーグ以降)とも出てきたが、なんにせよ「二本足でもいい」なら図絵の類は信用ならんか。
また、魯山人がカラスの絵を描いた?みたいな話も聞いた。だとしたらその当時にカラスとは知られていたとなる。八咫烏=三本足とは限らないなら、八咫烏のつもりで描いたかもしれない。

因みに藩史には「スクナヒコナが各地に温泉をつくった。山代もその一つ。行基がそれを見つけて薬師像を彫り、寺を建てた」
江沼郡史だったかには「(祝詞の紹介)神代の時代から湧いているこの温泉は〜」
とあり、八咫烏に依らずとも相当古い事が示されている。

仮説2
住職の話でまたわからんくなってきた。寺の言い伝えと民間の言い伝えに乖離があり、最近合流したようにも見えるが、いち証言に過ぎないので過信はできない。
 なんなら「パンフは誤植」と言うのも「略縁起が誤記」の可能性をも示す。人は書き間違えるものなのだ。パンフを直さないように、略縁起も直さなかっただけかもしれない(魯山人の「暁烏」が割と近い時期に描かれているから「実はトリ」説は怪しいか?)。
 現状最古の瀧谷寺所有、薬王院略縁起には鳥類なし
 温泉寺縁起図にも鳥類らしき絵は無い
 温泉寺略縁起で霊烏登場
とあるから、ここで創作又は民間伝承でも引っ張ってきたようにも見える。「大して重要じゃないからこれまでは略してただけだよ」と言われても反論できないが。いや八咫烏略すか?でも寺だしなぁ。
 この項は仮説でもねえな。

仮説3
・山代には源泉がいくつかある。旅館敷地内にもある。となると「開湯」とは何を指すのか?
・魯山人が「あらや」にだけカラスの絵を描いている。他にあるのかもしれんがまだ調べてない。

 ひょっとして「各源泉に開湯伝説があり、しかしあらやの源泉の開湯伝説が略縁起に取り入れられ、その為に他の旅館は積極的に烏アピールせず、いつしかその辺も忘れられてカラスだ、八咫烏だと言うようになったのではないか?」根拠は暁烏のみである。あと葉渡莉の猿が気になる(猿による開湯伝説……だったらいいなあ)
 今集めてるパンフだと、あらや以外にカラスが出てこないのもそれっぽい。他の旅館のも集めないといけないな。
 ライバル旅館の撤退などによる力関係の変化が背景にある可能性も。
(追記)
 他の旅館の看板(大正4、魯山人作)に烏湯とは書かれず、別のそれっぽい文言があるのがいかにもそれっぽい。

仮説4
 霊烏の初出、温泉寺略縁起の書かれた時代(明治32年)は神仏分離やら国家神道やら帝国主義やらが流行った頃だろう。その波に感化されたのか迎合したのか、その心理まではわからないが、とにかく「何か日本神話的な文言を追加しよう」となったのではないか?「略縁起」にも「帝国文明の根源は実に仏教東漸の恩澤にして…」などと書かれている。
 その文言が、郷土史家やその他の山代温泉縁起に言及する者にとって、「ああ、帝国主義的な追加文に過ぎないな」と判断され、書面には書かれなかった……とか。
 一応熊野信仰も県内にあったり、近所に加茂なんて地名があったり、山代=山城混同やらで八咫烏が流入してもおかしくはない。ただし、温泉寺の原型は白山五院の温泉寺ともされている。
 しかし、郷土史えぬのくに(1970、カラスの初出)に寄稿するような者が「カラス抜きの縁起」を見ていないとは思えない事や、妙に詳細であること、証言によると1960頃には八咫烏と聞いていたとある事などから、民間レベルではカラス/八咫烏説が通用していたのだろうとも思える。

 あらや仮説とまとめて考えると、温泉寺が追加した→あらやが乗った、またはあらやの烏湯伝説→温泉寺が八咫烏として追加、となろうか。それが時が経つにつれ民間レベルの伝承になり、Jリーグやバブル崩壊による客足の低下、伝統文化アピールの盛り上がりなどにより、発掘されたのではないか?
 八咫烏が本筋だとすると、途中カラスとしか言われなかったのは何故だろうか?八咫烏の知名度の低下や「まあでけえカラスだ」程度の説明だったからかもしれない。よくわからない。


あらや仮説に関する記事

1933、昭和8、石川県史 第5編、国会DC
425コマ
、源泉位置の話。「その内通称湯元の湯(松の屋裏に露出し、浴客の縦覧に供す)・あらやの湯(露路内に在り、乞うて見るを得るべし。)・くらやの湯・大野屋の湯は…」
1935、昭和10、帝国産業興信録 3版、国会DC
294コマ
「当あらや旅館は由緒極めて古く、今日まで連綿として四百数十年の歴史を誇り…」
「因に当館(あらや)のある山代温泉の歴史は、聖武天皇の神亀二年僧の行基が発見してより一千二百余年、その霊験は一世に謳はれ…」
平成9、加賀の文化 5、p57

「あらやからの注文による鴉の絵を衝立に描いた…これは、あらやの内湯の温泉が八百年も昔の源頼朝全盛の頃に、傷ついた一羽の鴉が初めて見つけ、湯浴みその傷を治してから以来、鴉の湯と言い伝えられて来ているいわれによるものである」
「翌年もう一回来て、烏の絵の背景に大きく日輪を描き、金箔の砂子も蒔いた」
2007、美と食の天才 魯山人 ART BOX
p48、
「衝立「暁烏」…「あらや」の永井寿の依頼に応じ、内湯を「からすの湯」という伝説にあやかって制作」
p51、「創業800年を誇る「あらや」。…湯番頭を勤めた初代・荒屋源右衛門から現在で17代目」
2014、花美術館 vol.37、p056、
「あらや滔々庵 前田家藩主入湯の宿として、湯番頭"荒屋源右衛門"の名を受けて以来、当代で十八代の湯歴を数える」
でも湯壺は山下屋になかったっけ?また、宿自体はもっと古いと考える事もできるので、矛盾とまではいかないか。
2020、スカイワードプラス「旅への扉>魯山人、ここにあり」より(2024採取)
https://skywardplus.jal.co.jp/gate/tanoshiyanippon_rosanjin_is_here/
「ある夜の宴席で、八咫烏にまつわる山代温泉開湯の逸話を聞いた大観は、酔いそのままに一気に金屏風絵を描き上げたという」
「(あらやは)前田家歴代藩主の入湯の宿として湯番頭の命を受けて以来380年余り」
2022、ISICO press : 新産業創出のための総合的支援情報誌 (124)、国会DC
p10
「あらや滔々庵は大聖寺藩前田家から湯番頭の命を受けて以来、380年余りの歴史を刻んできた老舗旅館だ。」
2024閲覧、最終更新2022.5.10、らくらく湯旅>特集>温泉経営者がおすすめする一度は泊まりたい温泉宿#第20回山代温泉-あらや滔々庵-
https://onsen.community2.fmworld.net/articles/17752/
「永井さん(あらや代表):当館(あらや)は、山代温泉の中でも1番古く、開湯から間もなくの頃からあったそうです。」
2024、あらやhp、温泉、烏湯伝説の項(再掲)
「山代温泉の開湯は、神亀2年(725)。
温泉縁起には、霊峰白山へ登拝に向かっていた行基上人が、紫色にたなびく雲の方向へ向かっていくと、 一羽の烏(ヤタガラスまたは中国の3本足の霊鳥ともいわれています)が、水たまりで羽の傷を癒しているのを見つけ、
温泉を発見したという逸話が残されています。
当館の源泉は、この烏湯伝説の泉であり、山代温泉発祥の湯元でございます。」
2024、宿帳が語る昭和100年ー温泉で素顔を見せたあの人ー
p208
、「あらやは…前田利治から山代温泉の湯壺の鍵を預かる湯番頭の命を受け、現在の荒屋源右衛門氏で18代目」
p209、「うち(あらや)の15代目が魯山人を囲んで宴席を催していた時に、上機嫌になった魯山人が、『描きたいから』と言うので、金の屏風をお持ちすると、瞬く間に描いたそうです」
1991、石川県の地名、
p112
、「山代では…湯番頭については不明」
とあるから矛盾するが、研究が進んであらやが湯番頭だとわかったのかも?
(年代メモ忘れ)、加賀市史 通史 上
p863
、「藩庁の代官的役割の「山代温泉旅屋番堀口宗也」を山代に置いている…当時利常や利治は湯治用に山代に屋敷を構え湯壺も造ったらしいが、その管理人に彼を登用したのである」
「湯番には堀口宗也を仰せ付られ湯本の惣支配を致しけり」
その後、息子弥三郎は加賀藩に召し出され、金沢に住んだから山代の「旅屋番」は宗也一代だったのだろうか、とも。
「大聖寺藩の湯宿統括の政策が変化し、…湯宿の有力者を代表にして仲間を統制させる方式へと変化した。この後山中では「湯番頭」が登場するが、山代では文献資料が皆無に近く不明である」
p865、享和3年古地図と山中行記の比較表あり。そこには「荒屋 源右衛門」の名がある。
「堀口が…退職した事は前述した。この堀口家の屋敷跡を武田が引き継いだと言われ、配湯の権限と共に「湯番頭」として山代の湯宿を統制していたと思われる」
「武田の跡は現在の山下屋の場所であると伝えている」
p868、「大聖寺藩主らの山代入湯については……多くは武田方を本陣とし、蔵屋、豆腐屋、大野屋等も併用されている」
1844加賀江沼志稿、1854山代志
「源泉は神明社内にあり」
温泉寺内とかもあった気がする。どのみち移築→跡地にあらやか?古地図を見ると、現あらや〜源泉公園辺りに神社があったように見えるが、うろ覚えなり。

山代の1番古い源泉にカラス伝説があり、それが現あらやのものだとするなら山代の開湯伝説=あらやの伝説と言って良いだろう。ただし、「源頼朝の頃」の一文が矛盾する。また、採取日が新しいので信頼性に欠ける。
2024時点でのあらやの認識として留める。


「暁烏」と言う言葉について

カラス考
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/23955/KJ00005096922.pdf
p2、カラスの歌を紹介し、「所謂「明烏」をよんだ二首がある。この「明烏」は素朴な生活の実態によって唱われたものであろう」と明烏と言う語をただの明け方のカラスの意味で用いている。

Wikipedia、「明烏」
「古典落語の演目。明け方に鳴くカラスを意味し、転じて男女の夜の契りの終わりを意味する」

明治〜昭和の真宗大谷派の僧侶?に「暁烏 敏」が居る。石川県出身で哲学者。

哲学者・暁烏氏についてはわからないが、暁烏という語が八咫烏的な神秘性を持った言葉ではないらしい。


現状のまとめ
1706年には行基による開湯伝説があった。鳥類の姿は見ず。ただし略縁起なので略されただけかもしれない。
明治30年頃の略縁起には霊鳥の一文あり。霊烏かもしれない(住職によると霊烏)。
大正初期に魯山人がカラスの絵を描く。
(父の言によると昭和40年頃にはカラスだと言われていた?)
(住職によると昭和45年頃?に先代から八咫烏と教わった)
昭和53年こども加賀市史にいきなり「カラスの群れ」「傷ついたカラス」が出てくる。
昭和45年えぬのくにに「傷ついたカラス」が出ている。しかし「杖を立てると湧き出した」はどこから?
1992年、はっきりと「八咫烏である」と書かれる。但し出典の略縁起には「霊烏」としか書かれていない。
2000年代には八咫烏で固定されたように見えるが、観光案内板などにただのカラスの名残が見える。

まとめ2
「観光カリスマ紹介」によると、2003年頃に山代の歴史を振り返り、魯山人の八咫烏を発見し、八咫烏をシンボルとしたとある。直近の八咫烏推しはこの観光協会による仕掛けと見て良いだろう。
 但し、それ以前の「やましろ温泉」の看板にもカラスが描かれていたり、浴衣にもカラスが描かれていたりするので、普通の?カラスはシンボル化されていたように見える。

調査の本題の「いつから八咫烏になった?」はこれで解決だが、それ以外の疑問はまだ残ったままである。
1.明治略縁起の霊烏はどこから来たのか?
→あらや仮説。あらやのカラスは先か?後か?
2.本来は八咫烏だったのか?
3.霊烏は何故無視され、カラスとして復活し、八咫烏になったのか?

「何故?」を問うのは難しいが、どっかにヒントくらい落ちてないかなと期待するばかりである。

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