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山代温泉開湯伝説7種盛り
山代温泉の開湯伝説のうち、それなりに古く、まとまっているものを選んで書き写した。浅学ゆえに読み取れなかった文字も多く、誤りもあろう事を先に陳謝しておく。コピーの写真を付けるから参考にされたし。
また、カタカナをひらがな化し、段落分けや句読点の追加、旧字新字の変更なども適当に行った。
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年代不詳、瀧谷寺文書「薬王院略縁起」(昭和52年、加賀市史 資料編第三巻p272より)
霊方山薬王院略縁起
抑当山の由来を尋ぬるに、昔し神代の時少彦名命諸国の温泉を開き玉ふ時、此の山代の温泉を開き民の患を救ひ玉ふとなり、
然るに聖武帝の神亀二年行基菩薩当国白山に登り玉ふ時き、初めて此の温泉に浴し温泉の奇特有る事を感じ在まして、自ら薬王善逝及ひ日光月光十二神の像を刻し玉へ、温泉の守護のためとて石窟の内に安置し玉ふ、
其の後数百歳の星霜を経て花山法皇北国経廻在ましける時、此の温泉に浴し玉ふ、その夜夢に老翁有て告て曰、我れ本と瑠璃浄刹より来り少しく跡とを此処に垂る、この温泉は我が悲願力より踊出するなり、仁者願くは一宇を建立せしめ与となり、
法皇覚め給ふて医王の霊告なる事を感じ、早やく精舎を建立し玉へ、随徒の妙覚比丘を留め玉ふ、爾しより以来此の山を霊方山と呼び、寺薬王院と号し、医王の威徳千歳に垂れ、温泉の利益万代に潤ふ、誠に護国安民の霊場也
右は是迄通り耳、仮名交じり縁起なり
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1706、温泉并寺記(加賀市史 資料編3、p272より)
山代温泉并薬王寺記
山代温泉者在加陽江沼郡、而去大聖寺一里許也、
相伝、我国神代時乏薬物故、少彦名命於我秋津嶋中相温泉寺処々、而充頣神方極民夭折矣、而今此温泉其一処也、
神亀二年釈行基登白山時*浴此温泉、旋覚奇験以為霊泉、乃芟榛莽開湯池傍飾茅宇手彫薬師仏并日光月光十二神像、以為温泉鎮護、始号霊方山薬師寺、自爾以来神効日新矣、
長徳年中花山法皇(法諱入覚乃寛和皇帝也)乗輿北遊、遍探神迹、初到本州遙眺山隅有一片畑*2、尋視之則一温泉也、乃税(脱か)駕浴就舎傴息、夢一老翁謂皇云、我曩乗願力現此温泉、掌行基闢後荒壊稔尚矣、今時*縁熟君請図焉、言訖陰没矣、
皇夢覚愕然、於斯法皇乃志興復、経始勿丞不日功成而、改号于今之薬王、且納山代郷内一荘以充恒産、右皇所従妙覚者乃命覚房焉、永祈護国安民也、自爾四方浴者往来絡繹矣、
天文年中越前刺史朝倉義景、遣同姓教景屢侵鄰境当乎、此時我此紺殿与湯楼越人一炬可憐焦土、寺僧負仏霄*3逃、而賊散後掃灰砂尋旧礎、茅茨以庇経像而已、
慶長五年贈亜相利長卿攻山口于聖城、一鼓而抜焉、路過此境納兵于松山城(于時徳山五兵衛居此城云)、寺主詣帷幕下備陳当山源委、由是利長卿乃賜今地并山林田畠免賦税助香炎、永為点首祈褫[衣+襄]災也、
寛永年中小松黄門利常卿時、割加陽地遣、故於遺前飛州太守利治公守沼郡、利治公曾在郡時*、当一宇于城花潜志仏㕝也、而我有江府観、翌年不幸染恙、以故不果素志、預命家臣村井長之遷花中堂于当山、乃今薬師堂也、所賜親翰、蔵櫃珎焉、永備後鑑也、
山主行雅公適過乎、予請乎記、予雖眊事、于茲懇咨古老委考断篇、筆誌本末、以応其需焉、宝永丙戌煤觧制日
前住実性良悟撰
現住当山行雅書
*[日+之]、時の略字とのことなので時と充てた
*2畑 多分烟の誤字だろうが畑でも意味は通る
*3霄、正しくは雨に月。異字体しか出せねえ
褫、禠、関係ないけど似てるね!!!衣編で書かれてた。
現代語訳を試みた。漢文読めねえ。
山代温泉並びに薬王寺記(薬王寺は現・薬王院温泉寺の事)
山代温泉は加陽(金沢の事だが、広く加賀の国を指すのだろうか?)江沼郡(ほぼ現・加賀市)にあり、大聖寺から一里(4km)くらいの位置にある
言い伝えによると、我が国は神話の時代には薬がなかったので、スクナヒコナ神が日本中に温泉を作った、(全然わからねえ)、この温泉もそのひとつ
神亀2年(725年)、行基が白山に登った時にこの温泉に浸かり、特別な力を持つ温泉だと思ったので霊泉と呼んだ。(薮を刈り取って?)温泉を開き、その近くに茅のお堂を建てて、自ら彫った薬師如来と日光・月光・十二神将を納めて、温泉の守護仏としました。そのために霊方山薬師寺と呼び始めました。それ以来、神仏の力が宿っているのだろう(?)
長徳年間(995〜999年)、花山法皇は輿に乗って北陸を巡り、色々なものを見て回りました。初めて本州(この州=加州=加賀の国の事か)に到達した時、遠くに見える山の隅に1つの畑(烟=けむり・ゆげの誤植か?)をみつけました。行ってみたら温泉が有りました。駕籠から出て(?)温泉に浸かり、建物で一休みしていると(?)、夢にお爺さんが現れて言いました。
「この温泉は私の願いによって現れたものだ。行基が開いた後、荒れてしまった。今、縁は熟した。あなたが作り直しなさい」
そう言い終わると消えて行きました。
法皇は夢から覚めると驚きました。法皇は復興を志し、すぐに成し遂げました。そして寺の名前を今の薬王寺と改めました。山代郷に持っていた荘園を寄進して、従者の妙覚すなわち命覚に寺を預け、護国と民の安全を祈らせた。そのために四方から入浴者が訪れるようになった。
天文年間(1532〜1555)、越前の国守・朝倉義景は、朝倉教景を遣わして(加賀との)国境を越えさせた。この時、紺殿(寺の事か?)と浴場は越人(越前の人、朝倉軍)のせいで焦土と化し、憐れな事になった。僧侶は仏像を背負って逃げた。賊が去った後、灰を掃除して元通りに復旧した。
慶長五年(1600)、亜相の位についていた(?)前田利長は、大聖寺城の山口玄蕃を攻め、一撃で終わらせた。その時、この地を通り松山城(当時そこには徳山五兵衛が居た)へ兵を詰めさせた。寺の住職は陣地へ赴き、この山の由来を語った。利長は今の土地と山林、田畑を与え、免税と香の援助もした。(永くお祈りをして災いを防ぐように?)
寛永年間(1624〜1644)、小松黄門こと前田利常の時、加陽(加賀)を分割して、飛州(飛騨?)太守・前田利治に沼郡(江沼郡≒加賀市か?)を守らせた。利治が江沼郡に居た頃、城の近くに寺を建てようとしたが(?)、(しかし我が江戸?江沼の都?を訪ねたとき?)、翌年に病に罹り作れなくなった。あらかじめ家臣に当山にお堂を移すよう命じていた。これが今の薬師堂である。利治から賜った直筆の書は、大事に保管している。後の人の手本となるように。
住職の行雅は利治(?)がここを通りかかった時に、記録を取るよう要請されていた。最早老いていたが、古老に詳しい話を聞いたりして、この本をまとめた。これを以て利治の要求に応えた。
宝永丙戌(1706)、煤払いの日(?)
前の住職・良悟の撰
今の住職・行雅が書いた
翻訳は2024の一般人・フェイによる
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1803、茇憩紀聞(昭和6年本より)
山代温泉並薬師縁記云
加陽江沼郡山代温泉は、其の由来を尋ぬるに幾千年といふ事をしらず。我国神代の昔には人いまだ療病の方にくらし。是が為に少彦名命所々の温泉を以て民の患をすくふ。此の霊湯も其のひとつとぞ。
聖武天皇の治天神亀二年(725)とかや、行基僧正錫を越路の雲に飛ばして、我が白山によぢ登り給ふ時、初めてここに浴して泉の異なる事をしる。故に手づから医王善逝及び日光・月光・十二神将の像を刻み、是を岩宇に安んじ給ひ、此の温泉の鎮護にしてより、山は霊方と呼び、寺を薬師と号する事宜なるかな。夫より数百歳の霜を経て其の地即ち荒れすたれ、跡をしも知る人なし。
長徳年中(995〜999)の比かとよ、華山法皇北陸へ遊行ましまして、所々の勝迹を巡見し給ふ。漸く加陽の吸坂にいたりて、遥か山の隅をかぎりて一片の気を見て、其の気の形たる事氤氲として昂り蒸すが如し。法皇是を怪ませ給ひ、其の發る所を尋ぬれば今此の温泉なり。法皇試に浴し給ふに、心身安楽なる事いふべからす。其の夜の夢に老翁あつて語つて曰く、
「瑠璃浄刹より来りて迹を此の処に垂る。この泉は是れ我が悲願力を以て湧出し、方便力を以て護持す。昔行基已に闢くといへども、荒塞して年久し。方今時興復せよ」
と言い訖て滅す。
法皇愕然として驚き、医王の告ぐる事を知りて悦び給ふ事限なし。此に於いて忽に精舎を創建し、終に山代郷内の一荘を寺産に充てられ、號を改めて薬王寺と云ふ。法皇の伴ふ処妙覚比丘といふ僧を残し給ひ、長へに護国安民の法を修せしめしより以来、浴者絡繹として八方よりあつまり、利益綿々として万代に潤ふ。嗚呼加陽の壮観とも謂つべし。
然して後天文年中(1532〜1555)に、越前朝倉義景同姓教景を遣して当国に乱入せし比、当寺終に兵火に灰燼すといへども、数軀の霊像のみひとり存する事を得たり。是より纔に茅葺を繕ひて像等を掩ひ、年を積むことまた幾許ぞや。
後に時なる哉、慶長五年(1600)、贈亜相利長公、武勇を以て山口氏を攻め破り、勝つ事を一戦に決し給ふ。此の陣を松山の城に屯し、路此の地を過ぎ給ふ。寺主幕下にいたり、当山の開闢を演説せしに依りて、やがて釣命を下し、今の院地並に若干の山林田園を賜はり、晨香夕烟の勤めをなさしめ、福を禱り禍を護るの霊地となれり。
寛永年中(1624〜1644)に至りて、小松黄門利常公の時、故拾遺利治公を以て江沼郡に守たらしめ給ふ。利治公外には衆を愛するの仁厚く、内には法を敬するの信深し。曾て故郡におはします時、潜かに佛像を感得したまふ事ありてより、奉佛の堅き誠をあらはして一宇を造営せんと欲し、先づ良材を城苑にあつめ、工をして是をえらばしむる所に、俄に武江に勤仕し給ふ事あり。翌年不幸にして恙に侵されまします故に、かの素志終に果さず。是に依りてあらかじめ村井長之に命じて、彼貯ふる所の堂材を此の山代に移し、当寺の霊像等を安置せしむ。即ち今の薬師堂是なり。この時賜はる所の親翰あり、于今櫃に蔵めて重んずる處なり。永々後證に備へむ為ならん而已。
軀:からだ、仏像を数える時に使う
纔:サン、サイ、わずかに、すこし
禱:トウ、いのる、祷る
武江:多分、武蔵国江戸のこと
親翰:手紙。翰の字は人の下に横棒あり。
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年代不詳、加賀古文書(昭和5、加賀藩資料3、p292より)
加州山代温泉縁起
加州江沼郡山代の温泉は、其由来を尋ぬるに、聖武天皇の御宇神亀二年とかや、行基僧正錫を越路の雪に飛ばして、白山によぢ登り給ふ時、初而爰に浴して泉の霊なる事を知り、手づから医王善逝及び日光・月光十二神将の像を刻み、是を岩宇に安置し、温泉鎮護となし給ひ、山は霊方と呼び、寺を薬師と號せし由。
夫より数百歳の星霜を経て、其地荒れすたれ、跡をだに知る人なかりしに、長徳年中花山法皇北陸に御遊幸の折、加陽の吸坂に至り給ふに、遥かに山の根より、一條の気氤氳として甑を蒸すが如し。法皇是を奇なりとし、其気の発する所を尋ね、温泉を得て誠に澡浴ましまししに、身心爽快なり。其夜の御夢に、老翁あって語って曰く、
「我瑠璃浄刹より来て、迹を此所に垂る。此泉は是吾悲願力を以て游出し、方便力を以て護持す。昔行基已に闢くといへども、荒塞して年久し。今時至り縁熟す、願くは仁者これを興復せよ」と。
法皇愕然として夢醒め、其医王の告なる事を知り給ひ、即ち精舎を創建し、山代郷内の一荘を寺領に究めて、號を改めて薬王寺と云ひ、且伴ひ給ふ所の妙覚比丘といへる僧を残し、護国安民法を修せしめ給ふ。是より以来、浴者絡繹として八方より集り、利益連緬として萬代に濡ふ。
その後天文年中越中朝倉義景、同氏教景を遣はして加州に乱入の頃、当寺兵火に罹り灰燼す。但数体の霊像存するにより、茅葦を結んで纔かに風雨を掩へり。
時なる哉慶長五年、前田贈亞相利長公大聖寺を攻滅し、帰路此地を過ぎ給ふ。寺主幕下に至り、当山の開闢を演説せしに、やがて恩命を下し、今の院地並に若干の山林田園を賜はり、晨香夕燈の勤めをなさしめ給へり。
寛永年中に至りて小松黄門利常公、故捨遺利治公を以て、江沼郡に守たらしめ給ふ。利治公少年の時感得し給ふ所の仏像あり、為に一宇を造営せんと欲し、先づ良材を城苑に集め給ふ所に、俄に東武に勤仕し給ふ。是に依って其後村井長之に命じ、彼貯ふる所の堂材を山代に移し、当寺の霊像等を安置あらしむ。即ち今の薬師堂是也。其時賜はる所の親翰、櫃に蔵めて重んずる事なり。後證に備へんが為に、不文を顧みず誌し置く而已。
右山代温泉並薬師縁起一巻は、薬王院の舊蔵にして、何人の作なる事を知らず。但書記したる年号月日も詳ならず候得共、山代温泉の由来、此一巻の外に書伝えし書は一切無之候也。
甑:こしき。セイロウ、穀物を蒸す器具。
纔か:わずか
掩:おおう、掩蔽
舊(旧の旧字)
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明治25、江沼誌 全、p39
▲山代温泉
山代に在り。神亀二年、僧行基加賀の白山に登り途、此に浴して奇験あるを覚りしかば榛莾を芟りて始めて湯池を開けり。
長徳年中、花山法皇北游し給ひし時、輿を停めて澡を取り給ひ。
永禄年中、明智光秀亦来りて浴し(明智軍記に光秀越前の朝倉義景に仕へて志を得さりけるが曾々小瘡を患ひしかは永禄八年五月*を養はんとて越前長崎稱念寺の僧園阿と俱に山代温泉に来り風流自ら楽しむこと旬餘なりしに或日飛檄来り松永、三好の徒将軍足利義輝を京師に弑せりとありしかは終宵園向等と古今を論し翌暁帰程に上りたりと見ゆ)山中温泉と其名夙に四方に馳せり。
質は塩泉類にして〜(略)
▲薬王院
山代に在り真言宗なり。
初め僧行基山代温泉を開きし時、手から薬師仏并に日光月光十二神像を彫り、以て温泉の守護と為し(?)薬師寺と號せり。
後久しく荒壊せしかば、花山法皇之を再建し給ひて今の寺號に改めさせられ、尚山代郷内の一荘を寺領に充て従者の比丘妙覚を留めさせ給ひたり。
天文年中、朝倉教景の兵燹罹りしかども慶長五年金澤藩主前田利長寺地等を賜ひ寛永年中大聖寺藩祖前田利治城苑の堂宇を移せり。今の薬師堂是なり。
榛莾を芟りて:多分、草むらをむしって
*:洞に似た字。潰れて読めねえ
夙:シュク、つとに。朝早く
燹:セン、野火、兵火
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![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/162429538/picture_pc_09a1b8d3e589f79c9d9b0305e4bf0a39.jpg?width=1200)
明治32年、温泉寺略縁起
加賀国江沼郡山代村霊方山薬王院温泉寺は人皇四十五代聖武天皇の神亀二年、大僧正行基菩薩の開闢し玉ふ古刹也。菩薩は大権の応迹を以て上一人の国師となり、全国に遊化して名山を開き、霊場を興す*凡そ八千余ヶ所ありと云ふ。其盛徳渇望するに余あり。帝国文明の根源は実に仏教東漸の恩澤にして聖徳太子の興隆三宝に依ると雖、菩薩の力最大にして其功徳戴ひて史乗に昭々たり。
当寺は北陸行化白山登錫の途上、当郡吸坂に至り東方瑞烟の上るを見て、霊烏の指授により発見し玉ふ温泉なり。即鎮護の為に薬師如来・日光・月光の両脇士十二神将を彫刻して一字(一宇の誤字か?)を起し、又本社白山権現を勧請して鎮守とす。是温泉寺の権興なり。
往古は白山五院の随一にして末社別院数百坊を有し江沼第一の壮観たり。大聖寺の如きは我温泉寺の末坊にてありし。所謂山代郷は区域巨大にして江沼郡を統轄するの枢地なりし。旧記に山代八勝の中に動橋・月津・片山・勅使等あるを以て知るべし。
然して行基開創より凡そ三百年間の事迹山代の進歩により漸々四方を開化したる者の如し。況や弘仁以前は越前の一郡にして湖沼を以て全郡を埋没したれは江沼の称あり。盖し堀功湾を開通し大聖寺川を疏し三湖の水を以て梯川に合せ漸々窪地を乾燥して田村としたるは全く其人名を知る能はすと雖も行基菩薩の盛徳なるべしと愚行せり。菩薩始は越前大野より白山に上り泰澄の跡を追ひ、後には江沼郡山代より登山せられたる者の如し。当時舟を浮べて山代に着し、白山開山の後温泉を開き温泉寺を起し、堀切等を疏通し玉ふならん。
其後、寛和永延年間に花山法皇北狩の際、翠華を此地に*め玉体入浴し玉ふや甚健康に赴かるるより叡願を起し、温泉寺を中興し玉ふの佳運(?)に際せり。即巨多の伽藍を建て、荘園を寄附し勅願所とし、薬王院と号せしめ玉ふとかや。法皇は仙洞の玉宮を出て、西国三十三所を巡くり詠歌を御製あり巡礼の開導をなし玉ふ後、北陸山代温泉の霊地を占し玉ひ久しく御蹕を*めさせらる。
当時山中粟津の温泉ありと雖も其位置名望は山代に及はざりしにや、遂に行幸し玉はざりき。三温泉中山代は往古より盛栄を極めし者と見え、法皇に由諸ある誰か之を誣ふると云はんや。法皇中興の際、天台に無比の高僧なる明覚上人を止めて中興開山方一世とし玉ふ。此高徳希世の英豪にして内外の学に通し殊に法徳の顕著なるより我温泉寺は天下に*2りに至れり。
爾来連綿として法灯相続して幾んと五百年間に及びしに、戦国の末路元亀天正の分裂武人*3を分ち東伐西討*4門亦干戈を弄して勢力を抗す。殊に天文度より加賀州内に一向の乱あり。冨樫氏覆滅ゆる至るや白山の一派追々に衰微し或u末徒に転派改宗するもあり。加ふるに朝倉家の兵火は温泉寺を焼亡するの悲運となれり。又其際貴重の史乗什宝灰土に皈し中世上世の事迹を知るに由なし。洵に千古の恨事なり。
慶長年中、前田利治公、大聖寺に城主たるに及(?)んて今の堂宇の地を玉ひ小*5を起す。是時大聖寺の末寺となれり。上に云如り大聖寺は慈光院と称(?)し温泉寺の末にして白山の孫末なりしか。時世の変迁遂に反覆するに至れり。聞く大聖寺も五百余年前に殆んと廃滅したるを越前瀧谷寺開山叡憲上人末住して真言宗となれり。温泉寺とも亦慶長年度、慈光院より末住を仰くや遂に末寺となりて真言新義となれり。盖し往古叡山三井は表面には天台宗を表すと雖も内部は皆真言也。伝教慈覚智証の高眼真言を利用して宗風を光闡したる故なり。明覚上人の如き番曇屈指の大学将なり。唯白山は叡山の所轄なるより天台宗を表すれとも内部は皆真言なりし。後人乞ふ。宗名に拘泥して迷ふべからす。今明覚以後の世代を記名して後英に貽す。但し明覚以前は*6乎として知る能はざれは温泉寺の古代史は可畩の参考を待たんのし明覚以后の中世史は此記に依り其一端を知るに庶幾らん*7。
明治卅二年第七月
柴堂 学人 謹誌
*:「ぺ」を傾けたような字?→ヿ(コトと読む合字のようなもの)+○。まるのついたものの意味は分からず。
雖:いえども
況や:いわんや、ありさま
盖:ガイ、ふた、おおう、かさけだし、蓋の異字体
疏:疎の旧字。ソ、うとい
寛和永延の延:ここでは戸の旧字っぽいものをつくりにした形で書かれてた。
翠華:天子の旗
*:足+主:チュ、ジュ、あしをとめる
蹕:ヒツ、さきばらい、天子の先に立って人を追い払うこと
誣:言+座、フ、ブ、あざむく、しいる、そしる
*2:車の下にバツ?
*3:當の下に点々(火)
*4:言+留
u:点々かも?
皈:キ、かえす、おくる
洵:シュン、ジュン、まことに
*5:草冠に大、口、升みたいな字
迁:セン、うつす
闡:セン、ひらく、あきらか
貽:イ、のこす、おくる
*6:莝に似た字
畩:本文は田の下に衣。異字体。けさ
庶:多分、广廿人人。異字体という事で庶を充てた。
*7:わかんね
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霊方山薬王院温泉寺縁起(門前の石碑)
人皇第四十五代聖武天皇の神亀二年(七二五年)行基菩薩が白山登錫の途次霊鳥の指授により発見された温泉で白山鎮護のため薬師如来、日光月光、十二神将の像を刻んで一宇を起し白山権現を勧請して鎮守とした、是温泉寺の始めである。往古は白山五院の随一にて末社別院数百房数えた
長徳三年(九九七年)花山法皇御巡幸の砌温泉の霊効に感じ叡願を起して膸従の高僧明覚上人(梵語学者)をして七堂伽藍を建立せしの住務に勅命されてより法灯連綿
天文九年(一五四〇年)朝倉氏の兵火で堂宇を焼失したが慶長五年(一六〇〇年)前田利治候藩主となるに及んで堂宇を再興伝祚(ネ偏)の霊泉山代の守本尊として偏く崇拝されている
(註:明覚上人、重要文化財の項は略す)
寄進 平成元年 ○○○○