加賀温泉の由来集(2)
伝説の変化を見比べるためにメモった加賀温泉郷(粟津・芦原含む)の伝説をここに残す。同じ本で複数の温泉地の伝説があった場合は末尾の「加賀温泉の伝説」の項に、いち温泉地の伝説しかメモってないものは「○○温泉の伝説」の項に書いた。山代以外は割とざっくりとしか書いてないので、気になる人は自分で調べよう!
なんとなくだけど、山中温泉の方が人気があった頃は山中を詳しく書き、山代に抜かれてからは山代の方を詳しく書く…と言った傾向があるように見える。そもそも伝説なんかに紙幅を取らないものなのか、略したり、いい加減な記述も目立つんだよなぁ。
現代語訳 茇憩紀聞(市中央図書館)に山代温泉並薬師縁起と山中温泉縁起の現代語訳があるのでそれを見るのも良いでしょう。
山中温泉の伝説:
1195、加州山中村湯縁起(大正14、石川縣江沼郡誌.p398)
末尾の年号を信じるなら1195年製。「多分嘘」とする記述も見かけた。コピーはしたからそのうち書き写すかも。
1932、昭和7、石川県に於ける温泉の研究、p3
「山中温泉……天平年間(註:729〜749)…僧行基が北陸地方行脚の砌り当地方の山嶺に、紫雲の棚引くを見、不思議に思って、其源を尋ね来つた際、薬師如来の化身である八十歳位の老人のお告げに依って温泉の湧出することを発見し…」
「建久年間…塚谷村の源氏の将長谷部信達が‥偶々白鷺の葦の間に傷脚を洗ふを見て…」
「白鷺の湯、葦の湯の名称はここから」
昭和9、江沼郡郷土讀本
p57〜、山中温泉の縁起あり。メモってない。
1975、加賀・能登の民話 第二集
p24.25「山中へぬげた(逃げた)温泉」
下記「山中へぬけた温泉」とほぼ同様の物語だが、方言で書かれている。小松市の話として載っている(採取地が小松なだけ?)。足ではなく「湯元で不浄なものを洗うたのや」とか、細々と違う。
1979、石川県の民話
p47〜、「山中へぬけた温泉」
越前の小原村へ弘法大師がやって来て、世話になった礼に杖をついてお湯を湧かせた。そのうち罰当たりな若者が泥足のまま温泉に入ったら、お湯が止まり、しばらくしてとなりの加賀の山中村にお湯が湧き出した。愛想を尽かした温泉が国境の山をくぐっていったと言うわけだ。山中では今もこの湯を使っているそうな。
1987、昭和62、日本の伝説大系 6 北陸編
p353「白鷺と山中温泉」
メモしてない。山中の伝説の類話文献いくつかあり。それぞれ微妙に違う。
1991、平成3、こども石川県史 民話・物語編、
p232〜、「白サギの湯」やたら長い。
「長谷部信連が鷹狩りをしようとして山中に入る。アシの水辺に白鷺がいる。怪我そのものの描写は無いが「きっと足をけがしたのだろう」。女の人が現れ、薬師の使いだと言う。行基の発見を語る。工事を始め、その中で薬師像を見つける。」といった流れ。
2003、北陸の民俗 第21集、p19
「山中温泉縁起をめぐって」
メモしてない。気になる人は各自で当たり玉へ。
片山津温泉の伝説:
1933、昭和8、北陸だより、国会DC、
31コマ「片山津温泉…温泉は大聖寺藩主が柴山潟に船遊の折、水禽の群るを見て発見されたと伝へられ、…」
昭和50、新しい石川、
p102「片山津温泉…承応二年(1653)湖水に水鳥が群がり、わき出る温泉に傷をいやしていた。大聖寺藩主・前田利明がタカ狩りに来て、これを見つけ温泉発見となった」
山代なし。
1991?、県立図書館スクラップ「温泉1」3.6.15のハンコ。
「柴山潟を巡る…片山津温泉…土地の言い伝えによれば、…前田利明がお供を引き連れて片山津にタカ狩りに訪れていたとき、潟の一角に異常なくらい水鳥が群れをなしているのを目にした。不思議に思い調べさせたところ、湖中から湯が湧き出していたという。」
2006.10.広報かが
p11「浮御堂…片山津温泉の始まりを伝える温泉伝説の弁財天と竜神を祭っています」
「温泉伝説 竜神と娘 昔、柴山潟には恐ろしい大蛇(おろち)がすんでいました。ある日美しい娘が村に倒れており、村人が親切に介抱しました。やがて回復した娘は、お礼にと琵琶を弾き、恐ろしい大蛇を竜神に変えました。そして娘は天に、竜神となった大蛇は水中に消え、二度と姿を現すことはありませんでした。あの娘は弁天様だったのでしょう。そして、竜神の力なのか、柴山潟からは湯源が発見されました。(片山津温泉観光協会パンフレットより引用)」
2016、平成28.7.市老連 広報かが
p1「うきうき弁天の由来」あり。ただ、オチの「それで湯が湧いた」がない。
粟津温泉の伝説:
1900、明治33、加賀粟津温泉案内、p248(前頁に4行ばかりあるけど略)、コピーする、した。
やたら長いので略す。そのうち記事にするかも。
2000、北陸・あわづ百科 温泉草子、p58
「養老元年、霊夢の導きにより行者2人を連れ白山に登る。頂上で祈ると、池から九頭竜が現れ、…十一面観音が現れた。養老2年、泰澄の夢枕に白山権現が立たれて、「粟津と言う村に温泉湧出す。汝、行きて之を掘り、末代衆生の病患を救うべし」と。お告げに喜び、粟津村に辿り着いた。大師右手に数珠を握って左手に錫杖を持ち、深く目を閉じて歩くことしばし。つと立ち止まり、ここを掘れとのおおせ。村人、掘り起こしたらじわじわと、ついには湧き溢れる湯。村人…湯治宿を建て、病を癒す霊泉と天下に知られ、今日に至る。聖観世音と薬師如来の像を与え、弟子の雅亮を湯の管理に当たらしめた」(やや略)
芦原温泉の伝説:
1936、昭和11、福井県の伝説、p152、
「明治16年、あまりの旱魃に用水に困った…試しに掘ると、ぬるい水がでた。北へ五間ほど離れて掘ると華氏80度の温泉が沸いた」
1974、昭和49、芦原町史、p479
「明治16年、…灌漑用に掘った井戸…図らずも鉱泉であった。翌17年、…温泉が湧き出て」
同、井戸を掘った人の実話「旱魃続きで村中が困り、掘抜をしたら、湯が出たと言う言ひ伝へは嘘である」
これ以外にも、この項は芦原温泉発見史を詳しく分析していて面白い。
加賀温泉の伝説の見比べ:
1930、昭和5、日本温泉案内 西部篇、国会DC
161コマ「湯の発見者は僧行基といふ事になつて居る」
片山津の水禽はあり。山中の白鷺はなし。
1975、石川県大百科事典
p771「山代温泉…温泉は行基が開いたと伝えられている」
p773「山中温泉…開湯は行基、後に能登の地頭長谷部信連が鷹狩りの折、1羽の白サギが傷をいやしていたのをみつけて復興したとつたえられる」
p774「山中町…一方天平年間に僧行基が発見したといわれる山中温泉は古くから著名で、スキー場の水無山、…」
1983、昭和58、アトラスいしかわ
p163「山代温泉…行基開湯と伝えられ、昔は"山背郷"といわれた。」
「山中温泉…行基開湯と伝えられるが、能登の地頭長谷部信連が鷹狩りの時、白サギが傷をいやしているのを見て復興したと伝えられる」
1988、昭和63、県別シリーズ22 郷土資料事典 石川県・観光と旅
p73「山代温泉…僧行基の発見と伝えられ、古い伝統をもっている」
p88「山中町…僧行基の発見と伝える……山中温泉…僧行基が北陸行脚の際に発見したと伝えられ、…長谷部信連がこの地に鷹狩して、白鷺が傷ついた脚を癒しているのを見て、ここに浴場を設けたといわれている」
1988、日本百科全書23
p257「山代温泉…行基の開湯と伝える」
p273「山中(町)…山中温泉は行基が発見して薬師如来を祀ったと伝え、近世には〜」
p274「[山中温泉]…中世地頭長谷部信連が傷ついた白サギの浴するのをみて再興したと伝える」
1988、昭和63、写真譜・加賀の祭り歳時記
p74「山代温泉が始まったのは、行基菩薩が白山へ登る途次、一羽の鳥が山陰の田で羽を濡らしていた。それが温泉だった。薬効があることにより守護仏を造り一寺を建てたのが薬王院温泉寺である」
p108「加賀温泉の由来…粟津温泉…泰澄大師が白山権現の霊夢によって粟津温泉を発見したという。」
「山代温泉の由来は、神亀二年(725)僧行基が北陸巡錫のときに、山代の里を通りかかり、足を痛めた一羽の烏が水たまりに足をつけているのを眺めて、温泉を発見したという。その後、薬師如来・日光・月光・十二神将の像を彫刻して、長く温泉の守護仏として巌窟内に安置し、霊方山薬王寺と号したという。長徳年間に花山法皇がこの地に行幸して霊夢により薬師堂を復興し、…」
「片山津温泉…前田利明が鷹狩にやって来て、水鳥が群をなしているのを見て温泉をはっけんしたという」
「山中温泉…天平年間(729-49)に僧行基が発見…長谷部信連がこの地で鷹狩りのさい、一羽の白鷺が芦のしげみに入り傷ついた足を洗うのを見て温泉の湧出を知った…別名「白鷺の湯」とよんでいる」
1990、平成2、空中散歩 日本の旅 7 北陸 富山・石川・福井
p92「山代温泉…約1300年前、行基によって発見されたという」
p93「片山津温泉…水鳥が湖面に群がり傷を癒している姿から発見された温泉」
1993、平成5、石川県大百科事典
p992「山代温泉…僧行基によって発見されたと伝えられている」
p995「山中町…僧行基によって発見されたといわれ、さらに…柴田勝家が…制札を出して湯を保護したとも伝えられている」
p980「薬王院…725年行基が開き、10世紀末に花山法皇が中興したと伝え、」
1995、平成7.1.広報かが
p8「山代温泉の開湯伝説は、「温泉寺略縁起」によると神亀二年(725)僧行基によって開かれたとしています。その後、花山法皇が再興され、明覚上人を残して…」
「片山津温泉…江沼郡誌によると、二代藩主前田利明が鷹狩りに来て、水鳥が群れているのを見て発見したと伝えられています」
石川県江沼郡誌p910にその話あり。
1997、ふるさとの文化遺産 郷土資料事典17 石川県
p92「山代温泉…奈良時代(710〜84)、僧行基の発見と伝えられ、古い伝統をもっている」
p105「山中温泉…奈良時代(710〜84)、僧行基が北陸行脚の際に発見したと伝えられ、….長谷部信連がこの地に鷹狩して、白鷺が傷ついた脚を癒しているのを見て、ここに浴場を設けたといわれている」
1997、全国温泉大事典
p489「山代温泉…湯の発見は、奈良時代、僧行基によるものといわれ、戦国時代末期には明智光秀が来湯したとも伝わる」
「片山津温泉…時の大聖寺藩二代目藩主の前田利明が鷹狩りに来た際、湖中に水鳥が群れているのを不思議に思い調べたところ、湖底から湯が湧いているのを発見したという」
「山中温泉…発見は僧行基によるものといわれ、芭蕉も入湯したと伝わる古来よりの名湯だ」
「粟津温泉…泰澄大師が白山権現のお告げによって発見したと伝えられる」
1997、にっぽん再発見 17 石川県
p42「山代温泉…僧行基が湯で傷を癒しているカラスを見て発見したという古湯で…」
「片山津温泉…前田利明がタカ狩りに来て、水鳥が傷を癒しているのを見て発見したと伝えられる」
p44「山中温泉…僧行基によって開発されたと伝えられ、鎌倉時代になって能登の地頭長谷部信連が再興したとされる」
2006、JAF 日本の名湯を旅する 中部・北陸編
p165「山代温泉…行基が霊峰白山へ修行に向かう途中、不思議な紫色にたなびく雲に導かれて、傷口を湧水で癒す烏(3本足のヤタガラス)を発見。その湧水こそが山代温泉で、以来1300年以上にわたり…」
p158「山中温泉…老僧に姿を変えた薬師如来が行基にお告げを与え、温泉を掘り当てたと伝えられている」白鷺は無し。
2008、温泉教授・松田忠徳の古湯を歩く
p126「山代温泉…温泉寺に伝わる温泉縁起によれば、名僧行基が温泉を発見したのは奈良時代のこと。その後、平安時代に花山法皇の勅命によって…」
p120「山中温泉…行基が発見したと伝わる山中は、平安末期に能登の地頭、長谷部信連が"湯ざや"と呼ばれる総湯の周りに12人の家臣を住まわせ、宿を構えさせた」
2012、平成24、温泉の百科事典
p464「山中温泉…長谷部信連が鷹狩りの途次に薬師如来の化身の娘にお告げを受けて温泉を再発見し…」
「山代温泉も総湯の周りに旅館があって湯治客に利用されたが、大正時代に自家源泉をもつようになった」
2013、平成25、旅の手帳mini 和みの千年温泉
p8「山代温泉…神亀二年、行基発見(烏発見伝説)」
「山中温泉…西暦700年頃、行基発見」
2015、平成27、47都道府県・温泉百科
p144「山代温泉…725(神亀2)年の僧行基の温泉発見になる」
p145「山中温泉…山代と同じ725(神亀2)年に僧行基が発見…長谷部信連の温泉再興を経て、…長谷部信連が鷹狩りの途次に薬師如来の化身の娘からお告げを受けて温泉を再発見し…」
2015、北陸新幹線沿線パノラマ地図帳 鳥瞰図でめぐる昭和の東京〜北陸
p96「山代温泉…行基が傷口を湧き水で癒す烏を見て開湯したとの伝説から、以来「からすの湯」と呼び親しまれた」
「山中温泉…僧行基の発見によるとされる」
「粟津温泉…僧泰澄大師が養老年間に発見したとされる」
「片山津温泉…鷹狩りに出掛けた大聖寺藩2代藩主・前田利明が、偶然、柴山潟から湧き出す湯を発見したのがはじまり」
古地図を割と大きく鮮明に掲載してる。
2024、令和6、47都道府県ご当地文化百科・石川県
p175「山代温泉の歴史は古く、725(神亀2)年の僧行基の温泉発見になるといわれる」
p176「山中…山代温泉と同じ725(神亀2)年に僧行基が発見したという。…長谷部信連の温泉再興を経て…」
2025採取、日本交通公社>美しき日本 全国観光資源台帳>山代温泉
https://tabi.jtb.or.jp/res/
「725(神亀2)年に行基が開湯したという伝承があり、その後、10世紀後半(985~988年)に花山法皇が…」
山中の白鷺も書かれていない。
片山津はページが無い。