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山代温泉の開湯伝説に関する調査(一次報告)

筆者の幼少時に聞いた伝説と、現在流布している伝説に食い違いがあったので、その出所などを調べる事にした。具体的には「カラスによる発見伝説が、八咫烏による発見伝説に変わったのはいつ、何故か?」である。

資料は拙note「山代温泉の八咫烏伝説を追う」を参照されたし。

1.文献に見る伝説の変化
1-1.江戸以前

 1706年の滝谷寺文書「薬王院略縁起」山代温泉并薬王寺記(加賀市史 資料編第三巻p272〜、加賀市史自体は昭和52年)を最古として、以降明治32年「温泉寺略縁起」までカラス類の記述無し。神亀二年、行基、花山法皇などその他の基本骨子は揃っているが、逆にスクナヒコナに対する言及は消滅した。
 同時代の山中温泉縁起はより詳細で、現行のものとの変化が少ないように見えるので、ここも比較対象として調査する必要があるか。

(註:滝谷寺文書と山代温泉并薬王寺記を混同して年代を算出していた。前者の年代は未調査)

1-2.明治〜昭和44年(1969)
 明治32年の「温泉寺略縁起」、大正4年の「あらや看板」、年代未調査の「暁烏」を除いてカラス類に言及する資料無し。
 「温泉寺略縁起」には「霊烏」と書かれ、2024住職によると八咫烏の事だと言うが、ただの霊妙なカラスの可能性も捨てきれない。
 魯山人作「暁烏」は八咫烏を描いたと言う証拠がない。伝記などをあたる。
 ただし、証言によると「昭和40年頃には八咫烏と言っていた」とある。

1-3.昭和45〜平成3(1991)
 「カラス」の言及が増えるが、カラスに触れないものも多く、八咫烏は無い。
 カラスの文書上の初出は郷土史研究誌「えぬのくに」(該当箇所は1970、復刻版11〜20、p454)である。既に物語的になっており、創作とも考えづらい。民間伝承を引いてきたのではないか?と想像する。

1-4.1992〜2002
 1992年の「いで湯の街・やましろ」に八咫烏が登場する他、1996年の「やましろ街事典」、2002年「加賀藩 前田家ゆかりの地 大聖寺藩」に八咫烏が登場するが、その他は多くがカラス、または記述無しである。

1-5.2003〜2024
 2006年の「観光カリスマ紹介 : 伝統・文化を重視した温泉街づくりのカリスマ : よろづや観光株式会社代表取締役社長」によると、2003年頃に山代の歴史を見直し、魯山人の八咫烏の絵を見つけ、八咫烏を山代のシンボルにしたとある。前項(4)にある通り、これ以前には八咫烏は「たまに出てくる」程度の存在であったが、これ以降は頻出するようになる。

 以上が、客観的な事柄である。
 ここまでで、現行の八咫烏伝説の発祥は旅館組合の仕掛けだと言うことがわかったが、その根拠となる「霊烏」「魯山人の烏」については確定的な事が言えない。

2.仮説(おもいつきによる)
2-1.あらや仮説

 魯山人作の看板のうち、「あらや」には烏湯と書かれ、「くらや(七福湯)」「吉野家(碧泉館)」「白銀屋(香泉館)」にはそれぞれ別の二つ名のような文字が書かれていた。また、「暁烏」もあらやに贈られたものである。
 ここで「各旅館、各源泉にはそれぞれ別の開湯伝説があったのではないか?」と想像した。
 そのうち「あらや」のものが略縁起に取り入れられ、その為に他の旅館は積極的にカラスアピールをしなかった結果が昭和40年頃までのカラス不在の理由ではないか?

2-2.帝国仮説
 明治32年の「温泉寺略縁起」が霊烏の初出だが、この時代は日本帝国主義的な時代である。そこで「略縁起」に日本帝国的なモチーフを混ぜ込んだのではないか?
 その為に、研究者などは「帝国的な追加文に過ぎない」として霊烏を書かなかったのではないか?

2-3.江沼郡誌優先説
 全く同年である明治32年に江沼郡誌が出ている。しばらくカラスが出てこないのは、そちらを重視しただけではないか?

2-4.アピール不足・不要説
 山代温泉は湯女・芸妓による接待や大規模な宴会などを売りにしていた。故に、伝説はアピールポイントとしては不足していたため、街としても喧伝しなかったのではないか?
 また、各旅館のライバル関係や、「旅館と商店街は仲が悪かった」事などから、山代全体に関わるカラス伝説をアピールする必要性が薄かったのではないか?
 これが変化したのは1992あたり(「観光カリスマ紹介」による)。

2-5.「略縁起」複数説
 明治32年「略縁起」以降も版を重ねており、改訂によってカラスが消えていたなどと言うことはありえないだろうか?そして近年に於いて残ったのが「霊烏」「暁烏」だけなので、カラス伝説が再発見された?

2-6.Jリーグ仮説
 1991年にJリーグ開幕。それにより八咫烏が有名になり、山代のカラスも八咫烏ということになったのではないか?
 八咫烏の初出「いで湯」が92年なのでちょっと無理がある。

2-7.山中温泉に対抗説
 同じく行基伝説を持ち、更に1800年代の時点で白サギ伝説も見られる山中温泉に対抗意識があり、カラスを導入したのではないか?

3.推測
 1970「えぬのくに」及び2024時点での証言(1960頃には八咫烏伝説をきいた)から推測すると、どうも民間伝承としては八咫烏が流布していたように思える。ただし「えぬのくに」ではただのカラス、私及び父は「ただのカラス」としているし、「えぬのくに」以降も暫くはただのカラスである。

4.疑問点
・何故明治32年「温泉寺略縁起」は霊烏と書いたのか?
・何故あらやだけがカラス関係の品を作らせたのか?本当に各源泉毎に伝説があったのか?
・また魯山人はカラスのつもりだったか?八咫烏のつもりだったか?
・何故昭和45年までカラス類が一切出てこないのか?(旅行記にすら)
・本当に民間伝承はあったのか?
・それはカラスか?八咫烏か?
・霊烏→カラス→八咫烏の変化は何故か?
・何故八咫烏推しになったのか?→解決

5.まとめ
山代温泉における八咫烏とは、明治32年「温泉寺略縁起」に霊烏として登場して以来、大正4年の魯山人作品群を除いて当面の間無視されていた伝説である。昭和45年にカラス、1992年に八咫烏として再登場し、2003年の観光協会による再発見以降はほぼ定着した。
 ただし民間伝承として存在し続けていた可能性は残る。

 今後も調査を続けるつもりではあるが、各人の協力及び引き継ぎも歓迎する。

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