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調べ物のおまけ集

メイン目的には関係ないけど個人的に面白いと思った話のメモ。

1988.図説 石川県の歴史、p86
 740年山背郷計帳によると、人名として江沼臣族(おみのやから)乎加非(をかひ)、麻蘇比賣(まぞひめ)あり。
 2007、えぬのくに表紙裏に「エヌノオミノヤカラ『オカラ』」のルビあり。

昭和60年、えぬのくに 復刻版(第11号〜20号)(原典は1966〜75)
同p828
「山代は政争と訴訟の町と呼ばれた」(源泉利用権に関する揉め事がとても大きかったらしい。今でも温泉管理は町のものになってて、市は関わらない→市の協力も得られないから総湯建て替えにこれまた揉めた、とどこかで聞いた)1974
同p856、左義長が行われていたがいつからか中止していて淋しい。そこで昔の形を復活させたらどうか、と……

2007、えぬのくに、p67
「氷室は近年菓子屋さんが7月1日を「氷室まんじゅう」として流行らせ定着されつつある。」
→あるまんじゅう屋の客は2024年に「子供の時からの習いだから食べないと気が済まない」と言っていた。フェイ、客としてその場に居た。

昭和37、広報かが、6月号p1、菖蒲湯まつりについて「古い伝統」と書く。
 どこかの何かの山代の祭一覧みたいなのには6〜7月の祭および菖蒲の文字見当たらなかったと思う。藩史か何か。これも「作られた古い伝統」か?
→どっかで「500年続く」ともみる。記載漏れ、俺の調査不足の可能性。

あらやの源泉閣
 温泉縁起にまつわるアート作品あり。いつのもの?
 温泉だけ入るのはダメって言われた(´・v・` )ま、しゃーない。
 誰か入って報告してくれんかなー?

大正14年:石川縣江沼郡誌、p452、
「三州奇談」として「(水と交わった湯だまりあり?)、これに男女の影を移して口舌なせば、水中に湯涌上がる又奇妙なり。」

昭和11年、加賀志徴 上編、
同p118
、服部神社 山代神明神主武田友海云う。当社祭神大御食津神とす。いま廃してなし。

2001、平成13、魅せられて山代
「加賀の山代めづらしところ 冬もなければ夏もない」なんて歌が詠まれたそうだ。あるよ!

2011.6.6.北中、朝刊、p11、「命名「すぱクロくん」山代温泉の新キャラ発表
 「キャラクターは同温泉ゆかりの三本足の伝説の鳥「ヤタガラス」をイメージした」
 「温泉を意味する英語「スパ」と、体の黒色にちなんだ命名」
「愛称を募集、……保育園児○○○○ちゃん(四つ)=**町=の案を採用した。」
キャプションに「やましろすぱクロくん」とある。

加賀市史 通史 下、p261〜
 あらや、くらやの対立、両旅館は隣接し、両方とも源泉を宅地内に持ち、総湯へ送っていた。
 しかし旅館の内湯を優先させて総湯への配湯が減少した?

明治41、山代騷擾事件
 総湯の温度が下がり、入浴困難となった話。村長の責任だ!とリコール問題に発展したとかなんとか。
 湯量が問題だった?
 にしても、そうゆう(総湯)事件とは洒落てるねと思ったらそうじょう事件だった。

明治45、陸軍病院問題
 万松園の西麓に温泉病院作るよ!
 こっちにもお湯を引くなら総湯がもっと減るやんけ!て話か。

大正15年4月、県警察部作成と思われる「山代温泉共浴場問題に関する経過」に源泉位置の調査がある。4つ+あらや、くらやっぽい。

昭和3、共浴場の掘削中、温泉が湧く。大溜組旅館業者の湯量が減少し、争いが始まる。
埋めたり諦めなかったりで色々あったらしい。

昭和5、陸軍がポンプ使ったら各旅館の源泉が枯渇し、止めたらいくらか回復した。訴訟、勝訴?

くら屋→現吉田屋山王閣(これは今しらべた)
今は山側にあるけど江戸〜昭和中期までは現第三P(あらや真横のあれか)の所にあった(公式HPより)
新総湯は吉「野」家旅館跡
 この辺の歴史も関係してきそうで怖い。

平成13、奈良仏教の地方的展開の研究p10
「行基の開湯伝説は、(兵庫)有馬、(石川)山中、山代、(静岡)吉永、そして(宮城)作並、(福島)会津東山、(群馬)草津、(愛知)三谷、(京都)木津、(長崎)小浜、にも開湯伝説がある」

加賀市史 通史 下、p579
「昭和11年、統一源泉(第一号泉)掘削、鉱泉営業組合の共有地にて。
新源泉(第二号泉)」
 源泉ごとに神話あった説を追求するならここら辺も重要か?

昭和53、加賀市史 通史 上巻、p303
 白山之記に温泉寺あり……「薬王院そのものの寺伝では行基と花山法皇を重視して白山五院の由緒についてはほとんど触れていない。これは、薬王院が温泉寺の再興という形ではなかったということを示唆する」

たちばなの女将さんインタビュー
魯山人エピソードとして以下を聞く。
「旅館にある絵を欲しがって手紙と百円同封して送ってきたらしい。その絵は六階(うろ覚え)に今もあるので、多分断ったんでしょうね」
「じいさまはおとなしい方でしたから、魯山人とはあまり話が合わなかったのではないか?」
でも一緒に作った茶碗は飾られてた。
 また、飾られていた掛け軸について「四季の絵が描かれているから通年で使えて良い。交換するのめんどくさいし……」的なことを言ってた。あけすけすぎやろ。

山代志(加賀市史資料編1、p473)
或書に曰、山代より我谷(わがた)までを山代の郷と云。然ば山中村も山代の郷の内なり。
日谷村に山代谷と云あり、即ち日谷辺までも山代の郷内なり。
或書に曰、山代郷河﨑専称寺と、然ば河崎村辺山代郷内なり。
 (わがた)はルビ欠損の可能性もある。

よく分からんが、山代(現・山代)=山代村と山代郷とは別の概念の気がする。郷とは今で言う市のようなものか?

古文書類人口調査票だと「右に書いた人の女房、娘」として「同人女房、同人娘」と表現してるのが面白い。

1812、文化9、山中温泉縁起(平成30、大聖寺藩の寺院文書、p330)
やたら詳しく書かれてる。山代と比較するなら、行基、紫雲を見て温泉地へ赴く、(老人がいて温泉を知らせる)、薬師像を彫る、廃れる、後世だが鳥(白鷺)が傷を癒しているらしき描写、などあるか。

正保2年、加賀藩資料3、p116.
「越中は昔より、川たくさんにて橋かけずと申て、七ふしぎの一つなり」
七不思議ってこんな時代から言ってたんやな。利常の時代っぽい。二月十五日発→三月廿五日家光に謁すとあるから、参勤交代の(謁見までの)長さがわかる。
同p239、能登羽咋郡気多神社の云々、当時は「神社」だったんだな。
同p277、「前田利常加賀江沼郡山代温泉に澡浴す。(参議公年表)一、十月微妙公江沼郡山代の温泉へ御入。」のみ。微妙公?
同p288、「利常、養女犬姫に化粧田二百石を給す。」
 犬千代、おいぬかたなどの記述。犬姫かぁ。

平成22、石川郷土史学会々誌 第43号、p61〜によると石川でも熊野信仰は幾らか有ったとの事。山代の八咫烏には触れていないが、伝説の流入に不思議は無いか。
同p65、「動橋川にかけられた橋は一本木で渡ると動いて命がけだったという」

2024、日本の美は、北陸にあり(北陸デスティネーションキャンペーン・パンフ)、p18、
「あわら温泉……温泉街全体で74本もの源泉がある」
多いな!
あと山代の縁起なし。

大正15、石川県江沼郡誌、p444、
「服部神社。天羽槌神菊理姫神を祭る」
「[加賀國式内等*社記](*草冠に隻の下を臼)祭神波登理媛命、今社殿廃絶」
「[神社*録](*西の下に敷?)服部は波登利と訓べし」
はづちを割と最近祀り出したのか?

大聖寺城址、贋金作りの洞窟

看板によると「銀を溶かし……山代温泉に浸して」作ってた。意外な所で山代の名を見るものだ。

2011、平成23、加賀市歴史文化基本構想、p150〜のまちづくりの具体方策には「開湯伝説を活用し」などの文言なし。
「平成版 加賀江沼志稿」作りたいとか書いてあったけど、市役所によると、資料編纂室の立ち上げ等全く無しとのこと。そのうち作りたいなーとは思ってるらしい(2024、聴取)

昭和60、北大路魯山人、p178、
「……申三は、金沢の古名燕臺を号とする」
金沢にも古名があったんだなあ。
以下読書感想文
「皿は使ってナンボやろ」みたいな精神は共感を抱く。とは言え売り物の古皿を使って、洗って、また出すな。
「君、仮にも書家を目指すなら、○○や**を見ずにそれを「今時は☆☆みたいなのばかりで」などと批判しなさんな」
「民芸が第一とするのは良いが、それと貴族用の皿とを同じ目線で「芸術」と一括りにするのは良くない」
「技巧は芸術ではないが、芸術には技巧があるものだ」
国民栄誉賞か何かを辞退したらしいが、「芸術には権威も付属しないとなあ」みたいな事も言ってたから、単にその賞が気に食わなかっただけだろコイツ。お偉方に近づこうとしたり、俗な面も目立つ。
回せもしねえろくろの前であたかも回してますよ?みたいな写真でインタビュー受けてたりもしたらしい。ろくろ回しの先駆者だな,

大正7、石川縣之研究第二 神社編、p485
「山代村に於ける左義長は特殊の古風を存するものとす」
無くなって作り直したのいつだっけ?忘れた。上の方にメモあると思う。

昭和56、加賀郷土かるた(平成25、第5版)
山代の部分「山代は 出湯に焼物 明覚碑」
まぁ山中も「信連や 芭蕉もほめた 山中湯」なので共に縁起推しではない。

1996、平成8、加賀の文化 第4号、p33、
狸猟に関する話、「ガンバサミというものを使い、シグマは冬眠中薪でいぶして捕獲したそうです」
ガンバサミはトラバサミみたいなものか?近所の畑です「盗みに入るな!ガンバサミ有るぞ。手足がちぎれる」みたいな文を見た事がある。また、シグマについて「狸のことですかね?今はシグマなんて言いませんね」との一文。
同p34、「大聖寺味噌と言うのは、吉崎の石塚さんの味噌だと言うことですね?」「そうです」
魯山人が大聖寺味噌と名付けたらしいが、吉崎(地名)なら福井県やんけ。いや、当時はどうだったか……?
p36、「今はありませんが、(魯山人寓居)前に、薬師の生水といういい水があった」
同p46、「市内にある鞍掛山は通称であって、ほんとうの名は舟見岳という。……あたかもヴィナスの豊満な胸にぴちっとブラジャーを着けたようである。」
何言ってんだこいつ。ちなみに私も子供の頃はおっぱい山と呼んでいました。(写真編)吸坂からの写真の右の方にあるおっぱいっぽい山の事。

1991、北陸金沢能登の宿、p41
「各旅館で働く女の子(ゆかたべ)が、」ゆかたべ?
「総湯の横には源泉の「瑠璃光」がある」写真(記憶だよりに)見る感じ、今のあらや「源泉 烏湯」に見える??

えぬのくに11〜20、p42
「山代温泉の由来について 野尻与之佐」のじり?小中の校長がそんな名前だった気がする。縁者か本人か、ただの同姓かは知らぬ。
よく見ると、縁起によると「〜」、この行基がカラス云々、と、縁起とそれ以外のとを分けて書いてあるな。つまりカラスの部分は出典には無いと言う事だろう。民話の採集か創作なのかは知らぬ。
、「むびょうたんの話(フェイ要約)貧乏な病人のじいさんを持つ与一が山でカラスが飛んでいくのを見た。それを見上げていると、ひょうたんが6個ぶら下がっていた。それに山代の温泉を詰めておじいさんに勧めた。しばらく続けたら病が治った。村民にも話題になった。
 大聖寺の姫が病気になったので、与一は山代の湯を詰めた6つのひょうたんに、それぞれ温泉を一杯につめて、1日1個の瓢箪の湯を飲ませて、6日目には治った。殿様は喜んで歌と褒美を贈った。
 なかなかに二つのすかた有てこそ
 世にふたつなき 宝とはなれ 利鬯(としか。大聖寺藩最後の殿様)
「では山代に共浴場を作ってください」
そのようになった。
それからはこの話にちなんで六つのひょうたんを持っていると病気にかからないと言って、みんな腰に下げて歩くようになりました」
6つのひょうたん、それぞれにと言うのがちょっと気になる。源泉は凡そ6つなのを現しているのか?
同44、「また山代の湯女の代名詞として、また芸子や男女の情事密会のことも「タイコンド」と言っています」
タイコンドは昔話。
「おやくしさんに時報の太鼓叩きの男がいた」?せんこうじじゃなかったっけ?専光寺看板には「専光寺の話」として書いてあった。
そいつが湯女との密会に太鼓の合図を使ってたけど、病気で来れないのを知らずに打ち続け、却って病気を悪化させて、ついに死んだ。男もそれを知って悔やんで死んだ。
(昭和45年3月13日 朝6時10分よりNHK 郷土の民話放送の原稿)とあり。この放送用に書いたやつをそのまま載せたのだろう。

カラスの話の初出のひと。タイコンドの舞台を薬師と書いているのは無知か、聞いたまま書いたのか、伝説が変わったのか……?ただの調査不足ならカラス伝説も怪しくなるが、聞いたまま書く派だとしたらカラスの民間レベル浸透説に補強となる。
ひょうたんの話は葉渡莉の瓢箪に関係があったら嬉しいな。猿は関わらないけど。

https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/orgn/B703000589に山代温泉総湯(明治40年)の写真のみあり。古総湯とも結構違うぞ。

https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/orgn/B703000574
こちらは明治20年。こちらが古総湯か?

大正11、白山比咩神社略誌、5コマ、国会DC
「又白山記に加賀分國以前白山は越前の一宮にして気比は二宮也」
昔は加賀は越前の一部だったから、その時は白山比咩神社は越前の一宮だったよ!て事か。
国府が巡る順番説を摂るなら、遠過ぎない?
同11コマ
「塔中山代庄五院は
柏野寺(江沼郡東谷村の内)
温泉寺(同郡山代?)
極楽寺(同郡大聖寺町の近傍)
小野坂(大聖寺町の脇)
大聖寺(即今の町地)
是也」
白山五院とか言われてたからなんや立派なもんかと思えば、「山代庄にある白山関係の五院」じゃないか?
→山代庄内の部分は後世の追記と疑われているとかなんとか、どっかで読んだ。

昭和7、石川県に於ける温泉の研究、p37、
山中隕石…山中に隕石が落ちて、屋根を突き破り畳の上に落ちた。その大きさ二尺あるいは三人斗くらいか。みんな逃げたけど、この石に打たれた人もなし、落ちた所を見ると、畳の石に破れたところもなし、畳の上に石有るのを身たるものも無し。要約。
要は落ちたのに無くなってるよ!不思議だね!て話か?
同p75、山代温泉
「元明天皇時代(紀元1371(フェイ註:これ皇紀だろ。元明天皇は660〜721、西暦711))の諸国風土記に據ると、山代は初め山背若しくは也萬之呂と云はれ、又神明社記に據ると山代の名は大名持の命の御子山代日子命を祭ってある所から出たものだと云はれて居る」
(ここに開湯伝説の短いの)
「(古い歴史だけど文献がほとんど無いのは、火事によって)其際すべてを烏有に帰して仕舞ったのではないかと推察せられる」
烏有てなんだろ?→うゆうにきす、主に火事でまったく何もなくなること、烏有とは「いずくんぞ(烏)有らんや」
同p77、
「大正11年金沢衛戌病院の調査によれば、源泉(大溜或ひはくらやの源泉であろう)」
「筆者の関与したる実験に依れば…大溜源泉…くらや源泉…あらや源泉…昭和7年金沢地方裁判所の鑑定に依れば…大溜…あらや…くらや…大野屋…山下屋…吉野家…松の屋…」
同p99
(明治23年の村民の証言か?)
「山代村には温泉湧出地はくらやの他3か所あるがそれらは皆個人所有であります。只今1か所…源泉は山代村の所有です」
同p100、
「共浴場の温泉は、くらやの邸宅内に湧出するものを、古から引用して居るものであるが、明治明治19年浴槽を拡大した時、あらやからも幾分送湯することとした」
「明治41年頃共浴場に隣接したる電気浴場を廃止すると同時にあらやは送湯を中止して仕舞った。山代騒擾事件の勃発したのは、此あらやの送湯中止問題に基因して居る」
大溜(温泉を集め、各旅館に配湯するための湯溜)とも書かれていた。
「くらや、あらやを除く十五名即大溜組から提起」
同p153
三州奇談より(山代蜈蚣)として、「(樋を使って家々に)取大様熊野湯の岸の如し、又(水を混じらせるのは?)*州有馬の井のうはなり井の如し」
*てへんに囁のつくり。
蜈蚣むかで

昭和13、北陸・高山線地方 (ツーリスト案内叢書 ; 第12輯)、10コマ、国会DC
当時の旅館の一覧もあり。くらや(電四番、五圓)などと書かれているが、これは電話番号と宿泊費だろうか?

明治31-35、旅の家つと第20加賀能登の巻、6コマ、国会DC
写真に人力車が2〜3台写ってる。結構早くね?

大正13、裏日本旅行案内 : 附・裏日本商工案内、23コマ、国会DC
万松園から大聖寺川や三湖がみえて綺麗だね!的な事が書かれてた。
あと「裏日本旅行案内」「素人写真募集」にエロスを感じるが、単に日本海側で素人の撮った写真を求むと言うだけよ。

https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/23/1.html
国会図書館、本の万華鏡、第23回、
温泉の話。面白そう。

2015、大阪観光大学観光学研究所年報「観光研究論集」第14号温泉観光の再生におけるクリエイティブ経済と社会的共同消費手段、p37、
旅館B社長「(地域住民は)観光客に対して寛容では無いといえるかもしれない…温泉旅館だけしか利益を受けていないと考えている見方もある」
観光客と地元民で揉めるかもしれないから総湯二つにして良かったわ、ただし総湯も観光客向けになりつつあるけどなー、とかなんとか。

昭和11、療養本位温泉案内関西篇、52コマ、国会DC
53コマ、
「長期滞在は一流旅館で一泊三食付三圓から三圓五十銭位」
菖蒲湯祭、八朔祭が名所行事とか。
「山代茸(たけ)狩り、粟津は小鳥、鮎は山中でよく釣れる、鴨を打つなら片山津(山中節)
茸は又太鼓の胴とも称し、…女の異名である」
52コマ、「一夜妻でもわしゃやきまする、ここに九谷の窯がある(山代小唄)」
キノコと言えばペニスにたとえられがちだが、キノコ狩りを女遊びにたとえるあたり、そこまで強力なモチーフでは無いのだろうか?

昭和49年、加賀市 民話伝説集(奥付には「加賀市"郷土と民話の伝説"(非売品)ー資料第一集ーとある)、p25
動橋古老より、としてぐず焼き祭の話がある。女神の朝の支度を女神に仕える者が盗み見したら櫛を投げつけられ、片目が潰れた。男はほこらの後の池に身を投げた。そしたらこの池のグズはみんな片目になった。女神はこのグズを祭り上げて村の祭りとした。それからは片目グズはいなくなった。
この祭が元々は木屑を焼く祭で、大蛇伝説を元に(大蛇だと菅生石部と同じで面白くない)怪魚ぐずを創作したものだとは知られたところだが、こんな伝説らしい伝説が生まれてるんだなあ。

1979、石川写真百年・追想の図譜、p207
明治中期の山代総湯の写真があるが、2階にかけられた提灯の図面は菊か法輪かにみえる。
p263、肋木体操、体育館の壁のよくわからん道具、懸垂用か?みたいな奴(肋木)の採用され始めたばかりの頃の使用例写真あり。
p278、空母加賀(1930)、三段甲板。
p293、香林坊立花座のストリップショー。なんか風呂桶に入った女と背中を流す男?が居るが、どういったショーなんだろう?女の入浴シーン再現とか?
p309、舳倉島の海女。なるほどふんどし一丁だ。
p331、人力荷車を引く人の写真があるが、重いものの場合なのか、帯を輪にして肩で引いている。

1978、生きている民俗探訪石川、pメモ忘れ
「菖蒲湯祭は500年の歴史をもつという」

出典忘れた
山代八景として以下の題と漢詩載る。名勝と言うよりは「ここのこんなシチュエーションを読んだ歌いいよね」か?また、題の前二文字が地名、後ろ二文字がその良いところ、のように見える。また、落雁は雁が田んぼに降りる様の事。菓子ではない。かなり範囲が広いから、「山代村の八景」と言うよりは近辺の八景と考えるべきか。
山代夜雨
薬王晩鐘
黒瀬秋月
那谷朝雲
鞍掛暮雪
動橋旅客
月津落雁
片山帰帆

平成山代八景
・大堰宮の桜並木
・薬王院温泉寺の紅葉
・萬松園の遠望
・専光寺袈裟掛の松
・服部神社の巨木
・薬壺の湯・瑠璃光湯煙り
・女生水・男生水
・真菰ヶ池と松籟公園

令和山代八景もある。

山代志(昭和53、加賀市史 資料編第1巻、p502)
「温泉源は神明社地にあり、」
p503、「神明宮 祭事三座天照皇大神 大三輪大名持命 并 狭井座荒魂神社 其後 山代日子命 依て山代と云、」
「大櫃神社 祭神不明」
p506、解題 より、「神明宮は市之瀬神社に合祀され、」「江沼志稿 天保15(1844)、山代志 嘉永7年(1854)に完成」
同p276、加賀江沼志稿
「山代温泉、源神明社内に在。」
この場合の神明社とは現市之瀬神社の事であろう。その移転前の話であるか。現源泉公園辺りにあったっぽい。

日本の「温泉神」の成立構造と特質
https://scholar.google.co.jp/scholar?start=30&q=%E8%AB%96%E6%96%87+%E5%B1%B1%E4%BB%A3%E6%B8%A9%E6%B3%89&hl=ja&as_sdt=0,5&as_vis=1#d=gs_qabs&t=1729264146994&u=%23p%3DhP94Rdgf3T8J
直接的な関係はないが、面白かったので。

加賀・山代温泉「昭和48年度菖蒲湯祭」8mmから(2018投稿)
https://youtu.be/_nC_rq70HTM?si=Sel_l2oPuO9kO-cU
6:24頃、謎のゆるキャラらしき着ぐるみあり。気になる。
前後して電飾付けまくった神輿が出る。バブリー。
山伏街中を練り歩いている。法螺貝吹く。
一瞬菖蒲神輿らしきもの映る。屋根付き。→子供神輿だった
坊主、昼の街中で説教?儀式?
9:33〜夜
9:58、一瞬映ったのはカラス浴衣か?
菖蒲神輿、当時から俵剥き出し。
10:55〜、また昼、がっつりカラス浴衣映る
11:30〜新撰組仮装。鉢金が金色なのが面白い。

山代温泉・紙芝居
https://youtu.be/FYFLHBBr_lk?si=lDhbmDf9grQC1HTp
温泉寺縁起図を用いた紙芝居の実演の動画あったわ。
 行基?は左を向いている。弟子も首を傾げてまで左を見てるように見える。
1:50、「一羽のカラスが」
 雲に乗るのは薬師っぽく無いようにも見えるが、でも薬壺もってるな。
2:30、坊さん、何かの像を片手に持つ。て事はやっぱりこれは行儀が薬師を彫った場面か。
4:40、「山代菖蒲湯まつりは明覚の頃900年くらい前に始まったとする説もある」
8:50、「山代の言い伝えは他にもあるかもしれません」
こいつ分かっててカラス伝説話してやがる。

1973、えぬのくに(昭和60、復刻版、11〜20号、p722)
県衛生課所持「山代温泉総湯問題に関する書類綴」より「(総湯に引いてる源泉は)字山代118の2より引湯するものにして…之を共用するくらや」
「(陸軍病院に分けたのと)くらやが「七福湯」と称して倍化して」元々は3浴室。倍化(+4)で七福か?
「(陸軍病院問題のあと)新源泉掘削と電力揚湯に踏み切り、その完成と同時に旧来の一切の源泉は自然湧出を止め廃止消滅し、山代温泉の源泉の集中管理がなりました。そして現在に至っています。当時新源泉の掘鑿は松乃家旅館の床下…でなされました」

1976、えぬのくに
山代神明社の話。文政6年今の社地に移動、この「今の」にかかるのが「山代温泉源神明社内にあり」、現・松乃家・山下屋あたりから裏山にかけての土地。更に明治40、市之瀬神社になる。

1996、やましろ街事典「源泉」
(薬師寺にちなんで)「源泉瑠璃光」とも呼ばれている。昭和初期までは大のや、くらや、あらや、松の家(現在の源泉公園)の屋敷の下から自然湧出していた湯を、…分配していた。
昭和11年、陸軍との和解後、電気揚湯に切り替え、これを1号源泉と言う。2〜6号までの話もあり。
「薬壺の湯と瑠璃光の湯けむり」
平成山代八景の一つ、総湯の横の源泉瑠璃光。写真を見る感じ、あらやの源泉烏湯とは違うか?
平成6、新しい源泉公園ができ、薬壺の湯と名付けられた。
写真を見る感じ、今もあるデカいラミエルみたいなやつ。根元に岩あり。カラスなし。

はづちをインタビュー(2024)
むびょうたんのひょうたん、一時期しか売ってなかったけど、「売れた」らしい。好評だったと言うよりは、一個売れて驚いた的な事を言っていた。
あと気になってカラス調べてみたらしい。良いぞ、研究の輪が広まっておる!

魯山人の伝記だったか?
魯山人の父方の一族は上賀茂神社の社家(そこまで偉くは無いらしい?)、これは八咫烏の子孫と伝えられる。

広報誌「はづちを」2023.8、#254
4コマにすぱクロくん(ぬいぐるみか?)登場
2024.3.#261「すぱクロくんクリアファイル450円の売り上げの10%を能登に寄付するよ」
2024.5.#263「クリアファイル売り上げの10%4500円を寄付しました」
1〜2ヶ月で100枚売れたんか……
すぱクロくんはちょこちょこ出てくるな。今年ははづちをはすぱクロくん推し!(2024.9.#267)とかなんとか。
2024.10月時点で「総湯湯札の提示で加賀珈琲、アイスコーヒー50円引き」とのお知らせあり。観光客は利用すると良いんじゃないか。

広報やましろ
2015.9.p2、「獅子舞…昭和5年に金沢から半兵衛流獅子舞を習い、翌年獅子頭を制作し〜」
2015.4.p2、「≪総湯の四隅にあった噴水≫」なんだろうと思っていた奴だが、あれは噴水だったか。
2014.12.p2、熊坂長範なる大盗賊がいて、熊坂の出身だとか。「朝日さす 夕日さす ふたば柳の 陰にあり」と言う言い伝えが熊坂長範の隠した宝のありかを示すとされ、それは大堰宮だと考えられた。また、あわら市熊坂にも似た伝説あり。そっちはヒント歌がもっと長かった。
2013.2.p3、明治頃の総湯の話。山中のユカタベイとやらを真似ていた?ユカタベイに変わって竹竿が吊り下げられ、そこに浴衣を掛けて入浴した。要は今の脱衣籠にあたる装置か?明治40頃までは竹竿だったと言う。明治2年混浴禁止令。2012.8.p3によると「ユカタベイは客の入浴中、浴衣を持って歌うのが仕事で、三十人分の浴衣を持ち、初めての客でも間違いなく浴衣を手渡して着せる勘と技術を持っていた」。山中が人気で山代を素通りするので、山中っぽい要素ユカタベイを導入したが、敵わんから山代っぽさを伸ばそうとして、短期間で終わった。
2013.1.p2、女生水と付近の整備の話。いまいち年代がわからないが、付近の石像は地蔵扱いで、生水を守護する意味を込めたとかなんとか。
2012.5.p3、昭和2年の本によると、(佐渡の小木町で大正時代まで続いた)湯女の背中流しは素手だった、「指の先で爪を立てないように上手く背中の垢を掻き落としてくれ、それはなんとも言えぬ良い心持です。…風呂に入るだけで其の位の技巧、万事はお察しを」
2011.12.p3、太鼓の胴に関して、「葬式の集まりには必ず里人が太鼓を鳴らして皆に知らせる習慣があった」これは悲恋の前振りとして作用していたのではないか?
2023.4東口の交差点にあいうえお文字ブロック設置
2023.3左義長、寒中みそぎの一幕として「船を漕ぐ動きをしながら歌う「鳥船」の儀式」無関係かもだが、鳥となると気になる。
2022.7「山代温泉観光大使 汐川ほたて」
スマートパークてWi-Fi繋がってるよ!くらいのもんか?電子案内板のようなものがあるらしいとも。

加賀國温冷戦考(大正14、石川縣江沼郡誌.p451)「源泉四所」

平成13、魅せられて山代
 この本は明治〜昭和初期の絵葉書を集めた本とのこと。
p25〜30、総湯のすぐそばに源泉或いは噴水らしきものあり。現・新総湯から古総湯を見て入り口左右か。
同p33、「山代温泉 湯の花煎餅 わさび餅」の看板見える。気になる。
p36、「山代節 
一夜妻でもわしゃやきまする
 (*)アリャサーコリャサー ヨイトナ
ここにゃ九谷の竈がある
 *サノサ
きかせたいぞへ万松園の*
三日月臺のほととぎす*サノサ
春は薬師の山邊のわらび*
秋は茸狩り湯は内湯*サノサ」
p47、いわゆるベンガラ格子の事を「木虫籠格子(きむしこ)」と表現。

2022、ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 加賀・江沼、p153
「(江戸時代の話をして)江沼人の気風を陰性にした元凶はこの闘争にあろう」

2017、写真アルバム 小松・加賀・白山の昭和、
p137
、「加賀地方では嫁入りの際に藁細工の鶴亀を持参する風習があった」写真あり。
p212、菖蒲湯祭の鼓笛隊の写真に「35キロ制限(?)」の看板あり。刻むね。

1987、えぬのくに32号、p80、泰澄伝説を探る記事、面白そう。ざっと読んだ感じ、「南加賀の泰澄・行基伝説は泰澄なんたら伝て本を種本にしてるぽいけど、そもそもその本が割と後世の創作だぞ」みたいな事が書かれてるっぽい。妙に年代がはっきりしてるのが逆に怪しいてのは神亀二年に通じるところがある。ナンタラ伝は当時なかった単語(白鳳て年号だっけか)使ってるから後世の作。
神亀二年は泰澄と行基が会った年とされる。

昭和54、加賀市史 通史下巻、p262
「くらやの内湯浴槽は、明治32年に3個、同39年頃には4個…さらに、七福湯とよばれる7個の浴槽への増加が企てられ、…」

1992、いで湯の街・やましろ、p15
金沢市立図書館蔵「山中行記」より「山代温泉の図」を見ると、「新屋 ** 湯元アリ」他に湯元とか源泉とか書かれてる宿なし。ただし、「山代に湯持19人内貮歩持の者5軒 豆 大 新 倉 武田以上5軒 此内 武田は宿(人偏なし)せさる由」とあるのが気になる。豆腐屋、大野屋、新屋、倉屋のことか?

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