大学1年生に数学と物理を教えて思うこと
10年間ほど, 農学系の大学1年生に数学と物理学を教えています。そこで考えたことをとりとめもなくメモします。
(「大学1年生あるある」も参照)
数学が苦手
数学が苦手という人の多くは「受験のための数学」や「数学のための数学」が苦手なだけで, 実用的な数学を基礎から丁寧に勉強すれば, 結構わかるようになるし使えるようになる。物理もそう。
大学の数学や物理学は, ルール自体が難しくなる。だからルールの理解がメインになる。だから大学入試の問題が解けない・解法が閃かない, という人も, 意外に大丈夫。受験とは違うゲーム。
一方, 高校や大学入試までは数学・物理は好きで得意だったのに, 大学入ってからわからない・つまらない・苦手になってしまった, という人も多い。ルール自体の難しさや面白さに気づけず, 高校までの「直感・イメージ・ひらめき・センス」に頼るやり方から抜け出せない。
直感やイメージやひらめきやセンスは有用。それで数学や物理学が好き・得意という人もいる。ただ, 「それが無いと無理」みたいな文化はちょっとおかしい。それらに頼ってばかりだと, かえって能力が伸びないこともある。
どのくらいの数学が必要か?
「農学部にどのくらいの数学が必要か?」「数IIIは必要か?」とよく聞かれる。では「必要」とは何か? 「必要」を文字通り「必ず要る」と定義するなら, 人生や社会で「必要」なことはほとんど存在しない。ほとんどは無くてもなんとかなる。たとえば視力や聴力は必要か? それらが無くても立派に生きてる人は多い。
なら視力や聴力は「不要」か? そんなことはない。視力や聴力を持つ人が, それらを失うのは嫌だろう。だから「必要ではない」は「不要」や「無用」という意味ではない。ほとんどのことは, 必要と不要の間にある。必要か不要かの二分法がおかしい。ゼロかイチかではない。イチかゼロかで考えるのをやめよう。入試は究極のイチ/ゼロ。合格・不合格。その考え方からリハビリしよう。
生物資源学類の数学教育は, ルールを受け入れてゲームができるようになりましょう, というのが目標。もっと良い面白いゲームを作るとか, そのゲームでチャンピオンになるとか, そういうのは我々の目標ではない。それらは魅力的で意義深い仕事だが, 我々のミッションは他にある。
線型空間, 計量空間, 重ね合わせの原理, フーリエ解析, 微分方程式, こういうのは全部, 学生の「ものの見方」を変えるために教えている。別に, ものの見方が変わらなくたって生きていける。でも, 新しいものの見方ができるようになるのは楽しいし, 大学の学びの意味はそれではないだろうか。
読書力
読解力だけでなく読書力も大事(ていうか読解力は読書力の一部といえよう)。多くの分野の文章をそれなりのスピードでたくさん正しく読む能力が読書力。読書力がないと, 説明を読み飛ばす。短くてわかりやすい説明ばかり求めてしまい, 本質的な理解ができず, 学びの深さも効率も上がらない。
読書力を養うために本をたくさん読もうとよく言われる。そのとき注意すべきこと:先生や年長者の本の薦めは参考程度に聞き流すほうがよい。本は社会の価値観や時代背景を色濃く反映するから, どんなに優れていても昔の本は読みにくい。本は楽しんで読むのが一番だから, 自分に合った, 時代に合った, 新しい優れた本を自分で探してください。
読書力が足りない人の症状
知らない言葉は「そんなの知らない!」と, 読み飛ばす。知ってる言葉は「そんなの知ってる!!」と, 読み飛ばす。知らない言葉:知ってる言葉が2:8くらいの文章だけ読んで, 「なるほどそうか勉強になったなあ」と感じる。だから「自分にぴったり合う本」が少ない。
文章を斜め読みして, わからないところをスルーして, 自分の知ってる言葉だけ拾って, それをつなぎ合わせて「ああ、要するにあれね」と早合点する。
矛盾や整合性は気にせず, 前後の脈絡に無関係に, 何か腑に落ちる文章があったら「なるほどそうか勉強になったなあ」と感じる。
長い文章を読む時, ある程度前に出てきた文章は忘れていく。
学び方
教員は学生の基礎知識の無さに気を取られがちで, 彼らの学び方の稚拙さを見過ごしがち。基礎知識はたくさんあるが学び方は稚拙, という学生は意外に多い。そういうのはペーパーテストには現れにくいし自覚もされにくい。大学院の博士課程くらいまで進んでそれが明らかになって, 大変な苦労をすることもある。教育プログラムには, 彼らに学び方を振り返らせ, 学び方のアップデートを促す仕掛けを埋め込む必要がある。
稚拙の例: 説明を読まずにいきなり演習問題ばかりやる。「読まずにいきなり問題演習」は, 簡単な問題は手っ取り早く解けるようになるが, じきに行き詰まる。「まず読んで理解。その次に問題演習」は、最初はめんどくさく感じるが、じきに効率も精度も良くなる。
「問題を解きまくるだけの勉強」は人工知能の学習と同じ。とりあえずできるようになるけど、精度を上げるには膨大な数をこなさねばならないし、結局頭打ちになるし、未知の問題に対応できない。
頭を使って勉強しよう。「問題をたくさん解く」ことも大事だけど, それが「頭を使わない勉強」になっていないか? 問題と答のマッチング回路を鍛えているだけで, 理解から遠ざかっていないか?
浅い学びは頭の中に対応表を作る作業。マッチングテーブル。経験的・慣習的・訓練的。場当たり的・定型的なというマニュアルの集積。長所は実用的で速いこと。「普段」「日常」「ありきたり」に強い。短所は使わないとすぐ忘れる, 柔軟性がなく応用が効かない, 変革できないなど。深い学びは探求的。ひとつの学びで多くの場合を一網打尽にする。深い学びは多くの学び。
1回の学びを深くするのに必要なのは, 読解力(論理的思考力)と好奇心。読解力があれば, 書かれたことを正確に読み取り, 自分なりの正否の判断基準に照らし合わせることができるので, 誤解や見落としがなくなり, つじつまのあった体系的な理解に到達できる。好奇心があれば, 長くて複雑な話にもついていけるし, 心の中に印象が残りやすいし, 他のことに結びつけて理解したり, さらに深堀りしたくなる。
昔の人は, 0や負の数を認め, 受け入れるのに大変な葛藤があった。それは彼らが当時の世界観やイメージに縛られていたからだろう。ところが諸君は0や負の数を素直に受け入れている。それは「そう考えると便利」だからでは? そう, イメージは不要であり, むしろ囚われてはダメなのだ。
新しいことを学ぶ時, 既存の知識や経験の貯金が役立つこともあるし, 邪魔になることもある。「あ, これは貯金でいけるやつだ!」「あ, これは貯金が邪魔になるやつだ!」と, 気づけるようになることが大事。ちなみに浅い理解で「わかったつもり」の知識は「邪魔な貯金」になることが多い。
数学を学んでいて「そんなの自分では思いつけない...」と嘆く学生がいるけどノープロブレム。そういう魔法のようなアイデアを思いついて教えてくれるのが数学者。我々は数学者を目指しているわけではないのだから, 彼らを称賛し, その恩恵にあずかればよいのです。
数学の勉強法はカラオケの持ち歌作りに似ている。ある定理の証明を何回も紙の上や頭の中で再現し反芻する。そうするうちに, 論理の細部までがはっきりわかりる。そうやってその定理の「イメージ」ができる。
教科書のつまみ食いでわかるくらいなら, 教科書なんか作らないで, 数枚のプリントに要約して配りたい。それができないから教科書があるのです。
「高校で〇〇をやらなかったから, 〇〇の自信が無い」(〇〇には数学, 物理, 化学, 生物などが入る)という人が多いですが, 「〇〇をやった」という人も大したことなかったりするものです。「論語読みの論語知らず」というやつで, 〇〇を勉強したからといって〇〇を理解・習得しているとは限りません。それに、〇〇をやらなかった人は, その間, 別の何かをやってたのでしょ? だから何かを学んでいるという意味では同じ。
読んだり聞いたりだけじゃわからない, 実際に経験してはじめて納得・理解できる, という面が人間にはあるけれど, それに開き直ってはダメ。それを超えようとするのが知性。じゃないと戦争の愚かさ・悲惨さも戦争を実体験しないとわからない, てことになってしまう。
抽象的なことは曖昧であり, 具体的なことは明確だ, と思っている学生が多い。数学では(そして他の学問でも)抽象的な方が正確・厳密・明確に定義できたり, 汎用性が高い(ことが多い)ということを知ってほしい。
具体的に考える訓練と, 抽象的に考える訓練の両方が必要。具体だけではダメ。抽象だけでもダメ。いずれも応用が効かない。
定義を覚えるのが嫌だという人がいる。定義は本当に吟味してしっかり理解すれば, 自然に覚えるもの。「覚える」と「理解する」は表裏であり一体だ。理解できない時こそ「覚える」は大事。覚えてから一生懸命考え続け、理解に至る。人と仲良くなるのと同じ。まず名前を覚える。そうすると「知らない人」ではなくなり、関係性ができる。そして徐々に仲良くなっていく。このような「定義を覚える」は数学が高度になるほど有用。イメージと感覚でなんとかなる程度の数学ではその意義はわからない。だから大学数学を学ぶ。
物事を理解するときに, 定義や論理よりも, 具体例やイメージやフィーリングやパターンマッチングに頼ってしまい, 言語化・抽象化しないですませてしまうという癖がある人は, 「偏見」「思い込み」に弱いかもしれない。本質的でない経験則に着目してしまい, 本来あり得ないようなつながりや法則を勝手に見出し、そうだと決めつけてわかった気になってしまう。偽相関に弱い。そういう人は簡単に「理解」しすぎていないか?「理解」とは何かということに自覚的になるほうがよい。理解には抽象化・一般化・言語化が伴う。「心にすっと落ちる」ことを「理解」だと早合点してはいけない。
学生には定義の大切さを理解させることが大変重要。定義の大事さをわかっていなと, 定義よりも「操作としてのわかりやすさ」に意識が行ってしまい, その操作が本質であるかのようにすり替えて「理解」してしまう。本質より「わかりやすさ」を重視してしまう。わかりにくいことを切り落とし, わかりやすことだけをつまみ食いする。「これはこうするもの」で疑いを持たず, 誤解に気づけない。人との議論が噛み合わない。
物理が苦手な学生は, 物理という学問のルールがわかっていないみたい。物理の答案で使ってよいのは, ちゃんと定義された言葉と記号, 基本法則, そして数学。明確な定義が与えられていない言葉や, イメージやフィーリングは, 答案で使ってはならない(考える過程では使ってもよいが, それを使って論証してはいけない)。それらを使って書いた答案は, 最終的な結果が合っていても不正解である。物理はそういうゲームなのである。サッカーでは手を使ってゴールしても認められないのと同じである。サッカーでは手を使うことをあえて禁じるように, 物理ではフィーリングで論証することをあえて禁じるのである。
物理の初心者むけの解説には, そういうルールを破ってフィーリングに訴えるものが多い気がする。そういうのを読めば読むほど, 物理の体系は見えづらくなり「物理はわからん!」という悪循環になっている気がする。
質問しよう
わからないときは質問しよう。質問するとき, 「わからなさ」を言語化して説明する必要がある。それをしているうちにわかったりするのだ。つまり, 疑問を質問として整える作業自体が解決へ導いてくれるのだ。
賢そうな質問をしようとしない。アホみたいなことを聞く勇気を持とう。多くの人はアホなことが聞けなくて苦しんでいる。勇気のある人はアホな質問をしよう。それで多くの人が助かる。助かった人は、後でその人にそっとお礼を言おう。そうすればその人はまたアホな質問をしてくれるだろう。
授業中に質問が2回出ると, それ以降はポンポン質問が出る。最初に質問の口火を切る学生と, それに続く学生。この2人がいると, 質問のハードルが下がって他の人も口を開きやすくなる。
質問は心がけだけでなんとかなるものではない。「質問できる」というのは能力でありスキルである。言語化能力や勇気といった資質を必要とするし, 経験を必要とする。
帰納的な学びと演繹的な学び
高校生の多くは, たくさんの問題を繰り返しやる。これはこどもが「犬」「自動車」を学ぶ時に具体例をたくさん見て認識・理解するのと同様の「帰納的な学び」。これは効率が良くない。というのも, どんな概念も抽象性を持つ。具体→抽象のギャップを, 多くの「経験」で乗り越えるのが帰納的な学びである。精度を上げるのに手間がかかるし, 経験したことのない状況に弱い。
一方, 整理された少数のルールを会得し, それに基づいて認識・理解するのが演繹的な学び。これは「少数のルール」がちゃんとしていれば早くて正確。何か想定外のことやトラブルが起きても, 「少数のルール」に基づいて対応や修正ができる。どこが間違ったかを明らかにできる。それをもとにルールをアップデートし, より強いルールにできる。だから学問は演繹できるルールを作ることを目指す。
論理的に考えるとは, 要するに演繹のこと。演繹ができないとまずい。印象操作に弱い。未知を必要以上に恐れる(ゼロリスク信仰)。議論が噛み合わない。
実は演繹という言葉をそもそも知らない学生も多い。
学びを通じて大人になる
数学を学ぶ目的は, 知的・人間的に成長すること。数学だからできる学びがある。それと, 「理解する」とはどういうことかを考え, 理解すること。単に問題が解ければ理解なのか? 「イメージ」は理解に必須なのか?
「知的・人間的に成長する」には, 数学以外にもいろんなアプローチがある。数学がフィットした人は数学で成長すればよいし, フィットしなかったら別の何かで成長すればよい。全員に数学を押し付ける必要はない。
誰もがどこかで数学から「卒業」する。いつまでも数学を学び続けることはできない。
数学や物理学の「理解」には「悟り」に近いものがある。数学・物理学に取り組むのは, 論理の鎧をまとった冷たいサイボーグではなく, 論理に貫かれた世界の中で少しでも悟りに近付こうともがきあがく, 不完全な人間たちである。だから数学も物理学も, 恐怖, 忌避, 逃避, 憧れ, 感動, 嫉妬, 挫折, 尊敬, 葛藤などの感情が刻々と登場・変化する人間臭いドラマである。それらを学習者が自覚したり仲間と共感・理解し励まし合うことで学びが進み, 深まる。そういう点で, 数学や物理の学びには, 人間への理解を促し, 人間的な成長を促す面がある。数学・物理学は論理性だけでなく(むしろ論理的だからこそ)そういう面も持つ教育機会・素材であり, 「人」を育てるものである。
なぜ基礎・基本を固めずに, 「問題ときまくる」「解法覚えまくる」になってしまうのか? めんどくさいから頭を使う気になれず, とにかくやりすごしたいからである。それは内発的動機の不足から来る。内発的動機の不足は好奇心や自立心の不足から来る。だから数学・物理学の学びには人間的な成長が必要である。
ひとつの学びから深く多くを得るには、精神的に成熟し大人になることが大事。子どものままだと, 言われたことを言われたとおりにやることしかできず, 学びは通り過ぎるだけである。
「人より優れたポジションでないと嫌」という学生はしんどくなることがある。世の中には優れた人はいっぱいいるし, そもそも優劣の評価軸が多様化し拡散するから。授業も部活も。ひとつの評価で劣位にあっても自尊心を失わず平気でいられる強さを学ぼう。
自分に向き合わないと数学はできない。言われないとやらない、説明してもらわないとわからない、という姿勢では数学は無理。だから数学を学ぶには人間的に成長することが必要。
学生には「大人」になって欲しい。大人になってくれたら課題を減らせる。大人は自己管理・自己決定できるから教員は細かい指示を出さなくてよい。大人はちゃんと自己主張してくれるから教員は最適な課題を絞り込める。
子供は, 自分の状況を大人に察して理解して欲しいと思っている。自分の気持や苦境を誰かに察してもらい, 代弁してほしいと思っている。自分は状況を変えられず, ただ言われたとおりに我慢・努力するしかないと思っている。
自分から教員や学類や大学に対して, 質問したり意見を述べたり, 情報提供するなどによって, 自分の受ける授業や自分をとりまく学習環境を改善しようとしていますか? 他の人が自分の代弁をしてくれることに期待したり, フリーライドしたりしていませんか?
某先生と話して一致したこと: 大学生は大学で親友を作れなくてもOK。授業や実習の機会にその場限りでいいからたくさんの人と薄くゆるっとつながればOK。そうすればいざというときに助け合える。お互いにあまり期待しすぎたり, 期待に応えようとして無理したりすることはない。
数学の学びには精神的な成熟を伴う必要がある。それが数学を学ぶ意義のひとつ。数学教育はそこを促すべき。
問われる→答える→評価される(マルかバツか)という場では, 学生は萎縮してしまい, 成熟にはなかなか向かわないような気がしています。
「つじつま」が大事
「つじつま」にこだわろう。本が相手ならつじつまが怪しいと感じた時に解決しにくいけど, 相手が先生なら質問攻めにして追究できる。変だと思って自己解決できなかったら先生に聞こう。
慣性の法則とは? と聞かれて, 「動くものは動き続け, 静止しているものは静止し続ける」みたいな答を書く人が多いのですが, それ, 現実世界とつじつまが合わない(整合性が無い)でしょ? 動くものも止まることはあるし, 止まってるものも動き出すことがあるのがこの世界ですから。私はここに強い危機感を持つのです。人は整合性の無いことを平気で書くのです。知性や学びに関する, 根本的なベースがここで崩壊しているのです。
「動くものは動き続け, 静止しているものは静止し続ける」みたいな答を書くことがダメというわけではありません。人は間違います。間違えてよいのです。間違いを恐れて沈黙するよりもよいのです。その上で, なぜ間違えたのか? そこから何を学べるのか? という話を私はしています。間違えたから学びがあるのです。
履修の詰め込みすぎ
学類1, 2年生が授業履修を詰め込み過ぎで, 1単位あたり45時間分の学習(授業+自習)がそもそも無理になってることが問題になっている。実際, 毎年, 詰め込みすぎたこ
とを後悔する学生がいる。だけど, 喉元過ぎたら忘れてしまう。そして上級生は新入生に, 授業は詰め込めるだけ詰め込んで, 1年生のうちに単位を揃えるほうがいいよ, などと助言する。
どれだけ詰めても大丈夫かはその人の基礎的スキル(読解力・文章力・論理的思考力)や学びの目的(単位さえゲットすればよいのか, それともちゃんと身につけて成長したいのか)による。
たくさん食べるには強い胃腸が必要なように, たくさん学ぶには「強い頭」が必要。それは読解力・文章力・論理的思考力。授業をたくさんとりたい人(特に教職)は, 自分がそれらをどのくらい持っているか, 振り返ってみよう。
どんなにおいしい料理でも, 早くたくさん食べなきゃいけなくなるとおいしくない。学びも同じ。どんなに楽しい学問も, 無理に詰め込むと消化不良を起こして, 結局ぜんぶ出ちゃう(汚い喩えでごめんなさい笑)。でも入学直後はテンション高いから, つい取り過ぎちゃう。
履修を詰め込みすぎてパンクするのは, 詰め込んだ授業全部で無理に良い成績をとろうとするから。CやDでも気にしないなら, 履修ツメツメでもいけるだろう。そういう学生はGPAは下がるでしょうけど, 私は結構好きです(笑)。
教え過ぎ・説明しすぎ
高校までは, 大事なことは繰り返し教えてもらえる。授業, 定期テスト, その解説, 実力テスト, 模試, その解説, ... というふうに。でも, 大学ではそんなことはしない。原則的に, 1回しか教えない。
繰り返し教えてしまうと, 「繰り返されないことは大事ではない」という誤ったメッセージを学生に伝えてしまう。その結果, 教育に余分のコスト(同じことの繰り返し)が生じて質と量が落ちるだけでなく, 学生の学習能力自体が落ちる。
過剰な論理的説明も考えものである。「AはBです」だけで済むことを, 「でもBだからといってAだとは限りません」みたいな論理的には当たり前な説明(蛇足)を加えると, それが無い場合は「Aであるときに限ってB」と勝手に思い込んでしまう学生が現れる。つまり, 「教えすぎ・説明しすぎ」は短期的には学習効果を向上させても, 中長期的には学習者の学習能力を育てない。だから, そっけない説明のわかりにくい授業や読みにくい教科書も, 時には必要・有用である。わかりやすければよいというものではないのである。
教え込んで詰め込んで, 形式的にできるようにしても, そんな学びはすぐに消えて何も残らない。むしろ, そういうのが学びだと勘違いさせてしまう。学びに丁寧に向き合うことと, 好奇心を持って取り組むことを教えないと学びは深まらないし積み上がらない。
「知識をわかりやすく丁寧に教えること」は教育のテクニックのひとつにすぎない。それが教育的に有益である場合はそうすればよいが, そうでない場合や, むしろ有害な場合もありえる。
教育は「標準化」しすぎないことも大事。特に大学は, 「ここまで学べば完璧」というのが無くて, エンドレスに先がある。だからどれかの授業にハマって深く学べば, 他の授業にしわ寄せが出て, CやDが来てもおかしくない。そういう学びはむしろ大学らしい。
問題を一緒に作る
あるSNSでこういうのがあった(要約): 塾講師選考試験に2次方程式だけが書いてあった。"解け"ということなんだろうが,問題文がないので,"これをどうすればいいですか?"と書き不採用だった。別の塾の筆記試験で"音の速さはいくらか"とあったので"媒質による"と書き不採用だった。
もちろんこの人は間違っていない。しかし, 「与えられた問題を与えられた条件のもとで解く」ことにこだわりすぎていないだろうか? 研究や実務の現場では、問題は与えられるものではなく見つけるものであり, 出題者(相談者)と一緒に作っていくもの。解けない問題(不完全な問題)は条件をつけたしたり問題自体を作り直すということは、実際よくある。
私なら, 最初の問題は「この方程式を解けという問題だと解釈して進める」と述べて解くし, 2番めの問題は「常温・大気圧における空気を伝播する音について考える」と述べて解く。
入試で評価できるのは学力の一部だけ
「推薦入試で受かっても一般入試で負けない学力をつけなさい」と言われる人がいるらしいが, 腑に落ちない。学力にはいろいろある。だからいろんな入試があり, それぞれで問われるものが違う。そうやって多様な学生を集める。どの入試でも合格は合格であり, 上とか下とかは無い。
そしてどの入試でも, 合格したからといって完璧とか十分というわけではない。入学に供えて勉強すべき。入試問題が解けても基礎学力がグサグサ, というのはよくある。微分の問題が解けても微分の定義を知らないとか。わかってないことを言葉でうまく誤魔化すのが得意で, そのことに慣れすぎて自分まで誤魔化してしまってたり。
「入学者に必要十分な学力」というのは幻想であり存在しない。2次試験が解ければ大学でやっていけるとは限らないし, 解けなければ大学でやっていけないとも限らない。じゃあ入試って何なんだ? 人の能力は多様でありひとりの能力はいびつで偏っているもの。その良い面と良くない面をそれなりのバランスで評価するひとつの尺度。その尺度にもいろいろあるから、いろんな入試がある
個人個人の能力は偏っていても, それを多様性で補うのが社会。大学もそう。いろんな学生をとる。一元的な能力尺度は存在しない。
「たまたま」思い出せた/ひらめいた/得意な分野が出題された/選んだのが当たった/... かどうかで試験の点は変わるから, 入試の結果は運や縁に大きく左右される。それにペーパーテストでは測れない学力・実力もたくさんある。だから入試の結果や○○大学に入った/落ちたで人を値踏みしたりされたりはやめよう。
受験に向けてあんなに一生懸命勉強したことも, 合格して入学してからどんどん忘れていっていませんか? だとしたら, そんなカゲロウのようにはかない「学力」でマウントとったりとられたりって虚しいよね。大学ではちゃんと身につく学びができるといいね。
一般入試で問われているのが学力ならば, 推薦入試で問われているのも学力。方向性が違う。それぞれで強みを発揮する人がいて, そういう人々が集まる多様性の中でそれぞれが刺激を受けて成長する。だから一般入試も推薦入試も必要。どっちかだけではダメ。実際, 学生を教えていて強くそう思う。優れた才能と個性の学生はどちらの入試にもいる。
「推薦一般論争」=「みにくいアヒルの子」。生態系にはアヒル(カモ)もハクチョウもいるし必要。だから, アヒル向けの入試とハクチョウ向けの入試がある。推薦と一般のどちらがアヒルでどちらがハクチョウってわけじゃないよ。そして, ペーパーテストの得点力は学力の一部であり, 全部ではない。推薦入試で問われているのも学力。だからどっちのほうが学力は上とかも無意味。
推薦入試に合格しても共通テストを受験せよという指導は, 合格者に少しでも学力を上積みさせてやりたいからだろう。その動機には共感する。しかし, その方法として「テスト」という外発的動機づけを用いるのは稚拙だ。既に入試に合格した人に効果的とは思えないし, そもそもテストの得点は学力の一部でしかない。むしろ, 大学入学後を見据えて内発的動機づけにシフトすべきである。
テストのための学び
「テストのための勉強」から卒業しないと, 大学で良い学びはない。本来、勉強はテストのためにやるものではない。大学入試(共通テスト)の得点やGPAでマウンティングしたりされたりする幼さから早く卒業して大人になろう。
成績Cをとるために必死にあがくのはわかる。単位をとらないと卒業できないから。でも, BやAやA+を「目指して」必死になるのは何か違う。理解すること・実力をつけることを目指すべきではないのか。理解し、実力がつけば、結果的に良い成績がつくはずだ。理解や実力を置き去りにして, 単に良い成績をとりたいと思うのは, 自分を実際以上に大きく見せたいという願望であり, 自己欺瞞をはらんだ危険な心理ではないか?
わからないのにわかっているように振る舞うことは, テストではルール違反ではない。でも学問ではルール違反である。
多くの学生は, テストのために, 一夜漬けで, 何もわからないまま, やみくもに過去問や予告問題の解答を丸暗記したり, 「出そうなところ」にヤマを張ってそこだけ詰め込む。もちろんそれは不正ではない。それで単位をとったり良い成績がとれれば、とりあえず結構なことだ。でも, それは学力や実力の証明にはなっていない。
もちろん, 生きていくために「割り切り」「その場しのぎ」「ハッタリ」も必要である。しかし, そういうふうにして得た評価にちゃんと「後ろめたさ」を感じることも大事だ。単位や良い成績をとれたのはラッキーだっただけで、正直、ちゃんとわかってないよな、と自覚するならばそれは良いことだろう。逆に単位はとれなくても、よく学んで成長したのなら、ただアンラッキーだっただけで自分はやるべきことをやったと誇ってよいだろう。ペーパーテストは点数が全てだ。しかし学力や人の能力はそんな簡単に測れるものではない。でも公平公正なやり方で合格者を決めるにはペーパーテストに代わるものはなかなか無い。だからみんな仕方なく割り切ってそのゲームに乗っかるのだ。それなのに, ペーパーテストの合否や点数が学力そのものであるかのように語ったり思ったりするのは, 一種の中毒であろう。
農学部ではどういう数学・物理学を教えるべきか?
以前, 初年次教育について数学科の先生と話すことがあったが, 数学者は, 相手が数学科以外の学生であっても「ちゃんと厳密に教えよう」とする。しかしそれでは論理の積み重ねに手数がかかり, 進みがゆっくりになる。うちのような農学部では、数学にそこまで時間をかけていられない。結果的に, 学ぶ数学は狭くなってしまうし, その割に難しくめんどくさいから「数学はどうせ役に立たない」と学生は思ってしまう(イソップの「すっぱいぶどう」である)。現実では数学は様々な世界で様々な形で役立つし, それを知って使いこなすには様々な数学が必要なのに, ほとんどの学生はそこまで到達できないのだ。これでは, 応用的な分野では困るのである。
厳密な数学の体系性は尊重したいが, 学生は有限の長さの人生で現実世界を生きていかねばならない。医療ではトリアージ(助かる見込みのない患者あるいは軽傷の患者よりも、処置を施すことで命を救える患者を優先するというもの...Wikipedia)という考え方がある。数学教育の内容の取捨選択も, そういうのが必要ではないか(誰を教えるかではなく, 何を教えるか)。
農学部の数学・物理学教育では, 「実例」「応用例」を踏まえて「モデル化」を教えないといけない。そこが数学科や物理学科との違いである。現実の現象や問題を, いかに数学や物理学の問題に落としこむか。何が知りたくて, そのために何を残し、何を切り捨て, 何を仮定するか。本質的なリアリティを数学と物理の言葉で表し, 他はバッサリ単純化する。それがモデル化である。モデル化まで踏み込んだ数学・物理学の問題は, 「ひとつの答には決まらない問題」(オープンクエスチョン)になる。モデル化のセンスを育む仕掛けを教育プログラムの随所に埋め込まねばならない。農学部生には, しっかり条件定義された問題ばかり与えてはならない。「条件が足りないので解けません」「それなら自分で判断・工夫して問題を再定義しなさい」というのが農学部である。
多くの学生は「やりたいこと」「学びたいこと」があるので, 「めんどくさいわりにどう役立つかがわからない数学」は「切る」のである。しかし数学は, 彼らが思うよりは役立つし必要であり, 折りに触れて彼らの前に立ちはだかり, 彼らの夢を阻むことがある。彼らに必要なのは, 「優先順位のリストから脱落しない数学」である。
数学教育において, 「数学の純粋な面白さ・魅力」以外を伝えていきたい。車にたとえれば、車には車自体の魅力がめっちゃある。でも, 車を欲しい, 車のことを知りたい, と思うのは, 車を使っていろんな時にいろんなところに行けるからでもある。どういうときには使えないとか, こういうところには行けない(車以外が必要)とかも含めて。それも「車を知る」ということ。数学も同じ。数学を知ることでどこに行けるのか。どういうときに数学はどのように使えて, どういうときには使えない(数学以外が必要)のか。それを知ることで数学を知りたいと思うようになる。なぜなら, 私にとって数学はそういうものだからである。これは必ずしも「実用のための数学」ではない。「どこかに行くための数学」である。その「どこか」は, 生活や仕事の役に立つ目的地でなくても構わない。
対面とオンラインのハイブリッド・ハイフレックス授業
対面授業をやるなら, オンラインでも受けられるとか, 後からオンデマンドで視られる, というふうにすることの意義がわからない。対面でしか伝えられないものがあるから対面をする。それをオンラインで見ても、伝わらない。にもかかわらず、オンライン配信すると、伝わった気になってしまう。危険である。
対面授業は教員と学生が「その場」で協力して作るもの。そこに学生が来てくれないと授業は成立しない。ところが, 対面授業をオンラインでも提供すると(ハイフレックスや録画オンデマンド), 「これならオンラインで十分じゃん」ってなって, 結局対面授業への出席率が下がる。対面授業ならではの空気感やライブ感を作ることに貢献せず, 部外者的に遠くから眺める人が増える。それは一種のフリーライダーではないか。すると出席者はそこにいない人に自分が眺められているのがなんか嫌になって, 自分も「眺める側」に行く。そうやって教室から人が消える。「その場」の空気感やライブ感を作り出す人がいなくなり, 対面授業は崩壊する。
そんなことならば, 最初からオンラインでライブ授業をきっちりやればよい。
本来, 授業はめんどくさいものである。その面倒くささを回避するオプションを提供しすぎると、授業はめんどくさくなくなり、そして授業ですらなくなる。
コロナ以外の理由(通学に時間と費用がかかる, バイトやサークルや旅行などの行事がある)で対面に来られないのはその人の責任。オンラインやオンデマンドはそういう人にも受けやすいが、それを目的とするのはおかしい。遠方から通学する人は、大学の近くに下宿している人に比べて「不利」だが、自宅から遠い大学を選んだ上に自宅通学を選んだのはその学生自身である。下宿している人はそれだけのコストを払っている。むしろ彼らの権利を守るべきだろう。
農学部に量子力学
「なんで農学部に量子力学?」「うちら農学部だし, そんな抽象的な物理学や数学なんていらない」それは大昔に言われた「百姓に学問は要らない」というのと同じ。光合成などの量子化学は言うに及ばず, 量子計算機, 量子暗号, そういう量子技術が農学には無縁だと断言できる人はいない。
量子化学の教材には, 重ね合わせとか足し合わせとか線型結合という語が頻出する。重ね合わせの原理が量子力学の基本原理だから当然。
混成軌道は, ひとつの原子内の複数の電子軌道の重ね合わせ。分子軌道法は, 複数の原子の電子軌道の重ね合わせ。例えばエチレンではまず前者でsp2混成軌道を作り, 後者でσ結合とπ結合を作る。なぜ電子軌道は「重ね合わせ」できるか? それは量子力学の基本原理だから「聞かないお約束」。
そんなん言われてもイメージできない(泣)という人もいるけど, イメージはそもそも不要。ニュートン力学もF=maを基本原理として認めて組み立てた。それと同じ。電子の状態は(抽象的な意味での)ベクトルであり, 重ね合わせできるというのも基本原理。それを受け入れ, それ以上は聞かない。それが大人。
ベンゼンの分子構造もそう。2つの分子構造(電子状態)の「重ね合わせ」。2つの状態が高速でめまぐるしく入れ替わってるわけではない。あくまで2つの状態の「重ね合わせ」。それは具体的にどういうイメージなのか? そんなことを考えても仕方ない。
都合よく勝手に電子軌道どうしを重ね合わせていいのか? と思うよね。でも初等力学でも, 斜面の物体やバネについた質点にかかる力を, 問題が解きやすいように適当に分解したり合成した。それと同じ。どちらも「ベクトルの分解・合成」。
電子スピンの状態の集合は線型空間。その中で, 互いに線型独立な状態が2つある。その選び方には任意性があるが, ともあれ, それらを象徴的に「上向き」「下向き」と言って互いに区別する(磁場をかけて文字通り上下が問われる状況もあるが)。線型代数がわかるとスピンがわかってくる。
「水素原子で出てきた磁気量子数は電子スピンのz成分ですか?」 → 違います。その話の磁気量子数は電子の軌道角運動量の量子数で, いわば「公転」の角運動量の話。スピンは「自転」の角運動量の話。ちなみにスピンは「スピン磁気量子数」とも言う。紛らわしいね。
ちなみに量子力学の入門学習に必要な線形代数と, 教養課程の線型代数はちょっとズレている。前者は公理化・一般化された線型空間と, 固有値や対角化や内積や二次形式が重要で, 後者でよくやる掃き出し法やランクやジョルダン標準形はとりあえず出てこない。先に行けば出てくるのかもしれないけど。だから資源は前者重視。
数学は, 人間の素朴な直感や想像力の及ばないことまで理解・解析する力がある。それが定義・論理をベースにした思考法。直感や想像力はとりあえず封印する。目をつぶったまま歩けるようになれば, まっ暗闇でも歩けるようになる。そんなかんじ。
外発的な動機づけも必要
学生からの変なリクエスト: 「自主的には勉強できないのでレポートを強制にして欲しい」「仲間と相談するタイミングが合わないのでテストの回答時間を短くして欲しい」「自分でメンバーを選べないので班を指定して欲しい」… じぶんの自由を奪って欲しいというのである。確かに自由は苦しい。でも自分の自由を人に差し出してよいのか?
課題が任意になると, 学生は勉強しなくなる。といって彼らはその状況を喜んでいるかというとそうでもない。勉強したくないからしないのではなく, 勉強したいのに自分からはできない。「やりたいこと」であっても, 枠を作ってもらって強制してもらわないとできない。
でもその「枠」がつらいという人もいる。
外発的動機が無いと, 結局やらないし, 楽な方にしか行かない。成長しないし成果も得られない。外発的動機が強すぎると, 形式的にやりすごすことになって勉強にならない。不正も起きやすくなる。うまくできずに気持ちがしんどくなる人が出る。
外発的動機から内発的動機にどうやって点火するか。
動機の足らない人には動機づけを。動機が十分な人にはコンテンツを。
成績は外発的動機づけ。ユルユルでは意味無いけど, 厳しい結果に心折れて学問が嫌いになるのは避けたい。「楽単じゃん」みたいな成績も, 先生はそのへんを考えてつける。「こんなに楽なら, ここまで頑張ることなかったな」と思うかもしれないけど, 本来, 学びの「報酬」は成績ではない。
「A+をたくさんとってGPA爆上げできた!」というのと, 「ロトカ・ヴォルテラ方程式がわかった! 数理生物学面白いかも!」というのだったら, どちらの大学生活を学生は望むのだろう? ... そりゃもちろん両方がいいよね(笑)。
AやA+が偉くて他はダメとか, GPA高いと偉いとか, そういうのは無いのだ。自分がどれだけ有意義な学びを得て成長したか? 次の学びや成長につながるか? みたいなことが大事。じゃあ成績やGPAって何なんだよ? と思うかもしれないけど, 外発的動機ってその程度のものに過ぎない。
「自律的に学べない⇨教員がコントロールしようとする⇨自律性・自主性が育たない⇨自律的に学べない」のループ。これを断ち切るのが「非認知能力」「メタ認知能力」の成長。そのためのグループワーク。「学ぶ姿勢」「考える姿勢」をお互いに学び合う。
だから学生の多様性が大事。いろんな履修歴, いろんな入試, いろんな出身地, いろんな部活, ...のクラスメイトから学ぶ。数学を学ぶだけではなく, 数学で学ぶ。数学を通じていろんな能力を成長させる。単に「数学の問題が解ける」ようになることが数学教育の目的ではない。
イメージと例と比喩
数学の学びにおける「イメージ」の多くは自分の既に知っていることへの紐づけだから, 多かれ少なかれ「比喩」の性質を持つ。つまり本質的に違うのに, 単に「何か似ている」というだけで分かった気になってしまう。
イメージしやすい例や喩えや言い換えは, 数学の学びにおいて危険。定義を知る前にそれを知ってしまったら, 定義に戻れなくなる。特に, 定義の大切さを身に沁みて理解する前にそういう勉強に慣れてしまうのは危険。
「たとえ」には「例え」と「喩え」があって, 前者は例, 後者は比喩。互いに違う。いずれにせよ, 例や比喩の拡大解釈はダメ。定義や規則は抽象的で理解しにくいからスルーして, 例や比喩だけで「理解」してて, 実際それでうまくいくし問題ない, と思ってる人が多い。
いらんことを考えないことが大事。イメージできないものでも辻褄さえあっていれば, まあいいかと受け入れる。
数学や物理は直感やイメージやひらめきが大事だと言われると, そうか, 頭の良い人にしかできないんだ, 自分には無理なんだ, と思ってしまう。そういう数学や物理学は私は好きではない。学問は万人に開かれたものであって欲しい。無論「プロ」は別。
恒等的にax^2+bx+c=0ならa=b=c=0。これは3つの関数の集合{x^2, x, 1}が線型独立だから。こういうことからも, 関数はベクトルだってことがうかがえる。
「解く」「覚える」が勉強だと思ってる人が多い...。
1年生は基礎を固めて視野を広げるとき。好きなことを持つことも大事だけど、そればっかやると視野が狭くなって先細りになっちゃう。今はちょっと我慢して, 「こういうの面白そうだなあ...」と横目で見ながら, いろんなことを学んでいくのが1年生。
いろんなことの「最初の壁」を超えさせるのが導入教育。あとは気に入ったものを選んで自分で進んでいけ。
基礎学力の点検と再構築。点数主義・正解主義からの卒業。読解力・読書力・作文力のトレーニング。先輩や教員との絆の構築。内省のスキルと習慣。非認知能力やメタ認知能力への意識。学習観のアップデート。そういうのが大学での学びの準備に必要だけど不足しがちだし自覚に欠けがち。
完璧主義は危険。90点以上でなければ気が済まない。60点の自分が受け入れられなくて現実を拒む。そして0点になってしまい, なおさら受け入れ難い現実を自ら招く。不完全・中途半端でも割り切り, 能力の足りない自分を許し, 受け入れるだけの成熟が必要。
グループワークは周到な準備が必要。事前の予習や資料配布や作業プログラムがしっかりしていないとグループワークはグダグダになる。グループワークは反転授業とセットにすべし。
アクティブラーニング的な授業は, 上級生や他学類生がとるのは大変。アウェーの疎外感を感じるから。そういう授業でなくても, 一緒に相談したり励まし合う仲間がいない学生は授業についていきにくい。アウェー感は外国人留学生が特に感じている。留学生と日本人学生の分断。
人はみんな、自分のダメなところを隠し合う。だから他人はちゃんとできてるように見え、自分だけがダメな気になる。「できる子」を演じ合って傷つけ合ってる。
特に新入生はたいてい, 「まわりが優秀過ぎてつらい」ってなる。まだ心理的安全を大学で感じてないから, お互いに素直に自己開示できなくて, マウントしあって互いにつらくなってる。
これの処方箋は, 横だけでなく縦のつながり(先輩)を作ること。先輩が優秀だとしてもアタリマエだし, 同じしんどさを経験してる人々だから, いいかんじにあしらってもらえる。コロナでいろいろやりにくいだろうけど, 良い先輩を見つけてほしい。
成績Dを取ってしまったことを親に知られるのがつらいという人。そんなの気にしてない, むしろDがあって安心したという親御さんもいる。せっかく大学に入ったんだから, 成績のための勉強じゃなくて, 好きなこと・夢中になれることを探して欲しい...というふうにね。
実際, 必修を落単して留年し, その科目だけを学び直す1年間を送り, その面白さに気づいて学問に引き込まれていった, という人が結構いる。人生, 何が何のきっかけになるのかわからないものだ。
低い成績や落単は, 人格や能力とは関係ない。いろんな意味で, その授業がフィットしなかったというだけ。例えば努力が足りなかったとしても, 努力する気になれなかったという点でフィットしなかったということ。私も学生時代はたくさん落単した。ていうか, 研究者はそういう人, 多いと思う。
「わからない」の多くは「そもそもわかろうとしていない」「わかりたいと思っていない」。
授業の目的はわからせることではなく, 学ばせること。「わかりやすい」授業は, 学生をヘリコプターに乗せて上空から景色を見せるようなもの。それが学びになるかどうかは別の話。「学び」は山登りのようなもので, 自分の足で登るしかない。
学生が負荷に苦しんでるときは「考え方・解き方を手っ取り早く教える」教育が効果的。でもそれは一種の麻薬。すぐにわかって簡単に気持ちよくなれるから中毒性があり, 探求力が衰え, 長期的にはマイナス。学問がぶつ切りに寸断され, 「ノウハウ集」になってしまい, 表面的な理解で通り過ぎ, いずれ忘れてしまう。だから早く余裕を作って「考えさせる」教育に戻るべき。
入試は「わかってなくてもわかってる風を装うゲーム」になりがちだが, 後ろめたさなく, そういうものと割り切ってる学生が多いのが気になる。「解ければいい」「合ってればいい」「何か書いて部分点ゲット」とかなり本気で思ってる。それは出題側(大学)の問題が大きい。若者たちに大量の難問を短時間で解くことを求め, 彼らの心を折ってる。そして学生を「解答パターン」「解き方」重視にさせ, 勉強ってそういうもの, と思わせてしまい, 大学で教える時に困ってしまう。自業自得だけでなく, 学生や社会に申し訳ない。
不正防止には, 思考力が必要で単に知識では解けない問題を出せばよいのか? → そういうテストは, 日々の勉強の成果が現れにくい。地頭の良さが問われ, 優越感・劣等感を煽る。だから勉強の動機づけのためには「勉強した分だけできる」ような, 知識・暗記系の単純・簡単なテストも必要。
テスト問題を事前公開する方が, 学生はよく勉強する。その問題だけかもしれないが, 勉強しないよりずっとよい。少なくともきっかけになっている。事前にちゃんと調べて考えることが学びになる。それで学力が測れるのか? → 授業の目的はテストで学力を測ることではなく, 学びのきっかけ・動機を与えること。
理解したことは忘れないというがそんなことはない。忘れにくくはなるが、結局忘れる。1年生で数学をよく理解した学生が3年生になって研究室にくると綺麗サッパリ忘れてたりする。その間に彼らにあったドラマが数学の理解の記憶を上書きしたのだろう。
「わかったふり」はテストでは許容されるけど, 学問では「ごまかし」であり「不誠実」。だからテストで得点する能力は, 学問においては邪魔にすらなり得る。
学生が意外に知らないこと: 数学や物理学の本は, 知ってる内容でも知らないふりをして最初から丁寧に読まねばならない。著者がその本で構築する理論体系は, 多くの場合, 読者の既知の理論体系と同じではないから。言葉の定義や記号の用法も, 既知のそれとは違うかもしれない。
数学力を養うには, トランプや麻雀など, 多くの種類のゲームをやるのもよい。数学は結局は「こういうルールならこういうゲームになるよね」という話の集まりである。割り切って素直にルールを受け入れ, ルールの枠の中で自由に考える。
勉強したことのご褒美は, 良い成績や単位ではなく, 学び(理解・成長)の喜び・充実感と, それを次の学びや仕事に活かす機会。だから成績が悪くても単位が来なくても気に病む必要はない。
あるときの授業で「小テスト」と称して, 導関数の定義と定積分のそれぞれの定義について「ちゃんと書けるか?」と問い, yes/noで選択させた。つまり答案そのものは提出させない, 完全自己判断・自己申告・自己評価である。それでも「no」を選ぶ学生がたくさんいて, 授業後のリアクションペーパーでも, 「忘れていた。復習しよう」というコメントが多かった。
ここで私は考え込んでしまった。学びの動機づけとしてならば, 「小テスト」はこれで十分ではないか。
自分を欺かぬことが学問や研究に携わる者の大前提であることを説き聞かせ, そして, 数学を学び成長したい, という気持をもたせることに成功すれば, こういう場面で欺こうとする者はほとんど出ないと私は信じる。もしもそういう学生がいたら, 卒業研究に進ませてはいけない。研究データが誠実にとられたかどうかは, そのデータをとった本人にしかわからないからである。そのためにも, 学生が自己を見つめる機会を増やしてやりたい。
優れた人と自分を比べて凹むことはよくある。でも, どんな優秀な人でも世の中の全てを1人で解決できるわけはない。雨の時はとりあえず高級傘が無くてもビニール傘があれば十分なように, たとえ自分が「優秀」でなくても役立つ「現場」は必ずある。
教員は「できる子」が好きで「できない子」には無関心, てことはなくて, 各受講者が自分なりに成長しレベルアップすることを望んでいる。世の中には無数の仕事, 無数の課題があって, ひと握りの「優等生」を育てても, とても間に合わないから。
外発的動機は「種火」であり内発的動機は「薪」である。レポートやテストのために勉強始めたけど(外発的), なんか面白くなって気がついたら何時間もやっていた(内発的), というのが, レポートやテストの理想形。そうならないとしたら, レポートやテストの設計が悪いか, 勉強の方法がズレているか, 何かが欠けている。
勉強には, 「何かのために必要だからやる勉強」と, 「それ自体が楽しいからやる勉強」がある。若い学生の学習観は前者の傾向が強い。それは外発的動機である。「これこれに役立つから学ぼう」というのは, 「体が強くなるからニンジン食べよう」というのと同じ。それでニンジンは好きにならない。ニンジンうまい!って食べてるうちに、気づけば体が強くなった, みたいなのが勉強の望ましい姿であろう。
数学は土台だとか, 役に立つとか, 数学やっとくと後で楽とか, そういうことは実はあんまり言い過ぎたくない。それは外発的なものだから。それだけでは数学は学べない。外発的動機だけで学んだ数学は浅いから, 結局はあんまり役に立たない。
ただし, 外発的動機が内発的動機に変わることもある。テストができなくて, 授業が全然わからなくて, 悔しくなって, テストとか成績とかはもうどうでもいいから, とにかくなんとかわかるようになりたい!! みたいに。
「もっと頑張らなきゃ」と思っている学生は, 発想をちょっと変えて「もっと自分に優しくしよう」とすることで状況を打開できることがある。自分を苦しめているのは案外, 自分自身だったりする。「良い子」をやめて, 駄目な自分を受け入れて, 打たれ強くなることも大事。
大学で小中学校の内容のやりなおし, みたいな「レベルの低い高等教育」を見下してはいけない。微積分の計算ができる学生でも, 中学校の食塩水問題ができないことはよくある。センター試験の英語はできても, アルファベットのqと数字の9を書き分けできなかったり, カタカナのツとシを書き分けできない学生も, どこの大学にもいるだろう。でも驚いたり嘆いたりすることはない。人の学びはそういうものなのだ。
分数や%の処理ができない大学生が単に「やり方を忘れただけ」で, それらができる学生が単に「やり方を覚えていただけ」ならば, 両者にはほとんど差は無く, 分数や%の再教育は両者に必要・有用だろう。同じことであっても, 小学生の理解と大学生の理解は違うのだから, 大学での再教育は「同じことのやりなおし」ではない。学びは知識の単調増加ではなく, 尺取り虫のように行きつ戻りつしながら進んでいくものである。
速度はベクトルと微分を使って初めて正確に定義できる。中学・高校レベルでは, 「速度とは速さに向きをあわせた概念である」というような説明がされるが, それは定義ではない。なぜなら「速さに向きをあわせた概念」の「向き」や「あわせる」ということの定義が欠落しているからである。中高でそのような不十分な説明しかなされないのは, 生徒はまだベクトルや微分を知らないからであり, そのような発達段階にある人をとりあえず教育するために, やむを得ずその場しのぎで与えられたのである(その事自体には良し悪しは無い。教育はそういうものである)。このように, よく知っていると思う事柄も, それをきちんと定義するには, それなりに勉強の積み重ねが必要である。したがって, 「そんなの簡単だよ, 知ってるよ, わかってるよ」と思うようなことも, 謙虚な心で学び直しを繰り返さねばならない。
教科書に書かれていることは学生に教えるべきでない。読めばわかるから。読めばわかるものを教えたら、学生は読まなくなる。「自分で勉強できる」ようになるのが大学教育の目標。未解決の問題や未整備の仕事に取り組むとき、必要なことを自分で判断して自分で勉強し、なんとかできる人を育てるのが大学教育。
数学には国語と違って「正解がひとつに決まる」とよく言われるが, そうでもない。「間違いではないけど正しくもない」みたいなグレーゾーンや「そっちよりはこっちのほうが, より厳密だしわかりやすい」みたいな相対的な尺度は、数学にもある。じっさい, 優れた数学者の書いたものでも, わかりやすいものとわかりにくいものがあるし, 厳密さにこだわって読めば, 揚げ足をとれるところもある。
大学の授業を難易度に応じてナンバリングしようという話がある(科目ナンバリング制)。そういうのは学力をまるで「すごろく」のように, 一方向に進んでいくものと捉える考え方だ。しかし, 現実はそれが当てはまらないこともある。学びは並列的であったり, 螺旋的でもあったりする。だから教育内容を一元的な尺度で細分化して順番に並べたり, 類型化したりというようなことは, ある程度は必要であっても, ほどほどにするほうがよい。
学生たちが数学の問題をノートに解く時, 消しゴムを使わせないで, 間違えたところを見え消しにして修正させるべきだ, という教育メソッドがあるが, そういう修正ができるのは, 筋道立てて順序良く整理されて書かれた答案だけだ。学生の答案の中には, 字の大きさも向きも不揃いで, どのような順序で書かれているかわからないものも多い。何かを学び, それについて考える, というプロセスは, 多かれ少なかれそういう混乱した状況から始まるものだろう。そういうのは「どこで間違えたか」を探すこと自体が難しく, 不毛な作業("polish a turd")になってしまう。
実際, 私も自分のぐちゃぐちゃなノートを前にして, 「ああもう, この答案はナシ!」と思うことは, 今でもたまにある。複雑な計算で結論がおかしい時、追跡してもエラーは見つからないことがある。チェックのプロセスで, 頭の中で同じミスを繰り返す(ミスに気づかない)からだ。そういうときは, 気分一新して最初から解き直すと, すっとうまくいくことが多い。そうでなくても, 明らかなケアレスミス(書いた直後に気づくようなもの)は, 消しゴムでちゃちゃっと修正するほうが答案は見やすくなり, 他の間違いが発見しやすくなる。
数学は筑波山のようなもので, 見る方向によって違って見える。学んだ数学を, いろんな方向から見て, どっちから見ても「つじつま」が合っているということを確認するのは大事な作業である。たとえばy=sin xとy=tan xのグラフを重ねて描いてごらん, というと, 多くの学生が, 原点付近の0<xでsin xの方がtan xより上に来て, いずれ交わってtan xが追い越すみたいなグラフを描く。しかし, x=0で両者の微分係数は同じであることや, 0<x<π/2ではsin xはtan xより小さいことに思いを巡らせれば, そういうグラフはあり得ないことがわかる。
数学は読解力が大事。書かれてることを素直に丁寧に読み取ればよいのだけど, 数学に苦しむ学生の多くはそれができない。テキストを順に読むことをせず, いきなり練習問題や発展問題に取り組んで, できなかったら解答を丸写し・丸覚えしている。読むことを面倒がって, かえって苦しんでいる。どこかを読み飛ばして, そこを語感に頼ったイメージ・直感で埋めて, 自分の知ってる似ている何かに置き換えたりして解釈・理解に幅やズレが生じてしまう。そういう学生のために, さくっとダイジェストがわかる講義や参考書やウェブサイトがあって, 学生はそれが正しくて効率の良い勉強法だと思ってしまう。そしてますます読まなくなる。どこかで「読む」ことの大事さに気づく必要がある。気づけば変わる。
読み飛ばし・読み違い・「わかったつもり」は, 興味の持てない対象に起こりがち。興味の幅が狭いと「頭固い人」「考えが浅い人」になってしまう。だから自分の興味関心を早く狭めて固定してしまうことは危険。「夢を持て」「やりたいことを探せ」「興味あることをみつけろ」というメッセージは、そういう危険をはらんでいないだろうか?
数学嫌いがなぜこんなに多いのか。「高校が受験対策の大量の課題を出す」→「生徒は個々の問題をじっくり考える暇がない」→「基礎をちゃんと理解しない」→「解き方や答を手っ取り早く覚えてやり過ごす」→「勉強の効果がなかなか上がらない」→「高校は焦ってもっと大量の課題を出す」というサイクルがあるのかもしれない。それで嫌になっちゃってるのかもしれない。
学生と一緒に論文を読んでいると, つじつまを気にしながら読む学生とそうでない学生がいる。前者はたくさん質問してくるが, 後者は質問しない。浅い理解でスーッと流し読みしてしまうから, 疑問が湧かないのである。そうなると「わかった!」という喜びも, 「わかりたい」という欲望も湧いてこないから, 結局, 自分から進んで何かを学ぶことができない。そういう学生は, つじつまの大事さに気づいたとき, 変わる。
勉強や研究では, 「つじつま」へのこだわりがとても大切だ。真理とか正しさは, 結局「つじつまが合うかどうか」だから。人から与えられた「正解」を「真理」だと素直に思いがちな学生や, 勘が良くてフィーリングだけで正しさを判断する癖がついている学生はここが残念である。彼らの知識には「つじつま」が通っていないから, 学んだことが積み重なっていかない。
そういう学生は, 受験勉強などで学校や塾から能力を超える膨大な量の課題を与えられてきた学生に多いのではないだろうか。「目の前の課題をこなして良い評価を得ること」が目標になっており, それに慣れてしまっている。そういう学生には, 一緒にひとつひとつのつじつまを確かめながら本や論文を読んであげるのが効く。そうすると, 次第につじつまを気にするようになってくる。めんどくさいけど, 大事な作業である。
下手に「大事なところ」をつまみ食いする読み方は, ガチの学問には通用しない。教科書・専門書に書かれていることは全部大事。大事だから書かれている。著者は一語一語にこだわり抜いて書いている。それらを隅々まで丁寧に読んでつじつま(整合性)をチェックして体系的に理解する訓練をしよう。「つまみ食い」は, それができてから。
「考えなさすぎ」もダメだけど, 「考えすぎ」もダメである。論文ゼミで, ある文章に詰まってる学生に, 「その中に"linear combination"って言葉があるけど, 何?」と聞いたら, 一生懸命考え始めた。"linear"と"combination"のそれぞれが一見, なんとなくわかりそうな言葉だから, "linear combination"が学術用語だと気づけなかったのだろう。学術用語にはちゃんとした定義があって, 知らなければいくら考えてもムダである。調べるしかないのだ。
授業で宿題を出すことは大事だ。しかも「やったら面白くなるような宿題」が大事だ。「やりたい」と「実際にやる」の間には大きなギャップがある。そこを超えるのに意志のエネルギー, いわば「活性化エネルギー」が必要なのだが, 自主的な勉強ではそれがなかなか出せない。でも授業の宿題なら外発的動機が触媒的な機能を果たすので, 活性化エネルギーを乗り越えられる。つまり「やる前はめんどかったけど、やってみたら面白くなって, 気がついたら際限なくやってしまた」という宿題をデザインすることが極めて重要である。
楽しんで自分から勉強したことしか残らない。その証拠は多くの学生が大学入学後に学力を低下させる現象である。放っといたら中学校や小学校のレベルまで落ちる。合格のために最適化された「受験勉強」の成果は, その程度のはかない命しかない。
1年生の数学や物理学は, 「話を隙間なくすっきり組み立てる訓練」の場になっている。たとえばクーロン摩擦のある水平面上で減速する物体の運動(カーリングのストーンみたいなやつ)。運動方程式は, ma=-μmg。従ってa=-μg。これを解くときに,v=v0+∫(dv/dt)dt=v0+∫adt=v0+at (積分区間の上端下端も書かなきゃダメ)とやってからa=-μgを入れてv=v0-μgt, とする1年生が多い。間違いではないが, 論理的にはイマイチである。上の積分の前提として, aが定数だとの確認が必要なのだが, それを確認する前に積分をやってしまっている。
一方, a=-μgの代入を先に行って, v=v0+∫(dv/dt)dt=v0+∫adt=v0+∫(-μg)dt=v0-μgtとすれば, μ (摩擦係数)とg (重力加速度)は定数だから確認は不要である。だからこちらの方が解答として優れている。
こういう指導はめんどくさい。でもここで彼らがこういうことに気づいて変わらないと, 彼らは次の指導者に「この人はめんどくさいな...」と見限られてしまう可能性がある。
10のことをしっかり学んでもらおうとすると, 10だけを集中的に教えてもダメで, 100とか200とか教えなければならない。そのほとんどは結局は無駄に終わるのだが, その中の10がかろうじて残る。特に物理学はそう。
学生には「簡潔に書く」の前に「詳細に書く」を訓練すべき。多くの学生は, 一見, 簡潔なレポートを書いてくるが, それは詳細に書くことができず, 大雑把にまとめたこと(「まるっとまとまったこと」)しか書けないからである。
メタ認知能力が欠けているのに他の能力が高い, というのは危険。能力を濫用し, 反社会的になったりする。メタ認知能力は他の能力を制御し善用するために必要。
学生が質問をしないのは, 勇気や態度の問題だけでなく, スキルの問題ではないだろうか。どこまで理解していてどこから理解できないかを特定するような意識の使い方や, 抱いた疑問を言語化することのスキルが欠けているからではないだろうか。
数学教育は, 難しい方程式を理解するとか, それを応用できるようになるとかだけが授業目的ではない。数学の学びを通じて自己変革し, 認知能力・非認知能力・メタ認知能力を含めた汎用的な能力を高めるのも目的。数学にはそれだけの「教育力」がある。
数学には直感やイメージやひらめきが必要だと思ってる人が多い。そういうのは数学の専門家に任せておけばよい。うちの数学は, 誰もがちゃんとやれば当たり前にわかることをしっかりやる。だから定義を重視する。そういう数学で, 十分通用する。それが物足りなければ他学類の授業を受けてください(笑)
人は「誰かに教わる」ことによってではなく「自分で気づく」ことによって成長する。授業も小テストもグループワークもレポートも「自分で気づく」ことのきっかけ。
小テストは問題を事前公開する方が, 学生はよく勉強(予習)する。その問題だけかもしれないが, 勉強しないよりもずっとよい。少なくともきっかけになる。事前にちゃんと調べて考えることが学びになる。
それで学力が測れるのか? と言われるかもしれないが, 小テストは教育プログラムの一部であり, 教育の目的は学生の学力を測ることではなく, 学生に学びのきっかけ・動機を与え, 学生を成長させることである。
「細かく明確に繰り返し指示する」って大事だろうか? 失敗を先回りして防いでいるだけではないか。楽な教育をしているだけではないか。あえて言わずに失敗させ, 気づかせる, その面倒くささにつきあうのが教育ではないか。
頭ごなしの細かい指示ではなく、判断の擦り合わせが大事。どうするのがよいと思いますか?と聞く。そして考え方を共有した上で、方針を合意的に決める。それが指示。理解・合意の無い細かい指示は、思考停止を生む。自分で判断しようとせず, 指示待ちになり, モチベーション低下につながる。
「簡単なのにできない問題」のツートップは, 定義と単位換算。「〜〜の定義を述べよ」という問題は, 〜〜が簡単なものほど「できない問題」になる。多くの人は単位は「数値のおまけ」みたいなものと思って油断しているのでボロボロ間違える。
外見も特徴もほぼ犬であり, DNAはネコに近い生き物がいたとする。それは犬かネコか? 「ネコ」という学生が多いだろう。DNAという抽象的なものを上位概念として信じている。DNAが種を定義する。定義はそういうものだ。「ワンワン鳴く」「飼い主に尻尾を振る」みたいなものは犬のイメージであり、DNAに比べれば本質的な特徴ではない。しかし同様なことが数学の話で出てくると, 多くの人は定義でなくイメージに戻ってしまい, わからなくなる。
うちの入学前教育や初年次教育のコンテンツは, 受験勉強への過剰適応のデトックスみたいになってきた。目の前の「ハードル」を「効率よく」超えればよいのだという学習観が現行の入試で強化され続けるなら, そのゲームから降りようという人や大学が出てきて, AO入試や推薦入試を重視するようになるのも自然な流れだろう。それを「学力不問」と言う人もいるけど, 現行のペーパーテスト入試を「突破」するのに必要な学力は, 大学で学ぶために必要な学力(非認知能力も含む)とどれだけマッチしているのだろうか?
学生集団の中で, 学生どうしが「気づく→表現する→共有する」というサイクルの中で, お互いに学び, 影響し合う。その活動において, 数十人〜100人の個々の学生の学びや成長を, 教員はどのように評価できるのか? とてもじゃないけど客観的・統一的な方法で評価できるわけがない。そもそも気づきや学びは内面的なものであり, 定量化できない。 学生は教員が気づかない部分で大きく成長しているかもしれない。ならば評価することにどれだけ意味があるのか? 評価にエネルギーを使うよりも, 上記のサイクルを充実させることにエネルギーを使うほうが生産的ではないか?
数学は登山と同じ。じっと座っていては登れない。登ろうとしないと登れない。じっと座っていてはわからない。わかろうとしないとわからない。天才でない限り, 高校までの貯金, イージーなイメージや直感, つまみ食いだけでは数学はわからない。腹をくくって腰を上げないとわからない。
ある学生がレポートで「論理は考えないためにある」と述べた。何かの本に出てきた言葉だそうである。これには共感するところがある。1年生に数学を教えていて、「いらんこと考えないで定義に素直に向き合いなさい」とよく言う。「数学は考え過ぎたらダメ」とまで言うこともある。我ながら変なこと言ってるなあとは思うが、「下手な考え、休むに似たり」という言葉もある。考えても仕方のないことや、本質から外れていて考えるに値しないことにとらわれて、考え過ぎてわけわからなくなることは、大学の数学では多い。論理はそういう迷路に入り込まぬための羅針盤である。
厳密公正な基準で学生を評価することは, 教育の本質ではないと思う。学生が自分で考えることや, 考えることを楽しむことを, 後押しする方が重要だ。教育の質の保証は必要だが, 評価のために教育がスポイルされるなら本末転倒である。人の評価はあくまで人の評価。自分は自分。良い意味で「人からの評価に鈍感な人」を育てたいものである。
目的のある勉強は実利的・即物的。目的のない勉強は享楽的。それぞれ長所と短所がある。それぞれ深さと浅さがある。
有効数字
高校物理の教科書曰く, 「測定の精度は相対誤差で表される。例えば, 58.7 mmという測定値の場合, 真の値は58.65 mm〜58.75 mmの間にあるので, ±0.05 mmの誤差を含む」(啓林館「物理」平成24年, P.444)
... これはおかしい。±0.05 mmは「丸め誤差」であって, 全体の誤差(当該教科書で言うところの「測定の精度」)の一部に過ぎない。「58.7 mmという測定値」の誤差は±0.1 mmとか±0.2 mmということもあり得る。だから有効数字から誤差を読み取ろうとか有効数字で誤差を表現しようとするのは危険。有効数字は, あくまで「ざっくり」した考え方に過ぎない。
有効数字の話: 2桁と3桁の積は2桁にするというけど, 3桁の方が適切な例:
9.7 x 10.4。
丸め誤差だけ考えれば, (9.7±0.05)x(10.4±0.05)=100.88±9.7x0.05±0.05x10.4±0.05x0.05
となる。誤差が最も大きい(独立でない)場合,
≒100.88±(9.7+10.4)x0.05≒100.88±1.005 (誤差の2乗0.05^2は微小なので無視)
これを1.0x10^2と表すと丸め誤差は5。1.01x10^2と表すと丸め誤差は0.5。後者の方が実情(誤差は1程度)に近い。
多様性を認めると、いろんな面で例外を認めることになる。その結果、自由度と選択肢が増える。それ自体はよいのだが、ただ、人は易きに流れる。事情のある人のための選択肢が、それ以外の人には怠惰を許容するオプションになりえる。「みんながやるんだから自分もやろう」という外発的動機が無くなり, 逆に「あの人もやっていないんだから自分もやらなくていいや」になってしまう。その結果, できるはずのことができなくなり, 伸びるはずの能力も伸びなくなる。だから多様性を認める社会では, 人々は自律性・自発性を高め, 「人は人, 自分は自分」という精神を確立し, 内発的動機を高めねばならない。精神的に大人にならねばならない。
シュリーマンはロシア語を学ぶのに, 動機を作り維持する装置としてロシア語を全く知らない男を「先生」に雇った。
基礎は大事。でも, 基礎ばかりやっていても基礎はできるようにはならない。基礎は一見「簡単」なので退屈だし「こんなもんでいいんじゃね?」と適当にやってしまう。だからいつまでたってもレベルアップしない。レベルアップしようという気すらおきない。多少は無理矢理にでもレベルアップした内容に立ち向かって, 打ちのめされて, はじめて基礎の大事さを痛感する。「基礎をじっくりやる」ことがどういう意味や効果をもたらすかは, レベルアップした内容に打ちのめされてはじめてわかる。
人は互いに違ったリズムややりかたで学ぶものである。しかし「だからこそひとりひとりに合った教え方が必要」と考えるのは危険である。一人ひとりが違うからこそ, 各個人に最適化された「教え方」の実現にはコストがかかりすぎる。むしろ, 各個人が自分に最適化された「学び方」を自分で発見・構築するように促す方が大事である。社会全体として効率的だし, 本人にとっても, 「誰か私をうまく教えて〜」といつまでも待つよりは多くを得ることができる。
だから卒論が大事なのである。卒論では, 意図的にひとりひとり違うテーマが与えられる。教員は多数の学生を持っているので, ひとりの卒論生につきあえる時間はわずかである。卒論生は嫌でも自分の課題に独力で向き合わねばならない。そこで自分の「学び方」を作っていくのである。
どう使うのかが明白で具体的にイメージしやすい数学ばかり教えると, 抽象的で普遍性・汎用性の高い数学を敬遠するのではないか? なるべくイメージをぶち壊すような例を教えてイメージを諦めさせる必要がある。
成績や入試という, 強すぎる外発的動機にドライブされることに慣れ, それに最適化した学び方に慣れすぎると, 確実な知識・理解・スキルを得るという到達点からは離れた方向に向かってしまう。
語学の文法と数学はなんか似ている。抽象的な思考法。
数学とコンピュータの基礎的なスキルがあると, 多くの分野を効率よく学んでいける。才能に翼が生える。それが微積分学・線型代数学・統計学・プログラミング。そういうのを避けてやり過ごすこともできるかもしれないけど, 可能性や選択肢は狭くなる。必要に迫られたら勉強しよう, というのでもよいかもしれないけど, そうなる前に, 「ああ, この人は数学や統計やプログラミングは無理なんだ, じゃあなんか別のテーマや仕事を探してあげないとな...」ってなる。それが嬉しいのならそれでもよいけど, その時点で多くのチャンスを失っている。その厳しさに気づいた多くの大人が, 数学やプログラミングを必死で学び直そうとしている。そういう人達のための本やオンラインコースがいっぱいある。
数学が必要だから入試に数学を課すという考えは, 必要な数学を入試問題でそれなりに問うことができていないと意味が無い。現実的には, 数学入試を経て入学したのに基礎が分かっていない学生が多いし, 数学が苦手又は嫌いになってしまった学生も多い。
学生はきれいに整ったことを言おう・書こう・見せようとするあまり, 自分の中で生まれつつある気づきや違和感や感情を切り捨てて「無かったこと」にしがち。そうすると, まるっとつるっとした予定調和なレポートになってしまう。きれいに書けているけど心にひっかからず, つまらない。
学生の学びを阻害するのは「めんどくさい」と思う心。めんどくささがそれを乗り越える工夫につながるならよいけど、単に「やらない」「テキトーに流す」なら成長につながらない。めんどくさがりな人を採らないことも入試で重要。テンションやモチベーションの低さは周囲に伝染する。
W h(ワット時)をW/h(ワット毎時)だと思っている人が世の中に多すぎる(泣)。
新入生は最初は凄く真面目に素直に教員の言うことを聞こうとする。そのゴールデンタイムに, 彼らに必要な基礎をきちんと教えてあげる。それが初年次教育の肝。
準備不足で大学に入ると, 課題に追われてやりたいことができなくなる。目の前のタスクでいっぱいいっぱいになり, それを活かすこともできない。疲弊する割に, 何も得られない。
教員は, 教育の成果が出なくても焦ってはダメ。1回の教育で完璧な人はできない。不完全な人の不完全なところを少しでも完全に近づける活動の連続が教育。どんな素晴らしい大学教育を授けても, 学生に欠点は残る。
単純なやりかた(丸暗記など)でクリアできるような教育は逆効果。「わかりやすい授業」に満足していてもダメ。カタルシスと不快感の両方を残す。半分教え、半分は隠す。
詰め込み式では、1年どころか何年かかってもベクトル解析まで行かない。
微積分ができても考えない・めんどくさがる人はいる。考えようとするかしないかは, 既習の有無には関係ない。
小中学生の教育現場では公式暗記主義は仕方ないのではないだろうか。それで慣れや勘を育てることができているかもしれないし。問題なのは, そのやり方を高校や大学まで持ち越すこと。
確率論の基礎である試行, 事象, 根源事象, 和事象, 積事象, 独立, 排反などの概念を授業で教えても, 多くの学生は「そんなの初めて聞いた」状態である。たとえばサイコロを1回振るという試行について, 事象は1~6のいずれかの目が出ると言う意味で6つ「ではない」と言うと驚く。
どれも高校数学Aの教科書にばっちり書いてある。なのに全く定着していない。難しい確率の問題は解けても, 理論を構成する基礎概念の定義を理解していないし, それが重要だとも思っていないのである。数学は言葉の定義を大切にする学問であるということがわかっていないのである(泣)。
小牧 研一郎 (2018) 教育現場における単位の扱い. 大学の物理教育
基本を理解せずに「公式」や「やり方」を覚えて問題演習しまくる, という勉強法は膨大に時間がかかるし, すぐに忘れるし, つまらないから勉強が嫌いになる。でも受験生たちは, それを知りながらもそうやらざるを得ない。なぜか?
「基本を理解する」勉強法を知らないから。
学校や塾で課される膨大な課題に手一杯で, 基本に戻って勉強する時間的・精神的余裕が無いから。
「基本を理解する」に戻るにはもう間に合わない(と思っている)から。
「基本を理解する」では太刀打ちできない難問が入試で出る(と思っている)から。
これらのいくつか, もしくは全部の組み合わせが理由である。こうして大学に入った学生は, 数学や物理学を避け続ける。