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『ファルコン&ウィンターソルジャー』感想

 本記事はネタバレを含みます。
 書きたいことは主に二つ

・ジョン・ウォ-カーもヒーローが救うべき人間の一人ではないのか

・最後に狡猾な大人が甘い汁を吸うのは、ヒーローものとしてどうなのか

 です。

①ライトサイドに留まることの難しさ

 本作の視点人物は大きく四人。サム、バッキー、カーリ、そして"ジョン・ウォーカー"だ。
 彼が負っている責任を、本気で考えたことがあるだろうか。監督のインタビューを少し読んだが、ヒーロー及び優しさという点で、監督や脚本家やプロデューサー陣は少し欠如していたように思える。

 私は、「良い人でありたい」と思っているふしが誰にでもあると考えている。その大小は問わない。本気で、誰かを傷つけたり、嫌われたりすることを望んでいる人は極少数だと思う。家族や友人、好きな人でもなんでも、どんな人であれ、その人にとっての「良い人」でいたいと思うのは、特別不思議なことではないはずだ。

 ジョン・ウォーカーは悪い奴ではない。

 彼が負う、責任や期待はサムを見れば明らかだ。アベンジャーズに席を置き、スティーブと共に戦った者でさえ、その盾を持つことに躊躇いがある。いや、側でずっと見てきたからこそかもしれない。

 はっきりいって、ジョン・ウォーカーは普通の人間だ。もちろん恵まれた才能は持っているが。キャップの盾を短期間の訓練であそこまで使いこなせる人材はそういないだろう。
 しかし、それでも人間だ。アベンジャーズとして活躍したこともなければ、大そうな翼も、鋼の腕を持っている訳でもない。

 本編中で、「超人血清を打てるなら打つか?」とジョン・ウォーカーが相棒に問うシーンがある。私はこのシーンの彼を見て、とても疲れているようにみえた。そして、そこまで考えてなかったとも気付かされた。彼は機械に頼ったり、スーツに頼ったりしている訳ではないのだ。彼は扱ったこともない盾を急に渡され、これを使って任務を全うしろと、いきなり言われているのだ。何とか、短期間で実践に取りいれられる程まで上達したが、一朝一夕でこなせるものでは到底ないだろう。"軍人時代の経験がある"などと、上の人間どもは判断したのだろうか。キャプテン・アメリカとして訓練した時間と、兵士として訓練した時間があっても、まだまだ不十分だ。おまけに作戦を、たった二人でこなさせようとしているのだから。

 ジョン・ウォーカー自身も、自分がキャプテン・アメリカとして頼りないのは分かっていた。だからこそ、サムとバッキーに助けを求めた。しかし、あの二人は、彼が抱える重責を無視し、私的な要因でそれを拒む。きわめて幼い行動にみえた。アベンジャーズの一員であるなら、人を助けることが一番重要ではないのだろうか。その人の中に、なぜジョン・ウォーカーは含まれなかったのだろうか。"大人だからか?" いや、困っている人に、助けを求めている人に年齢など関係ない。サムやバッキーが、ジョン・ウォーカーに謝罪するシーンはあってもいいはずだ。かれらがヒーローとして欠いた行動をしたのは事実だから。サムとバッキーのやりとりも基本的に幼いなと思いながらみていた。クリエイターたちは、一種のコメディ要素のように扱ったのかもしれないが、すんなりと受け入れることは出来なかった。

 『スター・ウォーズ / クローン・ウォーズ』にヴェントレスというキャラクターがいる。元々ジェダイであったが、目の前でマスターを殺されたことにより、怒りに駆られダークサイドへと進んでしまったキャラクターだ。
 
 ジョン・ウォーカーも目の前で友を失った。
 
 大切な人が目の前で死に、それでも衝動に駆られないと断言出来る人間がどれだけいるのだろうか。この事例に留まらず、「どんな過酷な生活環境や過去があったにせよ、犯罪は駄目だ、人殺しは駄目だ。自分なら絶対にそんなことはしない」などと断言する人間がいたとしたら、私はその人は優しい人ではないと思うし、想像力に欠ける人だと思う。

 私にはその自信がない。いつどんなきっかけで事が起こるかは分からない。映画やドラマでも見ていれば分かる事だ、本当に全ての犯罪者が、心の底から罪を犯したいと思っているのだろうか。そうではないはずだ。
 誰もがその危機感を持ち、想像力を持ち、配慮を持った行動と優しさを持つべきだと思う。隣にいる友人が、気付いたら事を起こすかもしれない。優しくしていれば、助けることが出来ていたら、SOSに気付けていたら防げたかもしれないと後悔したくはない。何も起きないのが一番だ、本当に平和で安全で幸せなら、この世にヒーローは必要ないのだから。
 誰であっても難しいのだ、ライトサイドに留まり続けることは。熟達したいくらかのジェダイはその危機感を持っているだろう、持っていないものこそ、おそらくダークサイドに落ちやすいのだ。しかし、周りが支えることは出来るはずだ。
 どうして、本作は"剥ぎ取る"なんて形になってしまったのだろうか。


②甘い汁を吸う大人

 本作で最もがっかりした部分はシャロンだ。そして、カーリの扱いでもある。それに、ジモも都合のいいように扱われていた。

 カーリが掲げる大義にサムは共感を抱いていたし、支持もしていた。カーリたちの闘い方を咎めているだけであって。
 しかし、ジモは言う、"無駄"だの、"止めておけ"だのと。彼に言わせていることがとても卑怯だ。どんな作品でも、このキャラクターが言う事は正しい、このキャラクターが言ったならそういう展開になるなんてのがいる。
 本作では、それをジモが担っていた。彼の発言には常に裏があり、多くの視聴者も彼の言うことに耳を傾け、そういう展開なんだろうとか説得されたかもしれない。しかし、本作は"ヒーローもの"だ。ジモのいう言葉なんぞに、救済を阻止されてたまるものか。ジモの言う事は間違っていたと示すことこそ、ヒーローものとして重要だと考える。しかし、残念ながらそうはならず、彼は最後に微笑んだ。実に不愉快だ。

 シャロンというキャラクターそのものに違和感があるが、一旦そこは置いておき、本作のみの描写で書かせてもらう。
  サムはヒーローとして、というよりキャプテン・アメリカとしての覚悟が前半ではまだ無かった。しかし、最終話ではその覚悟は出来ていた。それは、いつでも自分の命を捨てる覚悟でもある。
 カーリは大義のためであれば死ぬ覚悟を持ち合わせている。彼女を救うのに、サムも同等に命をかけなければならない事を、彼は理解していたと思う。本気で、カーリのために死ぬ覚悟だったと。そうでもしなければ彼女を救うことなど出来ない。人を救うというのは、相当の覚悟と勇気が必要である。また助けを求めるのも相当の覚悟と勇気が必要である。サムがそれを理解していない訳がないのだ。スティーブを側で見て来きた上、もともとかれの専門でもあるのだから。
 サムは死ぬ覚悟だった。ゆえに闘わないという選択でもある。しかし、シャロンによってサムのカーリ救済は達成出来なかった。この"シャロンによって"というのが、どうしても納得できない。彼女はパワー・ブローカーだ。利己的な目的で人も殺した。そんな、利己的な人物にサムもカーリも負けたのかと思うと、憤りを覚え、悔しくて涙が出てくる。

ヒーローものとして、果たしてこれで良いのか?
利己的な大人たちが最後に甘い汁を吸うのが、一つのヒーロー作品として良いことなのか?
子供たちに夢や勇気を与えるのにこの展開で良いのか?
どんなに頑張ったって、犠牲を払ったって、最後に笑うのは腹黒い大人たちで良いのか?

 私はこれが、ヒーローものとして素晴らしい作品だとはいいたくない。いくらか素晴らしいセリフやシーンはあっても、これじゃ駄目だと思っている。それとも、もうスティーブのいなくなったMCUに"ヒーローものとしてどうか"なんて問う事はもう野暮なのだろうか。エンドロール後にシャロンを描いたことにより、MCUが抱いているその裏の魂胆が気に食わない。
 
 あまりにも腹が立ち過ぎて、自分を落ち着かせるのに「エリン・ケリーマンが今後、MCUに引っ張られることはない。マイケル・B・ジョーダンのように一本として終われば、役者として進んでいけるじゃないか」なんてことまで思ってしまった。


③その他
 シャロンの扱いがやはりどうしても気になってしまった。原作ではもともとヴィランなんだろうか。原作には全く詳しくないので、戸惑ってしまった。それとも、エージェント・オブ・シールドとか、他のテレビドラマの方で触れられていたのだろうか。私の記憶も曖昧のため、映画だけではどうも、彼女のことがよく分からなかった。
 本作で急にああなったのか、それとも事前にしっかりと描写があったのか。テレビシリーズは、デアデビルS1とジェシカ・ジョーンズS1、ワンダヴィジョンしか観ていないので、他の作品でしっかり描写されていたのだとしたら、今後ついていくのが難しくなりそうだ。

 一切戦わないヒーローものを、MCUはつくってくれないだろうか。『セックス・エデュケーション』S1はその形の一つかなと。

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