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栄光をもとめて|ショートショート

 朝の5時、10㎞のランニングが彼の日課だった。静かにアパートの玄関を出ると、黒々とした彼の短髪は清らかな早朝の微風に揺れた。薄く白みがかった雲から漏れ出る朝日は、エネルギーを満たすように、じんわりと全身を照らした。両腕を背中の後ろで組み、肩甲骨をぐっと伸ばすと、彼は1日のスタートを切った。

 走り出した彼の両脚は、馬のように筋立って、しっかりと地面を捉えた。アパート近くの川沿い、中くらいの背丈を上下に揺らしながら走る彼の姿は淡々としていた。大げさに呼吸をすることもなく、常に遠くを見つめながら、自分に課した課題を着実にこなした。10㎞は短い距離ではない。しかし、走り終えた後に、両膝に手をついて、腰をがっくり落すような真似は決してしなかった。命を削るという行為が彼にとっては当然であったから。疲れたとか、疲れていないとか、無駄な主張をする必要はなかった。誰に見られなくとも、認められなくとも、日課を遂行した。

 アパートに戻ると、妻のリノはまだ眠っていた。リノは彼が人生を賭けて取り組んでいる事柄に少しも関心を示さなかった。はっきりと言葉に表わしたりはしなかったが、夢ではなく、現実を追いかけてほしいと思っているだろうことは明白だった。遠くにあるものではなく、目下の生活を見つめていた。だからと言って、彼は妻に譲歩するわけにはいかなかった。たとえ、一番近くにいる人間が応援してくれなくても、やる気を失ってしまうような生半可な覚悟で取り組んでいるわけではなかった。彼はずいぶん前から格闘技に、心の底から取り憑かれてしまっていた。

 妻を起こさぬよう、彼は他人の家にでもいるように、静かにシャワーを浴びた。彼は心に決めていた。次の試合でベルトを獲得した暁には、朝から遠慮せずに歌でも歌いながらシャワーを浴びてやると。

 浴室の鏡に映る自分の身体は、ほどよくキレがあって健康的に見えた。この時点でタイトルマッチまではあと2週間ほどだった。試合前の減量はこのままいけば順調にいく、引き締まった腹筋を確認して、彼は確信した。

 そっと浴室の扉を開け、ドライヤーを使うこともなく、タオルで髪の毛も身体も全て乾燥させた。物音一つ立てるわけにはいかなかった。彼はベルトを取った後に圧倒的な栄光を妻に見せつけたかった。

 シャワーを終えると、彼は昨晩のうちに自分で作っておいたレタスとハムのサンドウィッチを冷蔵庫から取り出し、アイスコーヒーと一緒に食べた。妻は未だ深い眠りについたまま、小刻みに寝息を立てていた。朝食を取りながら、彼は心の中で妻に語りかけた。

 「お前は俺が勝った試合は見に来てくれたことないよな。俺が無様に殴られて、蹴られて、肘で顔面を切られるところしか見てないよな。どうして、そんなに踏んだり蹴ったりで、辛い格闘技を続ける必要があるのって思ってるよな。でも、そうじゃないんだよ。今までの敗北や屈辱は全部、最後に輝くための布石なんだって。最高の感動をもたらすための前置きにすぎなかったんだって。そういうことなんだよ。だから、これでいいんだ。お前は今みたいに俺を哀れみ、早くそんなことやめなさいって目で見といてくれればいいさ。それをひっくり返すことに意味があるんだから」

 そして、彼はいつものように仕事に出かけていった。


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