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<連載長編小説>黄金龍と星の伝説 ‐第三章/銅鏡の秘密‐ 第60話

対する力 -3

 しかし集まった人びとにとって、サムの示したその理想のすがたは、現実生活から逸脱いつだつする、あまりにも的外れな要求でした。

 すでに〝マギラ〟のもたらす便利で快適な生活を知り、そのゆたかさを味わった人びとにとって、それを手放すことなど容易なことではありませんでした。

『〝マギラ〟によってわれわれの生きる力が弱められる?
 ということなのか。
 しかしそれは……いったいどういう意味なのだ? 

 実際に〝マギラ〟は、われわれが想像する、いやそれ以上に、
われわれの生活に長寿とゆたかさと活力とをもたらしているではないか。

 なぜそこに制約を加える必要があるのだ? 

 それを制限されたら、われわれの生活はいったいどうなる。

 それは時代を逆行する。……ということではないのか? 

 そこに、希望などあるのか⁉』

〝マギラ〟によって、
だれもが理想とする生活のイメージをつくりあげ、その理想を夢にえがきながら苦労をおしまずに努力してきた人たちにとって、
今の自分が……現実にもとづく自分であるのか?
 あるいは〝マギラ〟に依存する自分であるのか? 
……などを、
問題にすること自体に矛盾がありました。

 それは、
『赤い色のなかで自分まで赤いと、すべてが赤くなり、
結果……、自分を認識する足場をうしなって、
自分の考えが……見えなく、分からなくなってしまう』こととおなじでした。

 そのようではありましたが、
しかし、川辺に集まった人びとは、
サムやナジムのかたるはなしの中に、各々の戦士のイメージを作りあげながら、
〝マギラ〟と、そしてゼムラのもたらす脅威きょういに立ち向かうべく、こころのつながりを強めてゆきました。

 ナジムは川辺の堤防に立つと、見上げる土手に腰かけた人びとにむかってこう呼びかけました。

「ここは、川辺に住んでいた皆さんとはじめて出会った場所です。
 そしてわたしたちは今、おなじ仲間になってこの場所にかえってきました。
……しかしわたしたちは、
以前とおなじ生活をするためにここにもどってきたのではありません。

――街からやってきたみなさん! 
 街での生活を思い起こしてみてください。
〝マギラ〟に魅せられた生活とは、いったいどのようでありましたか?
 
 それは……まるで、
『安心安全で快適な乗り物だから』
と言われて乗り込んだはずの大きな乗りものが、
動きだしたとたん、
どこへ向かっているのか、どこへ運ばれて、どこで降ろされ、そこに何がまちうけているのか……、
 自分の行きたかった場所も、方角も、進むに従ってどんどんどんどん分からなくなって、
不安ばかりが大きくなって……、
と、そのようではありませんでしたか?

 しかし、ここでの生活はちがいます。
 わたしたちは、その進むべき方角を明らかにして、
おたがいの足どりを確認しながら進んでゆくのです。

 ここは、みなさまおひとりおひとりが、
 自分自身をゆたかに育んでゆく場所として用意されました。
 わたしたちは、人間のほんとうのしあわせを、
 自分のこの身に実現するためにここに集まったのです。

 それはまちがいなく、時間のかかる長い永いとりくみになることでしょう。
 しかし、踏みしめるその一歩、一歩には、
尽きることのないよろこびが……泉のように湧き出すことでしょう。

 わたしたちはほかでもない、
その命の泉・・・を見つけるために、
ここに――、還ってきたのです!」

 ナジムのことばは、サムに似てゆきました。

 そして、このナジムの呼びかけに応えるように、幾人かの人びとが動きはじめて、運営なかばで手放してしまった、あの、ルイの集団にならった小さな施設が、新たなすがたになってよみがえってゆきました。

 そこには、子どもたちがあそびながら学べる施設や、病院。

 からだを鍛錬する施設にこころを鍛錬する施設。

 それから、文化芸術を育成する施設とそれを発表する施設。

 それに競技場や、大人も子供もいっしょになってあそべる広場や公園などなど、と、それらをとりまとめる組織が、
『生きる探究』を主旨しゅしに掲げてつくられてゆきました。

 また学童の通う施設では、教師と親たちが可能なかぎりの時間をつくってはなしあい、自らの幼いころをふりかえり、

『子どもにとって教育とは、
自分の知らない何ごとかを教えみちびく人のすがたに見るのであり、
大人のうしろすがた・・・・・・・・・こそが、教育の原点である』ことを確認しあうと、

『親や教師が、子の手本となるべく意識しておこなう言動を、教育の基本とすべし』――と、結びました。

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