黄金色へと踏み出す半歩

巡くんとホルンの初邂逅の話。
⚠️モブのパイセンがめちゃくちゃ喋る

 絶好調で核融合反応を起こしている太陽に辟易しながら桜並木を歩く。まだ四月だというのに今日はやけに暖かい。
 俺の気分など知らずにずけずけと照りつけるさまはまるで頼城のようだ、と考えてしまうのは、きっと入学式で生徒会の一員として祝辞を述べていた幼馴染の姿が海馬に引っかかっていたためだろう。

 太陽は俺の行く道をあたたかく、輝かしく照らしていた。

 かつかつと歩きながら桜並木を抜けると、やっと体育館が見えてくる。目的地を目に留めた俺はふぅ、と息を吐き、残りの道を進んでいった。

◆◇◆

『管弦楽部の部活説明会はこちら!』
「……やけにシンプルな看板だな」

 思わず独り言が漏れる。まあ、判り易いのはありがたいが。

 季節が巡り、桜咲き誇る四月。頼城のこともありラ・クロワ学苑に入学した俺は、三年間の高校生活を共にする部活決めの場面に直面した。
 まともに学校へ通ったことのない俺にとっては何もかもが初めてで、少しでも馴染みのあるものにしようとした結果が今の状況である。

 どうやらこの学校では部活に入部する前に『部活説明会』とやらに出席しなければならないらしく、俺は重たい腰を上げて管弦楽部の部活説明会会場にやってきた。

 ぎぎい、と重たい玄関のドアを押し開けて靴をスリッパに履き替え、ぺたぺたと廊下を進む。一気に視界の人口密度が増えて俺は眩暈を感じた。がやがやしたノイズを聞き流しながら体育館の中へ入る。

(……覚悟はしていたが、まさかここまでとは)

 新設校である割にラ・クロワ学苑管弦楽部の規模は大きなものであった。やはりその校風故、芸術を愛する文化人が多く集まるのだろうか。

 説明会の会場となっている広い体育館の中をぐるりと見渡す。オーケストラを構成する楽器ひとつひとつのブースが設けられており、それぞれのブースで個別に楽器の体験や部員との交流ができるような仕組みらしい。

 俺は迷うことなく見慣れたバイオリンのブースを探した。
 しかしどこも盛況で、俺の身長ではどこにどの楽器のブースがあるのかすら判りづらい。特にバイオリンなど花形楽器の一員だ、おそらく一際人間が多いだろう。

 本日何度目かのため息を漏らしたその時、ふと自分の真横にぽつんと置かれている金色の物体に気が付いた。簡素なテーブルの上に妙な体勢で横たわっている渦巻。そう、ホルンである。
 他のブースには新入生らしき人間も、在校生らしき人間も沢山固まっている。しかしホルンのブースは、在校生らしい人間がテーブルの上に体験用の楽器を横たえ、ひとり楽器を奏でているだけだった。B、E、♯DE♯F、♯G♯G♯F♯G……聞き覚えのあるメロディがやけに耳に馴染む。

 それにしても、だ。この規模の楽団ならホルンは三人以上いてもおかしくない。趣味とはいえクラシックの何たるかは一通り頭に叩き込んでいる身だ、オーケストラにおけるホルンの重要さは理解しているつもりである。

 そんなホルンが、たったひとりだけ?

 バイオリンの荘厳なブラウンとは似ても似つかぬ派手な黄金色へ何故か妙に目を惹かれ、俺はいつの間にかホルンのブースへと近づいていった。

「ちょっといいか?」

 閑古鳥の鳴き声と共にひとりブースで楽器を奏でていた先輩は、俺が話しかけていることに気が付くと慌てて楽器から口を離して顔を上げた。

「あっ、見学希望かな? 経験者? 助かるよ、人が全然来なくて困ってたんだ」
「い、いや、そういうわけでは……」

 あれよあれよという間もなく俺は椅子に座らされる。といっても、いくら趣味として『決められて』いた俺でも金管楽器は未経験だ。手渡された小さなマウスピースを恐る恐る手で弄んでいたが、それを見かねた彼のほうから声をかけてきた。

「もしかして君、未経験?」
「音楽自体は経験者だが、金管楽器には触れたことがない」
「そっか! ならまずはマッピで音を出すところから始めようか」

 そう言うと、彼は俺が持っているものと同じ型のマウスピースを唇にあてがいぶぶぶ、と音を出す。金管楽器は金属のマウスピースで唇を震わせて音を出す、という知識だけは持ち合わせていたが実際に目の前でその様子を見るのは初めてだ。
 彼は唇を器用に操り、マウスピースだけでメロディを奏でる。F、♭A♭A、F、♭E♭D、♭E、F♭A、F♭E……ドヴォルザークの『新世界より』第二楽章だろう。俺が聴き惚れているとぴたりと音楽が止まる。

「はい、やってみて!」
「……うぇっ?」

 ほらほら、と急かされるままにマウスピースを唇に当てふうう、と息を吹く。が、俺の吐いた空気はにべもなくすかりと円筒を通り抜けるだけだった。

「む……思っていたより難しいな……」
「口の形にコツがあるんだ。アンブシュアって言うんだけどね……」

 と言って彼は唇を横に引き、透明なストローを咥えているような妙な形を作る。見様見真似で同じような形にした唇を、そっとマウスピースに押し当てた。

「こ、こうか?」
「そうそう、その形を維持したまま吹いてみて」

 彼の言うままに息を吹き込むと、先程とは違ったよく通る音色が俺と先輩の周りに響き渡る。ぶー、という無機質な、耳慣れない音。けれど、世界が広がるような、伸びやかな音。

「いいねいいねいいね! じゃあ次は楽器をつけてやってみよっか!」

 先輩は嬉々とした様子で俺に体験用楽器を手渡してくる。彼は少々強引とも感じられる勢いだったが、不思議と悪い気はしなかった。

「そう、そんなふうに右手をベルに突っ込んで……ああ、手の甲を上にして、その上にベルを被せる感じだよ。左手はレバーに添える。結構指を開かないといけないから難しいよね」

 先輩のアドバイスを聞きながら段階を追って楽器を構えていく。
 流石金属というべきか、想像していた通りの重さだ。木製のバイオリンとは違う、ずっしりとした重みを両腕で受ける。
 ホルンにはいくつか種類があるが、この体験用楽器のようなフルダブル管のホルンの重量は約ニ・五キログラムだと聞いたことがある。この重量の物体をずっと空中で固定しなければならないというのは中々骨が折れるな、と俺は心の中で苦笑した。

「この姿勢で合っているか?」
「うん、大丈夫! 今君の楽器にマッピを付けたから、そのままさっきみたいに吹いてごらん」

 わかった、と短く返事をしてマウスピースに口をつける。息を入れると、右下のベルから一際大きな振動音が響いてきた。ピッチが揺れているせいで判別しづらいが、恐らくこの音はFだろう。

 先輩が吹いていた時とは比べ物にならないくらい頼りなさげな音。
 俺はこの音を大切にしたい。考えるより先にそう感じた自分に内心困惑を覚えつつも、ゆっくりと楽器を口から離した。

「おお、凄いね! 初めてにしては筋がいいから、きっとこれから練習すれば上手くなるよ。ねえ君、本格的にホルンパートに入る気はないかい?」
「そう、だな……」

 両親から義務付けられた『趣味』を淡々とこなしていた今までの俺ならば、こんな提案はすぐに断っていただろう。だが今の俺は、一度命を捨てた俺は。

「わかった。ホルン、やってみるよ」

挑戦してみたいと思ったんだ。

◆◇◆

 学校という慣れない環境、入学式という慣れない式典、人混みという慣れない状況。今にして思えば、俺はそれらの雰囲気に充てられて柄にもない選択肢を選んだのかもしれない。その日の夜、ベッドに入った俺はひとりそんな考えを巡らせていた。慣れた楽器ではなく、その日初めて扱った楽器で楽団に参加するなんて。

(だが……楽しみ、だな)

 薄く口元が弧を描いたことに自分でも気付かぬまま、その日は眠りに落ちた。
 ——そして翌日。俺が慣れない二の腕の筋肉痛に苦しむ羽目になったのは言うまでもない。

〈了〉