腐ったミルクは願い下げ
「屋外は真ッ闇、闇の闇。夜は劫々と更けまする。落下傘奴……なーんて、こんな裏路地にはとんと縁のないモンだよね。ノスタルヂアもへったくれもありゃしないや」
ちかちかと電気の切れかかっている街灯の下を、音もなく通り抜ける人影がふたつ。はたはたとたなびく黒のマフラーを、ふわりと空に持ち上がった黄緑色のマフラーが追いかけている。
「幼生体もあんまりいなかったし、今夜のパトロールも何事もなく終わりそうだね」
よかった、と三津木はほっと胸をなでおろした。
今回のルートは彼にとって馴染みの少ない場所が多かったので気疲れしたのだろう、その足取りは先導している北村に比べるといくらかぎこちない。もっとも、ただ単に北村が治安と足場の悪い裏路地に順応しすぎているだけかもしれないが。
「あーあ、つまんないの。今日こそは楽しめると思ったのに。慎くん、なんか面白いことしてよ」
「え、えぇ……っ!?」
北村はぴたりと歩みを止め、マフラーを翻して三津木のほうへ向き直った。いきなり話のバトンを投げ渡された三津木はきょろきょろと辺りを見渡しながら困惑する。
彼はしばらくそうしていたが、ふとその視線はある一点へと吸い込まれるように静止した。その表情はあまりにも真剣そのものであり、北村はたまらず、といったように彼へ問いかける。
「どうしたの、慎くん。まさかホントに面白いもの見つけちゃった?」
「いや、面白くはないけれど、あれ……」
「ありゃま。捨て猫か」
三津木がおずおずと指さした先には、汚れた段ボールがひとつ。路地の隅にひっそりと置かれたその箱の中で、小さな毛玉が力なくくるまっていた。
箱の傍らには灰皿のような平たい皿に注がれたミルクが置かれている。通行人が餌付けのために置いたのだろう、その皿は箱に比べると多少は綺麗な状態だ。北村はそれを一瞥したのち段ボール箱に近づくと、三津木もそれに続いて覗き込んだ。
それなりに高さのある段ボール箱の中に、一際小さな子猫がぽつんと身を縮こまらせている。子猫一匹を入れるには不自然なほど大きな箱だ。最初はもっと数がいたのだろうか、と三津木はぼんやりと考えた。
「全く、残酷なことするよねえ」
「そうだね、こんなひとけのない路地に捨てていくなんて」
三津木は眉尻を下げ、目を伏せた。北村はその言葉を聞いてゆっくりとまばたきする。
「いやいや、コレだよコレ」
北村が言葉を発するのとほぼ同時に、彼らの足元でがしゃん、と音がする。三津木が慌てて音のする方を見やると、そこにはひっくり返されたミルクの皿があった。北村が足で器用に引っ掛けたのか、彼の目の前の地面には大きな染みが出来ている。
「倫理くん!? 何してるの!?」
せっかくの猫への食料が、まさに文字通り覆水盆に返らずだ。彼の行動の意図が判らず動揺している三津木を見かねて、北村は冷笑しながら声を上げる。
「いやさ、さっきのミルク、もうとっくに腐ってたぜ? そんな劇物を放置しとくほうがひでえと思うな、ボク」
「そ、そうだったんだ……」
「そもそも、さ」
北村はすぅ、と息を吸う。三津木はその様子を静かに見つめていた。
「たった一回きりの施ししかしないんなら、やらない方がマシだよ。この猫たちは一度ミルクをもらえたら、それで腹を満たす。そして他に腹を満たす手段を知らないまんま、次のミルクを待つようになる。可哀想に、もう一生新しいミルクは来ないのにね!」
北村は眼前の染みと子猫を交互に見つめたのち、楽しげに言葉を紡ぎ続けた。その様子は芝居がかったような口調にも聞こえる。
「一回こっきりの気まぐれで相手の人生に干渉するのは、只の無責任な偽善さ。そういう人たちに限って、底辺の事情なんてお構いなしってわけ。ふっかふかのベッドの中で幸せなおとぎ話だけを聞いて育った人種は、段ボールのベッドでひもじく夜を越す人間のことなんて想像もしないんだろうね」
三津木はそれを黙って聞いていたが、やがておもむろに口を開いた。
「……そうだね、確かに方法は悪かったかもしれない。けど」
そこまで言うと、彼は一旦口を結んでぱっと顔を上げる。その瞳には、瞬く街灯の光がきらきらと宿っていた。
「ミルクをあげた人はきっと優しいひとだよ。助けたいっていう気持ちは本物だと思うから」
その言葉を聞いた北村は、ふっと口元を緩ませる。先程の冷ややかな笑みではない、確かに温度を伴った笑み。彼の真意はわからない。が、その表情を見た三津木にはそう感じられた。
しかしそれはたった一瞬のこと。すぐに北村はいつものような人好きのする笑みを貼り付け、おどけるような態度へと戻る。
「ふぅん。慎くんってば、本当に掴みどころのない子だよね。これが佐海ちゃんだったら、ボクは今頃猪突猛進正論トンファーキックでボッコボコにされてるよ!」
「それ、別にトンファー使わないよね……?」
ひとしきり話し終えたのち、北村は段ボール箱のへりをびりりと破いて潰す。かつて段ボール箱だったものは四方の側面を全て取り払われ、完全なる平面と化していった。
「多分この子猫、段ボールの壁が高すぎて乗り越えられなかったんだろうね。ま、これでこの子も出やすくなったでしょ。あとは——慎くん? 何やってんの?」
さっと三津木が彼の横に並び、ひょいと子猫を抱き上げる。
「この子を合宿所まで連れて行くよ。ALIVEのほうから呼びかければ、里親も見つかるかもしれないし」
「へえ、意外と即決だね」
「うん。うちの家はペットを飼う余裕もないから、僕一人だけだったらどうしようもなかったかもだけど。今はせっかくALIVEを頼れる立場にいるからね。ほら、行こう?」
三津木は毛の汚れた子猫を大事そうに抱えている。北村はそんな彼の姿を見てにっこりと笑い、夜闇に似合わぬ朗らかな声色を辺りに響かせていった。
「あはは、ボク慎くんのそういうとこ好きだよ。んじゃ、さっさと帰って指揮官サン達に見せびらかしにいこうか!」
〈了〉