silent。見てますか?
作品はあくまで「作品」であって、現実と混合させるものじゃないかもしれない。でもフィクションだろうが、その作品を見て何かを思い、そして行動に移すのは「現実世界を生きる人」なのは間違いない。
私が補聴器をつけていることを言うと、ドラマsilentの話になった。そういうことなんだ。創作だからってまったく別のものとは捉えない、人は。
あの表現は妥当じゃないとか、そういうのなんか……疲れる。表現は表現で、誰に向けたものかによって表し方が変わってくるから。
でも、現に誤解を招く表現で嫌な思いをする人がいる。ドラマはドラマの中だけと捉えない人がいる。感動させたい魂胆見え見えの間違った情報が流されることもある。
「感動する」「泣ける」そう話題になればなるほどなぜか見ることができない。私とは別の、「silent」の世界での恋愛を表現してるだけなのに。私は見ることができない。ドラマで流す涙が現実世界での嫌な記憶と繋がってしまうからだろうか。
私の場合あまり前向きに捉えられない事柄は、その話題を話したがらない傾向にあって、自分がその1人だという認識から外れて、第三者としてそういう人がいる、という言い回しをしてしまう。
別に聞こえにくい自分を受け入れられないわけじゃないと思う。それもあってなぜ「silent」を見る気になれないのか、なぜ嫌悪感を抱くのか自分のことがわからない。
お笑いが好きだから、コミカルに描かれたなら見ていると思う。ちょっとしんみりしすぎるのかもな。
もしかしたら、当事者として「見るべきだ」という前提がおかしいのか。私は当事者なんだから見ておかなきゃ、という思いに駆られているのがいけないのかもしれない。
モヤモヤする中でひとつはっきりしているのは、「勉強として」silentを見ておくというのは、作品との向き合い方が間違っていると私は思う。
聞こえについて、その周りはどうしたら良いかについては、創作物を見て学ぶものではないと思う。創作物はあくまで人の関心のきっかけ、入口となるものであって、それを軸に周りの人と接するのは違う。その人はその人で、ドラマの人はドラマの人だから。
追記
かわいそうに描かれるのが居た堪れないのかもしれない。別に私はかわいそうな人間ではない。哀れに思われるほど落ちぶれてない。その反発心があるんだろう。聴者に向けたドラマに惹かれないのは当然なのかもしれない。もちろん、中には同じ環境で生きる人がそのドラマを楽しんでいる声も聞く。
ただ、私は気分が乗らなかった、それだけのこと。聞こえについて面白おかしく扱った作品なら私は見るぞ。それも扱いによっては批判はくると思うけど。
過去にヤンキー君と白杖のなんちゃらってドラマを見て、聞こえにくい私に置き換えたらこんな恋愛かな、というのを妄想したりもしました。
これまでのドラマは手話が出てくるのは絶対、だからそのお決まりから外れた作品が見たい。手話を使わず聴者と話す人。聞こえないんだよね?え?喋ってるけど?と困惑するのかもしれないが、その世界のリアルも創作でどのように描かれるか見てみたい。