健常者から生まれた難聴の子①
就職活動が始まった今、
自分とは何かを再度認識するためにも
過去の経験や家族との関係性を文字にしてみようと思います。
人生グラフを作成しようとノートを開いたこともありましたが
何から書いたら良いか悩んで辞めてしまいました。
まずはここで整理していきたいと思います。。。
健常者から生まれた難聴者①
私の両親は健常者。
おそらく親族にも難聴者はいない。
なぜ健常者から生まれるかは
遺伝子の話になるから難しくてわからない。
母が言うには妊娠しているときに母が体調を
崩したことがあったからそれが原因だと思うと。
私はなんとなくですが、体調のせいではない気がする。
遺伝子によるものだったんだと思う。
親族にも難聴者がいないもんだから、
私の耳が聞こえていないようだと分かったのは
3歳の時だという。
「名前を呼んでも反応がない」と異変を感じて
私を病院に連れて行ったらしい。
病院での母親の様子がどうだったのかなんて
もちろん覚えていない。
でも多分、泣いたと思う。
中学の時にアルジャーノンに花束を読んで
読書感想文で「私が生まれて両親はどう思ったんだろう」
「苦労させてしまったな」的なことを
書いたのが母の手に渡ったんだけど
それを読んだ母の目には涙を浮かべていた。
部屋で受験勉強している時だったんだけど
入ってきて久しぶりに抱きしめられた。
初めてだった。母の涙を見たのは。
弱みを見せないところは私と一緒だ。
自分を責めたことがあるからこその涙だと思う。
だから、聞こえないと分かった時は
不安で涙を流していてもおかしくない。
少し難聴に気づくのが遅いんじゃないかと思う人もいるかと思う。
厄介なことに、私はその頃まったく聞こえないわけではなかった。
聞こえている場面もあったから気づきにくかったんだと思う。
ある日、補聴器を作って初めてつけて帰る時
車の助手席に座った私は大変不思議そうに
窓の外を指差しては
「すごい、何これ」
「うわっ」
と車の音にびっくりしては興奮していたらしい。
幼稚園〜高校、大学と健常者と同じ学校に通い、
小学校から中学までは学校終わりに車で聾学校まで行き
言葉を学んでいた。(片道車で40分ほど)
母は毎週あるその通級に車で送り、何時間もそこで待機して
待ち疲れたであろう中、母の運転で家に帰った。
とてもじゃないが、仕事をしながら送り迎えをして
家事をするのは大変だったと思う。
通級に対して私は、あまり楽しい印象はなかった。
学校を途中で抜けたり遅れて行ったりするのが嫌だったのもある。
でも同級生と2つ下の下級生と一緒に言葉の教室
で勉強していたので、いい思い出もある。
「仲間」がいる安心感はここで満たされていたので
健常者に囲まれた学校でも孤独には感じなかったのだろう。
通っていた頃は周りと違うことに思い悩むことはありませんでした。
先生方のサポートと母の難聴に関する勉強によって
私は特に大きな問題もなくここまで生きていられたんだと思う。
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具体的に通級でどんなことをしたのか、
次に書き残していこうと思う。
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