第二話 スパイスと強盗
――四天王が集った! 『第一回ニャン動画雀王』決定戦!
そんなところに入った覚えはないし、そんな動画サイトも知らないし、そんなわけわからない名前の王様にもなりたくもない。
しかし麻雀は他の知的スポーツとは比べ物にならないほど、大会もスポンサーも少ないのが現状だ。少ない舞台の中でなんとか勝ち星をあげて、少しでも知名度を上げて、麻雀以外の仕事をもらえるようにならないと食べていけない。
「はあ……でも嫌いなんだよなあ、生配信……」
しかし、雀士は基本的にどんな仕事も断ることはできない。
ただ麻雀が楽しいからと雀士になったけれど、これがなかなか縛りの多い人生だ。
睡眠不足が続いているせいで、私の目の下にはコンシーラーで隠しきれないほどのクマができている。だから、クマを隠しきるのは諦めて、派手な口紅を塗り、視線を口元に寄せさせることで誤魔化すことにした。本当にそれで誤魔化せているかどうかについては言及しないものとする。
口紅を塗り直すだけという化粧直しを終えてトイレから出ると、「舞ちゃーん」と声をかけられた。
「由美さん!」
小柄で童顔、まるで女子中学生のような女性が私に向かって軽やかに駆けてくる。両手を広げて受け止めた。
五十嵐由美――今日の対局相手の一人である彼女は私に飛び付いて、えへへと笑う。彼女からは甘い花の香りがした。
「由美さん、公式戦は久しぶりじゃない?」
「そうなのー、やっと本職やれるー」
同じ女流雀士とはいえ、由美さんはグラビア、ドラマや映画にもひっぱりだこの麻雀界の稼ぎ頭。今日の対局(生放送でネットに配信される)も彼女の知名度でスポンサーが集まったと聞いている。私の三倍は稼ぎ、五倍は忙しくしている人だから、こんな風にゆっくり話せる機会はとても貴重だ。
「てかさー、舞ちゃん、旅行しようよー温泉行きたーい」
「いいね、どこ行く? 箱根?」
それでも由美さんは、私にとっては気安い友人だ。
「熱海でもいいよねー、ア」
由美さんは急に思い出したような声をあげた。
「そういえば見たよー『鋼の女王』! あははっ嫌そうな顔ー」
「……由美さんは『卓上に舞い降りた天使』だからいいかもしんないけど……」
「この年で天使って言われるのもきついんだぞー!」
由美さんはキャラキャラと笑いながら私の脇腹をくすぐってきた。私より十近く年上のはずなのにこの愛らしさと透明感。これはモテるわと思いつつ由美さんの頭をつかんで引きはがす。
「やめてよ、おなかに肉ついたの!」
「うそうそー舞ちゃん細いじゃーん!」
「細く見せてるだけ。もうショートパンツきついのよ……」
「ワンピースにしたらいいじゃーん」
「やだ! ショートパンツ好きなんだもん!」
そんな風にトイレの前で由美さんといちゃついていたら、遠くから「ババアがはしゃいでんじゃないよ」と野次がとんできた。
今日の対局相手の一人である『最高位』こと斎藤さんだ。
「うるさーい、ジジイー」
「うるせーババアー」
恐らくこの麻雀界の男女トップがそんな低レベルな言い合いをしてキャッキャしている。やはり強い人は若いと思いながら、彼らを眺めていると、斎藤さんが私の方を向いた。
「久しぶりだなあ、舞ちゃん」
「私を未だにちゃん付けするのは斎藤さんと由美さんだけよ。今年で三十路なのに」
「三十なんてまだまだケツ青いわ。それより顔色悪いぞ。ちゃんと寝てんのか?」
斎藤さんが乱暴に私の顔を掴み「ほうれん草食え」と笑う。このジジイ殴るぞ、と思うが相手は師匠なので「やめろや、ジジイ」に抑えておいた。「おうおう、口が悪い女だな」と斎藤さんはけらけら笑う。
このジジイが未だにモテるのはこういうところからだろう。口は悪いが情に厚い人だ。
――四天王が集った! 『第一回ニャン動画雀王』決定戦!
今日の対局の煽りはそれだが、実際はネット上でアンケートを取って選ばれた四名による普通の対局だ。『斎藤組』三名と由美さんなんて、私個人としては新鮮味がないがネット上では夢のマッチングらしい(ちなみに『斎藤組』というのはこのジジイ――斉藤隆――を師匠に持つ雀士の集まりで、上は九〇歳、下は二一歳まで幅広い年齢層が集まっている)。
ネット上の需要はよくわからない。
とはいえ私としても、斎藤組最年少『ネット王子』こと矢田喜一くんと打つのは久しぶりなのだけど……。
「それで舞ちゃん、『王子』がどこにいるか知らねえか?」
「どうせ遅刻でしょ?」
斎藤さんは「またか」と頭を掻く。
私に腕を絡めていた由美さんが「師匠でしょー連れてこれないのー?」と笑うと、斎藤さんは「あいつが俺の言うこと聞いたことは一回もねえよ」と眉を下げた。
斎藤さんと由美さんという麻雀界の大御所二名を待たせられる人は『王子』ぐらいしかいない。困ったものだと私たちは肩を竦めた。
「舞ちゃん、『女王』だろ? 面倒見てやれよ、姉弟子としてあの『王子』さあ……」
「……私も正直あの子苦手なのよね……」
「そう言わずにさ、頼むよ。ジジイの言葉だと全然聞いてくれないのよ」
「私、あの子と直接打ったことあんまりないからなあ……」
「悪いな、舞ちゃん」
「まだ引き受けてないよ、斎藤さん。とはいえ弟弟子を見捨てるつもりもないけどさ……」
矢田くんは漫画で麻雀を覚えたという新世代雀士だ。
彼はデジタル機器に強く動画配信なども積極的に行っているため、ネット上で人気を博しているらしい。だがその実力については……ご愛敬といったところだろうか。
それよりも彼が問題なのは時間通りに来ないこともそうだが、とにかく、対局相手に敬意を払わないことだ。実力からではなく傲慢さから『王子』とあだ名をつけられているのも見ていて痛々しい。でも彼は本当に全く、人の話を聞かない。
どうしたものかと思いつつため息をつくと、由美さんが「あの子きらーい」と口を挟んできた。
「初対面のときに『あ、女老害だ』って言ってきたんだよー? ありえなくなーい? 隆ちゃんさー、なんであの子破門しないのー?」
「そんなことしたら可哀想じゃねえか。まいったなあ。なんであいつ敵ばっかりつくるのかな? 女は特に苦手みたいだしよぉ……インターネットで友達できたならいいんだけどよぉ……」
「できるわけないでしょー? 『ネット王子』なんて、からかわれているだけー。そうじゃなかったらこんな対局組まれないでしょー、こんなさー……」
「そうだよなぁ……今日の対局があいつにとって薬になりゃいいんだけど……」
「まあ劇薬だよねー……」
「下手したらトラウマになるぜ……」
斎藤さんと由美さんはそんな話をしながら、じとっとした視線を私に向けてきた。
「……なんで二人して私を見るの?」
「……」
「……」
「私はなにもしないよ? 普通に最後まで打つだけだよ?」
「……」
「……」
「え、なんで? 今回、飛びなしでしょ? 飛ばせないよ?」
「『鋼の女王』だよねー」
「本当になー……」
「え、なに? 本当になに?」
三十分待つとようやく『ネット王子』が現れた。彼は勿論謝ることなんてなかった。私たちは予定時間を遅らせて、ようやく対局を始めることができたわけだ。
「はあ……、じゃあ、楽しくやろうか」
そうして対局は始まった。
東一局 親:矢田
「カン! すまんな、お前のあがり牌なくしちまって……ま、つーことで嶺上開花、四暗刻。綺麗に上がっちまったな?」
東二局 親:斎藤
「あ、ごめんね、矢田くーん。それ頭ハネなのー。隆ちゃん、千点ちょーだい♡ はい、じゃあ女王の番だねー?」
東三局 親:久留木
「ロン。清老頭。……矢田くんのことわかってたら、一気にいくよ?」
「ロン。三色同順。ドラ、ドラ、と」
「ロン。混老頭。矢田くんは字牌に親を殺されたの……?」
「うっわ、ごめんなさい、地和だ。いや、ごめんなさい、これは計算してない。えー、もう解散しますかね……」
「ロン。立直、一発、七対子。もうちょっと逃げないとだめだよ、矢田くん。……矢田くん?」
結果については、まあ、……ネット上では好評だった、とだけ言っておこう。
「今日も見事な『鋼の女王』だったなあ、あっはっはっ」
けらけら笑っている斎藤さんは無視して机にしがみついている矢田くんの背中を撫でる。
「もう泣くのやめてよ、矢田くん。感想戦しようよ」
「だっでどうぜまげだもん……」
「負けるの悔しいならちゃんと勉強しないと駄目だよ。今日もう完全にカモだったじゃないの」
「がもじゃない! うわあああんっ」
「うわあ……そんなに泣く? そんなに泣くことある……?」
感想戦は三時間かかり、打ち上げに行く頃には矢田くんの目は開かなくなっていた。
けれど彼は初めて打ち上げについてきてくれた。快挙である。しかも梅酒をちびちび飲みながら斎藤さんのコップにビールを注いでいる。これはもう成功と言えるだろう。
「おう、梅酒好きか? いいなーいい趣味だぞー」
「ん……」
「こっちも飲むか?」
「うん……」
「そうかそうか!」
とにかく斎藤さんが心から喜んでいる様子だから、きっと大丈夫だ。彼はここから少しはうまくやっていけるようになるに違いない。これなら思い切りいじめてやった甲斐がある。
私はほっと一息ついてから、隣で芋焼酎の熱燗を飲んでいる由美さんとの距離を詰める。
「……ちょっと相談があるの、由美さん」
「なにー? 確定申告ー?」
「大丈夫。今年はもう準備終わったよ」
「ほんとにー? 三年後に脱税とか言われたりしないー?」
「多分……え、多分大丈夫……」
「会計士の彼氏一人ぐらい作っといた方がいいよー?」
「いや、彼氏は一人でいいって言うか……」
「あれ? もしかしてーコイバナー?」
「恋っていうか……ううん……」
「えっコイバナ⁉ 舞ちゃんが⁉」
「ちょっと声が大きいっ!」
由美さんの口を塞ぎ、ちらと男たちを見る。
……聞いていなそうだ。由美さんの口を解放してから「こっそり聞いてよ」と言うと「仕方ないなあ」と由美さんがにやにやと笑った。
「どうしたのよーわざわざ私に話すってことは、いつもの雀荘ナンパじゃないんでしょ?」
「うん、雀荘で会ったんじゃないの。でも雀荘とか来るタイプよりも『ヤバい』感じで……」
「ヤクザってこと?」
「ヤクザではないよ。年下の医学生で実業家。ちゃんと実績もあるみたいなんだけど、……でもなんか信用できないっていうか……『ヤバい』予感がするっていうか……」
由美さんは芋焼酎を飲み干し、「同じやつ、おかわりー」と頼んでから私の腿をつついた。
「イケメンなの?」
「……それ、重要?」
「最重要」
松下くんの顔を思い浮かべる。
「問答無用のイケメン……」
「うっそ! いいじゃん! 舞ちゃん普段そういうこと言わないのに!」
由美さんの唇を「しずかに」とつつく。由美さんは「ごめんごめん」と笑った後に、私の腿をバンと叩いた。
「雀荘出会いじゃないならその時点でかなり優良物件よ?」
「それはそうかもしれないけど、でもなんか『ヤバい』感じするんだってば」
「んー、そうねー……他の女の子だったら『気のせい』って言うんだけどー……舞ちゃんが『ヤバい』って思った牌は当たるしー……『逃げ』強いもんねー……」
元々私の麻雀は手堅くて冷たいと言われていた。
斎藤さんに色々教わってからは魅せるための打ち方をある程度できるようにはなったけれど、私の本質は『振り込まないから負けない』だ。それが私の打ち方。つまり『逃げが速い』のだ。
そのぐらい、私の『ヤバい』という予感は当たる。
「麻雀は賭けレートが高くない限りは取り返せるけど、恋愛は取り返せないからなあ……うーん、ちょっと怖いかもね、それー。それに恋愛は直感大事だしぃー」
「やっぱりそうだよね……、どうしよう。今からでも明日の断れないかなあ……」
「断る? なに? デートすんのー?」
「なんかそうなったみたい」
私が頷くと由美さんは「うっそ!」と大きな声を上げた。
「うるさいってば!」
「ごめんごめん、でも舞ちゃんすっごい珍しいじゃん。雀荘以外に出かけるのいつぶりー?」
「いつぶりって……コンビニとかは行くし……」
「デートはいつぶり?」
記憶を探る。
「……二年前?」
「『ヤバい』予感なんかよりもその事実の方が『ヤバい』ってわかるー?」
「……、……はい……」
「ていうか大丈夫? 服あるー?」
「え、服?」
由美さんが真顔で私を見ている。自分の服を引っ張って「だめ?」と聞くと、ふふふと微笑まれた。背中に冷たい汗が流れていく。由美さんが私の腕を掴んで立ち上がった。
「隆ちゃーん、私たち帰るねー」
「おう、綺麗なおべべ選んでやれ」
「聞いてたの⁉」
ジジイは半笑いで「お前の服、若作りすぎる」と言う。それどころかその隣にいた若造にも「俺も久留木さんの恰好は年齢に合ってないと思います」とぬかしやがった。
「は⁉ 男ども失礼極まりないんだけど‼ 今度絶対泣かすから二人まとめて! 絶対に!」
「はいはーい、舞ちゃん帰るよー」
由美さんに引きずられるように飲み屋を後にした。
デートの日、買ったばかりの服を着てコンビニの横のベンチに座っていると、コンビニから出てきたおじさんが少しスペースを空けて隣に座ってきた。彼は買ってきたばかりと思われるハイライトに火をつけると、ふ、と息を吐いた。
細く煙が空に昇っていく。
「お嬢さん」
おじさんが急に話し出した。
「危ない橋は渡らない方がいいよ」
おじさんを見ると、やっぱり知らない顔だった。
どこにでもいそうな、普通の中年のその男性は「なんてな。それっぽいこと言ってみただけだ」と笑うと立ち上がり、去っていった。
変な人に絡まれたなと考えていたら急に――ぞくり――と寒気が走り、咄嗟に立ち上がる。ちょうどコンビニの駐車場に黒のボルボとグレーのトヨタのミニバンが入ってきたところだった。
かわいいミニバンに比べると圧倒的にゴツく、一目で高級車とわかるその光沢、絶対に値段がヤバいモデルのボルボが目の前のスペースに止まる。
「お待たせしました、久留木さん」
真っ黒な車から松下くんが下りてきた。
「え。髪切ったの?」
「はい。今日のデートに合わせて……似合ってませんか?」
「いや、似合ってるよ」
松下くんは清潔感のあるツーブロックになっていた。短く刈りあげられた後頭部を触りながら「よかった」と彼は爽やかに笑う。
「思っていたよりも短くされてしまって少し不安だったんですが、久留木さんにそう言ってもらえてうれしいです」
「松下くんは顔面偏差値高いからなんでも似合うと思うよ。私個人の考えじゃなくてね、一般的に見てね、似合うと思う」
「俺の顔は久留木さんの好みですか?」
「……はぁー?」
「そんな顔しないでくださいよ」
くすくすと松下くんは笑いながらその右手を私に差し出した。
「なに?」
「手つなぎましょうよ」
「やだ」
「残念。じゃあ車にどうぞ」
彼は差し出した手で助手席の扉を開いた。
「乗らないって言ったらどうするの?」
「手をつなぎますか?」
「そこが二択になるの? ……まさか、車で来ると思わなかったな」
「食料品の買い出しは車がある方が便利でしょう?」
たしかにそれはそうだ。しかしほとんど知らない男の車に乗るのは女としてどうなのだろうか。
松下くんを見上げると彼は不思議そうに私を見下ろしていた。その顔からは『なんで乗らないのだろう?』という思いが透けて見える。それはそれで、……デート相手に見せていい顔なのだろうか。
「松下くん、やましいこと考えてないの?」
「考えていいなら考えますけど?」
「駄目だよ!」
「わかってますよ。さすがにそのぐらいの理性はあります。俺は今の地位を失うようなことはしません。そこは信じてください」
「……じゃあ乗ろうかな」
「やったー。助手席にどうぞ」
松下くんはにこりと笑った。
私はため息ついてからその車に乗り込む。今日のことは由美さんにも伝えてあるから、このまま失踪なんてことにはきっとならないだろう。ちゃんと注意していれば殺されるなんてこともないはずだ。などと自分の『予感』に言い訳しつつシートベルトを締める。
「今日のごはん、なにを作りましょうか?」
「本当にキッチン借りたの?」
「ええ。そういう約束だったでしょう? もちろん俺の家でもいいんですよ? 合鍵渡しましょうか?」
「『ヤバい』人だ……」
「冗談ですよ」
松下くんはクスクスと笑い「どうして警戒しています?」と前と同じ質問をした。
「雀士が『ヤバい』と感じたら、そりゃもう『ヤバい』のよ。だからきみは『ヤバい』の」
「今までたくさん言いがかりを受けてきましたけど、それは初めてですよ。久留木さん面白いなあ」
「笑い事じゃないんだよね」
私が睨んでも彼はクスクスと笑った。
「今日、カレー作りませんか?」
「カレー?」
「スパイス屋さんって行ったことあります?」
「スパイスからカレー作るの? え、本当に?」
「ええ、面白いかなって。どうですか?」
『スパイスからの本格カレー作り』それは一度やってみたいと思っていたことだ。でもすぐに同意するのも悔しくて少し悩んだふりをしてから「行きたい、スパイス屋さん」と返事をする。「決まりですね」と松下くんは笑った。
彼が車を発進させた後、離れていくコンビニを見ながら「一週間前のことが嘘みたいに普通に営業してるね」と言うと、松下くんは少し悩むように目を細めてから「……ああ、コンビニですか」と思い出したように言った。
「コンビニは半日もあれば営業を再開するものですよ。フランチャイズ契約は閉めれば閉めるほどオーナーが損をするんです」
「フランチャイズってなに?」
「大きな企業の看板を借りて営業する契約形態です。コンビニだとパッケージごと借りるといいますか……」
「へえ、よくわかんないけどすごいね、さすが実業家」
「実業家と言えば聞こえはいいですが、経理も事務もなにもかも自分でやってるので、久留木さんと一緒の単なる個人事業主ですよ」
「ふうん」
「興味ないですね?」
「うん」
松下くんは「そうだと思った」と笑った。少しも機嫌を悪そうにしない。それどころか「かわいいですね、久留木さん」なんて言いだす。
「なにが? 私はかわいくないでしょう。変なこと言わないで」
「かわいいですよ。本当に、かわいい」
そんな軽口を叩く彼の顔を見ると、耳まで赤くしていた。彼は私の視線に気が付くと「慣れてないんですよ……」とぼやく。
「……きみは、なんなの? 事故りたいの?」
「安心してください。俺、運転好きなんでダイナミックに入店はしませんよ」
「……なら、いいけど……」
つられて自分の顔が赤くなっているような気がして、少し悔しかった。
窓に肘をつけて熱い頬をおさえ窓の外を見る。流れていく景色を見ながら『こんなにちゃんとかわいいって言われたのは初めてだな』と思った。
高校生の時に付き合っていた人がいた。
同級生の彼は優しい人だったけれど口下手で、いつもこちらが気を使って話していた。告白してきたのは彼だったのに何故私が大変なんだと思いながら付き合っていた。私が大学に進学しないと決めたときに、初めて彼から話し始めてくれた。別れ話だった。最初で最後の、彼が主体の会話だった。
以来、私は『付き合う』という行為をしていない。
ちらりと運転席を見る。松下くんは私の視線に気が付くとこちらを見てにこりと笑った。
「運転中によそ見しないの」
「ふふ、ごめんなさい」
「笑い事じゃないよ」
こんな風になにも考えないでデートに来るなんて初めてだ。
……エスコートされるのだって初めてだ。
「……今日いい天気だね」
「ええ、少しずつ春が来ていますね。そういえば第一回ニャン動画雀王おめでとうございます」
「え、なんで知ってるの?」
「SNSフォローしているので」
「なんで?」
ポツポツと会話をしながら、初めてのドライブデートを結局楽しんでしまった。
「ここです」
蔵前駅前の駐車場に車を置いて、五分ほど歩いたらその店に着いた。
入った瞬間に様々なスパイスの匂いに包まれる。店内にいたお客さんは『現地の人』ばかり。彼らは迷うことなくスパイスを選んでいく。私たちのように悩んでいるのは、私たちの後に続いて入ってきた中年男性ぐらいしかいなかった。
店員さんはおどおどしているその男性の相手をし始めてしまったので、私たちはその接客が終わるのを待つことにした。
よくわからないスパイスを眺めながら「松下くんはここ来たことあるの?」と聞くと「ないですよ。ネットで調べて来ました」と彼は笑った。
「そうなんだ。わざわざ、ありがとうね」
「どういたしまして。それで……どんなカレーにしましょうか」
松下くんは棚のスパイスをつつきながら「鶏肉? 豚肉? ……肉?」と首をかしげる。
「豚バラカレーにしようか」
「ああ、いいですね。豚バラは外れがないです」
「あんまり辛くないのがいいなー」
「辛口は苦手ですか?」
「だって辛いの痛いじゃん」
「痛いのは苦手ですか?」
「苦手だよそんなの。当たり前でしょ?」
松下くんは「そうですね、当たり前です」と言った。
含みがある言い方だなと思ったがそれを追求する前に、スパイスを買わなかったおじさんを見送って手が空いた店員さんが見えたので「すいませーん」と声をかけて、スパイスの相談をすることにした。
「豚バラカレーならこの辺がお勧めヨ」
「あんまり辛くないと嬉しいんだけど」
「辛さはこの辺の足さないと入らないから。嫌いなら入れなきゃいいヨ」
「ああ、なるほどねーチリで辛みを出しているのね……松下くん、パクチーは好き?」
「好きでも嫌いでもないですね」
「そっかー……じゃあ、コリアンダーは?」
「久留木さん、パクチーとコリアンダーは同じものですよ」
「えっそうなの⁉ え、なんとなくコリアンダーの方が青くない?」
「え? ……香菜も同じものですよ?」
「なにそれ知らない」
そんな調子でスパイスを選び、その配合を自分たちでやろうか悩んだけれど「美味しいのがいいよね」と店員さんにお任せすることにした。
「次は自分たちで選んで混ぜてみたらいいよ。面白いから」
そう笑う店員さんに松下くんは「次があればいいんですけど。俺の片思いなんですよ」なんて言った。「そういう自信ありげなところ嫌だな」と私が言うと「ほらね」と彼は笑った。
その背中を叩いても彼はクスクス笑うだけで、それだけだった。
スーパーで米、豚バラブロック、たまねぎ、トマトなどを買ってきた辺りまでは平和だった。
しかしその後、松下くんが見つけたレンタルキッチンとして連れてこられたところは高級マンション。彼は鍵と暗証番号を使ってするするとそのマンションの地下駐車場に入っていった挙げ句「このマンションの共有スペースのキッチンの設備がいいんですよ」と笑った。様子がおかしいと思いつつ「そんなところ住人以外が入っていいの?」と聞けば「俺はここの住人ですから」という、とんでもない回答。
「松下くん……話が違うでしょ!」
「俺の家には連れ込みませんよ?」
「そういうことじゃないでしょ! そういうのよくない!」
「ここのキッチン設備、他のレンタルキッチンよりもずっとよかったので……」
松下くんの耳たぶを思い切り引っ張る。
「なんで耳?」
「謝りなさい!」
「ごめんなさい!」
素直に松下くんが謝ったので、その耳を離す。
「……なに? そんなに軽い女と思われてんの、私?」
「ちがいますよ!」
松下くんは目を丸くして叫ぶ。それから「ごめんなさい」とおろおろとした様子でもう一度言った。
「本当にそんなつもりはなくて……設備がいいんですよ。他のところと比較しても圧倒的によくて……だってここピザ窯もついているんですよ?」
「え、それならナンも焼きたかった」
「じゃあ次はそうしましょうね」
「……松下くん?」
「ごめんなさい」
松下くんが深々と頭を下げるので「罰として食材は全部松下くんが運びなさい」と私が折れるしかなかった。高級車ばかりが並ぶ駐車場を歩きながら、こんなところを運転するの絶対嫌だなと思った。
◇
そのキッチンは高級マンションの一階にあった。
対面式のキッチンにふたつの大きな食卓と二十席ほど椅子が並んでいる。大きな窓に面しているそのスペースは、そのままパーティーができそうなお洒落な空間だ。
「ここ、二人で借りていいの?」
「駄目なんですか?」
「もっと大人数で使うものじゃないのかな……」
「気にしすぎですよ」
松下くんは買ってきた食材を作業台に並べてくれた。
キッチンも広く十人ぐらい並んで料理ができそうだ。備え付けられた棚を開くとキッチンセットもカトラリーセットも充実している。冷蔵庫を開くとビールまで冷えている。
「そこの飲み物も自由にどうぞ」
「どんなマンションなの……ここ……」
「どんなと言われましても……普通にマンションですよ?」
松下くんの普通は絶対に普通ではない、と思いつつ、コートを脱ぐ。
「あ。かわいいですね」
「こういう服が好きなの?」
今日の服装は由美さんセレクトの『なんちゃってOL風』だ。トップスは紺色のシアーブラウスで腕が透けて見える。ボトムは白のパンツだ。下着のラインが出るからという理由でTバックの下着まで買う羽目になった。普段の私なら絶対に着ない服だ。ちょっと不満に思いつつエプロンをつける。
「はい、可愛いと思いますよ。でも久留木さんはいつもはもっとふわふわした格好していませんか? そちらもかわいいなって思っていました。膝出してて元気だなあって。このエプロンもかわいいです。ワンピースみたいですね」
今日持ってきたエプロンはお気に入りのエプロンドレスだ。
肩にかけるところと背中でつくるリボンの部分だけフリルのついた黒い生地をつかっている。他の部分は元々ワンピースだった。青地に色とりどりの小さな花が舞っている布がお気に入りでリメイクしたのだ。
「そうよね。かわいいよね、これね」
「はい、すごくかわいいですよ。久留木さんに似合っています」
「……松下くんは優しいのかもしれない」
「優しい人は好きですか?」
「そりゃ好きでしょ、当たり前のこと言わないで」
「……やったー」
彼の顔を見ると、赤くなっていた。
「別にきみが好きとは言ってないから! 豚バラブロック持ってきて!」
「はい、わかりました」
顔が赤くなっていそうで嫌だった。
とにかくカレーを作ろう、と気合を入れる。
「先にライスの準備しようか」
「炊飯器で炊きますか?」
「あ、炊飯器あるなら簡単だね。ターメリックライス作っておいてくれる?」
「わかりました。……、……」
野菜をまな板の上に並べていたら、松下くんが私のエプロンを引っ張ってきた。
「松下くん? どうしたの?」
「ターメリックライス……ですよね?」
「うん、ターメリックライス……カレーだから……」
「とりあえず米をといだらいいですか?」
「駄目です」
私の言葉に、松下くんは米の袋を開けることさえ諦めた。
「なにもわからないので一から教えてください」
「うん、わかった」
同い年の矢田くんに見習ってほしい素直さだ。私は二合の生米の袋を開けて炊飯器に入れる。
「ターメリックライスに限らずだけど、汁ものと合わせるときはお米は洗わない方がいいの」
「どうしてですか?」
「洗っちゃうとお米の中に水が入っちゃうでしょ? そうすると折角の汁を吸い込まなくなっちゃうの。お米が単体で立っちゃうのよ。だからリゾットとか作るときも洗わない方がいいよ」
「……なるほど、でんぷんのα化をさせないと……」
「え? うん? そうなのかな? 気持ち目盛よりも水すくなめにして、ここにターメリックとローリエと……あとなんか入れたいスパイスある?」
「俺が選んでいいんですか?」
「カレーかけるしね。なにいれてもどうにでもなるよ?」
松下くんは少し考えてからクミンを入れた。カレーでも使うスパイスだから相性は悪くないだろう。米とスパイスを混ぜてからバターを追加し炊飯を開始する。
「これでよし。お米が炊き上がるまでに頑張ってカレーを作ろうね」
「はい。頑張ります。指示してください、久留木さん」
にこりと松下くんは笑った。
料理番組のアナウンサーみたいだなと思いつつ、まずは玉ねぎをみじん切りにしてもらった。
「すごい! みじん切り上手いね!」
「切るのは得意なんです」
「なんかきみが言うと怖いな、それ……」
「そうですか? 外科医になったら怖くないですか?」
「外科医になるの?」
「久留木さんに格好いいって思ってもらえるものになります」
「将来の選択を押し付けるのは重すぎるからやめてくれる?」
フライパンに油をいれ、みじん切りにしたパクチーを加え、匂いが立ってきたらみじん切りにしてもらった玉ねぎを加える。
「久留木さん、大丈夫ですか?」
「飴色玉ねぎは……冷凍してからやるともっと早くできるよ……目痛い……つらい……」
「なるほど。冷凍することで細胞壁を破壊するんですね」
「ん? うん? そうなのかな? 松下くん、豚バラ焼いててもらっていい?」
「分かりました」
松下くんは指示通り、油におろしにんにくを加えてから豚バラを焼いてくれた。素直でいい子だ。私は飴色になった玉ねぎにトマトをくわえ「ああ、目が痛い」と呟きつつ、水気がなくなるまで炒める。
「久留木さんは作り方を調べないんですね」
「そうだね。テキトーに作ってる」
「それでできるのはすごいですね」
「できないかもよ? 美味しかったときに褒めて」
買ってきたスパイスを加えてさらに炒めるとカレーのいい匂いがしてきた。松下くんが焼いてくれた豚バラを入れて混ぜてから水を入れる。
「あとは沸騰させて、弱火でコトコト煮込むだけ」
「炒めるときは強火で煮込むときは弱火なんですね」
「え? ……気にしたことなかった。うん、でもそうだね。その方が美味しい」
「本当に手慣れているんですね」
「そうね。両親が料理好きで自然とやるようになって、もう料理は趣味みたいなもんだよ」
「ご両親は料理人なんですか?」
「違う違う。普通のサラリーマンと専業主婦だよ、ただ料理が好きなだけで……、……」
そこまで話して口をつむぐ。
「どうしました?」
「松下くんって話しやすいね」
「駄目ですか?」
「……警戒心が薄れて困る」
「なんですかそれ……かわいいですね」
松下くんは頬を赤くして笑った。
それが素直な笑顔に見えてしまって『これはまずいな』と思った。うっかり好きになってしまいそうで――私の『予感』は当たるのに、私の感情は予感には従わない。
「久留木さん」
松下くんが私のエプロンを引っ張るので「やめて」とその手をはじくと、ひょいと腰を引き寄せられた。あ、と思った時には後ろから抱きしめられてしまっている。
クロエの香りがする。しかも私はそれを嫌とは思わなかった。
……悔しい。これは完全に絆されている。
「……手慣れているのは松下くんの方ね」
「俺、嫌ですか?」
「うーん……」
松下くんの腕は私の腰に少し触れるだけだ。
痛みはないし怖さもない。私の肩に彼は顎を置いているけれど、ただそれだけで、それ以上触れるつもりがないのが分かる。こういう手口の男は結構いる。始めからラブラブカップルみたいなことをしてこちらを勘違いさせるのだ。
そしてこっちが嵌ると金銭を要求し始める……そんなことを思いつつ彼の顔を見る。
「きみは悪い男だ」
「そう思われるのは不本意です」
「実際そうでしょ……、金持ちなんて誰かの敵なんだよ……」
「俺は誰かの敵になるような商売はしていませんよ。それに今までこんなことしたことないので……心臓割れそうです……」
「うそでしょ?」
松下くんの腕の中でくるりと回り、彼の胸に耳を当ててみる。
「うわ! ほんとだ、すごい! 象みたい! バクバクしてるね!」
「ちょっと久留木さんっ……」
「あははっ可愛いじゃん……あ……」
見上げると松下くんは顔を真っ赤にしていた。
私が離れると、彼はよろよろと歩き、冷蔵庫の前に座り込んでしまった。
「……え、ごめんね?」
「……弄ばれた……」
そんなつもりはないと抗議をしようとした瞬間に扉が大きな音を立てて開かれた。
飛び込んできたのは黒いパーカー、黒い帽子を目深にかぶった中年の男性だ。その顔がどこかで見たような気はしたが思い出せない。
「あ、開いちゃった……うっ、うう……」
彼は何故か狼狽えた様子だが、しかし覚悟を決めたように私たちの前に立った。
「ひっ、あ……、う……」
私たちに言いたいことがあるのは間違いないが、覚えがない。
「松下くんの知り合い?」
「いや、俺は知らないですよ。久留木さんじゃないですか?」
私が彼を見ると、彼もまた私を見ていた。どうやらお互いにお互いの知り合いと考えていたらしい。つまり、どちらの知り合いでもない。
「このマンションの住人?」
「……いや、それはないでしょう」
松下くんが私の耳元で「スニーカーが年代物過ぎます」と呟いた。たしかにその男性のスニーカーは薄汚れていて、ボロボロだ。特に高級なスニーカーブランドでもない。
「このマンションはセキュリティー厳しいはずなんですが、……便乗では入ってこられますしね」
「車の方だと無理そうだったけど」
「そうですね。高級車ばかりなのであそこからは厳しいでしょう」
「でも普通の入り口なら共有部までは入ってこられちゃうのね……」
松下くんは「久留木さんはここから動かないでくださいね」と私の耳に囁いてから「……あの、申し訳ありませんが、どちら様でしょうか?」と言いながらその男性に向かって歩き出した。
が、その男性はその質問には答えずにパーカーのポケットから小さいナイフを取り出した。
「ちっ近づくな!」
「あ、はい」
「戻っておいで、松下くん」
「そうですね……」
大人しく私の隣に戻ってきた松下くんは「困りましたね、不審者のようです」と淡々と私に囁く。
あまりにも彼が落ち着いているので私もそれほど動揺していない。そもそも向けられたのはとても小さいナイフだ。大型のカッターナイフの方がよく切れそうなぐらいのそのナイフをかざして、男性はぶるぶると震えている。
この男性、どうやらナイフの使い方わかってなさそうだ。
要求を持ってここに来たようだけど暴力に慣れてなさすぎる。……そんな人がわざわざこんなところまで来るのは不自然だ。一体、なんの用件だろう。
松下くんがさりげなく熱々のカレーが入った鍋を持とうとしたので「食べ物を武器として使ったら怒るよ」と囁く。松下くんはちらりと私を見て「仕方ないですね」と手を引っ込めた。
「松下くん、本当に知り合いじゃない?」
「どこかで見たような気はしますが……」
「本当? 私もどっかで見たような気はして……」
私たちはカウンターキッチン越しに彼を眺める。
しかし、どうしても思い出せない。松下くんがまたアイスピッグに手をかけるので、「だから調理の道具を武器にしないの」とその手を止めてから、「あのー」と本人に聞くことにした。
「なんのご用件ですか?」
「うっ、うっ……っか、っかねをだせ!」
松下くんと目を合わせる。
「「あ、普通に強盗ですか?」」
そして私たちは強盗に言ってはいけないであろう言葉を、同時に口にしていた。
「松下くん、強盗遭ったことある?」
「ないですね……カツアゲすらないです……強盗の相場っていくらでしょう?」
「高級マンションの住人狙いならそこそこなんじゃない?」
こそこそとそんな話をしながら強盗被害初心者の私たちは強盗に対峙した。
その強盗は小さなナイフを両手で持ち、その両腕を伸ばせるだけ伸ばしてこちらに向けている。へっぴり腰もいいところだ。
松下くんは私を背にかばってくれているが『ヤバい』という予感はしないし、この強盗の様子からして怯える必要すらなさそうだ。
「か、ねっ! 出せ! そ、そしたらっ見逃してやるっ!」
なにから見逃してもらえるのだろうと思いつつ、私はカレーをかき混ぜる。焦げたら困るからだ。
「……あー、金ですか……」
松下くんは右手をこめかみに当てた。
「俺、現金は持ち歩かないんですよね」
「そうなの?」
「現金って汚いじゃないですか……困ったな。久留木さん、今いくら持ってます?」
「二万ぐらいはあると思うけど……あ。ごめん、私、鞄を車に置いてきちゃった」
「そういえば手ぶらでしたね。それはちょっと……久留木さん、不用心ですよ?」
松下くんの咎めるような視線に罰が悪くなり、口を尖らせる。
「でもボルボでしょ、あの車? 窓割られたりすることある?」
「ないとは思いますけど……携帯すら持ってきてないんですか?」
「うん……全部置いてきちゃった、……」
「信用してもらえるのはありがたいですが車の中に荷物置いてきちゃ駄目ですよ。俺も気が付かなくて申し訳ないですけど、そこは警戒心を持ってくれないと……今日日携帯盗られたらいくらでも利用されてしまいますよ?」
松下くんが私に説教をし始めたときに「いちゃいちゃするな!」と強盗に怒られた。私は「いちゃいちゃしてない!」と抗議し、松下くんは「いちゃいちゃしているように見えますか?」と嬉しそうに笑う。
結果的に強盗は床をダンダンと踏んで「ふざけんな!」とさらに怒ってしまった。
しかし彼は私たちに一定の距離を保ったままで、それ以上近寄ってくる気配がない。要するにこの強盗には殺気がないのだ。
「どうしよう、松下くん」
「どうしましょうかね……」
松下くんは両手を挙げた状態で強盗に一歩近づいた(本当に武器を持ってないことは私が確認した)。すると、強盗は怯えるように二歩下がってしまった。
「ち、近づくなってば……」
「ごめんなさい。でも今手元に現金がないんです。カード払いできますか?」
「そ、そんなことできるわけないだろ!」
「このキャッシュレスの時代にカード使えないんですか?」
「無茶を言うな! 強盗だぞ!」
「そうですね、強盗は刑法二百三十……」
「六条っ……あっ、ちがっ、俺には後がないんだ⁉」
「……でしたら俺の部屋にはいくらか現金置いてありますので、……」
急に――ぞっ――と寒気が走る。
「一緒に部屋まで取りに来てもらっていいですか?」
松下くんの声は変わらない。けれど、【なにか】が近づいてきている予感がした。だから、私は口を開く。
「駄目だよ、松下くん」
「……なんでしょうか、久留木さん」
松下くんは振り返らない。だから、私が松下くんの隣に駆け寄る。
その顔をのぞきこむと、人当たりの良い笑顔すら浮かべていたが、いつもと【なにか】違う。背中にはチリチリと氷のような寒気が走る。強盗の持っている小さなナイフには少しも感じなかった『ヤバい』という予感が、松下くんの赤茶色の目からバチバチと感じた。
私は松下くんの腕を掴んだ。
「今なに考えているか知らないけど、それはやめなさい」
彼はじっと私を見ると、ため息を吐いた。
「……わかりました」
松下くんは私の手を振り払うと、手首にはめていた腕時計をはずした。
「でしたらこの時計でどうでしょうか?」
「とっ、時計なんてっ、……いくらになんだよっ」
強盗がナイフを振り回す。
そんな持ち方をすると自分の指を怪我すると思ったが、さすがにそれを注意するほど優しくはないので、怪我しないように祈りながら見ていた。松下くんは時計を机の上に置いた。
「一千万ほどにはなるかと。足りますか?」
「えっそんなのいらない……困る……」
強盗はついにナイフを下ろしてしまった。
松下くんは強盗のその様子に頬を掻く。
「そんなことおっしゃらず……他に現金にできるものが手元にありません。でもこれを売ればしばらく暮らしていけますよね?」
「暮らしていけるだろうけどそんなの困る、返せない……」
「強盗したものを返すつもりなんですか?」
これなら大丈夫だろう。
私はコンロの前に戻り、鍋の中のカレーを確認する。
ふつふつと煮えてきている。よかった、焦げてはいなそうだ。
「なら、やっぱり部屋から金をとってくるしかないですね。久留木さん、……久留木さん? カレー見てないで、移動しますよ?」
「え? なんで? 松下くんお金とってくる間、私はここにいた方がよくない? こう人質みたいな……そういうポジション必要でしょ?」
「ね?」と強盗を見ると「ひえっ」と怯えられてしまった。
やっぱり彼の持つナイフの切っ先がこちらに向くことはなさそうだ。
「……久留木さん……なにを馬鹿なことを……」
松下くんを見上げる。彼は穏やかに微笑んでいた。
松下くんと強盗なら、強盗と二人きりの方が私は身の安全を感じるのだが、それを言ったら松下くんに殺されそうである。それでも、とにかく彼の家は【なにか】『ヤバイ』『予感』がする。
「……実は松下くん、この強盗と知り合いなの?」
「はい?」
私の質問に松下くんはポカンと口を開けていた。
「だから、この強盗と組んで私を部屋に連れ込むつもりかを聞いているの」
彼は「はい?」ともう一度嫌そうに言った。
「違いますよ。ありえないです。……そうですよね? 俺たち初対面ですよね?」
松下くんに声をかけられると強盗はおびえたように震え後退し、足をもつれさせ、尻もちをついてしまった。
「あっ」
しかも、ついにその小さなナイフさえ落としてしまった。ナイフはくるくると回転しながら松下くんの足元に転がってくる。松下くんはそちらも見もせずに、長い脚がそのナイフをダンッと踏みつけた。
「ひぃ……」
長身を活かし上から見下ろす松下くんと頭を抱えて怯える強盗。
これではどちらが被害者かわからない。
「……いや、困るんですよ、そういう反応されると……」
「知らないぞ! 俺はバスタルドなんか関係ない!」
「え、あなた、うちの会社の関係者なんですか……?」
「あ。やっぱり松下くんの知り合いなんだね?」
「違いますってば。言いがかりが過ぎる。弁護士を呼びますよ?」
「とにかく私はいや! 私はきみの部屋には行かない! この強盗さんも行かないからね! 問題はここで解決しなさい!」
私の叫びに松下くんは舌を打ち、頭を掻いた。
【なにか】の計算が狂ったというような仕草だ。
が、松下くんはすぐにその動きをやめて、いつもの微笑みを浮かべた。
「……でしたら預金口座を教えていただければご希望額を振り込んでおきますよ」
「そしたら俺の名前がばれちゃうだろ! 駄目だよ!」
松下くんは強盗の叫びに「名前、ですか」と呟いた。
「あなたの顔に見覚えがあります。俺も、久留木さんも……そうなると場所は限られる」
「な、なにを……」
「研究所のメンバーはすべて把握しています。あなたはそうではない。そうなると……」
松下くんはそこで言葉を止めた。探るように見られた強盗は目を泳がせる。おろおろとしたその様子に、私ははっと思い出した。
「スパイス屋さんにいたおじさんだ!」
「えっ、……ち、違う!」
私の叫びに強盗は必死に首を振るが、そんなのはもう『そうだ』と言ったようなものだ。
「スパイス屋からつけていたんですか? そうすると移動手段は車になりますね……そういえばずっとミニバンが……」
「ちがっ、違う! 俺はトヨタのミニバンなんて乗ってない!」
「おじさん……」
とことん強盗に向いていないおじさんである。
松下くんはおろおろしているおじさんに向かってにこりと笑う。
「覚えていますよ、あの車のナンバー」
「……え?」
「さてと、強盗さん。俺はあなたを特定できそうですね?」
にこにこと松下くんが笑い、おろおろとおじさんが怯える。
「でも、もう少し続けますか? 俺の予想ではあなたは……警察か検事かだったんですが、それにしてはあまりも迂闊すぎる。さてさて、そうなるとあと刑法覚えている職業は限られますね?」
「あ、弁護士とか?」
私の言葉におじさんが全身を強ばらせてしまった。
「あ、ごめん……なんかごめん……」
松下くんはクスクス笑い、「どうしますか、おじさん」とおじさんを煽る。おじさんはおどおどしてしまって、もう話にならなそうだ。
「俺にわざわざ声をかける弁護士も限られます。さて……」
――不意に、リリリリリリと音が鳴った。
「……お米炊けたよ、松下君」
私がそう言うと、松下くんはため息を吐いた。
部屋中にカレーの匂いが満ちている。ターメリックライスからはバターの香りもただよう。
「俺は炊きたての米でカレーを食べたいです。久留木さんは?」
「うん、私もそうしたい。お腹空いちゃった」
「じゃあ、そうしましょう。あなたもどうですか?」
松下くんはおじさんに手を差し伸べた。
「は? いや、俺は……」
「おじさん、カレー嫌い?」
私も手を差し伸べると、おじさんは泣きそうな顔をした。
「カレーは好きですけども……」
「「じゃあ食べましょう」」
そういうことになった。
炊き立てのターメリックライスに豚バラカレーをたっぷりとかける。
「松下くん、パクチーいる?」
「じゃあ少し。おじさんはパクチー好きですか?」
「え、いや、俺は……パクチー苦手……」
「そっかー、おじさんのには代わりにコリアンダーかけておくねー。あ、おじさん、冷蔵庫からビール出してー」
「あ、おじさん、俺は運転があるからコーラがいいです。コップはそこの食器棚にありますので」
「え、あ、分かった」
食卓にカレーを並べて、ビールをグラスに注ぐ(松下くんとおじさんはコーラだけど)。
ゆらゆらと湯気のたつカレーからは食欲をそそるスパイスの香り。ターメリックライスの黄色は鮮やかだし、カレーを吸っててらてらと輝いている。
「美味しそう! これは大成功じゃない?」
「それは食べてから判断しましょうか、久留木さん。見た目だけってことも考えられますよ?」
「あ、生意気! 絶対ぎゃふんって言わせてあげるから!」
「ふふ、そうですね」
そんなことを話しながら手を合わせる。
「「いただきます」」
言葉が揃ったことに二人でクスクス笑いながらスプーンを持ち、カレーを一口頬張った。
最初に感じたのは熱さだ。といっても吐きだすほどの熱さではない。ほふほふと息を吐きながら豚バラを奥歯に運び、噛み締める。油の旨味が溶けだすとスパイスの香りと混ざり合い、身もだえしそうになるぐらい美味しかった。
「ぎゃふんでしょ、これは! 松下くん!」
目の前に座っていた彼は、静かに目を閉じていた。しかし見ている間にもその口元がにまにまと笑い始め、目を開ける頃にはとろける笑顔になっていた。
「……うめえ」
松下くんは一言そう呟くと、いきなりガツガツと勢いよく食べ始め、あっという間にカレーを平らげてしまった。それから思い出したように私を見る。
「これはぎゃふんですね。本当に美味しいですよ、お代わりしてきます……あれ?」
松下くんが口の端を舐めてからにこりと笑う。
「どうしました? 可愛い顔してますよ、久留木さん」
「……そんな素直に負けを認めるとは……」
「勝ち負けなんですか? それにしても本当に美味しいですよね、おじさん……あれ?」
松下くんの言葉を聞いてからその視線の先を見る。
「うっ……」
おじさんが泣きながらカレーを食べていた。
「……え、おじさん、どうしたの?」
「おいじいぃ……」
どうやら私は泣くほど美味しいものを作ってしまったらしい。責任を取るために、立ち上がりおじさんの背中を撫でる。すると松下くんも立ち上がり、私を真似するようにおじさんの背中を撫で始めた。
私たちに背中を撫でられておじさんはついに顔を覆って泣き出してしまった。
「なんっ……なんでっ、やさしいの……っ、ナイフっむけたっのに、……」
「大丈夫だよーそんなの。誰も怪我しなかったんだから気にしないの、ね、もうね……泣かない、泣かない……」
「ひどいことしてごめんなさいっ……」
「特にひどいことされた覚えがないので、気にしないでください。泣くのやめてカレー食べましょうよ……俺は早く二杯目食べたいんですけど」
べそべそ泣くおじさんの背中を撫でながら松下くんを見る。
「そういえばあのナイフどうしたの?」
「踏みつけたら折れました」
「器物損壊じゃん……」
「いやさすがに正当防衛ですよ。弁護士呼びますよ?」
「俺ェっ!」
「えっ」
急に会話に入ってきたおじさんが「俺ぇ……弁護士、俺ぇ……」と言って手を挙げた。私たちは目を合わせてから「「やっぱり」」と声を合わせた。
べそべそと泣くおじさんの話をまとめると、彼はある製薬会社の顧問弁護士をしていたらしい(正直そんな風には見えなかったが、彼が出してくれた名刺には確かにその肩書があった。松下くん曰く「うちの競合ですね。最近できた企業です」と付け足してくれたから詐称でもないようだ)。
しかしその会社は火の車だったらしく、つい二週間前に解雇されてしまったらしい。
急いで再就職先を探したが、おじさんは色々と問題を抱えているとかで雇ってくれる企業も法律事務所がなく途方に暮れていたらしい(おじさんは家のローンもあるしシングルファーザーだし元鬱病らしい)。
そしたら解雇してきた企業の偉い人が「バスタルドを潰したら再就職させてやる」と連絡してきたそうだ。後がなかったおじさんは、そういうわけでここ三日ぐらい松下くんをつけ狙っていたらしい。
「……スパイス、たくさん勧められた……ぐすっ……」
「買うつもりもないのに店員さんに絡まれ……怖かったでしょうね……」
付け狙われていたというのに、松下くんは変なところで同情を見せた。彼は共感を示すのが苦手なのだろう。彼はおじさんの話を聞いてはいるが、すでに三杯目のカレーをたいらげている。
「でも、なんで松下くんを狙う必要があるの? 会社潰すのってもっとなんか……黒い噂流したりーとかじゃダメなの? 社長が部下に手を出した、とか……」
「バスタルドの従業員は俺と時任さんしかいません」
「あ、そうなの?」
「あとは単なる学生です。だからおじさんの目の付け所はいいですよ。俺に何かあれば……バスタルトは潰れるというか潰します。時任さんも同意してくれると思いますよ。彼ほどの研究者なら行き先はいくらでもありますしね」
へえ、と私が相槌を打つと「興味なさそうですね」と松下くんは笑った。個人業でやってきた私に会社のことはよく分からないのだ。
「それで、なんでこんなことになったんですか?」
おじさんとしては、松下くんにちょっと脅して、ちょっと怪我をさせようとしたらしい。
しかし人に怪我をさせたことなどないおじさんは、どうしたらいいか分からなくなってしまったそうだ。でも何かしなくてはと思っている間に、他の住人と一緒にマンションの中に入れてしまい、しかも共有部分のキッチンの扉も開いてしまい、そこまで来て後に引けなくなったが、だからといって人を刺すことなんてできず、苦し紛れに金などを要求してしまい、……今に至る。
おじさんの話を聞き終えて、松下くんはため息を吐いた。
「……俺はあなたのような人を生むために会社を作ったわけじゃないのですが、……なかなか上手くいきませんね……」
松下くんは眉間にシワをよせ、おじさんは「ごめんなさい」と謝りながら涙を落とす。そうこうしている間にもカレーが冷めていく。
私はおじさんの背中を軽く叩いた。
「いてっ」
「じゃあ、おじさん、バスタルドの顧問弁護士になればいいじゃない?」
「「え」」
「そしたら万事解決でしょ? ね?」
松下くんは「うわぁ……久留木さん……そんな、うわぁ……弄ばれている、俺……」と呻いた。そんなつもりはなかったのだがどうやら松下くんは私の言うことはなんでも聞いてくれるつもりらしい。
「よかったね、おじさん。これで大丈夫だよ」
「え、いや、俺は暴行罪でこれから出頭するから……」
「そんなことしたらおじさんの子どもどうなるの!」
「あの子は、……きっと別れた妻が……」
「そもそもなんで奥さんと別れたのよ?」
「……あいつの、その、……DVから、逃げてきたんだ……」
ひどい話だが、それは納得がいった。
だから彼の強盗はあまりにもお粗末で逃げ腰だったのだ。彼は人に暴力を振るうどころかその現場にいることすら怖いのだ。
「なるほど、住民票が移せない状態なんですね?」
「あ、うん……俺、仕事バレてるから、その……あんまり大手には……でもここから引っ越すのも、……あいつにばれるかもって、怖くて、……でも、……娘も犯罪者に育てられるよりはあいつの方が……」
馬鹿なこと言い出したおじさんの頭を軽くはたいておく。
「そんな人にお子さん預けたりしたらぼこぼこにされちゃうじゃない! なに考えてんのよ! 馬鹿!」
「でも、俺、ナイフ、人にナイフ……」
「あんな小刀じゃ皮ぐらいしか切れないわよ! ……松下くん、どうするの?」
松下くんは眉間の皺を深くして、大きく息を吐いた。
「……わかりました。俺が引き取りましょう」
「なにを? おじさんの子どもを?」
「違いますよ。彼を雇います。実際、顧問弁護士はそろそろ雇いたかったんです。はあ……でも先に経理が欲しかったんだけどな……」
「俺っ会計士の資格も持っていますっ!」
「へえ……でしたら今週中に履歴書と経歴書を送っていただいてもよろしいですか? 前科はありませんよね?」
「今日……」
「今日はもういいですよ。他にはないですね? 前職の年収はいくらでしたか?」
「前科は他にないですっ! 前職は三百万でしたっ」
「……それはそれは……ずいぶんと足元見られていたようで……」
松下くんが急に私の肩を引き寄せた。耳に松下くんの唇が一瞬触れる。
「ありがとう久留木さん。いい買い物ができたみたいです」
私の耳に入ってきた彼の声はとても楽しそうだった。
松下くんは待ち合わせで使った家の近所のコンビニの前まで私を送ってくれた。コンビニでチョコとコーヒーを買ってから車に乗り込んだ松下くんが窓を開けて、私を見上げる。彼の赤茶色の瞳に私がうつる。
「今日はありがとうございました、久留木さん」
「こちらこそありがとう」
「また会ってくれますか?」
「どうしようかな……松下くんの答え次第かな」
腰を少し曲げて松下くんに顔を近づけると、彼はわざとらしく小首をかしげた。
「ね、松下くん、さっきなにを考えていたの? 部屋にお金取りにきてっておじさんに言った時。……今日、【なにか】あったとしたらあの時だった」
「……なんのことだか」
「松下くん、お金持ち歩かないって言ってたけど、私に三万渡してきたよね? あれ、今返してもいい?」
松下くんは少し黙ってから、どこか満足そうに息を吐いた。
「……久留木さんは勘も記憶力もいいんですね」
松下くんはにこりと笑い、鞄の中から財布を取り出した。そこにはやはりそれなりの現金は入っているようだ。私も財布から三万円取り出して彼に差し出すと、彼はそれを「いいえ、それは返さないでください」と笑った。
「今度の休み、今日のリベンジをさせてもらえますか?」
松下くんが窓から腕を出して私を見上げる。
「……リベンジ?」
「次は告白するのでもう一回デートしてください」
「は? え、いや、それ……もう告白じゃないの?」
「まだ告白はしてませんよ」
松下くんが笑う。その手が私の手に伸びた。触れた指先が冷たい。
「きみが私になにを望んでいるのか分からない」
「男が女に望むことなんてそんなに多くはないと思いますけど」
「男の気持ちなんて女には分からないよ」
「俺はあなたに好かれたい」
彼と手をつないでため息を吐く。
「いいよ、デートする。だから答えて。なにを考えていたの?」
「あなたと共犯関係になれば、あなたはずっと俺の傍に居ざるを得なくなると思いました」
松下くんは私の手を掴み、口の端を持ち上げる。
「共有部は監視カメラがついているので面倒です。家の方が始末も楽だ。相手は強盗ですから、映像が残らなければ正当防衛と主張すれば通るでしょう」
「正当防衛で……なにをするつもりだったの?」
「……さあ。やりようはいくらでもあります。そのついでにあなたに犯罪の片棒を担がせることも簡単だ。そうすれば必然的に俺との距離は縮まるでしょう? それに、……俺の家に連れ込める。邪魔者を消せば二人きりで、……俺にはメリットしかない」
彼の冷たい瞳は初対面のときにだけ見せたものだった。
「こんなこと言ったら、あなたは逃げますか?」
けれど『ヤバい』という予感はない。
彼の手を振り払うと、彼は私の顔から目を逸らして私の手を見た。まるで捨てられた犬みたいな目で私の手だけを見ている。
「松下くん、……人ってそんな簡単じゃないよ?」
私が手を持ち上げれば顔を持ち上げて、私が彼の喉に手を当てれば目を伏せる。
「ドキドキしているね?」
「……好きな人に触られたらドキドキするのは普通でしょう?」
「きみは私が好きなの? 本当に?」
「あなたは、……思い通りになりませんね。……思い付きもしなかった、強盗を雇うなんて……あなたは俺の予想もつかない選択をする。しかもそれがいい結果になるなんて……負けたような気持ちです」
松下くんが悔しそうに漏らしたその言葉に、本当にまだ二十一歳なんだと、負けたら悔しくて泣く矢田くんと同い年なんだと分かった。だから、つい笑ってしまった。彼は驚いたように目を丸くした。
「笑い事ですか?」
「うん、これは笑い事」
「……変な人、久留木さん」
「そういう人が好きなんでしょう?」
彼は眉間に皺を寄せたけれど、しかし結局は笑った。
「それは次のデートで」
彼は私の手を取って指先に触れるだけのキスをした。
「おやすみなさい、久留木さん」
「うん。おやすみ、松下くん」
去っていく車を見ながら、どうせ今日も眠れない、そう思った。
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